時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

はるかにサスケハナ川を望んで:3.11の源流

2013年02月28日 | 特別トピックス

 

 

 早くも3.11が巡ってくる。われわれはこの間なにをしていたのだろうか。福島には少なからぬ縁がある自分の無力さにも心が痛む。折しも、アメリカのTVがスリーマイル・アイランドの原発事故後、まもなく34年が経過することを報じていた。この年、1979年の3月、この原発の加圧水型炉で、炉心の半ばが溶融し、放射能が外部へ漏出する大事故が発生した。この事故は人災だったが、発生した時期は福島同様に3月だった。

 福島第一原発はもちろんだが、この世界を震撼させたスリーマイル原発も今もって廃炉にはほど遠い状況だ。いつになれば安心した状況になるのか、両者共に専門家でもよく分からないままに、気の遠くなるような年月を待たねばならないのだ。
スリーマイル原発のことを考える時には、必ずサスケハナ川 Susquehanna river のことが思い浮かぶ。この原発はアメリカ東部ペンシルヴァニア州ハリスバーグ市を流れるサスケハナ川にあるスリーマイル島(中州)に建設されていた。

 サスケハナ川はアメリカ大陸の北東部を流れる大河で、流域はニューヨーク、ペンシルヴァニア、メリーランドの3州にまたがっている。水源はニューヨーク州中東部のオチゴ湖とされ、その後下図のように大小の蛇行を繰り返しながら、最終的にはメリーランド州北東部、大西洋のチェサピーク湾に注ぐ。サスケハナの名前は、先住民族サスケハナ族(アルゴンキン語族)の言語によると
、「一マイルの幅、一フィートの深さ」あるいは「泥まみれの流れ」というような意味だったらしい。ちなみに、1853年7月、ペリー提督来航時の提督の旗艦(蒸気フリゲート艦)の船名も「サスケハナ」であった。




サスケハナ川の流域。水源のある上部一帯がニューヨーク州、左隅はオンタリオ湖。中央部がペンシルヴァニア州。右下がチェサピーク湾。

 この川はたとえば、ペンシルバニア炭田の石炭を運ぶなど、古来アメリカの北と南を結ぶ重要な河川であったが、急流が多く途中で船が転覆するなどの事故も大変多かったようだ。管理人はかつてペンシルヴァニア州スクラントン近くの広大な露天掘り炭鉱を見学したことがあった。とても日本の炭鉱などが束になっても太刀打ちできないと思ったほどの迫力だった。しかし、これもエネルギー革命の進行とともに、急速に衰退していった。色々な事件があったのだが、話を進めるために、省略せざるをえない。


 管理人がこの川に関心を抱いたのは、まだ若く好奇心が強かった滞米中に、しばしばこの流域を通っていた経験があることによる。ニューヨーク州北東部にあった大学からニューヨーク市やニュージャージー州の親友の家に行くには、途中、この流域を通るのが最短だった。いつも、スリーマイル島の原発の巨大な冷却塔を眺めながら走っていた。昼も夜も昭明で照らし出され、冷却塔からは水蒸気が白い煙のように、もうもうと立ちのぼっていた。

 この大発電所が後年、世界を震撼させた大事故を起こすとは夢にも思わなかった。事故発生後、しばらくして、訪米の旅の途上で、現地を訪れたが、厳重な警戒と外側からはなにが起きたのかまったく知ることができないことに気づかされた。福島原発のように誰が見ても破滅的な光景に接しないかぎり、原子炉の内部でなにが起きているかは、少数の専門家以外は、外からはまったくわからないのだ。

 サスケハナ川には、さまざまな思い出がつきまとった。野球の大好きな友人が近くのクーパーズ・タウン(野球の殿堂があることで有名)へ連れて行ってくれた時もこの川のほとりで休んだ。

