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表現の現在―ささいに見える問題から 27

2018年01月07日 | 批評

 表現の現在―ささいに見える問題から 27
    ―『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』(吉本ばなな 2017年10月)


 物語作品は、いくつもの小さな場面が関わり合いながらひとつの大きな流れを構成していると見なすこともできる。次のような場面がある。



 そして、これほどに頭の中が文系で、船が浮いていたり飛行機が飛ぶことさえも恐ろしいと思っているような平凡な私に、異世界の話なんてお願いだからしないでほしいと思った。
 私にとってはそれは自分に関係あるはずのものではなく、地元に伝わる民話にすぎなかったから。
 こだちが生きているということは心の底でわかってはいた。でもその体が分解されたなどと聞くと、おそろしくてたまらない。あの有名な映画
(註.1)みたいに、戻るときにうっかりハエと混じったりしたらどうしよう、ついそんなことばかり考えてしまう。
 二卵性の双子ではあるけれど、私の体のどこかが彼女とつながっているしテレパシーのようなもので通じている部分がある(今考えると、それこそが私たちがハーフである証なのかもしれない)から、もしもこだちが死んでいたら必ずわかるはずだった。
 それでもこだちが生きているということを他の人の口から(たとえそれがあんな不気味な人たちであったとしても)聞くのはやはり嬉しかった。
 占い師の彼女たちと過ごした時間の、シャープで頭のすみずみまでを使うような感覚と、そのとてつもなく冷たい、情のない感触がまだ心に残っていた。
 それは私がこだちと普通に日常を過ごし幸せだった、何か甘い綿菓子のようなものにふんわりと包まれて安心であった、なにも考えないように努めていたぼやけた時間とは全く違っていた。
 あのひんやりした感触がもし圧倒的な真実の力というものだとしたら、私は自分の人生の中ではそれを否定してきたのかもしれない。
 極端すぎ、純粋すぎて、息苦しかった。
 しかしいつかは自分も真実を生きる世界に近づいていくだろうことが、さっきのセッションのおかげではっきりと予感できた。
 顔を上げて冷静に見ると、彼女たちの言う通り確かに街は変化していたからだ。
 (『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』 P66-P67 吉本ばなな 2017年10月)

 (註.1)
『ザ・フライ』 (The Fly) は、1986年のアメリカ映画。1958年に公開された同名の映画(邦題は『ハエ男の恐怖』)のリメイク作品。(ウィキペディア「ザ・フライ」)その「ストーリー」もここに紹介されている。



 これは、双子の妹の「こだち」が姿を消した後、姉の「ミミ」(語り手)は一風変わった占い師を訪ね、その占い師の家を出た後の場面である。その占い師から、交通事故で亡くなった父親は地球人で目下眠り続けている母親は異世界人であり、その子のこだちやミミは地球人と異世界人とのハーフであることを教えられる。そして、ハーフゆえにこだちやミミは異能を持つことになる。また、ミミの将来や失踪した妹こだちがこの一話の終わり辺りで発見されるが、その発見の場面も予言される。

 ここでまず触れてみたいのは、この場面の(註.1)に記したような映画の場面が登場することである。『ザ・フライ』 はわたしは観ている。後にもいくつか同様のものが登場する。これらをもし知らないなら、それぞれの箇所がよくわからないもやに包まれることになる。こういうことは日常での会話でも起こりうることである。触れられたり引用されたりしたことがまったく不明なら何を相手が言っているのかわからないという場合もありうるだろう。しかし、この物語作品を味わう上ではほとんど差し障りになることはないような気がする。ただ知っていたらその表現のイメージがより鮮明になるのは確かである。

 次に、『ザ・フライ』からの引用などを作者の固有の体験から来る固有の出来事やイメージの喩とみなすと、今度はよりもやに包まれたような不明のイメージや意味を放ってくるかもしれない。しかし、現在を生きるわたしたちは、現在という共通のイメージ(「マス・イメージ」)の土台の上に、あるいは現在という共通のイメージの精神的な大気を呼吸しながら、ひとりひとりが固有の色合いを放っている。そのひとりひとりの固有性は、時代のマス・イメージと接続(親和であれ異和であれねじれであれ)されているから、いくらかの作者にまつわる不明を抱くことがあっても、作品世界に入り込んで行けるのである。

