奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

地名の読み方は難しい他 No275

2022-02-23 07:02:27 | 奥揖斐の歴史など

地名の読み方は難しい ∔ Q3題

2022年 2月23日(水)

 奥揖斐のことが書いてある冊子や町作成の1/5万地図を見ていたら、徳山村の地名の記述などの間違いをいくつか見た。徳山ダムで水没移転する人たちが村を出て30数年、もう村のこと本気で書いていない。そこで、徳山ダムのパンフ(※1)や徳山村史(※2)などで、揖斐川、旧徳山村のことを簡単に紹介(復習)しよう

 

 揖斐川は、岐阜県と福井県の県境の冠山(標高1257m)に源を発し、山間渓谷を流れ岐阜県揖斐郡(旧)揖斐川町で濃尾平野に出て、伊勢湾に注ぐ河川で、流域面積は約1840平方km、幹川流路延長は約121Kmです・・・徳山ダムのある最上流域(旧徳山村のこと)の年平均降水量は3000mm以上にもなっています

 Q1  揖斐川には滋賀県(の一部)に降った雨も流れ込みます → 〇・×

 Q2 徳山村の冬の天気は、福井県嶺南地方の天気予報を見るとよい → 〇・×

     

 徳山ダムは、旧徳山村と藤橋村の旧村界に建設されます。ダムより上流側の旧徳山村には全8地区466世帯(約1500名)の方々が生活されていましたが、ダム建設に伴い、すべての村民の方々に移転していただく必要がありました(中略)

 徳山村は全世帯の方々の移転に伴い、昭和62年3月31日をもって廃村となり、4月1日藤橋村(平成17年1月31日町村合併により揖斐川町)に編入されました

・旧徳山村各地区のようす(パンフには各集落の写真あり)

 下開田46世帯、上開田47世帯、徳山147世帯、塚31世帯、門入34世帯、櫨原59世帯、戸入62世帯、山手40世帯(以上※1から)

 

 上記のとおり、徳山村には8地区(集落)ありましたが、大字は7つしかありません。それは明治8年漆原村(上記下開田)と池田村(〃上開田)が合併し(※2🅟463)、開田村になった(上開田と下開田の大字名は「開田」)からです

 注:門入村も明治8年川上村(旧坂内村の一部)と合併して川上村となり、明治17年に分村して開田村に合併しています(※2🅟463)が大字は門入

 

☆ 徳山の気候の特色

 ・・・冬においては徳山村の天気は福井県嶺南地方の天気予報を見れば、判断はつくものである。夏は東海型、冬になると北陸型という気候の型が徳山村にあてはまるわけで、このためが夏は雨量が多く、冬は豪雪になるということである(※2🅟43)

 

2012年 4月29日 笹ヶ峰へ、4月末なのに、雪が残っている

 

☆ 地名の読み方は難しい

・大字徳山字クツ尾→ クゾ(下図および※4参照)。発音が難しい(クゾッ)と叫ぶように徳山(本郷)の人は言っていた

・徳山字上原(アンギャラ)と読む。揖斐川右岸の小高い所にある平地。江戸時代に西谷から水路が開設され、広い平地もほとんど水田になった(※3🅟51および※4参照) 

・下図左のクツ尾ギソ見橋の「ギソ」は上谷山のこと(ブログNo273参照)

・塚(のソバコマタ上流)の雪隠(センチ)橋:2本の丸太の橋、渡し板便槽(雪隠)のような形の橋(※3🅟183)

・塚の高倉峠、高倉林道→ コウクラと読む(※3🅟185)

・門入字根洞(コンドウ)※3🅟253、金ヶ丸谷の一つ下流の谷をコンドウ谷と僕らは呼んでいる

・戸入字佐吉平(サキチンダイラ)※4→ 「ン」は「の」い意味→ 佐吉さんが所有している平?、サッカーのサガン鳥栖(佐賀の鳥栖?)←著者の解釈

・ナシンダイラ(梨の木があった平)← ブログNo273参照

・下図右上の、つだウズキ橋の「つだ」って何だろう

※3は、他にも難しい地名や面白い記事もがあります、図書館で借りて読んでください

 

揖斐川町管内図(H30年10月発行)抜粋

 

Q3 下の地図→ 西谷の上流、金ヶ丸(カネガマル)谷と励(ハゲン)谷が東西逆に書いてある 〇・×

 

揖斐川管内図(抜粋)金ヶ丸谷の「ケ」が抜けている 

 

答え Q1 〇 関ケ原に隣接する滋賀県側の一部に降った雨は揖斐川に流れ込みます。ゼンリンの地図で見るとわかります

   Q2   〇 上記(徳山村史)のとおり

   Q3 〇 → 国土地理院の1/2.5万地形図で確認してください

 

   Q3 → これは町職員も本気でチェックしていない。地図専門の印刷屋もいけないと思う。他に不動山の北の谷は不動山谷→ タンド谷、三国岳東の大松尾谷→ 大楢尾谷、五蛇池山北東の美濃又→ 三ノ又と思います(地理院地図参照)が、地元の人の呼び名であったら私(外野の人間)の間違いです、御免なさい

 

☆ 今日の反省など

・間違いを糺すつもりはない、それに気づかない人(チェックマン)が周りにいないのか、と思った

 

※1 パンフレット「徳山ダム 揖斐の防人 濃尾の水瓶(水資源機構発行・発行年不明)」

※2 徳山村史(昭和48年3月31日発行)

※3 美濃徳山の地名(平成9年)

※4 字名調書 平成7年3月 藤橋村

 

 


コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山の自慢話 No274 | トップ | 高洞・面平山・柳島山 ほか... »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2022-02-27 21:13:08
「金ヶ丸谷と励谷が東西逆に書いてある」とありますが、明治の陸地測量部の地図もそうなっていますよね?

それが逆だ(間違いだ)と完全に否定できる根拠は何なのでしょうか?ご教示願います。
返信する
Unknown (mさま)
2022-02-28 07:32:16
ご意見、ありがとうございます
誰がどう根拠と判断するかでしょうが、最新の国土地理院地図(私が持っているのは平成27年11月調整)ではそう書いてあります。ということが明治の測量部の地図を引き継いだ国土地理院がそう認めていると私は判断します、また美濃徳山の地名は旧徳山村住民の80人以上の人が参加して作られたものです。そこでもそう記載してあります。間違いだ、という根拠に判断できると私は考えますが、如何でしょうか?
返信する
Unknown (Unknown)
2022-02-28 07:34:49
追伸
地理院地図は、1/2.5万岐阜10号-4[広野]です
返信する

コメントを投稿

奥揖斐の歴史など」カテゴリの最新記事