虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

マリアの福音書とグノーシス

2008-01-24 04:21:38 | 宗教
寒い日が続く中で、灯油も切れ、urban survivalを体験しましたw。余りにも寒いと、体を動かすことも出来なくなりますね。

漸く、迷走したシリーズを終え、少しホッとしています。
元来、神社に対する偏見もあって、日本の神々について深く考えたことがなかったせいか、新しい発見の連続でした。そして錯綜した神々の世界が、我が日本にはありそうだという点で、ほんのちょっぴりその門戸を開いた感じです。

今回は話題をガラッと変えて、マグダラのマリアについて書いてみたいと思います。
何故、急にマグダラのマリアなのか?と思うかも知れませんが、前回までのシリーズで、あの世の構造みたいなことを少々書きました。
実はそれと関連があり、マリアの福音書が何故グノシース主義といわれるかということとも関連します。

私が前回のシリーズを書く気になったのは、自分自身がほとんど日本の神々について知らないということ、日本古来の宗教はアミニズムだといわれることに対する疑問などからでした。

私は、アニミズムについて肯定的でもあり、否定的でもあるという立場を取っています。
それは創造主(神)の創造は、あらゆる物に神の片鱗を与えているからといえます。
翻(ひるがえ)って、人間の側からすると、あらゆる物に神の片鱗があるならば、それぞれを神として称えたところで必ずしも間違いとは言い切れない面があるのだと思うのです。

例えば、人間が創造主(神)からでたものならば、本質的には<神を内臓している>と考えられるのではないでしょうか?
一神教的な見方からすると、神と創造されたものの関係になり、畢竟(ひっきょう)二元論の立場をとります。
それは対立する概念であり、創造の本意ではないと思っています。
我々は、神の世界というと、何か平安の世界と思いがちですが、私が思うに、創造主(神)と創造された全ての宇宙そのもの-人間的な営為である善も悪も含めた全てをトータルしたものが神の世界というのだろうと思います。
何故なら、それは神が造りたもうたものだからです。
私はそうした視点から霊的な世界をみるので、天国も地獄もないというのです。

さて、前文が長くなりましたw。
まず最初に、グノーシス主義について少々お話しておきます。
グノーシス主義は、地中海周辺でおきた一つの宗教的・哲学的思想でしたが、キリスト教とは基本的に関係はありませんでした。
特殊用語がありますので、興味のある方はHPでお調べ下さい。
基本的にグノーシスは、絶対者-エロヒム(第一の顕現)-世界魂(第二の顕現)により人間の霊とその他の物質・物体の霊が形成されたという見方をしているようです。但し、エロヒムから人間の霊がで、世界魂からその他の物質・物体の霊が形成されたとし、人間の霊のみがエロヒムへと帰還するとされます。無論、その他の物質・物体の魂はその時がくればそのエネルギーを失い(消滅し)、世界魂へと戻っていくということです。

なんのこっちゃと思うかも知れませんが、まともに書くと、またシリーズ化しますので、そんなもんだという程度でお許しをw。

グノーシス思想を初期キリスト教が取り入れ、キリスト教グノーシス派といわれる流れが生じます。新約聖書にもグノーシス的思考がなければ理解できない部分が多々あるそうです。

キリスト教グノーシス派(色々と派があるようですが:但し、グノーシス派という呼び名は後世につけられ、当時はなかったようです)の最大の問題点は、多分、旧約聖書に現われる神を<悪の神>と捉えるところでしょう。
現キリスト教では、旧約の神=イエス・キリストの神ですから、そんなことは許されませんねw。
昔、読んだのでうろ覚えですが、確か、女の創造霊(ピステス・ソフィア)が一人(=男の霊なしでという意味だったような)で創造を行なったため、この世に混沌と混沌の創造者を招来(生み出)してしまうというような話だったようなw。この世の支配者(アルコーン=混沌の支配者)が旧約聖書の神だという筋書きだったと思います。

この話は古事記のイザナギ-イザナミが、女の方から先の声をかけたために、ヒルコを生んだ話と、深いところで繋がっているようにみえます。日本書紀ではこの点も曖昧にされています。

本筋に入りましょう。
マリアの福音書は、一度、HPの訳で読んだことがあるのですが、何故、グノーシス主義なのか理解できませんでした。
で、1年くらい前でしょうか。「イエスを愛した聖女-マグダラのマリア」を買い読み直してみました。非常に短い福音書です。僅か、7ページしかありません。欠落が多いためのようです。

グノーシス主義といわれるのは、「マリア、幻に見た魂の昇天について語る」部分にあるようです。
魂が昇天するにあたって、第一から第四の権力の尋問を受けます。
また、第四の権力には7つの権力が示されるのです。
第一の姿は闇、第二は欲望、第三は無知、第四は死の願望、第五は肉体の王国、第六は肉体の愚かな知恵、第七は怒る者の知恵。

魂がそれぞれの権力の領域で、彼らに尋問を受けながら上昇し、最後に物質と肉体の世界であるこの世(=実際はあの世にもあるということ)から解き放たれて自由になるという幻です。

グノーシス主義の教義や魂の昇天に同じような話があり、グノーシス主義とされるらしいのですが、最後(第四)の権力として<怒る者の知恵>とは明らかに旧約の神を意識した記述だろうと思えます。
 
確かに旧約聖書の神はよく怒るw。大洪水やソドムの例もありますが、一つだけ出エジプト記(モーセ)から例を示しましょう。

『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』(「金の子牛」より)

よく怒る神なんです。モーセに諭されたりされるところが面白いかもw。

マリアの福音書について書く気になったのは、あの世の構造として、そのような神みたいな存在があるらしいと感じたからなのです。
以前紹介したロバート・モンロー氏の「究極の旅」に、実は同じような場面が登場します。

モンロー氏の魂がどんどんとあの世を上昇していくと、最終場面に、
<我は、汝の仕うべき、主なる神である>と登場し、
<我を、汝の神として受け入れぬのか?>と強要します。
<呪わしき者よ! 汝は、汝の主、我のエネルギーの滓に過ぎぬというのに!>
と捨て台詞をいって消えていきます。

余りにも、旧約聖書の神の資質と似ていませんか?

あの世の構造の一端をあらわす例として、マリアの福音書、モンロー氏の究極の旅があると考えました。
あの世は、霊的なエネルギーの世界でしょうから、そこにも人間社会で培った様々な欲のエネルギーが蔓延している可能性があります。
ですから、それを突き進んでいかなければ、神の元へ帰還できないのではないかと思います。

ゴータマさんが、バラモンの神の世界も含めて全ての欲から開放されることを示したのは、あの世の構造を知ったからだと言ったら考えすぎでしょうか?

あちこちへ話しが飛びましたが、今回、話題にしたかったことは、以上のようなことなのです。

では、また次回まで。






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