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スイーツの話

2020年11月07日 | 批評
 スイーツの話 



 スイーツという言葉と食べ物がある。今では社会に定着した言葉や食べ物となっている。この言葉が生まれ風俗として浸透しはじめたのは近年だという印象がある。調べてみると、


1.「スイーツ番長」より
「キャリアとケッコンだけじゃ、いや。」という大胆キャッチコピーで、昭和63年に世に出た女性向けの雑誌は「Hanako族」という社会現象を生み、翌年の平成元年の流行語大賞に「Hanako、Hanako族」が選ばれるほどでした。ケーキ、チョコ、アイス、デザートなど全てを「スイーツ」と最初に称したのが「Hnako」。まさに平成はスイーツと共に始まったのです。


2.「ヤフー知恵袋」より
スイーツって、誰が最初に言い出したんですか?

日本で使われるようになったのは1990年代からですね。 2005年には女性週刊誌を中心に頻繁に使われるようになって、市民権を得た感じですね。 本来はイギリス英語での甘いお菓子を意味しています。 昔からあった語彙です。 有名なとあるパティシエが子供のケーキと差別化して大人の雰囲気を演出するために使い始めたそうです。 色々なお菓子に使われるようになって、いつの間にかスイーツというカテゴリーが出来た感じですね。 もし見れたらこれも参照してください。
http://zokugo-dict.com/13su/sweets.htm 日本語俗語辞書

 日本語俗語辞書より
『スイーツ』の解説

スイーツとはケーキやプリンなど甘いお菓子のことで、英語(イギリス圏)で甘いデザート・お菓子を意味する"sweet(米語ではdessert)"からきたカタカナ英語である。
日本でのスイーツは当初、有名店のパティシエによる高級洋菓子など子供のお菓子と区別し、大人が味わって食べるお菓子という意味で使われていた。2005年に入ると女性雑誌を中心にスイーツがブームとなる。 このブームによりスイーツという言葉が普及していく中で、国内の菓子メーカーもスイーツ・ブームに参入。「お手軽スイーツ」や「和風スイーツ」といった形でスイーツは甘いお菓子全般を意味する言葉となる。



 ある物を発明した人は誰かとかいうこと違って、流行語の始まりと同じようにものごとの発生点を突きとめようとするとあいまいさが伴う場合がある。雑誌の命名が先か店での命名と製造が先か二つの引用からははっきりしないところがある。それはともかく、「スイーツ」は1990年代頃から始まったもので、言葉やイメージとして英語起源ということになる。そうして、そのスイーツの波はどんどん進んで例えば「和風スイーツ」というように、従来のものをそのままの形としてではなく新たな形やイメージとして「スイーツ」に取り込んできているようだ。「スイーツ」の定着と深まりである。

 わが国の社会にはスイーツ以前にも同様な甘い菓子類はあった。スイーツ以前には、大きなくくり方で言えば、和菓子と洋菓子、その下の饅頭やケーキなど具体的な名前と食べ物があった。それなのになぜ、「スイーツ」という新しい名前を必要としたのだろうか。

 吉本さんは、いろいろ分析・検討した結果この社会の最大の転換点を一九七三年から、七四年、七五年の三年間に見定め(1990年9月14日の講演「日本の現在・世界の動き」、 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15)、そこから一九八〇年代に天然水が初めて商品として売り出されるようになったことに象徴される社会を「消費資本主義」 (註.1) と呼び、この社会が新たな段階に入り込んだと分析した。それに関わることでいえば、


吉本 僕は、日本が六十年代から八十年代までの、どっか中間のある所で、かなり急速に西欧型先進資本主義社会に転換していったということは、重くみる方ですけどね。〈アジア的〉な農耕社会の残存物というものは、専ら我々の意識構造、特に意識の共同性の面において、現在でもかなり残存していると思います。そして、僕は、〈アジア的〉ということについては、西欧的な先進性が入ってしまった日本とは、楕円の軸のように二つに重ならない軸をもって、その両方で回っていて、どっかで重なる部分があって、そして重ならない部分もあるというような、そういうモデルが一番いいと思ってますがね。
 (「万博マス・イメージ論」P61 『筑波學生新聞』1986.1.10、 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15)



