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表現の現在―ささいに見える問題から②

2015年06月27日 | 批評
 又吉直樹の『火花』を読んだ。この作品は、「お笑い芸人」でもある作者の、自らが「火花」を散らしつつ直面してきた〈芸〉の内省的な表現の物語と見なすことができる。
 
 この作品には、読みながら「あれっ」と立ち止まってしまうような、お笑いの〈芸〉の内省的な表現の物語と同質の〈芸〉と見なせる自然描写がいくつか見受けられた。それはまた別の機会に考えてみたい。作品には、物語の主流もあれば、傍流もあるし、滞留もあるだろう。しかし、いずれにおいても、同質の流れが注ぎ込まれているはずである。例えて言えば、人が他人に重大な頼み事をする場合、他人の前でのその人の動作、表情などは、一般的にどうしてもその重大な頼み事をするという主流の流れに連動しているはずである。次に引用するのは、そんな目新しい描写ではなく、現在では月並みな表現に当たっている。
 
 
 空車のタクシーが何台も連なって走っていた。一台一台が僕の横に来ると様子を窺うように徐行する。それは僕を喰おうと物色する何か巨大な生き物のようにも見えた。神谷さんは、一体どこへ行ってしまったのだろう。  (『火花』 P136 又吉直樹)
 
 
 まず、「一台一台が僕の横に来ると様子を窺(うかが)うように徐行する。」という比喩表現で語られ、それに誘い出されるように「それは僕を喰おうと物色する何か巨大な生き物のようにも見えた。」の月並みな比喩が続く。しかし、この二つ目の比喩は、表現の必然性が感じられない。つまり、主人公「僕」の師と尊敬するお笑い芸人の「神谷」が失踪してしまったという不安感はあるはずだが、「僕」自身が世の中から追いつめられているようには描かれてきていないからである。この箇所は、「僕」=語り手と作者の連携の失敗と思われる。
 
 ところで、ここでの車が人の様子を窺うという比喩表現には、おそらくわたしたち読者の抵抗感はないと思われる。斎藤茂吉も短歌の中で似た表現をしている。
 
 ガレージへトラック一つ入らむとす少しためらひ入りて行きたり
                     (S10.『寒紅』)
 
 わたしたちが用いる道具や器具や乗り物などが、わたしたち人間の諸能力の延長や高度化であると見なせば、車の動きには運転している人の振る舞い方が反映、あるいは連動しているはずである。車を運転している人ならわかるはずであるが、他の車の振る舞い方には明らかに運転者の性格や振る舞い方が連動している。そして、様々な人々が存在するように、色々な動機も加わって様々な車が選択・購入され、様々に走り回っているから、自分に合わせた車の運転の注意の仕方だけでは足りない。ちょうど、人間認識において自分だけを基準にしては独善的になってしまうように。
 
 最後に、付け加えておきたいことは、今述べた人が車に乗り運転しているからということを超えて、別の考え方はできないかということである。人類は遙か太古には動物を人間と同類だと見なしていた段階がある。そして、現在でも動植物が言葉を話したりしても自然に受け入れることができる乳幼児期にはそのような意識が見られるのでなかろうか。つまり、この種の表現には、そうした人類の遙か太古の意識のなごりも密かに重畳していないだろうか。

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