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大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【滋賀】 観音正寺

2009年08月04日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】


推古天皇13年(605)、聖徳太子が千手観音を刻んで祀ったのが観音正寺の創始とされる。
人魚の哀願によって寺が開かれたのだともいわれる。
その人魚は、前世が猟師で、殺生を重ねていたために人魚にされてしまったのだという。
寺宝の人魚のミイラでも知られているが、残念ながら、平成5年(1993)の本堂焼失の際に失われてしまった。


仁王像


鐘楼


北向地蔵尊
一願地蔵とも呼ばれ、人に言えない苦しみを持つ者が一心に地蔵尊の真言を唱えれば苦しみから逃れることができるという。


濡佛


白蛇大明神


供養堂


護摩堂


太子堂


本堂
平成5年の火災のあと、平成16年に再建された。
火災の際に、本尊も焼失してしまい、現在は、新しい本尊である千手観音坐像が祀られている。
松本明慶の手によるもの。
堂内で拝むことができる。
巨大である。


観音正寺の御朱印

【滋賀】 安土

2009年08月03日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】

安土をうろうろする。
安土といえば、この人。
 
安土駅前に建っている「織田信長公像」。
右の写真は「織田桜」。
安土城跡と見寺を訪れたときの記録はこちら


【安土城郭資料館】



20分の1の大きさで再現された安土城がある。


安土城の模型は電動式で、パカッと二つに割れて、城の内部を見ることができる。
城の後方にかすかに写っているのは、「安土・南蛮図屏風陶板壁画」。


安土城5階の八角天井は、こんな感じだったようだ。

資料館の外には、相撲やぐらがある。

安土町は、近代相撲発祥の地なのだそうだ。

近くには―といっても見える距離ではないけれど―、郷土館(旧伊庭家住宅)がある。
ヴォーリズが設計したものだ。


「旧伊庭家住宅(安土町指定文化財)
 大正二年、建築家ヴォーリズ氏の設計による洋風の木造住宅。
 主体部と玄関からなり、主体部の外観はハーフティンバーと呼ばれる化粧梁で細分化された意匠の外壁に傾斜の強い天然石スレート葺きの切妻屋根を乗せて煙突を備えた西洋建築と、入母屋造りで妻入桟瓦(つまいりさんがわら)葺きの和風玄関とで構成されている。
 内部は、一階が和風を基調としており、畳敷きの座敷は書院風の造り、付け書院や縁側にしつらえた地袋など斬新な意匠でおさめられている。
 食堂、廊下、階段ホール等では洋風の構造ながら小丸太、竹、ナグリ等、数寄屋の材料を積極的に使用し、随所に和風建築の手法を取り入れている。
 二階は全体的に洋風を基調としてはいるが、建具や天井に和風を取り入れているのが特徴である。  安土町教育委員会」


【セミナリヨ跡】

天正9年(1581)に、イタリア人宣教師・オルガンチノが創建した日本最初のキリシタン神学校の跡。
安土城炎上の際に、焼失したという。


現在は、セミナリヨ史跡公園になっている。


公園の奥には、「安土セミナリヨと三木パウロ」の碑が建っている。
三木パウロは、安土セミナリヨ第一期生。
慶長元年(1597)、サン・フェリペ事件に連座して捉えられる。
同年、豊臣秀吉の命令により長崎で十字架に磔にされた(二十六聖人殉教事件)。


【安土城考古博物館】

弥生時代から古墳時代の出土品や、織田信長と安土城に関する史料が展示されている。
企画展として、信楽焼の展示があった。
今日はよく信楽焼を目にするなあ。


【安土城天主信長の館】

安土城天主信長の館は、安土城考古博物館の隣にある。


天正7年(1579)、織田信長が築いた安土城は、世界で最初の木造高層建築といわれ、その高さは46メートルにも及んだという。
安土城天主信長の館に展示されている安土城の復元模型は、平成4年(1992)、スペイン・セビリア万国博覧会の日本館に出展されたもの。
最上部分の5階と6階部分が原寸大で復元されている。


5階黄金の間


6階


織田信長の肖像画
この肖像画は、宣教師が描いたもので、信長に最も似ているといわれている。
肖像画は山形県天童市の三宝寺に納められていて、安土城天主信長の館にあるものはその写真である。

