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吉本さんのおくりもの15 言葉の素顔や表情 ―川上春雄宛全書簡より

2017年10月09日 | 吉本さんのおくりもの

 『吉本隆明全集37』(書簡Ⅰ、晶文社 2017.5.10)には、吉本さんの川上春雄宛全書簡と川上春雄氏の吉本さんや吉本さんの両親や吉本さんの知友への訪問記やインタビューやメモの「川上春雄ノート」などの資料がおさめられている。

 わたしたち読者は、一般には言葉と化した作者(表現者)に表現された言葉を通して出会うことになる。作者は、書くという世界になじんでしまっており、しかも商業出版という世界に関わって生活している。そうしたことの詳細や具体についてはわたしたち読者はよくわからないし、作者たちもそうしたことをあんまり公開することはない。そうしたことは、表現自体にとっては瑣末なことかもしれないが、わたしたち読者が作者の言葉の肌触りのようなものまで含めた理解ということを目指すならば大切なことだと思われる。この第37巻は、作者の言葉の素顔や表情やふんいきのようなものまで含めた、つまり、深さを持った理解ということを追究する場合の大きな助けになると思う。

 わたしたちは誰でもこの社会でいろんな人と関わり合いながら生きる。その関係には、仕事上の付き合い、顔見知り程度、恋人や家族関係、親友と呼べる関係など、関係のつながりの深さの違いや濃淡の差がある。わたしたちはその多様なつながりを割と自然に使い分けて生きている。吉本さんと川上春雄氏との長年に渡る関わり合いは、「創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に『進退を共にする』もの」から始まった。もちろん、出会いの初めからそうだったわけではない。

 吉本さんと川上春雄氏との出会いと川上春雄氏の人柄については、資料Ⅰ「川上春雄ノート」の「吉本隆明会見記」(一九六〇年七月十九日)と資料Ⅳの「著作集編纂を委かされた川上春雄氏」(一九七〇年十〇月二六日)でだいたいのところがわかる。二人の表現活動に関わる関係は、信頼に基づく生涯にわたる深い関わり合いを持つものだったように見える(註.1)が、その関係の持続の最初の根底的な関門は次のようなものであった。



 1.アイサツ状とは馬鹿なことをしてくれたと思います。
 それは、「事業上」からも、「試行」出版部の名前にかけても、まったく愚かな猿ヂエだと思います。そのことを貴方が身に沁みて知るでせう。だが、「事業上」の不利は貴方が負えばよいが、せっかく創造的な運動をさらにおしすすめるために、貴方をさそった「試行」の名前にたいして貴方はどんな責任を負うのか、こちらが、歯を喰いしばって非妥協的に耐えているのを、貴方は裏からつきくづす方向にすすみつつあるといえます。この方向を、そっ直にではなく、陰ですすめれば、即座に、貴方との関係を断ちたいとおもいます。不悪。貴方は、ちょうど、斉藤「深夜」氏とおなじ程度の「事業」上の才覚と、編集者的感覚でいるのです。どうして、ほんのしばらくでも、黙ってついてこられないのか!小生は、出版事情についても、ライター層についても、思想情況についても、貴方よりよく知り、よく考えつくしているつもりです。返答を欲しいとおもう。繰り返し、言う。何と馬鹿なことをしてくれたものだ!
 ・・・中略・・・
 貴方の返答をまちます。それの如何では、小生も、貴方と一切関係ない旨の文書を各方面に配布せざるを得ないでせう。決して気を悪くしてはいけません。
 貴方が、お前も人間なら、おれも人間だ、何も一から十までお前のいいなりになる必要はないという鬱積を抱くのは当然であるかもしれないが、小生は「実利」上からも、思想上からも、「試行」に関するかぎり何も利得していないのである。文字通り、物心両面の不如意が、それから得た小生の「実利」である。創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に「進退を共にする」ものでなければ、共同できないことは自明である。貴方に、その気があるかのか、どうか、しかと賜りたい。返事を待ちます。
 (川上春雄宛書簡56 1964年7月12日 P92-P93『吉本隆明全集 37』書簡Ⅰ)


