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吉本さんのおくりもの 10.吉本さんの言葉というものの捉え方 (2017.2) 既発表文

2017年03月30日 | 吉本さんのおくりもの

 吉本さんのおくりもの 10.吉本さんの言葉というものの捉え方

                ―言葉という次元


吉本 
 ぼくは言葉というのは、表現しかないと思ってるわけです。表現されなければ言葉はないと思うわけね。だから、ぼくが言葉って言うときの言葉は、表現された言葉になるんですよ。


 ぼくの論理で、言葉っていう場合には、表現された言葉っていうふうになるんです。表現された言葉っていうのは、何が違うかっていいますと、表現する途端に内部ができる
(註.1)ということだと思うんです。つまり、内部がここにあって、言葉が何か言われるっていうことは、ほんとは全く嘘だと思うんですけど、しかし、表現された言葉っていうのができたときに、同時に内部ができるっていう、そういう対応の仕方になると思うんです。


表現された言葉だけが問題なんで、表現された言葉というのがあると、言葉を表現した途端に、反作用で、自分は言葉から疎外され、疎外された分だけ内部がそこに生じる。なぜ内部が持続的に生ずるように見えるかっていうと、そういうことを人間は繰り返しているから、何となくいつでも同じ内部が子供のときからずーっと連続しているみたいな気にさせられるわけです。それは全く幻想なんだけども、どうしてその幻想が生ずるかっていったら、やっぱり表現する途端に内部ができるから。表現しなければ内部なんかないんだけど、途端に内部ができるみたいな、そういう対応関係があるところで、内部と言葉っていうものとの関係が出てくるというところで扱いたいわけなんですよね。


 ぼくは、内部っていうのが持続的、実体的に人間にあるっていうふうにちっとも考えてないんですけれども、言葉を表現した途端に内部は生ずるものだ、同じ言葉を何回も発してると、内部がいかにも形あるように見えちゃうもんだよっていう意味合いで、内部というのを問題にするわけなんです。

(「内なる風景、外なる風景」(後編) 鼎談 吉本隆明・村上龍・坂本龍一
 月刊講談社文庫『IN★POCKET』1984年4月号)



 (註.1) 「表現する途端に内部ができる」ということについて

 「表現する途端に内部ができる」ということは、わたしたちの現在的な状況としても、あるいは言葉のようなものを表現し始めた初源の人間の起源的な状況としても、二重に捉えることができる。後者から見ると次のようになる。
 人間が途方もない時間の中で内部になにか「しこり」のようなものを形成してしまって、ある時そこから促されるように「あ」とか「う」などの言葉のようなものを表現してしまったとすれば、その表現自体が反作用のように人間にその言葉に対する印象や感じのようなものを与えてしまう、つまり、「内部」が浮上する。

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 吉本さんが、言葉について本質的なことを語っている。
 わたしは、解剖に立ち合ったことはないし映像で見たくらいだが、人を解剖しても内面的な内部と呼ばれる実体的な部位が見つかるわけはない。このことはおそらく誰もがなんとなく認めそうな気がする。しかし、人間の記憶ということになると、学者の中には「記憶細胞」というものが実体として存在すると考える者もいる。あるいは遺伝子を探索しているかもしれない。記憶には植物レベル、動物レベル、人間レベルというものがあると思う。人類は未だその記憶というものの機構がよくわかっていないが、少なくとも人間的な記憶は植物レベルや動物レベルの記憶と何らかの関わり(連続性と位相差)を持っているはずだ。そして、わたしの手持ちのものからは漠然とした推測程度でしか言えないのだが、人間的な記憶は上の吉本さんの言葉という次元の捉え方と同様のものではないかという気がする。もちろん、実体としての脳の各部位やその間の神経網の活動や化学物質などが記憶というものを支えているのは間違いないはずだが、それとは違った位相に言葉やイメージとして表現されるように見える。

 人間的な諸活動は、その機構がわたしたちにはっきりとわかっていなくても、わたしたちのその機構の捉え方がたとえ誤っていたとしても、人間的な諸活動自体は心臓が動いている不随意運動のように日々持続している。50歳代辺りから記憶を引き出すのが少し困難になる物忘れなどのわたしたちの日々の経験や、あるいは人が以前より長生きするようになったから問題化していると思われる「認知症」などの新たな経験が、わたしたちの記憶の機構の捉え方に以前にも増して深い洞察を促すかもしれない。それらのことは、わたしの素人の推測によれば、支えられる実体とは別次元の記憶や認知などのシステムが、支える実体的な次元の消耗や老化などによって、クリアーに機能しない事態のことを指しているのかもしれない。