社会実験の舞台 
 
さらに、興味深いことがある。ニューヨーク州北部、ペンシルヴァニア州はさまざまな社会実験が行われた興味深い土地であった。旧大陸からアメリカへ逃れたプロテスタントの中には、この地に住み着いた人たちも多かった。クエーカーなどはよく知られている。アーミッシュの人たちも有名だ(このブログにも記したことがある)。よく知られた宗教運動ではセブンスデー・アドヴェンチスト教会と末日聖徒イエス・キリスト教会のことをご存知の方もおられよう。日曜学校と孤児院の設立、テンペランス集団(アルコール消費の廃止)、反奴隷制団体、女性の政治的権利獲得を目指す運動などが、19世紀初めから中頃にかけて、活発に活動した。筆者の友人が手助けしていたアルコール中毒者の矯正施設などは、今日でも存在している。

 Upstate New York といわれる美しい森と湖や川に恵まれた地域は、南北戦争前から、アメリカにおけるさまざまな先進的・社会的実験の温床のようなところだった。逃亡奴隷の保護活動、そしてさまざまな婦人の権利向上の試みも見られた。1848年にはセネカ・フォールズで最初の婦人参政権(woman'suffrage)の集まりがあった。イギリス、ヴィクトリア朝の社会を思い起こしていただきたい。

 さらに、興味深いことは、この地域のオナイダやスカニアトレスなどで、ユートピア社会の試みが行われ、大きな注目を集めた。英文学の研究者などの間ではかなり有名な話なのだが、イギリスの著名な文学者・詩人のコールリッジとサウジーが、1974年、このサスケハナ川の近くにパンティソクラシー(Panthisocracy: ギリシャ語が語源。すべてにとって平等な政府に起因する平等社会)といわれる一種のユートピア社会の建設を「サスケハナ計画」の名の下に構想したことだ。しかし、1975年頃までにサウジーが計画の実行可能性に疑問を抱き、合意が壊れ、計画は挫折してしまう。サスケハナ河畔の広大な土地にユートピア社会が実現していたら、どんなことになったろう。世界中でさまざまなユートピア計画が構想され、あるものは実現したが、多くは消滅してしまった。このサスケハナ計画と発案者については、もっと書くべきなのだが、今はただそうした構想があったということしか記す時間がない。

「サスケハナ計画」への飛翔
 管理人は世界で試みられた同様なユートピア計画にはかなり長い間、関心を抱いてきたが、多忙にまぎれて十分に調べることが出来ずにいた。先日、ふとしたことから著名な英文学者だった由良君美氏(1929-1990)の著書『椿説泰西浪曼派文学談義』[青土社、1972年)を手にすることになり、あっと驚くことになった。なんと、「サスケハナ計画」なる一章が含まれているのだ。惜しむらくは、談論風発であった氏の作品らしく、章の途中で話が他へ飛んでしまっている。

 この著者には遠くなった記憶だが、かなり明瞭に網膜に残る一齣がある。ふとしたことで管理人の恩師であったドイツ文学のN先生と著者の由良先生が座談をされる機会に陪席させていただいたことがあった。お二人の先生は30歳代半ばであったと思う。まだ学生であった筆者は恐れ多く、お二人の談論風発、とどまることを知らない議論の展開にひたすら驚くばかりだった。場所は今はもうなくなってしまった東京渋谷駅に近接した『ジャーマン・ベーカリー』という店であったことまで覚えている。大変残念なことは、お二人とも若くして世を去られてしまったことだ。

 「サスケハナ計画」の話は残念ながら、その時には出なかった。ひとつ覚えているのは、学問の世界の議論に、境界は百害あって一利なしというお話だった。われわれはともすれば、「専門」という人為的な壁を作りがちな欠陥に気づかされた。管理人がアメリカへ行くことを考え出したのは、この頃であったかもしれない。さまざまなことが頭の中をかけめぐっていた時期であった。当時の日本ではイデオロギー論争がたけなわで、どちらの側につくか、そして専門領域はなにかという壁が厚く、息苦しくなってきていた。今、こんな変なブログを書いている背景には、この時代の影響が強く残っているような気がしている。

