メモ2022.3.15 ― 〈存在倫理〉の自然な発動
「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」も、最近は、当然のことだろうが、ロシアの侵略下にあるウクライナのことにも触れている。しかし、毎回触れても仕方がない。この「仕方がない」は、微妙な言葉だ。遠い遙かな戦火に襲われている地の生活の〈現場〉とこちらの生活の〈現場〉。人としての生活の〈現場〉の同質性はありつつも、目下、異様な違いがあり、そのことがわたし(たち)にもある言葉には言い表しようもないような思いを喚起している。
それを固い言葉、概念でいえば、吉本さんが考え出した〈存在倫理〉という問題である。人は、この世界に存在するだけで他の誰かに影響を与えるし、誰かから影響を受け取る、それは見えない波動のようなものだろうか、そこで人に湧き上がってくるのが〈存在倫理〉とも呼ぶほかない感受や気づきなのだと思う。それは、言葉や論理にうまくなれない、言葉や論理の基底にあるもので、人がひとりとしてこの世界内に存在している時に、他者に向かって無意識のように発する、あるいは、他者から発せられたのを無意識のように受けとめる、存在の波動の位相を〈存在倫理〉ということができる。この〈存在倫理〉という位相は、わたしたちにはなじみのある感情や感じとして日々現れてくるものであるが、人間のはじまり以前から来ているもので、遙か人間のはじまりから、人間の基層的なところに保存されてきたものだと思われる。
この〈存在倫理〉の位相からわたしたちに湧き上がってくるものは、他者の苦しいこと悲しいことばかりではない、楽しいこともうれしいことも、わたしたちの〈存在倫理〉の位相からの、(それはつらいね)や(それはいいね)などの感受や意識のようなものを発動させる。直接に相手に語りかけたり援助したりできる機会が訪れることもあるかもしれないが、それがなくても、我知らずわたしたちの〈存在倫理〉の位相から発動してしまうということが、人間的なというほかないものなのである。すなわち、そのことに人間社会の〈倫理〉はあまり関係しない。人間の基底から我知らず発動する自然性だからである。
わたしたちは、それぞれの現場を日々生きている。そうして、自分の生活の現場こそが重力の中心となっている。しかし、身近な縁者が困っていたら自然と援助することもあるだろう。無惨な野良ネコの様子を知ったら心痛むかもしれない。また、手の届かない遠くに生きている人で戦火や貧困に苦しんでいる人々に悲しい思いをするかもしれない。これらの思いには、人間の〈存在倫理〉の位相からの自然な発動と人間界で身に着けた〈(生活)倫理〉からくるものとが織り合わさっているのかもしれない。
わたしたちは、自分の生活の現場こそが重力の中心となっている。それでも、他者のことを思ってしまう存在である。しかし、わたしたちが、困っている他者を何とかしてやりたいと思ってもどうすることもできないのが普通である。最初に述べた「仕方がない」は、そのことを指している。その思いと共にその他者の状況を自分の(生活)思想の中に繰り込んでいけばいい。それが、人それぞれがひとりひとり生きながらつながっているという意味であろう。そうして、そのような人の波動の積み重ねが人間の歴史の無意識のようなものを駆動しているように感じられる。
ところで、次の糸井重里の文章は、毎日ホームページに書かれている「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」の昨日の全文である。
目下進行中の戦火のウクライナやウクライナの人々やロシアの人々についてはどこにも書かれていない。しかし、そのことははっきりと書かれているし、吉本さんが発掘した人間の〈存在倫理〉の位相からの発動が行間に滲(にじ)んでいる。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン
・毎日、うっかりしてると同じことを書きそうになります。
同じようなことを思ったり考えたりしているのだし、
同じことをつい言いたくなるのは当然なのですが、
書く方も読む方も、それはうれしいことじゃありません。
いろいろ照明を変えて同じことを言ってますが、
そこから逃げるわけにもいきません。
逃げるのではなく、同じことを書かないようにしてみます。
小さそうなことを書きます。
知っている人の家族だった犬が亡くなりました。
そのコには何度も何度も会ったことがあります。
ほんとうに大事にしていたのを知っています。
家族のようなというより、家族そのものでした。
というか、家族の絆というものが目に見えるとしたら、
きっとこの犬のかたちをしていると思うんです。
しばらく前に病気のことがわかって、
せいいっぱい付き合ってやりたいと言ってましたが、
思ったより早くにお呼びがかかったようです。
三月というと、ぼくにとっても犬と別れた月でした。
今日くらいの日付だと、もう入院していた時期で、
あと1週間くらいのところで息をひきとりました。
小さそうなことです、10キログラム程度の重さですし。
もっと大変な思いをしてる人はいっぱいいる。
ずっと大きな悲しみもたくさん知っているのですが、
それはそれとして、知ってる犬が亡くなりました。
たぶん、あのご夫婦のこころには、穴が開いてるはずです。
さらに小さそうなことを書きましょう。
気仙沼ではじめて行った場所がありました。
うちが「たまご」を買っている「ファーム」です。
そこでいわば「放牧」されているニワトリを見ました。
ヤギもいる草っ原があって、そこに小屋が建っています。
その小屋の棚みたいなところで、たまごを生むんです。
たまごを生まないけど何羽かのおんどりもいます。
だから、ここのたまごはかなりの確率で有精卵らしいです。
日産300個かな、かなり生産性の低い「ファーム」です。
とても小さいはなしなんですが、ぼくは生まれてはじめて、
「ニワトリかわいいな」と思ったんですよね。
こんなことも、3月のある日に思ったことのひとつとして、
ここに書いておこうかなと…。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やってること、考えてること、希望、止めないでいましょう。