 ところで、「あとがき」で作者が触れているが、この作品は今までの作品世界と違って、異世界や異世界人や異能などが登場している。初めはそのことにずいぶん異和感を持ちながら読んでいった。しかし、この作品の終わり辺りに来るとずいぶんその作品世界の風景に読者としてなじんできたと思う。それはちょうど、『スタートレック』の場合に似ている。 アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズ ―わたしにとって特に印象深いのは、ピカード艦長率いるエンタープライズ号の『新スタートレック』 ―で、様々な異星人が登場して、初めのうちは面食らったけれども、ああこれは外国人と見なせばいいのだろうと思って割と自然なものと感じるようになったことがある。

 この作品は、まだ始まったばかりで次に続いていくようである。この一巻での感じでは、それらの道具立ては、母と子は言葉によらないでも胎内生活から引き継がれた「内コミュニケーション」によって気持ちや意思を交わし合うことができると言われているが、作者と読者とがその「内コミュニケーション」が相互に取れるようなものとして、そのファンタジー世界のような道具立てが貢献しているように見える。そこでの重要な要素は〈察知〉ということだと思う。

 また、「あとがき」にも以下と同様のことを作者は記しているが、よりまとまっているこの本の帯の方の作者の言葉によると、



 この物語は、五十年かけて会得した、
読んだ人の心に命の水のように染み込んで、
魔法をもたらすような秘密の書き方をしています。
もしよかったら、このくせのある、
不器用な人たちを心の友にしてあげてください。
この人たちは私が創った人たちではなく、
あの街で今日も生きているのです。




 たぶん、物語の推移する起伏よりも、このような言葉の流れ放ちこそが、この作品の生命の主流だと思われる。木材で器を作る職人さんでも「五十年」もやっているとどうやれば思うように削れるかなどがよくわかっているだろう。言葉の表現でもそういうことができるのである。いずれに対しても、そういう地平に立って同様のことをするには同じような修練を積むほかない。ただ、それらの地平から見えたり感じたりするものを「感じ取る」ということは、自分の生きてきている時間を研ぎ澄ませば可能であると思われる。実際、その「魔法をもたらすような秘密の書き方」をしている部分をわたしはチェックしてきた。

 この物語世界の登場人物である「この人たちは私が創った人たちではなく」というのは、事実に反してはいる。たしかに作者があるモチーフの下に、登場人物たちを物語り世界に呼び寄せ、登場人物の性格含めて造形してきたのである。しかし、作者がここで語っているのはそういう当然のことではない。たぶんそれは作者によって理想化されて抽出されているはずであるが、この世界で優れてすばらしい魂を持って日々生きている人々の存在が、作者の言葉を突き動かすように訪れてきたのだということを語っているように思う。したがって、作品の言葉は、この現実の小社会に生きて在る魂に触れているのだと思う。



 間違えたターゲットを狙い続ける自動人形、それらはあの占い姉妹と同じくらい切ない存在に思えた。
 じゃあお前の存在は切なくないのか?と私は私に問う。
 私は切なくない、と私の心の奥底は答えた。
 私は愛されて育ってきたし、いつもこだちがいたし、今もここに生きていて、どんどん軽くなっていっている。まるでこの墓場に吹く風のように自由だから。
 彼らは永遠に捕らえられているからこそ、どこかしら切ないのだ。勇も切ないし、住職も切ない。彼らがまだやってきた世界の姿をとどめているから、あんなでかい図体でもいまだに自由に物事を見聞きできないなんて。
(『同上』 P172-P173 )




 ここには、「この墓場に吹く風のように自由」な言葉と、もう終わってしまった過去、旧世界に「永遠に捕らえられている」言葉とが、対比的に表現されている。しかし、それらは対立的ではなく、「この墓場に吹く風のように自由」な言葉からは、「切ない」と捉えられている。たぶん、この視線は、この作品に自らのモチーフを込めた作者の視線と同一だろうと思う。この作品の対比と同じような構図を持つ、このわたしたちの現在に、作者のモチーフは「この墓場に吹く風のように自由」な言葉の流れを生み出し、それら相互の「内コミュニケーション」を、作品世界で実現しようとしているように見える。

 最後に、この作品を読みながら、昔の少女漫画のような、どこかぎこちない、素人のような表現の流れを感じたことがある。これはたぶん、この作品が、日々のこまごまとして具体を生きる人間の基層的な心や言葉の場所や流れを対象とし、すくい上げようとしているからではないか。そのような視線や言葉は、決して饒舌でも流ちょうでもスマートでもないからだ。


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