【滋賀】 水口岡山城跡

2009年08月02日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】


「水口岡山城跡  桃山時代
 水口市街北側に、椀を伏せたような姿を見せる大岡山(古城山 標高二八二メートル)に築かれた豊臣期城郭の跡。
 天正十三年(一五八五)、羽柴(豊臣)秀吉が、甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるため、家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれた。
 天正十八年中村一氏の駿河転封の後には増田長盛が、文禄四年(一五九五)には長束正家と、五奉行の一員が城主にあてられていることは注目される。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に際し、正家が西軍に同調したため、帰城後池田長吉らに攻められ落城した。
 江戸時代、寛永十一年(一六三四)の新しい水口城(将軍家御茶屋御殿)の築城に際し、石材を転用したと伝えられるが、これを裏付けるように、遺構は判然としないところが多く、石垣もわずかに残るのみである。
 曲輪は山頂および中腹に配置されており、これを区画する堀切や竪堀の跡が認められる。山頂部に連続して配置される曲輪には一部に石垣が残り、その下部が長大な帯曲輪が存在する。
 城のあった当時は、山頂部に高石垣を巡らし、瓦葺の諸建物が連立して周囲を威圧したと思われる。
 なお、建物に葺かれた瓦の意匠には、安土城の瓦を起源とする、織田・豊臣系瓦の特色が見える。
 わずか十五年の歴史ではあったが、山麓市街地はこの城下町として整備されたと考えられ、水口が近世以降甲賀郡の中心的地位を獲得したことに大きな影響を与えた。  水口町教育委員会」(案内板より)


水口岡山城が築かれていた大岡山


山頂までの道は、歩きやすいように整備されている。
犬の散歩をしている人の姿もちらほら。


こんなトイレがあったり、


「石垣見学コース」があったり、


「展望広場」があったりする。


山頂近くの石垣


阿迦之宮
「水口岡山城跡と阿迦之宮
 眼下に野洲川を見下ろし、鈴鹿の山並みを眺望する大岡山は、低山ながらその特徴的な山容で、多くの人々に親しまれてきた。古くは行基が開いたとされる大岡寺も、その山内に大伽藍を構えていたとされる。
 天正十三年(一五八五)、天下統一半ばにあった羽柴秀吉は、近江東南部一帯を見渡すことのできるこの山に、天守閣を備えた山城を築かせた。城は関ケ原の合戦により、わずか三代十五年で落城したが、この間、水口は城下町として道などが整備され、その後の発展の基礎が築かれた。
 江戸時代に、この山は『古城山(しろやま)』と呼ばれるようになり、水口藩の御林山となった。享保年間には、大岡寺の寂堂法印が、地頭に移転させられていた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として小祠を祀った。これが阿迦之宮の起こりで、現祠は昭和四十一年に再建されたものである。
 その後、阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の守り神として、あわせて、悲運の城主長束正家(三代城主)の霊を祀るようになった。現在も、毎年四月十七日に、この祠前で、法要と柴燈護摩が厳修されており本町観光シーズンの幕開けを告げる行事として、多くの参詣でにぎわう。
   水口町 水口町観光協会」(案内板より)


山頂からの風景 

【滋賀】 信楽

2009年08月01日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】


信楽といえば、陶器の町。
種類はいろいろとあるのだろうが、最初に頭に浮かぶのはタヌキの置物。


自動販売機もタヌキ。


タクシーも「たぬきタクシー」。


【陶器神社】

陶器神社は、愛宕山に鎮座している。
もともとは、愛宕神社といったそうだ。


鳥居の扁額は陶器。


狛犬も陶器。


灯籠も陶器。


拝殿の扁額も陶器。


さすがに拝殿は陶器ではない。


とは言え、拝殿にも信楽焼のタヌキたちが。


【信楽古陶館】

信楽焼は、日本六古窯の一つ。
その歴史は古く、鎌倉時代から壺、甕、擂鉢などの焼物が作られていたという。
よく知られているタヌキの置物のほうは歴史が浅く、明治時代になってから作られ始めたものだそうだ。
館内では、信楽焼の製品、作品を通して、その歴史を知ることができる。
所どころに貼られている説明は、いずれも同じ方の手によるもののようだが、絵も文字も素晴らしく、分かりやすい。
展示品は茶壺が多かった。
その大きさに驚く。


【紫香楽宮跡】

「紫香楽宮跡」という碑が建っているが、こちらは、現在では、甲賀寺跡だと推定されている。
甲賀寺跡を訪れたときの記録はこちら
今回は、甲賀寺跡から北へ約2キロメートル離れている宮町遺跡に行ってみることにした。

