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[メモ] イエスの復活を理解するために

2012-04-05 22:33:41 | 聖書
先日教会の神権会大祭司のクラスで、「復活を信じますか」という質問に一人の神権役員が信じるというより希望である、と答えていた。復活という奇跡をどう受けとめるか、聖書の言葉を文字通り受け入れることもできるが、現代を生きるクリスチャンにとって小さからぬ課題ではないだろうか。目にとまった言葉をリストアップしてみた。

Stained glass of Resurrection with two Marys at a Lutheran Church, South Carolina.ステンドグラスに描かれたイエスの復活 (米南カロライナ州) 

1 私の記憶(遠藤周作の著)
「復活に関する福音書の記事はいずれもパウロの改心の時のようなものではなかったか。つまり、示現として見たのであろう。」(遠藤は復活をどう受け止めたものか最も苦労した、と書いていた。)

2 瀬戸内寂聴さんの語る遠藤周作 
「遠藤周作は復活を人の心の中に死んだ人が生き返ることだと言っていました。」

3  遠藤周作、『キリストの誕生』
遠藤周作は『キリストの誕生』でキリストの復活を、ペトロやパウロの心の中にイエスが復活したと言っている。イエスならどう行動するかを考え、イエスと同じように行なうことを「復活」と表現したと主張する。

4 遠藤周作「狐狸庵先生に聞く」
確かに復活信仰の確立の為には復活したイエスとの遭遇という宗教体験が必要だったでしょう。それはしかし三日後という短時間ではなく、イエスの死と復活についての長く熱っぽい弟子たちの議論の果てに、イエスが復活して我々の側に常にいるんだという宗教的確信が出来て、その上で起こった宗教体験だったと思われます。

5 遠藤周作「名画・イエス巡礼」
このような神秘体験は到底、人間の言葉では充分に言いあらわせるものではない。神秘体験は、詩的経験と同じように日常の言葉で言いあらわせるものではないのだ。その強さを表すためには、象徴を必要とする。(それが復活!?沼野)。・・・イエスは死滅したのではなく、大いなる生命体の中で生きているということに弟子たちが考え及んだ時、イエスは彼らの心のなかでいきいきと生きてきた。弟子たちはイエスを再発見し、その生涯の意味をはじめて知り、そしてイエスが自分の心の中で生きつづけている歓喜を味わったのである。

6  ピーター・バーガー「現代人はキリスト教を信じられるか」
聖餐において、キリストがパンとブドウ酒の物理的元素を象徴としてその中に、それらと共に臨在するが、元素の科学的性質が奇跡的に変えられることはない。これと同様、復活という重要な出来事は、その時エルサレムで起きていたことの中に、またそれに伴って大きな意味を持つ。それは「実際に起きたこと」に経験的に依存していなかったし、今もしていない。p. 122 (一部沼野言葉を差し替え)。

7 大貫隆「隙間だらけの聖書」(1993)
イエスがエルサレムで逮捕された時、弟子たちは逃亡して、その後間もなく殺されたはずのイエスに「出会う」ことになる。そしてそのことを熟考するうちに、ホセア6:2やイザヤ53章の旧約の預言が成就したと受けとめ、救い主が復活し、律法を守り切れなかった信徒たちを贖う贖罪死を遂げられたのだ、と認識するに至る。回顧的な方向で物語が拡大されたと分析する。

遠藤周作の引用が多くなったが、彼の復活に対する概念も表現も時と共に変化しているのがわかる。いずれにしても信じる者に臨んだ十字架後のイエス・キリストの顕現(epiphany) と受けとめるべき事柄なのであろう。

*[「復活」という概念に関する参考資料]
黙示文書には超自然的な出来事が記されていて、復活の概念が見られるのも珍しくない。
1 ダニエル書12章1節から4節にいたる黙示的文言(預言的でもある)の中の2節
「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
 ある者は永遠の生命に入り
 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」
2  第二バルク書 25-30
「その後、救世主到来の時が満ちると救世主は栄光の中に戻るであろう。
その時、救世主を待ち望んで眠りについた者は皆よみがえるであろう。その時、義の霊が数多く置かれていた倉が開かれて、出で来る。無数の霊がひとつの思いで一団となっているのが見える。最初の者は喜び、最後の者も嘆くことはない。」
(C.K.Barrett, "The New Testament Background: Selected Documents" 1956, 1961)

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7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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イエスの生涯 (オムナイ)
2012-04-07 00:36:47
イースターいつだったんでしょう?(笑)

イエス様の誕生日どころか復活にもいまいち興味がもてません。。

ですが遠藤周作さんには昔から興味があります。
「イエスの生涯」しか読んだ事がないにもかかわらず(^^;

