あの車両を訪ねて

全国の保存・放置車両を訪ねています。

北陸鉄道モハ3760形モハ3761/能美市立博物館

2016-07-28 | 石川県
さて、ここからは前記事で予告した通り、石川県保存車巡りの旅にて訪問した物件をご紹介して行きたいと思います。

まず始めは、こんな車両から。



金沢駅の近辺で車を借り、そこから内陸方面に向けて南下すると、能美市に入ります。そして更に走ること十数分、目的地である「能美市立博物館」へと無事到着。
こちらで保存されているのは、北陸鉄道石川線で活躍したモハ3760形モハ3761です。



このモハ3761、かつて手取川の対岸に位置する鶴来から北陸本線寺井(現:能美根上)までを結び、1980年に廃止となった能美線でも活躍していた経歴があるそうで、2006年の廃車後はその縁で当地へと保存されました。



見ての通り非常に良好な保存状態を保っています。脇に設置されているホームからは、車内へと自由に出入りすることができ、撮影時も親子が戯れていました。

さて、このモハ3761ですが、他ではあまり例の無い、非常に興味深い展示方法がされています。それは…?



なんと、各扉を自由に開閉することが出来るのです。
この画像では前面の貫通扉のみが開いていますが、乗務員扉や、ホーム側の乗降扉、更には運転室仕切りも自由に開閉することができ、我々も慎重に扱いつつ楽しませて頂きました。

北陸鉄道の古き良き時代を垣間見ることの出来る、古めかしい電車。今日も子どもたちの歓声と共に、ゆっくり余生を送っています。

〈物件データ〉
設置場所:石川県能美市 能美市立博物館内「のみでん広場」
公開時間:9時~16時半(月曜日除く)

撮影データ:2016年6月11日16時半頃






のと鉄道の残照を求めて~のと鉄道能登線廃線跡巡り~

2016-07-24 | 石川県
先月始めの週末を利用して、2005年に廃止となったのと鉄道能登線(穴水~蛸島間、61.0km)の廃線跡を巡って来ました。

そこで、今記事では今回の遠征で訪問した、のと鉄道能登線の“今”をご紹介したいと思います。

時間の関係で今回訪問できたのは10駅でしたが、その分多くの画像を交えてご紹介できたらと。

訪問順に書き記しますが、各駅へのリンクもございますので、自由にご観覧頂けたらと思います。

鵜川駅跡

藤波駅跡

縄文真脇駅跡

九十九湾小木駅跡

九里川尻駅跡

松波駅跡

恋路駅跡

珠洲駅跡

蛸島駅跡

正院駅跡

※合わせて訪問した物件に関しましては、通常形態の記事にて随時ご紹介して行きます。

・はじめに

今回の旅行は、6月11日~12日にかけての1泊2日の行程で、主に石川県内の物件を回りました。
土曜日は保存車両を巡り、その夜は和倉温泉に宿泊。温泉を楽しんだ後、翌12日は朝から能登線の廃線跡巡りへと赴く…と言う、その世界の人間には夢の様な(大げさ笑)な行程を実現させました。

さて、和倉温泉で朝8時過ぎに出発した一行は、寄り道をしつつ穴水市内へ。穴水駅で保存車両を一通り撮影し、その先の廃線区間へといよいよ足を踏み入れたのです。

同行者と事前に相談し、確実に回りたい駅をピックアップ。その後は時間の許す限り廃線跡を巡る…と言う方法を採用。その計画に従い、穴水駅を出た我々は、8駅先の鵜川駅跡まで一気に足を進めました。

鵜川駅跡

まず始めに訪れたのは、穴水駅から営業キロにして29.1kmの地点に位置する、鵜川駅跡です。



穴水方面からずっと走ってきた国道249号線を逸れて少し行くと、小さな広場が広がっていました。脇には、「鵜川駅前住宅」と書かれた看板。正真正銘、ここがのと鉄道能登線、鵜川駅の跡地でした。



駅舎は現役当時の姿を留めています。しかしながら、入口は板で固く閉ざされ、この建物が本来の役目をとうの昔に失っていることを痛感。。。



駅舎の裏手に回ると、草むらの中にホーム跡がそのまま残っていました。ホーム上まで雑草が生え、廃止から10年超と言う年月を感じざるを得ません。



ホーム上屋も残っていましたが、ご覧のとおり崩壊が始まっており、完全にその姿を失うのも時間の問題の様に思えました。

駅舎、ホーム共に、鵜川駅を示す看板などは撤去されており、駅前のバス停、そして前述の「鵜川駅前住宅」にしか、ここが駅であったことを認識させるものは残されていません。
隣の小学校では運動会が盛大に開催され、子ども達の歓声が響く中、それとは対照的にひっそりとした駅前。一行は、次の駅へと向かうべく、寂しい駐車場から車を出しました。