甲賀寺跡と宮町遺跡のちょうど中間地点に、新宮神社遺跡がある。

新宮神社遺跡


新宮神社遺跡の上には、高速道路が走っている。
新名神高速道路の建設に伴う発掘調査で、紫香楽宮期の遺物が多く出土したそうだ。


新宮神社遺跡の隣には、新宮神社が鎮座している。
宮町遺跡は、ここからほど近い田圃の中にある。


紫香楽宮遺跡出土遺物展示室


宮町遺跡は、シートが被せられ、発掘調査中。


信楽に来るといつも思い出すのがあの電車事故。
現場にて、御冥福をお祈りした。

平成3年5月14日 信楽高原鉄道列車・JR西日本直通乗入れ列車正面衝突事故現場
新聞に大きく掲載された折れ曲がった車両の写真は、衝撃的だった。


安全の碑


慰霊碑
事故が起こったのは、「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が開催されていた最中だったという。
亡くなった方のお名前を見ると、同じ名字が並んでいる。
家族で陶芸祭りを観に行く途中に事故に遭ったのだろうか。
楽しい思いを胸に信楽を訪れていたことだろうに。
御冥福をお祈りする。

【滋賀】 紫香楽宮跡(甲賀寺跡)

2009年04月14日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
12月13日(土)
当日の行程:(車) → 【笠置寺】【旧柳生藩家老屋敷】 → 【旧柳生藩陣屋跡】 → 【十兵衛杉】【仙禅寺】【良寛生誕250年 大和し美し 川端康成と安田靫彦(MIHO MUSEUM)】【紫香楽宮跡(甲賀寺跡)】


この遺跡は、大正15年(1926)に国史跡「紫香楽宮跡」に指定されたが、現在では、甲賀寺跡だと推定されている。
平成に入り、ここから北へ約1キロの宮町遺跡で紫香楽宮の中心区画が発見されていて、宮町遺跡が宮跡だという見方が一般的だ。


礎石図


参道


中門跡
遺跡からは、南大門は未発掘。
礎石から、中門は正面三間、奥行二間、二重の楼門であったと推定されている。
奥に見えるのは「紫香楽宮神社」で、金堂跡に建っている。


紫香楽宮神社(金堂跡)
金堂は、正面七間、奥行三間の建物で、現在紫香楽宮神社が建っている中央部が本尊を配した内陣であったと考えられている。


経楼跡
経論を納置する蔵があった場所とされる。
三間四面の礎石が完全な形で残っている。


僧坊跡
僧坊は、講堂の北、東、西の三方に配されていた。
ほぼ同じ大きさの僧坊が20余室あったようだ。
一房内には、一人~数人が居住していたという。


講堂跡
講堂は、七堂伽藍中、金堂と並んで重視される建物。
正面七間、奥行四間の建物で、仏像を配した内陣が中央にある。


鐘楼跡
金堂と講堂の間、東の平地にあり、三間四面の礎石が残っている。


塔跡
仏舎利を奉安する五重塔が建っていたとみられている。


門跡



近くの「紫香楽宮跡駅」に寄ってみた。


「信楽駅」にも行ってみた。
タヌキがいる。


タヌキ、タヌキ、タヌキ……だらけ。


駅前の信楽焼の大きなタヌキはサンタクロースの格好(訪れたのは12月13日)。


信楽駅前にある市役所信楽支所の駐車場は、「しがらき冬まつり」で賑わっていた。

【滋賀】 仙禅寺

2009年04月13日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
12月13日(土)
当日の行程:(車) → 【笠置寺】【旧柳生藩家老屋敷】 → 【旧柳生藩陣屋跡】 → 【十兵衛杉】【仙禅寺】【良寛生誕250年 大和し美し 川端康成と安田靫彦(MIHO MUSEUM)】【紫香楽宮跡(甲賀寺跡)】

この日は、笠置寺の後にMIHO MUSEUMへ行くという計画だった。
笠置山を越えると柳生だと知り、予定に入っていなかった柳生に立ち寄り、それからMIHO MUSEUMへ向かう。
その途中でも、妙なものや気になるものに出くわしたら車を止める。


こちらの肉屋さんでは、猪や鹿の肉も扱っているらしい。
車で走っていて、いきなり猪の皮が目に入って驚いた。
「今の、なに?」と引き返して確認。
これを見た後で猪をいただくのはキツイかも。