 ところで、貴方の方からみるとこういった小生の原則は、ゴウマンであり、また他人に強いる理由のないものであるという考えがどっかにあって、今回の案内状となったとおもいます。これは、小生の原則からは、耻かしくて頭を上げられないような気持です。村上、谷川両君とやっていたときでさえ、それだけはしませんでした。二、三の出版社から「試行」を引き受けるからという申出があったのに、それを敢えて断わって、はじめたくらいだからです。
 また、逆に、この一見するとゴウマンにみえる原則は、結果として、「実利」をもたらしました。あらゆる雑誌が、大商業誌、小同人誌、左翼文芸誌をふくめて、赤字、借財のうえに成立っている現状のなかで「試行」だけは、赤字、借財で苦しむことなく存続してきました。「実利」の上からも、貴方が配布した案内ハガキの代金に匹敵するだけの効果が、案内を出したことから得られないだろうことを、小生は断言することができます。だから、貴方の今度の処理は、「実利」上からも、「原則」上からも、何と馬鹿なことをしてくれたのだ、という小生の発言に要約されるのです。
 ふたたび、くり返します。
 一、貴方は以上申述べた「試行」の原理を承知の上で、なお協力体制をとってくれるだろうか。(そうしてくれるかぎり、貴方に欠損や借財を負はせることはない、という責任を小生は保証することができます)
 二、ムダな金は、出版広告のためつかわず、ハデな宣伝もせず、地道に悠然と、よく球をえらんで出版部を継続してくれる意志があるだろうか。
 三、むこうから自然にやってくるのではなく、こちらからすすんで中小出版の仲間入りをする愚挙(中小出版は全て赤字、借財のうえに自転車操業をしているものだということを小生はよく知っています)を避けて、地味にふるまうということに耐えてくれるだろうか。
 もう一度、素直にお訊ねします。
 (川上春雄宛書簡58 1964年7月15日 P95-P96)



 この書簡56に付された註によると、「アイサツ状」は、『初期ノート』の広告文のことで、それを「川上はこのダイレクト・メールで少しでも購入者の範囲を広げようとしたのに対し、著者は『ディス・コミュニケーションの方法』を出来るだけ狭く厳密にまもりたいと考えていたのだとおもわれる」とある。
 
 この頃の吉本さんは、安保闘争の敗退の後でいろんな精神的な傷を負いつつ出版界からも干されるような情況の中、その情況にツッパル自立的な表現の場として谷川雁、村上一郎とともに三人で「試行」を創刊した。その「試行」が、吉本さんの単独編集になっていた時期である。吉本さん40歳。資本主義は表現者の片道は助けてくれるが、また表現者をダメにする面も持っていると吉本さんは何度か書き記したことがある。そういう吉本さんの表現者としての出版界での経験が十分に見えていない川上春雄氏とのくいちがいからこの問題は起こっている。圏外にいるわたしたちからは、そんなささいなことと見えるとしても、思想の現実性は、具体的な場ではそんなささいに見えるところに立ち現れる。

 吉本さんは、「小生の方は、かつてこれほどのショックはないというほどの衝撃を貴方からうけました」(川上春雄宛書簡60 1964年7月20日)と述べている。そして、その言葉の少し後に、次のような吉本さんの真情が書き記されている。



 こんな、情けないことで、大の男が何べんも通信を交わさねばならないとは、小生のはじめて体験することです。けれどどうしても、何よりも大切な問題が、今回のことのなかにはふくまれていますので、繰り返し繰り返し(引用者註.二度目の「繰り返し」は繰り返し記号が使われている)貴方を説得した次第です。どうか素っ直な能[態]度を示されるよう。また、お互の一家にこれ以上いやな空気がこもることのないよう祈ります。少なくとも、小生の家に伝えられる貴方の案内状の余波は、いづれもやりきれないものばかりでした。貴方の御家族もきっと小生の通信でいやな思いをされていると推察します。



 この吉本さんと川上春雄氏の危機的なすれちがいは、吉本さんの提案(「川上春雄宛書簡60」の中で提案)による、「試行」出版部の出版案内を送ったことを取り消すという内容の「廻状」を、川上春雄氏が「アイサツ状」を出した相手に送るということで落着したようである。同年8月上旬頃のことである。

 川上春雄氏は、2001年9月9日に78歳で亡くなられている。そして、吉本さんは「川上春雄さんを悼む」という追悼の文章を書いている。これは川上春雄氏が亡くなられた後に、吉本さんが二人の交渉史と川上春雄氏の人物像を反芻して出てきた言葉であろうと思われる。真情のこもった本人の言葉で語ってもらうと、



 川上春雄さんとはじめて通信を交わすようになったのは、わたしが飯塚書店版の『高村光太郎』を出版した折だったと思う。それまでまったく未知だった川上さんが、詳細な誤植の訂正個所を挙げて送ってくれたことから、手紙や葉書の往復がはじまった。物ぐさなわたしでも、黙っていては相済まぬと思うほど詳細を極めたもので、御礼状を出さずにおられなかった。川上さんはその頃、詩誌「詩学」の研究会に属して詩を書いておられたと記憶する。力量のあるいい詩作品だった。じぶんよりずっと若い詩人だと考えていた。交渉が生じてからは、ますますわたしの著作にたいする読みは深くなり、訂正や感想の類いもまた以前より細部にわたり、たんに誤植の訂正にとどまらず、わたしの認識の誤解にまで及び恐縮するばかりだった。そしてだんだんと〈ああ、おれはいい読み手をもったな〉とわれから思えるようになった。・・・中略・・・
 山形県米沢市の学生時代、会津出身の同級生が二人いたが、二人の共通点はテンポがあまりはやくないが、考え方にも行動にも筋金が入っているという印象だった。おなじ性格は当初から川上春雄さんにも共通していた。筋が通っていて頑固ともいえるし強情ともいえる。一旦、思い込んだところから思考は単一で根気に充ちていて、わたしなどの言い分で抑止されるものではなかった。この資質は得難いもので、わたしなどが尊重してやまないところだった。川上さんへのわたしの親愛感と信頼感はそこを源泉に形成されたような気がする。わたしのようなちゃらんぽらんな性格は、そこから沢山のことを学んだような思いがする。
  (「ちくま」2001.12 、『ドキュメント吉本隆明①―〈アジア的〉ということ』所収 弓立社)