藤波駅跡

鵜川駅跡から車を走らせること15分。国道沿いに岩肌が見え始めたところで左折し、その岩肌へと分け入っていくと、段々になった土地にポツポツと民家が立ち並ぶ風景に出会します。
そんな集落の中の道を進むと、道の終わり、雑木林の中に突然現れるのが、かつての藤波駅です。



ホームへと足を踏み入れた一行は、早速廃線から10年と言う年月の長さを思い知らされました。かつて線路であった部分に雑草がびっしり…実は、この付近はまだレールが残っているのですが、そんなことお構いなしに雑草が伸び放題でした。



ホーム上に残る待合室の周りも雑草だらけ。夏草の繁殖力とは恐ろしいものですね。



すぐ脇には、第二藤波踏切跡がそのまま残されています。踏切標識は朽ち果て、ボロボロの渡り板がかろうじてそこが踏切であったことを示していました。



駅前に掲げられた看板。無くなってしまっては、暖かい言葉を聴くことも出来ません。かつてはその様な光景が広がっていたのだろう…そんなことを考えつつ、一行は次の目的地へと出発しました。

縄文真脇駅跡

続いて訪れたのは、縄文真脇駅跡です。この駅は名前の通り、縄文時代の遺跡のすぐ脇に位置しており、真脇遺跡の玄関口として機能していました。



ログハウス風の駅舎に、ホームへと続く通路。やはり草が生い茂っていました。



ホームには待合室が残されていました。全体的に、今回巡った駅跡の中では状態の良い方だったと感じます。一つ前の藤波駅跡を見てしまうと尚更。



こちらにも残されていたこの看板。鉄道を失って10年、奥能登は当時描いていた未来を築けているのか。。。

九十九湾小木駅跡

続いて訪れたのは、縄文真脇の次の駅であった、九十九湾小木駅跡です。



九十九湾小木駅は、穴水から数えて17番目、距離にして40.5kmに位置していた駅です。かつては急行も停車し、路線転換後は駅舎も建て替えられました。
建て替えられた駅舎は特徴的な外観をしており、現在は地域の集会所として利用されている様です。



裏手に回ると、恐らく現役時のままであろうホームが。レールこそ撤去されているものの、構内はそのままの様でした。



ホーム上屋もよく残っています。駅名板こそありませんでしたが、リピーターを始めとした機械類が残されており、また駅名板が入っていたであろう枠も当時のまま。



今までの駅には駅名や社名などが書かれたものは見つかりませんでしたが、ここではのと鉄道のロゴマーク、そして「九十九湾小木駅」と書かれたボックスが残されていました。

九里川尻駅跡

かなり状態の良かった九十九湾小木駅で満足の行く収穫を得た一行は、続いて二つ先の九里川尻駅跡へ。しかしながら、この駅がまた途轍もない状態だったのです。。。



九里川尻駅跡自体は、県道を走っているとかなり分かりやすい位置にあります。いかにも鉄道遺構らしい築堤、そして県道を跨いでいた橋梁の跡。



その途切れた築堤の脇からは、駅へと続く細い道が伸びています。とは言え、既に酷い状態…覚悟しつつホームまで草を分け入ると、もはやそこは“魔境”でした。



ここはジャングルではありません、ホーム跡です。とは言え、整備されていない以上、ジャングルと同じ様なものなのは確かかもしれません。
藤波駅跡の更に上を行く酷さ。線路上はおろか、ホーム上ですら草が生い茂っていました。



待合室として利用されていた建物も、かなり荒廃が進んでいます。今までの駅跡とは異なり、扉すら閉鎖されておらず、誰でも中に入れてしまう状態でした。



外の状況とは打って変わって、内部はこじんまりとしていました。しかし、中まで草が入り込んできており、この建物も含めて、自然に還ってしまいそうです。



去り際に一枚、築堤と共に。綺麗に整備された花壇に咲き誇るサルビアの鮮烈な赤色が、今でも忘れられません。

松波駅跡

九里川尻駅跡から車を走らせること5分。次の目的地である、松波駅跡へと到着しました。

松波駅は、穴水から数えてちょうど20番目の駅でした。営業キロは46.4km、かつての急行停車駅でもありました。



道路沿いに突如現れるそこそこ広めの敷地。一目見て、ここはかつて駅であったのだろうと分かりました。
駅舎は、地域の団体によって活用され、現在は「松波城址情報館」へとその名を変えています。



元の駅舎の裏手に回ると、ホーム跡がそのまま残されていました。また驚くことに、構内踏切跡には取り残されたかの様にレールが。撤去に手間がかかるんでしょうね。



ここまでの駅と同じく、駅名標などは撤去されていたものの、全体的にはそのまま残されている様でした。しかしながら、生い茂る雑草は、いつかホームを飲み込んでしまいそう。。。

情報館は休業だったのか、駅舎の中に入ることは叶いませんでしたので、一行は次の目的地へと先を急ぎました。

恋路駅跡

松波駅跡から海沿いの道を行くこと数分、小さな駐車場が右手に見えてきます。古えに起きたと言う男女の悲しい伝説の残る景勝地「恋路海岸」、この玄関口になっていたのが、恋路駅でした。



