2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】 → 【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】 → 【水口岡山城跡】 → 【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】 → 【観音正寺】 → 【観音寺城跡】 → 【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】 → 【小谷城跡】
きぬがさ山トンネル近くの六角定頼像
「近江源氏・六角定頼像(明応4~天文21/1495~1552)
近江の国、蒲生郡と神崎郡にまたがる観音寺山一帯にあった日本中世城郭を代表する山城・観音寺城の城主。六角氏は、鎌倉時代から近江国守護職を伝える由緒ある家柄で、近江源氏の名門・佐々木氏の惣領家であった。
六角定頼が活躍したのは、大永~天文期(1521~1555)の戦乱の世。天文15年(1546)には、『流れ公方』ろ呼ばれた十代将軍足利義稙の近侍として活躍し、のち観音寺山西側に位置する桑実寺(安土町)に仮幕府を構えた十二代将軍義晴を援助した功によって、管領に準ずる待遇を受けた。また、十二代将軍義晴・十三代将軍義輝を擁して再三上洛し、畿内の政争にも関与。近江国内では、当時北近江で勢力を伸ばしていた京極・浅井氏をおさえ、戦国大名・六角氏としての盛期を築き上げた。」(案内板より)
「観音寺城跡
観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表的な大山城である。築城は永い年月を経て応仁二年(1468)に完成しさらに弘治年間鉄砲に備へて大々的に石塁が改修されている。永禄十一年九月織田は当城に入城したが城は元のまゝ残し、佐々木氏に守らせたが天正十年安土城とともに滅亡した。昭和44・45年近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。なを全山いたるところに昔を偲ぶ遺構が数多く残っている。」(案内板より)
大手石階段
石垣
本丸跡
食い違い虎口跡
観音寺城の規模は大きいものの、防御施設はほとんどなく、有事に際しては城で戦うことはなかったという。
そうえいば、昔やった「信長の野望」の観音寺城は守りにくかったのを思い出した。
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】 → 【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】 → 【水口岡山城跡】 → 【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】 → 【観音正寺】 → 【観音寺城跡】 → 【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】 → 【小谷城跡】
きぬがさ山トンネル近くの六角定頼像
「近江源氏・六角定頼像(明応4~天文21/1495~1552)
近江の国、蒲生郡と神崎郡にまたがる観音寺山一帯にあった日本中世城郭を代表する山城・観音寺城の城主。六角氏は、鎌倉時代から近江国守護職を伝える由緒ある家柄で、近江源氏の名門・佐々木氏の惣領家であった。
六角定頼が活躍したのは、大永~天文期(1521~1555)の戦乱の世。天文15年(1546)には、『流れ公方』ろ呼ばれた十代将軍足利義稙の近侍として活躍し、のち観音寺山西側に位置する桑実寺(安土町)に仮幕府を構えた十二代将軍義晴を援助した功によって、管領に準ずる待遇を受けた。また、十二代将軍義晴・十三代将軍義輝を擁して再三上洛し、畿内の政争にも関与。近江国内では、当時北近江で勢力を伸ばしていた京極・浅井氏をおさえ、戦国大名・六角氏としての盛期を築き上げた。」(案内板より)
「観音寺城跡
観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表的な大山城である。築城は永い年月を経て応仁二年(1468)に完成しさらに弘治年間鉄砲に備へて大々的に石塁が改修されている。永禄十一年九月織田は当城に入城したが城は元のまゝ残し、佐々木氏に守らせたが天正十年安土城とともに滅亡した。昭和44・45年近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。なを全山いたるところに昔を偲ぶ遺構が数多く残っている。」(案内板より)
大手石階段
石垣
本丸跡
食い違い虎口跡
観音寺城の規模は大きいものの、防御施設はほとんどなく、有事に際しては城で戦うことはなかったという。
そうえいば、昔やった「信長の野望」の観音寺城は守りにくかったのを思い出した。