 このことは、わが国が欧米の先進諸国同様に第一次、第二次産業中心からサービス産業が経済社会の主流となり、消費中心の「消費資本主義」の段階に入り込んでいることと関わっている。そうしてそれは、わたしたちの意識、社会性において、〈アジア的〉な農耕社会の残存物がより薄れ、西欧的なものがより深まってきた事態にあることを示しているように思われる。

 吉本さん自身も上の「日本の現在・世界の動き」で語っているが、こうした大規模な社会の転換の徴候はいろんな所に現れるはずである。「スイーツ」の出現もそのひとつではないだろうか。

 「スイーツ」の出現は、吉本さんがこの社会の最大の転換点とした一九七〇年代前半よりだいぶん遅れているが、社会の変貌は一気にではなく徐々に波及・浸透していくものだろう。この「スイーツ」も消費中心の「消費資本主義」の段階に入り込んだという社会の転換の徴候を示していると思われる。

 慌ただしい日々の中のくつろぎや知り合いや恋人とのかたらいの場で、「スイーツ」を仲立ちとして人々は楽しみやくつろぎのイメージに彩られてあるのだろう。

 また、ペットボトルのお茶の出現と普及も近年だったような気がする。わたしもそうしたペットボトルの濃い味のお茶をよく飲んでいる。テレビの場面や現実の話し合いの場で見かけたことがあるが、昔なら主に女性のお茶の係の人がひとりひとりに注いで回らなければならなかったことが、ちいさなペットボトルのお茶の出現によって、そうしたことが無用になっている。しかも、ペットボトルのお茶は、各社の競争もあって、消費者の欲求に応えるように日々研究開発に力を入れられているように思う。こうした、小さな新たな事態の総和が、現在の消費中心の「消費資本主義」の段階を構成しているが、それぞれが従来の社会の有り様に変革を自然な形で加えているように見える。

 このようにわたしたちは、社会の大きな転換の中、そこから生まれ波及してくるものは、例えば産業的時間の速度や密度の増大とともにうつ病の増大が出てきているなど良いことばかりではないが、良いと感じ思えるものは「スイーツ」やペットボトルの飲料のように、わたしたちは享受しているのである。初めは、好奇心やはやる心があったかもしれないが、次第に自然なものと受けとめられるようになり社会内に定着していく。


(註.1)
「消費資本主義」について

ぼくなどは、「消費資本主義」ということばで呼んでいますが、その消費資本主義というのは産業経済学からみた産業とか生産とかの段階の概念です。資本主義の産業経済的な最高の段階、あるいは産業が爛熟し老境に入った段階といいましょうか、そういう社会を指して、消費資本主義社会というふうに呼んできました。そして現在、消費過剰の資本主義段階に突入してしまっている地域は、第一にアメリカであり、第二にECの先進国がそうであり、そして第三に日本の社会だというふうに認識できます。
 消費資本主義の概念は、どういうことで定義したらいちばん考えやすいか、ひとつは個人所得を例にとってみます。それは平均の働く者の所得のうち半分以上が消費に使われている社会のことです。もうひとつは、消費支出のうちまた半分以上が選んで使える消費になっていることです。つまり、個人支出でいえば、個人がそれぞれ自分の自由に選んで使える消費が半分以上になっているような社会です。この二つの条件を満たす社会を消費資本主義社会と呼ぶとすれば、そういう段階に、現在、日本なんかは入ってしまっています。
       (J.ボードリヤール×吉本隆明『世紀末を語る』-あるいは消費社会の行方について より P47 1995年6月)

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