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「私」(語り手)の死の描写

2019年10月18日 | 作品を読むということ
「私」(語り手)の死の描写


 最近出た町田康の短編集『記憶の盆をどり』に、変わった題名の「エゲバムヤジ」という作品がある。その最後の場面がわたしの関心を引いた。

 この6頁分の短編は、次のようなシンプルな話である。「強風が吹き始めてから六ヵ月。なにひとつよいことがなかった。」「私」に、ときおり見かけるから同じアパートの住人とおぼしき女が、布の箱を持って私を訪れる。そして「あたし、もう無理だから。お宅で飼っていただけますう」と言って有無を言わせない感じで私にその箱を手渡して去る。そして、私はその箱の中のわなないている小さな白い塊を「エゲバムヤジ」とすぐにわかる。「こういうもののことをエゲバムヤジというのは、中三のときに死んだ叔父に聞いた」からだというのだ。

 そうして、私はエゲバムヤジの世話をする日々が続く。ある日、私はエゲバムヤジを連れて岩壁に出かける。そしてなにかの拍子にその岩壁から私とエゲバムヤジは落下するが途中の岩棚に引っかかって助かる。その後は、私はなぜかいろんなことがうまくいくようになる。そんなある日、先の女が悄然とした様子でまた現れてからエゲバムヤジを返してくれと言う。今では、私の大切な家族で守護天使のような存在になっているからふざけるなと私は思う。しかし、その女は十億円やると言う。


十億円。喉が鳴った。エゲバムヤジを抱く手に力が入った。エゲバムヤジは小刻みに震えていた。怯えたような目で見上げていた。
「お願いします。十億円で。残りは夕方までにとどけます」
 女が再び言った。身体が熱くなって汗が出た。吸い込まれるような感覚を覚え、震える手を女の方に差し出した。エゲバムヤジは、爪を出して腕にしがみついていた。
 次の瞬間、そのエゲバムヤジの爪の感触がふと消え、空中に放り出されたような感じがしたかと思ったら五体がごつごつした岩に叩きつけられて断裂して散らばり、波に洗われて消えた。断裂した直後、意識にエゲバムヤジの幸福な笑顔と悲しい哭き声が浮かんだが、それも直ちに消えて、後はただひたすらの虚無。
 (「エゲバムヤジ」、『記憶の盆をどり』 町田康 2019年9月)



 この作品は現代的な衣装の物語に見えてもその骨格は意外と古い。「花咲かじいさん」のような古い説話の形式を取っている。たぶんこの正体不明のイメージを背負わされた「エゲバムヤジ」という生きものは、「花咲かじいさん」の「犬」にあたっている。女が所持している多額なお金はエゲバムヤジのおかげで手にしたのではないだろうか。女は、エゲバムヤジの日々の世話を面倒に思って手放した後、精神的にも満たされない日々になり返してくれと来たのだろう。一方、エゲバムヤジとの日々になじんでエゲバムヤジを大切に思っていた私は、女の十億円に「身体が熱くなって汗が出た。吸い込まれるような感覚を覚え、震える手を女の方に差し出した。」と葛藤の末傾いていく。これはエゲバムヤジにとって裏切りである。私がお金に目がくらんだ瞬間にエゲバムヤジのもたらした幸は消える。たぶん先の岩壁からの落下はエゲバムヤジのおかげで助かったのではないか。だから、時間が戻って幸が取り消されて、私は今度は元のままに落下してしまうことになったのだろうと思われる。ということは、エゲバムヤジを手放した女にも何らかの不幸が訪れていたのかもしれない。こうしたことはよくある説話の形式である。
 
 現在のわたしたちにも依然としてこうした説話の形式に心引かれる面が残っているとすれば、それはこの人間社会の不如意な現実に誰もが出会うからである。そこから生み出される様々な願望のイメージが存在するからである。

 ところで上の引用は、この作品の末尾の部分である。通常でも、作品が終われば登場人物も語り手も作者も消える。しかし、この場面はたとえ現実離れしていたとしても主人公の「私」が死ぬ場面である。そして「私」=「語り手」となって物語は進行してきているから、「私」が死ねば「語り手」も消滅するはずである。したがって、「語り手」は「私」の死の場面と死の直後の場面を語ることはできないはずである。

 いや、そんなに固いこと言わなくても物語を楽しめればいいさ、という考え方もあり得るだろう。その場合は、表現の矛盾は稚拙な荒唐無稽さとして受け入れるということになる。しかし、荒唐無稽なものではなく生真面目に表現の本質から考えてみるとそれはどうなるだろうか。考えられるのは、「私」=「語り手」は、斜め上方からベッドなどに横たわっている自分を眺め話もきこえるという一種の臨死体験者の視線を行使しているのだと言えそうだ。あるいは、作者が臨時出張してきて「語り手」の代打をしたと見なすほかない。

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