回覧板

ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

時代劇と宮沢賢治の「猫の事務所」

2021年06月27日 | 批評
 時代劇と宮沢賢治の「猫の事務所」


 しばらく前からテレビでやっている『暴れん坊将軍』や『長七郎天下ご免!』を観はじめて、だいぶんそれらの時代劇に慣れ親しんだ。もちろん、観ているわたしの深みには批評的な視線や感受を持っているのだが、それは置いても観る者を楽しませる作りになっているなと感心する。観ていると次第にドラマの世界や登場人物たちになじんでいく。

 ケーブルテレビを契約していて時代劇専門チャンネルを観ることができるので、最近では、そのチャンネルの時代劇もいくつか選んで観ている。そうではない作品もあるが、貴人や権力を持っている者が社会に横行する悪行を成敗するという物語の構成が目立つ。これは、わが国の大衆の政治意識や社会意識の有り様と対応する物語の構成や表現である。

 例えば、『水戸黄門』も『暴れん坊将軍』も、将軍や将軍に近い存在が、幕府の政治・行政機構とは直接関わりなく、私的に巷の悪行を裁くという物語になっている。はっきりと善と悪に分離された物語世界で、こういう貴人(ヒーロー)が悪をやっつけるということに民衆が声援を送ったり拍手喝采するのはわかるような気がする。また、藤田まことが演じる「必殺仕事人」シリーズも昔観たことがある。これは、この社会で悲劇に死んだ者の代わりにお金をもらって悪行を成した者を暗殺するという裏稼業の話であった。藤田まことが演じる中村主水の表稼業は少しいい加減な同心であり、家庭では婿養子で嫁や姑に軽くあしらわれている。この表と裏の二重性を生きていることは誰しもそんな面があるかなと思わせるものがある。

 わたしたちの生活世界では、家族や人間関係や仕事やあるいは上層から下りてくる政治などで問題がすっきりと解決するということはほとんどない。だからこそ、貴人や裏家業の者たちが問題をすっきりと解決するということはカタルシスになるのだろう。裏を返せば、物語はこの社会の生き難さを浮上させている。

 そんな善悪二元のドラマばかりではない。最近NHKBSのBS時代劇としてやっていた『小吉の女房2』はいい感じの作りだったと思う。勝海舟の父親小吉(古田新太)とその妻(沢口靖子)と小吉の知り合いたちが醸し出すドラマの世界のふんい気が何とも言えず良かった。これには、俳優たちの個性の影響も大きいなと思えた。

 ところで、宮沢賢治に「猫の事務所」という短い童話がある。その猫の第六事務所は猫の歴史と地理をしらべるところで、例えば旅をするため訪れてきた猫には案内をする。猫の事務所には、すべて猫ではあるが事務長と四人の書記がいる。物語の内容は、書記の一人の竈猫(かまねこ)が病気をして休んだ後に事務所に出たら他の書記たちから無視されたりいじめられたりするという話である。

 この童話の末尾は、次のようになっている。


 そしておひるになりました。かま猫は、持つて来た弁当も喰べず、じつと膝に手を置いてうつむいて居りました。
 たうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩(たた)いてはひつて来ました。猫どもの愕(おど)ろきやうといつたらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。かま猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。
 獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要(い)つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
 かうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。
 (「猫の事務所……ある小さな官衙に関する幻想……」宮沢賢治 青空文庫)



 ここでは、唐突に獅子が登場して、おそらく事務所内のいじめ問題への対処として「猫の事務所」を解散させる。これ以前に獅子は登場していないし、獅子についての説明もない。しかし、この獅子は上の時代劇の話で言えば貴人に相当する。同じ動物といっても、獅子(ライオン)は「百獣の王」と呼ばれもする。そんな動物界で頂点に立つものとして獅子は見なされている。事務所の猫たちは獅子の登場を驚き恐れているように描写されていることからもそれは明らかだろう。だから、獅子は「猫の事務所」を解散させることができたのである。この獅子の取った行動は、上の時代劇の話の貴人たちによる社会の問題の解決に対応している。
 
 最後に、語り手が読者に語りかけるように感想を付け加えているが、これは作者の思いでもあると見なしてよいと思う。この部分は、「猫の事務所〔初期形〕」(『新修 宮沢賢治全集 第十三巻』筑摩書房)では次のようになっている。 まず、話の流れの中で、


みなさん私は釜猫に同情します。

みなさん。私は釜猫に同情します。

けれども釜猫は全く可哀さうです。



が三箇所に挿入されている。そして、話の末尾では、「猫の事務所」の「ぼくは半分獅子に同感です。」という一文とは違って、次のようになっている。


 釜猫はほんたうにかあいさうです。
 それから三毛猫もほんたうにかあいさうです。
 虎猫も実に気の毒です。
 白猫も大へんあはれです。
 事務長の黒猫もほんたうにかあいさうです。
 立派な頭を有(も)った獅子も実に気の毒です。
 みんなみんなあはれです。かあいさうです。
 かあいさう、かあいさう。



 語り手が聴衆(読者)に語りかけるのは、たぶんわが国の語りの伝統の流れからきていると思われる。そして、この場合の語り手の感想は、作者の感想と同じと見なせると思う。「猫の事務所」と「猫の事務所〔初期形〕」では、その点では同じである。しかし、前者は、このいじめ問題は猫の事務所内ではどうしようもなく解決しがたいから獅子の判断と行動はやむを得ないが、現場は猫の事務所であり、当事者は猫たちであるから、本来的には猫たち自身で解決すべきことである、という作者の思いから「半分」獅子に同感ですとなったのだろう。後者の「猫の事務所〔初期形〕」は、「かあいさう」や「あはれ」がくり返されていて冗長な印象を与える。そういうことから、推敲された「猫の事務所」では、最後にひと言「ぼくは半分獅子に同感です。」になったものと思う。

 しかし、「猫の事務所〔初期形〕」と「猫の事務所」の作者(語り手)の感想の違いは、それだけではなさそうだ。「猫の事務所〔初期形〕」の方は、センチメンタルな装いをはぎ取ればお経のようにも感じられる。いわば、人間界を超出した仏教的な世界から作者は物語世界を眺めているように見える。一方、「猫の事務所」の方では作者はいじめや争いが絶えないこの人間世界内から物語世界を眺めているように見える。ただ、物語世界内でなんとかいじめの問題の解を与えたいというモチーフだけは両者で同一だと思われる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