道路沿いから駅へと上がる階段は、現在でも非常に綺麗に整備されています。画像左の灯篭が現在でも点灯するかは分かりませんが、現役の頃はさぞ美しかったのだろうと。



ホームへと上がると、これまた現役時と思うほどの整備状態。それもそのはず、恋路駅は現在も「現役」なのです。
実は、この駅の前後数百mの線路を利用して、奥のとトロッコ鉄道「のトロ」が営業をしています。これは足こぎトロッコを使って実際の線路を走行することが出来るもので、密かに人気のスポットになっている様です。



特徴的な待合室も良好な状態で残されていました。それにしても、この待合室は何をモチーフにしているのでしょうね。



海をバックに駅名標をパチリ。ちなみに、のと鉄道移管後はロゴ入りの駅名標が用意されたのですが、それに関しては枠ごと無くなっていました。
駅名標の設置位置自体ものと鉄道時代とは異なっており、あくまで「なんちゃって」の駅名標です。

現役の匂いの漂う恋路駅を後にして、一行は道のりを急ぎます。

珠洲駅跡

恋路駅から20分程車を走らせ、珠洲の市街地へと入った一行。若山川に架かる橋を渡りながら、旧能登線の橋梁が完全に撤去されているのを確認しつつ、渡り終えてすぐの「道の駅 すずなり」の駐車場へと滑り込みました。



道の駅 すずなりは、2010年4月に開駅した新しい道の駅で、能登線の珠洲駅跡を整備し、お土産店やバスターミナルを併設しています。
そしてその片隅に、かつての珠洲駅のホームが保存されています。



現役そのままの長さで保存されており、ホーム上に設置されていた停車位置目標やレピーターと言った各種機器類も残されています。



更に、駅名標も残されていました。シンプルなデザインですが、ここが駅であったことを偲ばせてくれる大切なモノです。



2番ホーム側には、線路も残っています。ここに気動車でも置いてあればなあ…なんて、妄想してみたり。叶わぬ夢ではないと思うのですが、はて。

一通り撮影を終え、いよいよ訪問する最後の駅…となるはずだった、終点の蛸島駅を目指しました。

蛸島駅跡

珠洲駅跡を後にして、海沿いを走ること数分。珠洲とは比べて閑散とした集落の中にぽつんと残されていたのが、能登線の終点、蛸島駅でした。



能登線の駅舎は殆どが同じ様な形態をしており、この蛸島駅も例外ではありません。白い外壁のこじんまりとした建物は、都会の駅などで見られる華やかなそれとは全く異なるものに見えます。。。



ご多分に漏れず、草ぼうぼうの駅構内。レールも残されているのですが、ちゃんと見ないと確認出来ません。
蛸島駅跡は、NPO法人の手によって整備されていたそうで、残されたレールを活かしてNT100形気動車の運転体験が行われたり、レールバイクの乗車会が行われたりしていました。
しかしながら、現在は放置状態であり、線路上にレールバイク用と思われる鉄パイプが寂しく残されるばかりでした。



残された駅名標は、輝きもなく、朽ち果てるのを待つばかり…なのでしょうか。。。

正院駅跡

さて、元から行く予定であった9駅を回り終えた一行ですが、まだ金沢に戻るには時間があったことから、帰りつつ回れそうな駅を回ることに。
蛸島駅跡から少し車を走らせると、珠洲と蛸島の設置されていた正院駅跡にたどりつきました。



正院駅はレールこそ撤去されているものの、蛸島駅程荒れておらず、現役の駅と見間違える程自然にそこにありました。
しかしながら、よく見ると駅名の文字が失くなっており、手入れのされていない現状を思い知らされます。



待合室も綺麗な状態で残っており、現役当時の面影をよく残している様に思えました。



正院駅構内から蛸島方面を望む。

線路跡もバラストは残されており、ここにはかつてレールが通っていたんだという事を無言のままに伝えていました。

この後も同行者の運転で何駅か回った様なのですが、自分は正院駅跡を出たところで眠気がピークに達してしまい、ダウン。
次に起きた時、車は宇出津駅跡に止まっていましたが、撮影に出る気力もなく、そのまま帰路へとつきました。。。

さて、これにて今回の遠征での能登線廃駅訪問記は終了となります。能登線全30駅(穴水含む)中10駅と1/3の数しか回ることは出来ませんでしたが、それでも非常に有意義なものとなりました。
各駅の跡地は殆どがレールを撤去された程度の状態で残されており、またところどころで、かつてここは線路だったのだろうと思わせる遺構にも多く出会うことができました。

しかしながら、帰宅して改めてウェブ上の地図を見てみると、線路跡が道路となっていたり、家が建っていたり、それこそ全く別の施設になっていたりと、能登線の痕跡は確実に消えつつある現実がそこにはあります。
廃止から10年超。かつて能登を結んだ鉄路の姿は、まさに今も消えて行っていると言う事実を、私達はしっかりと受け止めないといけないのかもしれません。