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「ネトウヨ」考 (1)

2018年03月13日 | 批評

 「ネトウヨ」考 (1)

 


 「ネトウヨ」は、「ネット右翼」の略だろうが、ネトウヨには軽蔑的な意味合いも込められている。一方、ネトウヨは、自分に反対するものは何でもかんでも左翼(「パヨク」)と呼ぶ。また、全部が全部とは言わないが、ネトウヨの大将を初めとしてよく嘘をつく、事実をねつ造する。生活世界では普通を装って暮らしているのかもしれないが、このような者たちの登場はわたしの想像外にあった。

  わたしも軽蔑を込めたものとして使っている。なぜそうなのかははっきりしている。わたしは生存感覚として、自己を放棄して何か大きなものにすがりついたり、その虎の威を借りて自分を強く見せようとすることが大嫌いだからである。これを理屈づけして言えば、現実の具体性を持った日々生活している他者(翻って自己)を虚構のイデオロギーやイメージで裁断する。憎悪をまき散らす。そのような存在を許すことはできない。

  このような存在が、清濁併せ持つ生身の具体的なひとりとひとりの人間存在を、他者を、ということは翻って自分を、大切にできるはずがない。こうした人々が学校のクラスの話し合いや町内の話し合いでそのままで話が通じる相手にはなれないのは明らかである。普通の話し合いでは仕方ないなとか思いつつもだいたい八割程度の人々が受け入れるような結論に落ち着く。しかし、「ネトウヨ」がそのままの形で話し合いに入ったら、話し合いそのものが成り立たないと思える。「ネトウヨ」というこの新しい事態について少し考えてみたい。

  まず、わたしは「左翼」も「右翼」もソ連崩壊後は死んで亡霊になっていると思うから認めない。もちろん、現実性を持たない思い込みの亡霊としては認めよう。なぜこういうことを断るかと言えば、相変わらず「左翼」や「右翼」という対立に持ち込むことによってこの社会に湧いてくる問題の本質が隠されてしまうからである。だから、わたしはいくらか問題性を含むかもしれないとしても、つまり、そういう立場が矛盾を呼び込むかもしれないとしても、徹底して生活世界の中にこだわるし、その外の他国との外交や「安全保障」などにはほとんど興味・関心はない。すなわち、外国に住むわたしたちと同様の地域住民の生活ぶりやその風俗習慣などには強い関心を持っているが、わたしたちの日々の生活に直接関わってこない、国家組織としての外国などにはほとんど関心がない。それはもう、ほんとうにそうとしか言えない。ただ自分より遠いところにあるというだけで、それに対して知的な興味や関心を持つということがわたしにはほんとうにないのである。

  他国との付き合いは、担当機関や政府ができるだけ平等に、互恵的に、うまくやろうと努力すればいいさぐらいで、わたし自身はあまり考えないことにしている。あるいは、「左翼」も「右翼」も存在として認めたとしても、わたしたちが生活世界に降り注ぐ諸問題を生活者としての視点から考える場合には、「左翼」も「右翼」も「知識人」も、さらには課長も社長も、あらゆる立場や肩書きのその上着を脱いで、ただの生活者として登場しなくてはならないと思う。これは、どれほど現実的な有効性があるかはわからないけれど、また、建前としては受け入れられやすいかもしれないけれど、無用なイデオロギーなども絡む対立や閉鎖性を避けるためのわたしなりの現在的な処方箋である。

  問題の本質とは、わたしたちが、この社会に個として、家族として、あるいは共同のつながりとして日々生活している中で、それらの生活を阻害(そがい)するように問題化してくることにある。そして、それらの諸問題は、各地域の行政や中央の政治・行政が、きちんと対応できているならわたしたち生活者住民としては文句はない。平穏な日々の生活こそが一番なのだ。したがって、イデオロギー(集団思想)を身にまとわずとも、この社会内に日々生きて問題も感じている自分の頭で考えれば良いことである。しかも、イデオロギー(集団思想)を身にまとえば、社会の具体性を超えたものを呼び込むことになる。現在のところイデオロギー(集団思想)は、誰もがそう考えるほかないというひとつの普遍思想(宮沢賢治のイメージした「ほんたうのこと」)ではなく、いずれも局所把握的であり、それぞれが対立的な形でしか存在できない。

  イデオロギーの良し悪しは別にして大まかに捉えれば、現在の社会の動向から退行しようとするか、社会の動向を前に推し進めようとするか、このふたつの傾向性がある。しかも、いずれも普遍性を装っても局所的、局所利害的(一部の層の利害追究)であるほかない。そして、イデオロギーというモビルスーツを身にまとうと、人は生活世界を抜け出してしまう。感情も硬直する。血は流れていてもいわば亡霊のような抽象的な存在になってしまう。日常の生活感覚や内省を遮断してしまう。新たに登場したネット社会を背景に、そのように振る舞う存在がいる。わたしは、このような存在を指して、「ネトウヨ」と定義する。「ネトウヨ」は「ネット右翼」の略称と見なされているが、もっと拡張された存在として捉えることができると思う。すなわち、生活の具体性を拭い去り抽象化された匿名的な存在として振る舞う、ネット社会を背景とした存在である。このような抽象的な存在は、国家とかイデオロギーともオタク趣味の延長のようにして容易に結びつく。たぶん、自己の万能感とまでは言わないが、卑小な日々の自己の拡大・拡張感を感じていることは確かであろうと思う。

  そうしてわたしは、そのような「ネトウヨ」は、「ネット右翼」だけに限らず、この新たなネット社会がわたしたちにもたらした利便性や世界の拡張の裏に張り付いた問題性として、誰もが「ネトウヨ」性を免れられないと感じている。


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