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短歌味体 Ⅳ 9-12 吉本さんのおくりもの・誕生

2016年01月26日 | 短歌味体Ⅳ

 [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・誕生



人はみな祝い祝われ
誕生す
通路(みち)の後先、密かに陰る


10
いつの間にどうしてここに
いるのだろう
言葉にならぬ表情流る


11
偶然に生まれ育っては
ひとはふと
まなざし深こう胎内生活(なか)の顔する


12
華やいだ春の衣装が
まぶしくて
一歩二歩に目まい微かに

  (註は、ブログに掲載します。)

註.

 誕生


  ①何人かの人々により積み重ねられ来た吉本さんの年譜より


一九二四年(大正一三年) 一一月二五日
 吉本順太郎、エミ夫妻の三男、第四子として、東京市京橋区月島東仲通四丁目一番地で生まれる。


 吉本一家は、吉本がまだ母の胎内にいたこの年の春四月、熊本県の天草から月島に移住してきた。


 東京に移住してきたのは、第一次世界大戦後の不況による、炭鉱の閉山や石炭運搬船の需要の減少などがかさなり、それらによる危機を乗り切ることができず、借金をそのままに、順太郎の直系の一族といっていいほどの者たちで夜逃げ同然のようにして、天草と地形が似ている月島で再出発を果たそうとしたことによる。先に、順太郎が上京し舟に関係する雇われ大工のような仕事につき、そのあとで家族をよんだ。
 汽車による見知らぬ土地への長時間かけての移動は、幼い子どもたちにも、身重の母・エミにとってもたいへん負荷のかかることであった。

(「吉本隆明年譜[一九二四~一九五〇]より抽出 宿沢あぐり 『吉本隆明資料集139』 猫々堂)



 この世界を生きるわたしたちの誰もが、この世界のいつかどこかに生まれ落ちる。そのことに例外はなく、そして誰もが、男と女の、彼らの背景との関わりを含んだある関わり合いの事情を生理的(遺伝的)かつ精神的に引き連れて現れてくる。そこで、子どもを産むのは女性であるから、生まれ出る子は胎内から誕生にかけての〈母の物語〉を印されてこの世界に登場することになる。吉本さんの場合、上記の年譜にあるような不幸な〈母の物語〉を印されたことになる。



 ②生誕と固有の不幸な〈母の物語〉の刻印


 年譜に書かれた、この間の事情は、吉本さん本人の記述がいろいろとあり、『少年』(1999年)や『母型論』(1995年)などにも触れられていて、それらを引用しつつ、松崎之貞『吉本隆明はどうつくられたか』(徳間書店 2013年)に詳しくたどられている。

 〈母の物語〉が大きな失敗であればどうなるのか。子の「無意識が荒れ」、また、外界から押し寄せる負荷に対する耐性が弱く、外界に対する過剰な引き寄せや過剰反応となり易い。吉本さんが度々述べていた言葉で言えば、閾値(いきち、「特定の作用因子が、生物体に対しある反応を引き起こすのに必要な最小あるいは最大の値。限界値または臨界値ともいう。」)が普通人より低くなる。ということは、普通の人々が、あまり思い詰めたり、考え込んだり、し過ぎないようなことをし過ぎてしまうということになる。性格的には、たぶん外界に対する防御的な姿勢として「引っ込み思案」や「内向的な性格」となる。「人と人との関係が『なんだかぎこちなくてうまくやれない』という感受性」になる。もちろん、これは吉本さんの場合の〈母の物語〉がもたらした一態様に過ぎない。現象としてそうでないばあいもあり得るだろうが、外界に対する反応の基本的な性格は普遍的なものとして捉えることができるかもしれない。

 吉本さん本人が、当然ながらさまざまな生き難さとして物心ついた頃から意識し続けてきただろうし、そのことにいろいろなささいに見えることにも無数の格闘をしてきただろうと想像される。このようなことは、誰もが通る普遍的なものであるが、普通以上に苛酷な〈母の物語〉を印された人々は、普通以上に感受し、普通以上の風景を目にし、普通以上の魂の劇を強いられる。このことは、価値の問題では全くなく、不可避な生存の有り様というほかない。吉本さんが批評として取り上げた三島由紀夫も太宰治もまたそのような苛酷な〈母の物語〉を印された人々であった。

 吉本さんは、この国で類例のないほどの思想のオープンさを持っていた。表現者として恥ずかしさやプライド?などから秘匿するのが一般的なこともさらけ出してきている。晩年では自らの老年の有り様を開示し、論じている。また、50歳頃にはたぶん編集者や出版社からの働きかけだろうが、心理分析を受け、分析者との対話がある。(『特別企画 吉本隆明の心理を分析する』青土社 吉本隆明・馬場礼子 1974年) この吉本さんは、自分が分析されることに興味を持ち、少し前に乗り出しながらも、どこか無意識に引いている姿勢のような印象も持った。もちろん、自分をオープンにして公開的に触れるまでには、ためらいの消失などそれなりの時間の経過や年齢的なものがあっただろうとは思う。別の対談では、次のような「対人恐怖」や「赤面症」のことが触れられている。


 そこで『言語にとって美とは何か』でとったぼくの考え方は、文字を媒介にした言語表出というところからはじまっていますが、それをもっと非言語、非文字という領域まで拡大してみたいという考え方が、言語の問題としても、心的な問題としてもあります。それは『言語にとって美とは何か』と『心的現象論』を拡張するといいますか、原型のところまで遡ってそのふたつをいっしょに解いてみたいという考えがあるんです。だから田原さんのやられている方法にはとても関心があります。できるだけ具体的に聞けたらいいなというふうにおもっているわけです。
 それからぼくは、いまでも「対人恐怖」ですが、思春期前後のころは、ひとを正視して話をする、とくに女のひとと話をするということができなかったんです。それから「赤面症」も、思春期に入る前後のころは極端にそうだったんです。いまは摩耗しているというか、それほどじゃないですが、そのころは意識すればするほどそうなっちゃう。べつにひとからみて顔が赤くなっているかどうか、それこそ田原さんのいわれるとおりわからないですが、カッーと耳までも熱くなっちゃう。一時期それにずいぶん悩まされました。悩まされたというのはだれでもそうなのかもしれませんが、それを悩みとしたということなんだとおもいます。これなんかはいまでもあるわけですが、なんか階段を昇り降りするとき、右足から第一段目を上がらないと今日は縁起が悪いとか、そういうのって思春期前後には極端にありました。それでじぶんのことをいうと、『言語にとって美とは何か』と『心的現象論』をもっと無意識の核のところまで遡って自己カウンセリングしてやろうみたいな問題意識があるんです。
    (対談集『時代の病理』P47-P50 吉本隆明・ 田原克拓 1993年)



 この引用に象徴されるように、人がこの人間界に生まれ育ち老いていく過程は、誰もが固有の〈母の物語〉を背負いつつ、この現実の人と人との関係の中で、それを修正したり、それに沿って生きたりなどしながら、この世界を旅していくのだと言えそうである。そして、苛酷な〈母の物語〉を強いられてしまった人々は、それが普通の人々以上に苛酷な旅になるだろうと想像することができる。

 しかし、いずれの場合も、人がこの人間界に生まれ育ち老いていく過程は、個人的には、固有の〈母の物語〉の受容や修正やかくめいの劇であり、外の世界に対しては、この世界の成り立ちの根源からの受容や修正やかくめいの劇である。誰もがその生存においてこの二重性を帯びていると思われる。吉本さんの〈母の物語〉に根底的に触れた『母型論』に到る論理を築く歩みにもそのような二重性が秘められている。


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