  「サスケハナ計画」、そしてスリーマイル島の原発事故のことを思うと、福島の地を50年後には世界の人々に希望を与えることができるいわばユートピアのような地にするような雄大な計画は、構想できないのだろうか。言葉の意味に近い理想的な社会、理想郷は地球上どこにも存在しない。しかし、まさにほとんど壊滅に瀕した地を豊かに花が咲き、人間らしい生活の場に戻すための知恵や手段は、それがたとえユートピアにはほど遠いものであったとしても、かぎりなくあるはずだ。復興のテーマソングだけに終わらせてはならないと思う。たとえていえば、多くの夢と可能性に溢れた ”FUKUSHIMA-Utopia Plan"
を世界中から募集できないだろうか。人々が故郷を失い、年を追うごとに増えるばかりで減ることのない汚染された水のタンクや汚染土の山など、誰も見たくないはずなのだから。

 

 

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2 コメント

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Unknown (Olde Pygmaios)
2013-03-05 20:10:22
サスケハナ川、ハリスバーグ、スクラントンを懐かしく思い起しました。1964年頃日本からアルミ地金の輸出!で、ハリスバーグの顧客をNYから何度か訪れました。スクラントンは1995年の夏、地元の電力公社からの日本企業向けの産業誘致ツアーの招きで訪問し、工業団地など観て参りました。その晩、マイナーリーグの試合観戦に招待され、MLBの試合とは異なる実に良い雰囲気を味わいました。風光明媚と共にアメリカの地方には良き伝統が引き継がれていますね。
福島、スリーマイル島の事故の3月、折しも東京オリンピック招致のことが、ニュースになっていますが、今やるべきことは、五輪招致にうつつを抜かす事ではなく、福島を初めとする被災地とその被害者への復興・支援に全力を集中することですね。五輪を招致して、被害者を勇気つけるとの理屈は小生には理解不能です。脱線して申し訳ありません。
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ユートピアでなくとも (old-dreamer)
2013-03-06 13:02:13
きわめて個人的で分かりにくい記事に、適切なコメントありがとうございます。もうお分かりの通り、ここでは文学的・哲学的ユートピア論をする気はまったくありません。ユートピアや理想郷は「現実には決して存在しない理想国家あるいは素晴らしい考えに満ちあふれているが、どこにも存在しない場所」であることが多いからです。
管理人の意図は至極単純で、ある日突如発生した破滅的な天災・人災で平和な生活を壊滅的にまで破壊され、故郷と家族の未来を奪われた人々に、国家としてかつての生活に近い状況を早急に復元・提供するためには新たな発想が必要なことを回りくどく記したまでです。
ご指摘の通り、オリンピックなどの波及効果に期待するなどというのは論外としか思えません。問題の焦点はあくまで福島であり、東北被災地だからです。それこそが最大限のエネルギーが投入される場所で、東京が焦点ではないという単純なことです。
サスケハナ川計画を話の種にしたのは、制度化が進み、新しいアイディアが生まれないこの国に、世界には思いもかけないことを考えその実現に邁進した人々もいるということを知ってもらうためでした。
そうしたプランは、古い規制や考えにとらわれた人々には、しばしば理解不可能なこともあります。ニューヨーク州などで試みられた社会的実験は、当時の多くの人々には過激で非現実的でとうてい受け入れがたい発想に思えました。しかし、後年になって発想の斬新さや先進性に気づかされることも多数ありました。ニューヨーク州北部セネカ・フォールズで行われた婦人参政権運動や、新しい共同生活の社会実験なども同時代の人々にはついて行けなかったのです。こうした社会実験は「サスケハナ計画」のように、実現しないことも多々ありますが、既成の利権や考えに束縛されないということはとても大切と管理人は思っています。
破壊し尽くされた東北被災地は、多くのしがらみがなくなってしまっただけに、新しい実験や試みを行うにふさわしい条件がかなり備わった場所であると思うのですが。
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