 言葉は、実体的な次元(音や文字や身体など)を必ず伴うけれども、吉本さんが述べているようなそこから飛躍した位相の異なる幻想的な次元の時空に表現される。一方、読者や観客は実体的な次元(音や文字や身体など)を介して幻想的な次元に表現された言葉や映像などを味わうのである。しかも、言葉は幻想に過ぎないのに人の心を深く傷つけたり、あるいは深く感動させたりもする。言葉の表現に限らず、職人さんの技能でも、ともに先ほどの記憶ということも関与しているはずだが、体の中に実体として技能が存在するわけではない。未だその微細な機構はよくわからなくても、言葉の表現でも或る技能でも日々くり返していくと幻想的な次元に蓄積するように、幻想のつながりとして強化されていくのではなかろうか。そして、その表現の場に座ると、蓄積、強化された幻想的な言葉や技能の次元にたちどころに接続されるのではないだろうか。

 ただし、技能の場合は、言葉と比べて身体性との関わりが強いように思われる。わたしの経験を持ってくると、福岡で高校の教員になりたての頃飛騨高山にスキー修学旅行に行ったことがある。スキー修学旅行はその高校では初めてだったので下見もあり、わたしも下見に行った。このとき初めて飛行機に乗った。スキーなんて一生縁がないと思っていたが、三日間のスキー教室は、十数人に一人コーチがついて生徒も教員も三日間でまずまずの滑りができるようになった。とても楽しかった記憶がある。ところで、それから二十数年後阿蘇の人工スキー場で偶然二度目のスキーをすることになった。滑ってみて二十数年前とは比べものにはならない滑りではあったが、自分の身体が、スキーで滑る感覚をうっすらと記憶しているように感じられたのは驚きであった。たぶん、自転車乗りも同様のことが言えるのではないかという気がする。技能の場合も言葉と同様のイメージや幻想性があると思われるが、それ以上に言葉を離れた身体感覚的なイメージや記憶が大きな部分を占めているように感じる。それは動物性の記憶に近いと言えるだろうか。

 現在の実体的なものを重視する自然科学の科学者は、言葉を考察したり言葉を考慮に入れたりということをほとんどしないだろうが、したとしてもこうした言葉の捉え方はしないのではないかと思う。しかし、例えば自閉症の理解やAI(人工知能)の研究では人間にとっての言葉とは何かということが大きく関わってくるはずである。実証や実体的なものを重視する(自然)科学は、次々に細分化され狭苦しい世界に迷い込んでいるように見える。

 ヨーロッパのルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、音楽・地理学から解剖学・物理学まで、あらゆる学問に通じていたと言われている。おそらくヨーロッパの中世期以降に本格的に学問が文系と理系というように分離し、細分化してきたのかもしれない。わが国では明治期にそれを輸入して現在に到っている。進学校の高校生ならほとんどその区分けを自然なものとして受け入れているような気がする。大学では、必要に迫られて理系内での科と科にまたがったり文系と理系の境界を横断する学問も学部新設などで試みられてきた。わたしは学問という世界とは無縁だが、学問というか知の世界というか、この未来的なイメージを描くとすれば、細分化の状況は今後も続くだろうが、総合性としての人間という観点からあらゆる人間的なものを対象とする〈科学〉というものが必然として生み出されていくのではないかというイメージをわたしは持っている。人類の歴史は、細分化されてきた近代に対して近代以前の総合性をまた新たな形で反復するというようなことをこれまでにやって来ているからである。

 ところで、この鼎談以前には、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)と吉本さんの主要な著作がある。つまり、ここでの吉本さんの〈言葉という次元〉という考えの背景には、それらの大きな諸考察を経てきたという経験がある。また、長い詩作や思索を持続してきたその経験の実感が込められている。単なる思いつきではないのである。『言語にとって美とはなにか』や『心的幻想論序説』には、この〈言葉という次元〉という考えと同じような考え方が述べられてもいた。

 一般的には、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、まだなじみがないような気がする。しかし、わたしには妥当な捉え方だと思われる。そして、それは今後大きな基本的な視座になっていくと思う。現在的な主流の捉え方にもなぜそう捉えるのかという人間的な自然慣性からの必然的な理由がありそうに思うが、このわたしたちの文明史が更なる自然を掘り起こしていく中から、その妥当性も徐々に普遍的なものとなっていくような気がする。なぜならば、人類史の本流は、支流にずれ込んでも必ず人間というものの本来性に従うように修正されていくと思うからだ。そして、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、吉本さん自身の詩作体験やものを考える体験の実感から出発して人間の普遍に開かれているように見える。つまり、人間的な本質や人類史の本流に深く届いているとわたしは思っている。

※この文章は、「吉本さんの言葉というものの捉え方 付「わたしの註」 」を解題しました。

 

 


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