しばらく行くと、仙禅寺があった。
こちらのお寺にも立ち寄る予定はなかった。
けれど、なんともいえぬ雰囲気があって、ここでもまた車を止める。


次のような説明があった。
「岩谷観音
 山号の岩谷山によって、普通岩谷観音と呼ばれている。
 仙禅寺は養老七年(723年・奈良時代)に創建され、山城鷲峰山寺の別院として僧坊五宇を有して栄えたといわれる。
 暦応(南北朝時代)、文明(戦国時代)2回の兵火にあい焼失し、その後岩上に小堂を構え、本尊十一面観音秘仏を安置している。観音堂の床下、右の3mあまりの巨岩には、三尊形式の磨崖仏が浮き彫りにされており、中央に高さ80cmの薬師如来座像が彫られ、左の脇像の下に「建長元年、巳酉十一月八日大施主……」と陰刻されている。
 鎌倉時代のものとしては、我国で二番目に古いものといわれ、昭和五十六年九月五日町指定文化財(彫刻)に指定された。」


床下の岩の磨崖仏。
写真では分かりにくい。
「建長元年……」の文字は薄くて確認できなかった。


近くでは、お茶の栽培が盛んに行われている。
朝宮茶というらしい。
嵯峨天皇の御代が岩谷山仙禅寺に茶の実を植えたのがはじまりだといわれる。

【滋賀】 小谷城跡

2009年02月28日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月28日(木)
当日の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍②西軍③傍観軍・反応軍④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関跡・壬申の乱史跡】【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】【伊吹山ドライブウェイ】【国友鉄砲の里史料館】【姉川古戦場跡】【小谷城跡】


「国指定史跡 小谷城址
小谷城は戦国乱世の大永四年(一五二四)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(一五七三)までの五十年間 浅井氏が根城としたところであり六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
 また、この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう 小谷城は北国街道中山道北国脇往還の交通の要衝にあり湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都に通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。城は典型的な山城であり 下より尾根上に出丸 金吾丸 番所 御茶屋 御馬屋 馬洗池 桜馬場 黒金御門 大広間 本丸 中ノ丸 刀洗池 京極丸 小丸と続き海抜三九五メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷 御局屋敷 大野木屋敷を始め、削平地 竪掘等遺構は全山を埋めている 更に主峰大嶽 六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後 木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町 寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籟のみが、昔の悲劇を物語っている。
 昭和五一年十月  湖北町教育委員会」


雨が降っているが、せっかく来たのだから無理のない程度に見ておきたいと思い、登城口へ進む。
が、ここからは登ることができない。
クマの出没を知らせる案内板が立っていた。
雨足も強くなってきたので、車で登れるところまで行ってみることにした。


望笙峠からは、琵琶湖に浮かぶ竹生島が見える。


ここを登っていくと、金吾丸がある。
ここまでは、車道が通っている。
一番上の写真、「小谷城跡案内図」の現在地にあたる。
大永五年(一五二五)、六角定頼に小谷城を襲撃された際、浅井亮政は越前の朝倉崇滴に救援を要請し、この金吾丸を陣所としたのだという。


こちらは、本丸跡方面。
ここから桜馬場まで0.3キロメートル、約8分、
本丸跡まで0.4キロメートル、約10分、
三王丸まで0.8キロメートル、約20分。
行きたい気持ちを押さえてUターンする。

クマが出没しても困るし、それに備えた音の出るものを持ってきていないし、雨足も強くなってきたし。
小谷城に来るのは予定になかったのだから、仕方がない。
雰囲気だけを味わって、帰途に着く。

帰りの高速では、前の車が見えないほどの豪雨。
無理をしなくてよかった、と思う。

【滋賀】 姉川古戦場跡

2009年02月27日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月28日(木)
当日の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍②西軍③傍観軍・反応軍④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関跡・壬申の乱史跡】【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】【伊吹山ドライブウェイ】【国友鉄砲の里史料館】【姉川古戦場跡】【小谷城跡】

 
「姉川古戦場
 お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱によって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏についた長政に湖西で挟撃された信長は岐阜へ戻るや戦備を整え、元亀元年(一五七〇年)六月三万の兵を率いて竜ヶ鼻に陣し横山城を包囲した。徳川家康は、この時、五千騎を率いてこれを援軍している。
 一方、浅井、朝倉合わせて一万八千は姉川北岸に陣し、戦機は熟していった。
 ついに二十八日早朝、両軍激突、衆寡敵せず浅井、朝倉軍は小谷城への敗走となった。しかし、その小谷城もこれの三年後には落ちることになる。
 両軍の死傷者三千余名、あたりに血原血川の地名が残されている。
 平成六年十月  浅井町教育委員会」


この碑の近くを流れる姉川は、あれっ?と思うほど小さな流れだ。


案内板にあった「姉川合戦布陣図」。


このような、絵による解説もある。

【滋賀】 瀬田の唐橋

2009年01月29日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月25日(月)
当日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


