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作者、作品、語り手、登場人物について・補遺

2018年07月04日 | 作品を読むということ

 作者、作品、語り手、登場人物について・補遺

 

 

 小谷野敦の「 芥川賞は町屋良平だな。」(6月18日)というツイッターのツイートを目にして、初めて知った町屋良平という作者の『青が破れる』(2016年11月)を読んでみた。帯によると、選考委員の藤沢周、保坂和志、町田康の三氏が「大絶賛!」とあるが、うーんそこまではなかったなあ。短い文の書き連ねで、文体が軽いのが良い意味で少し気になった。
 
 同作品に付された書き下ろしの掌編あるいは短編作品の二作「脱皮ボーイ」と「読書」の方が実験的で気になった。後者は、わたしたちがふだん抱く心から意識に渡る世界での多層的ともいうべきそれらの振る舞いや表情の描写の試みである。場面は、電車で昔別れた恋人同士が同席して、はじめに互いに目を合わせてなくて、さらに女性の方は読書に浸っていてその男に気づかない、男の方は気づいている。回想を交えた多層の心理描写が続く。前者は、物語の形式としての「語り手」が従来になく珍しい。


 着席している電車のなかで膝同士がコツッとぶつかり、女は「すみません」と声に出しはしないものの、充分そのことばの含まれた会釈をしたが、となりに座っている男の顔は見なかった。
 彼女は読書に耽っていた。このとき、主に上半身は読書をしていて、書のなかの体験を追従していた。だが下半身はどうだろう。どこか腑に落ちないような、しずかではあるが穏やかでない訴えめいた、なにかを叫んでいた。女は読書に耽りながらも、どこか意識の削がれるように、集中を逃していた。それは彼女の下半身の、とくに先ほど男に接触した膝から下の、背信があったからだったが、女はそれをわからない。膝から下部は意識のうえで、充分に彼女に含まれない。彼女の意識のどこかに、先程膝のぶつかった男性の履いているスニーカーの色彩があった。全体の灰色に、印象的な赤のラインが走り、ぶつかった男性の膝と足のかたちによく合った。それでも彼女の意識では、読書が勝った。じっと読み耽る。となりに座るスニーカーを気に入ったことなど、彼女は充分認識しないが、彼女の膝から下ではそれを言っている。いっぽう、男のほうでは気づいていた。横に座り読書に耽っている女が、過去の数ヶ月のあいだ、自分と恋仲にあった女性であることを。
 (「読書」P128)


 彼女に、「なんか必要なもの、ある?」と聞かれて、「じゃあふりかけとか、なんか柿の種とかお菓子」とか要望を言うと、そのとおりに買ってきてくれる。親に頼めば済むのだけれど、彼女は会社を早退したり休日を駆使したりして俺を見舞うのを気に入っているらしく、スーパーとか売店にいくその道すがらを描写してくれるうちに、相性がいいのか俺もいっしょに出かけているような気分になるのだった。
 俺もいっしょに・・・・・・
 運び込まれた病院の傍にたまたま巨大な公園があって、そこを散歩していると失われたなにか善いものの存在を感じることがある。イヤフォンからすてきな音楽が流れてきて、数週間前には見も知らなかった男の子を殺しかけ、そのひとの用事を手伝っているうちに、奇妙な多幸感に見舞われている自分に気がついた。スーパーの袋の重みは、ふしぎな引力をわたしの右肩のあたりに与えている。お菓子をたくさん買いすぎていた。
 (「脱皮ボーイ」P111)



 「読書」の引用部分で、隣同士に座ってお互いに気づかないわけはないだろうという普通の感覚がわたしに起こるが、そういう疑問を押し切ってもちょっと張り詰めた場面を作者は描きたいモチーフがあったのだろうと思う。ここで「女」に描写されているような読書に意識を向けている一方で、別のことに心囚われているような状況は、誰にもよくあることである。ところで、この作品では、「男」や「女」という三人称の言葉のもとに「語り手」は「男」や「女」に付きまとい外面からあるいは内面に入り込み物語を語り、進行させる。これは一般に見かける三人称の物語である。


 一方、「脱皮ボーイ」の方は、この場面で「俺」から「わたし」(引用者註.駅のホームで「俺」にぶつかってしまった女性。「俺」は線路に落ちて危うく死にそうになった。)に変わっている。章が変わってこのように一人称で語り手が変わるという作品はあるだろう。また、三人称の作品だが、村上春樹の『1Q84』では、最後には青豆と天吾の出会いの章があったが、「青豆」と「天吾」という登場人物の章をそれぞれ交互に設け、三人称として語り手は語っていた。しかし、この作品のように同じ場面で語り手が変わるのはわたしは出会ったことがない。読んでいて、あれっと面食らった。

 こういう同じ場面で語り手が変わるようなことは他にないかと思い巡らせてみた。落語がある。落語の場合は、登場する語りの者(落語家、噺家)が、地の文の説明を語ったり、一人何役かで登場人物の役で語ることになり、その切り替えるときは声色や表情などを変えるから、わたしたちはそれに異和感を持つことなく語りを聞くことができる。

 しかし、物語作品(小説)ではなじみがない。語り手が交代するとき、行をあけるなどの配慮がなければ特に、読者として少し混乱するのではないかと思う。つまり、落ち着いて読み進めない。「脱皮ボーイ」の引用の場面は、語り手を変えなくても、「読書」のような三人称の描写でも差し支えはないと思う。なぜ作者はこうしたことを選択したのだろうか。語り手が登場人物を「彼」や「彼女」という三人称として、つかず離れずで描写することは現在では普通にやられている。作者は、三人称として語るよりも、登場人物それぞれが一人称として語る方が、登場人物それぞれの独立した存在としての生(なま)の迫真性が出るのではないかと考えたのかもしれない。そして作者は、実験的に書いてみたのかもしれない。

 空想のイメージに過ぎないが、遠い未来では、言語が進化して語り手や登場人物を必要としない直接的な表現もあり得るかもしれない。しかし、わたしたちが現在、物語作品に出会うには、その背後に作者、語り手、登場人物を必須とする。物語作品は、作者がすべて書き生みだしたものであるが、それが生み出されるためには、作者がそこを生きてきた現在までのマス・イメージの加勢が必要であり、現在の所、作者、語り手、登場人物という一連の舞台を必要とするのである。

ところで、この作者の引用した二作品を読んで、近代の二葉亭四迷の『浮雲』(註.青空文庫で読める)などの現在から見たらたどたどしく見える表現と引き比べると、登場人物の外面も内面も自在に書き分けて、なんと細かな世界にまで入り込んできたものだろうという思いを禁じ得ない。しかし、もちろん、そうした細密で複雑な表現は、これからもまた作品表現の自然必然の過程として踏み迷いつつも進んでいくというほかない。


註.書き留められた「落語」は、以下で読むことができます。
「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/fulllist.php

 


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