(『ほぼ日刊イトイ新聞』2022.3.14)
「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」も、最近は、当然のことだろうが、ロシアの侵略下にあるウクライナのことにも触れている。しかし、毎回触れても仕方がない。この「仕方がない」は、微妙な言葉だ。遠い遙かな戦火に襲われている地の生活の〈現場〉とこちらの生活の〈現場〉。人としての生活の〈現場〉の同質性はありつつも、目下、異様な違いがあり、そのことがわたし(たち)にもある言葉には言い表しようもないような思いを喚起している。
それを固い言葉、概念でいえば、吉本さんが考え出した〈存在倫理〉という問題である。人は、この世界に存在するだけで他の誰かに影響を与えるし、誰かから影響を受け取る、それは見えない波動のようなものだろうか、そこで人に湧き上がってくるのが〈存在倫理〉とも呼ぶほかない感受や気づきなのだと思う。それは、言葉や論理にうまくなれない、言葉や論理の基底にあるもので、人がひとりとしてこの世界内に存在している時に、他者に向かって無意識のように発する、あるいは、他者から発せられたのを無意識のように受けとめる、存在の波動の位相を〈存在倫理〉ということができる。この〈存在倫理〉という位相は、わたしたちにはなじみのある感情や感じとして日々現れてくるものであるが、人間のはじまり以前から来ているもので、遙か人間のはじまりから、人間の基層的なところに保存されてきたものだと思われる。
この〈存在倫理〉の位相からわたしたちに湧き上がってくるものは、他者の苦しいこと悲しいことばかりではない、楽しいこともうれしいことも、わたしたちの〈存在倫理〉の位相からの、(それはつらいね)や(それはいいね)などの感受や意識のようなものを発動させる。直接に相手に語りかけたり援助したりできる機会が訪れることもあるかもしれないが、それがなくても、我知らずわたしたちの〈存在倫理〉の位相から発動してしまうということが、人間的なというほかないものなのである。すなわち、そのことに人間社会の〈倫理〉はあまり関係しない。人間の基底から我知らず発動する自然性だからである。
わたしたちは、それぞれの現場を日々生きている。そうして、自分の生活の現場こそが重力の中心となっている。しかし、身近な縁者が困っていたら自然と援助することもあるだろう。無惨な野良ネコの様子を知ったら心痛むかもしれない。また、手の届かない遠くに生きている人で戦火や貧困に苦しんでいる人々に悲しい思いをするかもしれない。これらの思いには、人間の〈存在倫理〉の位相からの自然な発動と人間界で身に着けた〈(生活)倫理〉からくるものとが織り合わさっているのかもしれない。
わたしたちは、自分の生活の現場こそが重力の中心となっている。それでも、他者のことを思ってしまう存在である。しかし、わたしたちが、困っている他者を何とかしてやりたいと思ってもどうすることもできないのが普通である。最初に述べた「仕方がない」は、そのことを指している。その思いと共にその他者の状況を自分の(生活)思想の中に繰り込んでいけばいい。それが、人それぞれがひとりひとり生きながらつながっているという意味であろう。そうして、そのような人の波動の積み重ねが人間の歴史の無意識のようなものを駆動しているように感じられる。
ところで、次の糸井重里の文章は、毎日ホームページに書かれている「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」の昨日の全文である。
目下進行中の戦火のウクライナやウクライナの人々やロシアの人々についてはどこにも書かれていない。しかし、そのことははっきりと書かれているし、吉本さんが発掘した人間の〈存在倫理〉の位相からの発動が行間に滲(にじ)んでいる。
糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン
・毎日、うっかりしてると同じことを書きそうになります。
同じようなことを思ったり考えたりしているのだし、
同じことをつい言いたくなるのは当然なのですが、
書く方も読む方も、それはうれしいことじゃありません。
いろいろ照明を変えて同じことを言ってますが、
そこから逃げるわけにもいきません。
逃げるのではなく、同じことを書かないようにしてみます。
小さそうなことを書きます。
知っている人の家族だった犬が亡くなりました。
そのコには何度も何度も会ったことがあります。
ほんとうに大事にしていたのを知っています。
家族のようなというより、家族そのものでした。
というか、家族の絆というものが目に見えるとしたら、
きっとこの犬のかたちをしていると思うんです。
しばらく前に病気のことがわかって、
せいいっぱい付き合ってやりたいと言ってましたが、
思ったより早くにお呼びがかかったようです。
三月というと、ぼくにとっても犬と別れた月でした。
今日くらいの日付だと、もう入院していた時期で、
あと1週間くらいのところで息をひきとりました。
小さそうなことです、10キログラム程度の重さですし。
もっと大変な思いをしてる人はいっぱいいる。
ずっと大きな悲しみもたくさん知っているのですが、
それはそれとして、知ってる犬が亡くなりました。
たぶん、あのご夫婦のこころには、穴が開いてるはずです。
さらに小さそうなことを書きましょう。
気仙沼ではじめて行った場所がありました。
うちが「たまご」を買っている「ファーム」です。
そこでいわば「放牧」されているニワトリを見ました。
ヤギもいる草っ原があって、そこに小屋が建っています。
その小屋の棚みたいなところで、たまごを生むんです。
たまごを生まないけど何羽かのおんどりもいます。
だから、ここのたまごはかなりの確率で有精卵らしいです。
日産300個かな、かなり生産性の低い「ファーム」です。
とても小さいはなしなんですが、ぼくは生まれてはじめて、
「ニワトリかわいいな」と思ったんですよね。
こんなことも、3月のある日に思ったことのひとつとして、
ここに書いておこうかなと…。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やってること、考えてること、希望、止めないでいましょう。
(『ほぼ日刊イトイ新聞』2022.3.14)