石山寺から歩いて瀬田の唐橋へ。
途中、雨に降られて、ずぶ濡れになる。

古来より「唐橋を制するものは天下を制する」といわれ、瀬田の唐橋は、京都防衛上の交通・軍事の要衝地として戦乱の舞台となってきた。
壬申の乱(天武天皇元年〔672〕)においても、大海人皇子と大友皇子の決戦場となったのが、この瀬田の唐橋だったという。


現在の橋は、昭和54年(1979)に架けられたもの。
大正13年(1924)までは木造だったそうだ。
擬宝珠だけは旧橋のものを用いているとのこと、それを見て、昔の唐橋を想像してみる。
ずっと、ずうっと昔は、こんなふうだったのだろう。

歌川広重・近江八景「瀬田夕照」


現在の唐橋は、昭和61年(1986)、「日本の道100選」に指定された。

【滋賀】 石山寺

2009年01月28日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月25日(月)
当日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


東大門(重要文化財)

天平19年(747)、良辨僧正が石山院を設け、聖武天皇の念持仏如意輪観音像を安置したのが石山寺のはじまりだといわれる。
石山寺が観音霊場として広く信仰を集めるようになるのは平安中期以降のこと。
宇多法皇の行幸をはじめ、皇族や貴族の「石山詣」が流行する。
紫式部も参籠し、石山寺で『源氏物語』を執筆したと伝わる。

瀬田川に面して建つ東大門は、建久元年(1190)に源頼朝の寄進で建てられたとされる。
その後、慶長年間(1596~1615)に、淀君の寄進で大修理が行われた。


参道には、「源氏物語千年紀」のマスコットキャラクター「おおつ光ルくん」が。
石山寺の塔頭を「源氏夢回廊」として、催しが開かれていた。



会場のひとつ「密蔵院」は、島崎藤村ゆかりの地。
密蔵院での2ヶ月間の生活を『文学界』に「茶丈記」として寄稿している。


毘沙門堂は、安永2年(1773)に建立された。
本尊・兜跋毘沙門天(重要文化財)を祀る。


御影堂は室町時代に建立された。
真言宗の開祖弘法大師、石山寺開基の良弁僧正、石山寺第三代座主淳祐内供の遺影を安置している。


硅灰石(天然記念物)
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したもの。
石山寺の硅灰石のように巨大な岩石群となっているものは珍しいそうだ。
「石山寺」の名は、硅灰石に由来するといわれる。


蓮如堂
蓮如堂は、慶長期に三十八所権現社の拝殿として建てられた。
現在では、蓮如上人の遺品や御影が安置されている。



本堂(国宝)
正倉院文書によれば、本堂は、天平宝字5~6年(761~762)に造東大寺司によって拡張されたそうだ。
その後、承暦2年(1078)に焼失し、永長元年(1096)に再建されたのが現在の本堂。
滋賀県最古の木造建築物とされている。
本尊・如意輪観世音菩薩(重要文化財)は、本堂が再建された永長元年(1096年)頃の作といわれる。
日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎。
相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したという「源氏の間」がある。
写真の花頭窓のある場所である。


経蔵は、16世紀後期の建立と考えられている。
高床の校倉で、かつては淳祐内供筆聖教(国宝)などを収蔵していたという。
滋賀県で最古の校倉造。


紫式部供養塔


芭蕉の句碑
「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」


多宝塔(国宝)
日本最古の多宝塔で、源頼朝の寄進で建久5 (1194) 年に建立された。
本尊は、快慶作の大日如来坐像。


多宝塔の近くには「めかくし石」がある。
目隠しをしてこの石を完全に抱くと、諸願成就するという。


「芭蕉庵」は、松尾芭蕉ゆかりの茶室。
芭蕉は、境内の句碑にある「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」の他にも「石山の 石にたばしる 霰かな」といった句を残している。
左側に見えるのは、月見亭。


月見亭

歌川広重・近江八景「石山秋月」

「月見亭」は、後白河上皇の行幸の際に建てられたそうだ。
石山秋月として知られている名月は、ここから観る月だという。


補陀洛山「雅の台」から本堂を望む



「朗澄大徳遊鬼境」は、東大門を出て京阪・石山寺駅方面へ数10メートルの場所にある。
朗澄律師は、約800年前の中興の祖で、死後は鬼の姿になって石山寺の一切経と聖教を守護し、人々の降魔招福を誓い入寂したという。
庭園の石には、「石山寺縁起絵巻」に描かれた朗澄律師の姿が刻まれている。


石山寺の御朱印