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詩の入口から ② ― 〈自己慰安〉としての〈歌〉

2021年12月19日 | 詩の入口から
 詩の入口から ② ―〈自己慰安〉としての〈歌〉


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 昔、NHKのテレビで観た。中国の辺境の地に住むひとりの心優しそうな青年が、父親の時と同じようにずいぶん遠く離れた所まで出かけて、たくさんの男女が集まる場で嫁探しをすることになった。知り合いに助けられたりしてその青年はひとりの女性と出会えた。その女性をはるばる自分の家まで連れて帰る道中で、ひと休みの時だったかその女性が道端で相手の青年を思う歌を披露していた。現在では文学という視線で見られる専門歌人が普通になっているが、そのような専門歌人が生まれる以前は、もちろん以後でも、大衆の世界では〈歌〉は、一定の受け継がれた形式があったろうが、こういうものとして歌われていたんだなと思った。そのような〈歌〉は、お祭りや結婚式などこういう特別の時に歌われていたものだろう。

 わたしたちは、もはや好きな相手のために〈歌〉を歌うということは一般にしない時代に生きている。しかし、歌自体は、次々に作られ歌われ聴かれている。聴く者にとって〈歌〉は深くこころ揺さぶるという点は、おそらく太古も今もそんなに変わっていないと思われる。そうして歌を聴く者にある内省をもたらすだろう。吉本さんは、若い頃の詩『日時計篇』あたりからすくなくとも壮年の、詩集『記号の森の伝説歌』を出した頃までは、〈自己慰安〉としての〈歌〉ということをとても意識していた詩人である。そんなにも長く持続しているから〈自己慰安〉としての〈歌〉は、磨き上げられ深められてきた吉本さんの生涯のモチーフと見て間違いないと思う。〈自己慰安〉ということは、以下の引用でも吉本さんが誤解されやすいと語っているが、新たな概念の言葉をいくつも作ってきた吉本さんでも苦労して、ぴったりとしたいい言葉を思いつけなかった。残念なことではあるが、これはこの列島の文化や日本人の意識や日本語の有り様のせいと言うほかないという気がする。

 吉本さんは〈歌〉を、ということは文学を、どのように捉えていたか。


 フーコーというフランスの哲学者がいます。彼は、ぼくの言う「自己慰安」に似た意味合いのことを、「自己への配慮」という言葉で表現しています。
 自分を尊重すると言っても利己主義ではなく、社会的な意味合いを含んだ自分とのつき合い方とでもいうのでしょうか。自覚とか責任とか、そういうものを含めて、一個人としての自分に向き合い、大切にすることを「自己への配慮」と呼んでいるのです。
 これは日本語ではなかなか説明しにくい概念です。ぼくは「自己慰安」という表現を使いますが、そうすると、自分をなぐさめるだけでいいのかということになって、誤解されてしまいます。もっと、内省とか、社会との関わりとか、そういうものを含んだ概念です。
 皆さんの中に、自分は心が傷ついている人間だという自覚がある人もいるかもしれません。そういう人は、この「自己慰安」、あるいは「自己への配慮」ということを頭の片隅においておくといいと思います。
 ぼくは、文学や芸術というものの起源は、この「自己慰安」なのではないかと考えています。
 つまり、赤ん坊のときに母親から十分に可愛がってもらえず、そのためにいつも心が不安定だったりする人が、自分をなぐさめるために行うのが文学や芸術ではないかということです。
 なぜそう思うかというと、ぼく自身がもともと、自分をなぐさめるために文章を書き始めたからです。最初は日記とか、詩のようなものでした。
 ぼくもまた、育てられ方に問題のある、心が傷ついた子どもだったと思います。
 (『13歳は二度あるか』P134-P135 吉本隆明 大和書房 2005.9.30)