ヨハネによる福音書(新約聖書) 8:57
そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。

この部分を書のなかで取り上げ、イエス様は30歳ではなく、本当は40代後半ではないか?と推論していたことや、サタンの誘惑の場面を当時の敵対していた宗派とのやりとりの投影と考えていたあたりに感銘を受けました。

なんとなくNJさんの思考に似ているようにも思います。

遠藤周作さんは宗教多元主義
(英: Religious pluralism)
さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想。

な方だといわれていていわゆる日本人気質なんですよね。
宗教多元主義は福音派は否定的といわれ、逆にモルモンは肯定派になるんでしょうか。

ロムニーさんが福音派から嫌われたり、風見鶏といわれるのはこういった思想にも一因があるのかも。

信仰箇条
わたしたちは,自分の良心の命じるとおりに全能の神を礼拝する特権があると主張し,またすべての人に同じ特権を認める。彼らがどのように,どこで,何を礼拝しようと,わたしたちはそれを妨げない。
---

豚さんなんかは対局の思考のように感じます(^^;
預言者なら間違えない、間違えたなら預言者ではない。
NJさんとのやり取りが平行線になるのは理の当然かも。

「復活を信じますか?」
オムナイ:問われて初めて他者には信じがたい奇跡なのだと気がつきました(^^)

この生涯はわれわれが未来に往く階段である。
ちょうど大学校にはいる前の予備校である。
もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。

私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、
私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、
喜怒哀楽のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、
ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、もっと清い

生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でございます。
--内村鑑三--

復活は信じるというよりキリストから与えられた喜びかなと気がつきました。
返信する
心から (NJ)
2012-04-07 00:47:21
ありがとうございます。オムナイさんのコメントに励まされます。
返信する
誰も信じてない ()
2012-04-10 19:56:12
日本のモルモンは、8日の復活祭より大会の中継を優先するぐらいですから、誰も復活なんて信じてもいないし、それ以前にどうでもいいことなんでしょう。

「信じるというより希望である」何て言った奴も、復活なんて信じちゃいない。

遠藤のおじさんだって、結局御託を並べてごまかしてるだけで、復活なんて信じちゃいない。

ただ、遠藤周作は、自分自身が「死んだ人間が生き返るなんてありえない」と思っている心を隠していない。
信じてもいない事を、信じているようなふりをするよりはましだろう。
そして、イエスの存在への強い望みと、どうしても受け入れがたい教義との狭間に自分を置いて語っている。

たとえ復活と言う事実が無くても、彼のキリストへの信仰は崩れる事は無かったのだろう。
そして、「死んだ人が生き返る」と言う事以外の「復活」を、自分自身が納得できる「復活の意味」を探そうとして賢明になっていたのだろう。

イエスに心酔し、イエスを愛し、キリストの愛されたいと思った、一人の人間として、自分が信じられない部分を、聖書の言葉ではない別の言葉で埋めようとしたのだと思う。

そして、彼と同じように、聖書に書いてある事をそのまま受け入れる事は出来ないが、それでもイエスに心を奪われた多くの人の共感を得たのだろう。

一度死んだイエスが生き返ったなんて、誰も信じてはいない。
しかし、キリストは復活したと多くの人が信じている。
返信する
わたし (NJ)
2012-04-10 21:46:34
おおっ!
返信する
信仰とは希望 (オムナイ)
2012-04-14 21:24:02
文字通りの「信じる」と信仰とは違うんでしょうね。
普段は同列に「信じるか?」と信仰という概念を含んで聞かれるので、
はい信じます。(信仰している)と答えるのでしょう。

しかし、文字道理に信じるか?それは生活している常識の範疇で事実として受け止められる事象なのか?と問われれば、

No信仰という希望を含んだ概念の信じ方になります。
いわゆる普通の信じ方とはちがいますね。
と答えているわけです。
返信する
宗教多元論 (オムナイ)
2012-04-14 21:53:35
遠藤周作さんと宗教多元論からwikiからのコピペで失礼します(^^)

遠藤は日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた

遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。

西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。

そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒックの宗教多元論であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。

ジョン・ヒックはキリスト教徒の哲学者で、宗教多元論の主唱者として最もよく知られている。もともとは伝統的な福音主義者

宗教的な真理というものを、文化および個々の人間に対して相対的なものとして見るというものである。

彼はキリスト教の排他主義を間違ったものとして退ける。
その一方で、他の様々な宗教を、それぞれがその文化や伝統などに基づいた形での、「真実在」への適切な応答だとみなすのである。
返信する
確かに (NJ)
2012-04-15 06:24:09
「信仰とは希望」のコメントありがとうございます。確かに指摘していただいたような面がありますね。面と向かって・・を信じますか?と問われると多くの現代人は幼児のようにはい、信じます、と答えにくいのだと思います。

遠藤に関する引用に感謝します。私は古屋安雄の著から同様の啓発を受けてきました。(宗教多元論)。
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