 吉本さんが、上に引用した「川上春雄宛書簡60」で川上春雄氏をくり返しくり返し説得したのは、おそらくこの追悼文に表現されたような、川上春雄氏は自分にとって得難い人だという直感を持ったからではないだろうか。


<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>
 (「情況への発言」1973.9 P277 『「情況への発言」全集成1』所収 洋泉社)



 この他者(たぶん奥さん)の批判は、「かなりうがっている」と受けとめつつ、吉本さんの自己像としては「しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない」と述べている。吉本さんの内心は別にして現象としてはそのような吉本さんの他者との関係の取り方に見えるのだろう。ここから、吉本さんと川上春雄氏との初めての衝突を眺めてみると、吉本さんは自分の前に現れた川上春雄氏を得難い人だと思っていたのに、それが裏切られるように暗転して「かつてこれほどのショックはないというほどの衝撃」を受けた。たぶん、吉本さんの衝撃は人並み以上の物だと思われる。つまり、それだけ過敏な反応だったろう。そして、その吉本さんの反応の型は、「〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げる」自己探索の旅程でもあった『母型論』(1995年)へと追究されていくことになる。しかし、これが初めてのことで相手が得難い存在であったから、「撥ねつけ」ることなくくり返しの説得を試みたのだと思われる。

 ところで、「創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に『進退を共にする』ものでなければ、共同できないことは自明である。」(川上春雄宛書簡56)と吉本さんは述べている。吉本さんと批評家芹沢俊介との関係も、そのことに近いものとして始まったのかもしれない。おそらく雑誌「試行」に文章を寄稿してから吉本さんとの交渉が始まったと思われる芹沢俊介は、「一九七〇年から続いていた三十数年の親交にいつの間にか空白が生まれていた。」(「吉本さんとの縁」『文学界』2012年5月号)と書いている。そこでの芹沢俊介によると、吉本さんが『生涯現役』(2006年)で芹沢俊介がホスピス運動のようなものに関わってしまっているという批判を語っていたということである。「こんな『妄想』を生むほどに視力が弱まってしまったのだと考えれば、吉本さんに直に会って、一言、直接抗議することですませられる」けど、会えば、ののしりあいにまで発展するかもしれず、迷っているうちに足が遠退いてしまった、と芹沢俊介は書いている。それが吉本さんの娘さんの計らいで亡くなる少し前に芹沢俊介は吉本さんに病院で会えたということである。吉本さんがどうやって芹沢俊介がホスピス運動のようなものに関わってしまっていると判断したかやこの両者の食い違いに、ここではわたしは判定を下そうとは思わない。ただ、芹沢俊介が書いているように目を不自由していた吉本さんだろうが、「妄想」とは思えない。吉本さんはそう捉えたのだということは確かなことであり、芹沢俊介との関わりを「思想的に『進退を共にする』」に近い関係と見なしていたと思われるから、とても残念なことと衝撃を受けたものと思われる。

 付け加えれば、わたしは芹沢俊介の文章をずいぶん読んできてある程度のいい評価を内心で下していた。しかし、別の文章(「『吉本隆明追悼』のひとつから」 2012年5月)で一度触れたことがあるが、吉本さんに後継としての弟子がいるのだろうか(弟子が必要だ)、というような少し思わせぶりの下の芹沢俊介の発言は、わたしを唖然とさせた。自立思想の吉本さんから何を学んできたのかという思いで、わたしには衝撃だった。


 吉本親鸞説というのがあります。現代の親鸞になるためには、吉本さんはまだ何か一個付け加えなくてはならないのです。
 アメリカの9・11について、吉本さんは、加藤典洋さんとの対話で「存在倫理」という考え方を加えました。ただしまだ一個だけかけていました。
 それは親鸞には唯円(親鸞の死後書かれた歎異抄の作者と言われる)がいましたが、吉本さんに唯円がいるかどうか、ということです。
 今回は吉本隆明さんを追悼するおしゃべりでした。
 (「いのちを考えるセミナー 2012年3月21日 芹沢俊介さん講演ーー吉本隆明さん追悼その5――殿岡秀秋筆録」)



(註.1)
吉本さんと川上春雄氏との出会いと交渉から来た川上春雄氏の人物像については、上に触れた「川上春雄さんを悼む」(「ちくま」2001.12)という吉本さんの追悼の文章の方が、わたしたちによりわかりやすく実感的に伝わってくると思う。


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