 〈自己慰安〉は、吉本さん自身も別の所で語っているが、吉本さんの若い頃はまだ文字通りの意味が中心で、不安を抱えたり傷ついたりした心を慰めるということが中心だったように見える。詩『日時計篇』以前がその時期に当てはまる。毎日のように持続的、自覚的に詩が書かれた『日時計篇』、そこから詩集『固有時との対話』や『転位のための十篇』へと引き絞られていく表現の過程では、「自分をなぐさめる」ということを含みつつもより「内省とか、社会との関わりとか、そういうものを含んだ概念」へシフトしてきている。これは、上で語られているような自己慰安の場所であり、〈自己慰安〉としての〈歌〉である。ただ、歌と言っても、歌謡曲は別にして、書き言葉の世界が話し言葉の世界と両立し、黙読が主流になってしまったのと対応するように、高度に複雑化した世界の渦中の詩の世界も黙する歌、自分の内なる心の川や海を流れる歌になってしまった。

 吉本さんの説明を受けて考えれば、〈自己慰安〉とは、この社会や世界の中で日々生きていく自分が、社会や世界との関係の中で傷ついた心を慰めたり、そういう自分の位置を推し量ったり内省したりすることであり、文学の世界に拘わらず、この世界を生きている誰にとっても当てはまる言葉ではないか。意識的であれ無意識的であれ、人は十全に生きたいと願う存在だと思われるからである。

 文学の世界で、こういうふうに〈自己慰安〉としての〈歌〉と捉えるならば、吉本さんの詩≡〈歌〉は、現在的なものとしてわたしたちが共有できるような気がする。もちろん、詩が心や内面の表現というより知のアクロバットの表現を楽しむでもいいけど、それでさえもこの〈自己慰安〉に含まれる。人は、なぜ文学や芸術の表現世界に入り込むのか。最初は、偶然のきっかけからとしても、次第に〈自己慰安〉としての〈歌〉を歌うようになる。例えば、詩も具体的な手仕事から成るものではあるが、その過程にはこの社会や世界で十全に生きたいという願望が絶えず潜在しているはずだ。その欲求の詩的(文学的)表現を、〈自己慰安〉としての〈歌〉と呼ぶことができる。それはまた、大いなる自然(宇宙)である人間世界を超えたところを含めて言えば、この不可思議な世界で、人が生きている意味に触れようとする欲求の表現であるとも言えそうな気がする。

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 次のような詩がある。

 仕事

丸太足場の上から
見下ろすと
高さは足下にあった
 (詩集『ある手記』 松岡祥男、『意識としてのアジア』所収 1985年)



 このような短い詩ということで、わたしがすぐに思いつくのは、吉本さんが取りあげた吉田一穂の「母」、伊東静雄の初期作品「空の浴槽」である。


あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景……

悲しみの彼方、母への
捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)。
 (吉田一穂「母」)
 ※「枕詞の話」より引用、吉本隆明『言葉という思想』所収


午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白鹽(えん、引用者註.「白塩」か)の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。
  (伊東静雄「空の浴槽」)



 いずれも短い詩だが、それなりに完結している。もちろん、さらに展開していくことも可能である。松岡祥男さんの詩「仕事」の場合はどうだろうか。完結しているとみることも、さらに展開していくことも可能だと思う。

 この三行を今から続いていく詩の出だしと見るならば、〈わたし〉は、建設現場あるいは工事現場の高いところにいる、ということになる。たぶん、そのように軽く読み流して、次の詩句へ読み進んでいくと思う。しかし、これは三行の詩として独立させてある。つまり、この三行で自立的な表現として主張し得ると作者は判断していることになる。

 詩作品の中の〈わたし〉は、言葉を書き記している作者そのものではなく、三浦つとむの把握を借りれば作者の観念的に対象化された存在である。言いかえれば、作者によって派遣された物語世界の語り手や登場人物たちのように表現世界という舞台に立って感じ考え行動する存在である。その場合、〈わたし〉の感じ考えることは、作者や時代の大気のようなもの影響下にあることは確かである。だから、詩作品の中の〈わたし〉をよく知るには、作者について知る必要がある。

〈わたし〉のいろんなことがわからないなら、読者にとってすれちがいも起こり得る。〈わたし〉は、この仕事にすでに十分慣れているのか、まだその仕事に就いたばかりであるのか、それぞれによって「高さ」の感覚も違ってくるように思われる。この詩が収められている詩集『ある手記』の「あとがき」は、1981年12月とあるから、詩作品は三十歳位かそれ以前に書かれ、表現された言葉のきっかけになる作者の体験もその頃かそれ以前ということになる。

 この一つの作品からはむずかしいが、この詩集『ある手記』全体の流れを踏まえると、日々思い、悩み、振る舞う〈わたし〉には不可解に感じられるこの世界、しかしそれでもそんな日常のささいに見える場面に〈わたし〉の生の場所はあると感じ取られている。誰でも気ままに心穏やかに日々生きていきたいのに、人は家族を出ていろいろと張り巡らされたクモの糸のようなこの世界に出て行かなくてはならない。そうして、生きつづけるならば何らかの自分の場所というものを獲得していかなくてはならない。

 作者が、日々の仕事で丸太足場の上から見下ろすことは何度もあったに違いない。そうして、ある時ふとそのことの意味に突き当たったのである。この作品で〈わたし〉は、日々の自分の場所に内省的に出会っているのだと思う。

 わたしは1,2度位は鉄パイプで組まれた足場の上に上ったことはある。しかし、その上で仕事することのない人々は、下から足場を見上げ、その高さを感じることになる。その高さは何メートルということに言い直せる客観性を持ったものと思われるかもしれない。また、その高さに届きがたい感受があって、うわあ高くて恐そうだななどの印象も伴うかもしれない。それはひとつの「客観性」とそれに伴うものであることは確かだが、それが高さにまつわる客観性の全てではない。この詩で〈わたし〉が高さを感じ取って足場を踏みしめている、これもまた、足場の外からではなく内からの「客観性」とその感受であると言うことができる。

 この短い詩もまた、〈わたし〉はそんな場所で日々仕事をして生きているんだという、先に述べた、この社会や世界で十全に生きたいという願望を潜在させた〈自己慰安〉としての〈歌〉と見なすことができるように思われる。

 言葉は、長ければ良いということはない。もちろん、長ければいろいろと複雑なイメージも展開も盛り込めるということがあるが、校長の長い中身のない話のようにうんざりすることもある。したがって、表現された言葉の長短に表現の価値の大小はない。短くて鋭く刺さる言葉もあれば、長くていろいろとイメージの旅でもてなしてくれる言葉もある。

 最後に、松岡さんの詩でわたしが気に入っているものをひとつ挙げておきたい。初めて読んだ時には、「ランボーの「銘酊船」(「酔いどれ船」)に触発されている?」とメモしていたが、ランボーのその詩がきっかけだとしてもひとつの自立した独自の表現になっている。これは、自分を慰めるという意味の強い〈自己慰安〉としての〈歌〉ではあるが、たぶん誰にも思い当たることがあるような普遍的な心の場所からの表現になっていると思う。


 破れ船

ひとりの深みから
未明の空見あげると
ながれる白い雲
胸ひらき
からだを解いて
すこしなら唄ってもいいか?


雨の日の噴水が好きだ
誰もいない公園も悪くない
水浸しはいい
おもいっきりぬれるんだ
酒精が踊る
よっぱらいはすてきなんだ
ゆらぐ歩道と街がたまらない
ふらつく足が偉大なのさ


唄ってもいいんだよ
いのるすべもしらず
すがるものもないのなら


 (詩集『作業の内景』より、『意識としてのアジア』所収1985年)

詩『言葉の街から』 対話シリーズ 2701-2704

2021年12月19日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



2701
近づく近づく〈あ〉の電子雲へ
じじじじじ
極微の距離でゆっくり回る



2702
精子みたいに突入する
びびびびび
イメージの命が拍動する



2703
でっかいな綿菓子みたい
無数の
イメージ束に小さな火が点っている



2704
火の点ったイメージの舟に乗る
薄闇の中
次の〈の〉の駅にすべり込む

註.
2701は、初め「近づく近づく〈あ〉の原子雲へ」としていましたが、「原子雲」は原爆の爆発でできたキノコ雲の意味なので、「電子雲」に修正しました。