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NJWindow(J)



オムナイ書は短く、オムナイ自身の記録は3節しかない。また、前後も短い書が3つあって合計4つの書でヤコブ書とモ―サヤ書をつなぐ形になっている。しかも、時間的には約290年の間隔を7人の継承者でつなぐ役割を担っている。モルモン言は後の挿入であるから除けばこの年月に11ページ(日本語)しか費やされていない。

この圧縮された記述によるつなぎについては、116ページの原稿紛失が関係してくる。これはすぐれて本文批評にかかわる事柄で注目に値する。ウェルチなど保守派を含めて研究者のほとんどがスミスは最初にもどらず、中断した箇所から翻訳を再開したと考えている。具体的には、物語の冒頭である二ーファイ第一書からやり直したのではなく、モーサヤ書から終りまで翻訳した後、最初の二ーファイ第一書にもどって中断した所まで訳してつなぎ完成したのであった。それは使用している用語の頻度を分析して確認できるし、内容面からも文芸批評の対象となって興味深い。(1)

二―ファイ第一、第二書は、今の読者からすれば予想外のことであるが、翻訳の最後の段階でモ―サヤ書につなぐべく書き進められたのであった。記録によれば、1829年6月11日に著作権が確立し印刷業者も決定し、月末には最終原稿を引き渡すことになっていた。それで第二ニ―ファイ5章以降上記のつなぎの部分と合わせて最後の部分にさしかかり、作業が急がれていた。

モルモン書をフィクション視する批判的なダン・ボーゲルによれば、イザヤ書があれほど多くそのまま引用されているのはジョセフ・スミスの霊感が枯渇しかけていたのではないか、それで一種埋め草(充填物)として用いた可能性が考えられる。あるいは印刷業者と交渉しに出かける間、数日間留守になるのでイザヤを写してもらって翻訳を前に進めたことが考えられる、と言う。また、完成を急いでいたとすれば、オムナイ書などが3百年近くをカバーするのにいろいろ書き連ねている余裕がなかったという示唆もうなづける。


(1) Brent Lee Metcalfe, “The Priority of Mosiah: A Prelude to Book of Mormon Exegesis,” Brent Lee Metcalfe ed., “New Approaches to the Book of Mormon,” 1993, pp. 408-416, 418, 434. 検討された用語は whosoeverとwhoso, Thereforeと Wherefore などでモーサヤ書から再開という説を明瞭に支持している。内容面でもいろいろあるが、例えば二ーファイの預言を後代のアルマが承知していない、などはモーサヤ書から再開したという説で説明がつく。(初めから順当に進めていればこの矛盾は避けられた。)さらにメトカーフによれば上の用語分析は複数の執筆者ではなく、単一の著者を想定させるもので内容面の矛盾も想像力を駆使した作者の存在を示唆すると言う。

参考:
Brent Lee Metcalfe, “The Priority of Mosiah: A Prelude to Book of Mormon Exegesis,” in Brent Lee Metcalfe ed., “New Approaches to the Book of Mormon: Explorations in Critical Methodology,” Signature Books, 1993.

Dan Vogel, “Joseph Smith: The Making of a Prophet,” Signature Book, 2004, p. 426.

John W. Welch, “How Long Did It Take to Translate the Book of Mormon?” in John W. Welch ed., “Re-exploring the Book of Mormon: The FARMS Updates,” Deseret Book Company and F.A.R.M.S., 1992



コメント ( 18 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
つっこみやすい・・・・ ()
2012-04-02 18:37:23
>翻訳の最後の段階でモ―サヤ書につなぐべく書き進められたのであった。


そう言うのを「翻訳」って言うの??

そんな奴は~おらんぞ~ーーーー
 
 
 
順序が問題 (NJ)
2012-04-02 21:19:17
JSは小版を「翻訳」したと表現し、LDSはそう受けとめそう表現しています。「翻訳」の概念は暫くおいて。

ここで問題にしているのはその順序です。(翻訳、ないし筆記[作業]の進められた順序)。
 
 
 
ぼけてない ()
2012-04-03 10:52:36
>ここで問題にしているのはその順序です。

翻訳の順序の問題じゃないですよ!


>翻訳の最後の段階でモ―サヤ書につなぐべく書き進められたのであった。


翻訳と言うからには、もとの文章が有った訳ですね。

「モ―サヤ書につなぐべく書き進められた」と言うのは、もとの文章の翻訳では不可能な事です。

原文に忠実に翻訳しなかったか、そもそもが創作であったかのどちらかです。

どちらにしても、「モルモン書は最も正確な書物」と言うには、お粗末です。


うまくぼけてくれないと、こまりまんがな・・・。
 
 
 
ん、なんで? (NJ)
2012-04-03 15:27:34
下手なボケ方ですか?申し訳ないですね。

豚さんは結論を急ぎ過ぎでは?結論に達するにしても批判的聖書学の手法を適用してこそ本道だと思います。(その必要なしというなら、それまでですが)。

本文批評による分析が、116頁紛失後の作業がどこから始まったか(Iニ―ファイかモ―サヤからか)で注目すべき差異が出ていることを研究者たちが調べているのです。

・・どうも何か豚さんと認識上、か問題が何かの点でズレがあるようです。並行線をたどるようでしたら、コメント欄でのやり取りは不毛になります。
 
 
 
線路は続くよ♪ ()
2012-04-03 19:51:33
>本文批評による分析が、116頁紛失後の作業がどこから始まったか

私の場合、まず、116頁の紛失が有ったのか?って事から確認しないと・・。
ってレベルですので・・・。

ずっと昔からの疑問でした、「そんな大事なものをなくすやろうか?」なんか確認できる資料が有るんでしょうか??

何も確認せずに信じ込んでた人間と言うのは、一つ怪しいって思う出すと、全部が怪しく思えてくるものです。

一つ一つ事実確認をして信じていたNJさんと、教会の書籍などに書いてある事をそのまま素直に信じていた私とでは、確かに平行線ですね。

でも、平行線は交わると危ないと思いますよ、線路なら脱線しますから。

軽い突っ込みですので、笑って御容赦下さい。
 
 
 
オムナイ書 (オムナイ)
2012-04-04 10:46:09
やはり私もコメントせねば(^^;

そういえば翻訳の順番のことは考えた事がありませんでした。
面白い視点ですね。

オムナイだけに、ちょっとはましな突っ込みになれば幸いです。


失われた116ページ。いわゆるリーハイ書なわけですけど。
「たぶん盗まれた」とされているわけですが、
そうなるとリーハイ書の続きから書きはじめたことになります。

その時点ではモーサヤ書とリーハイ書のつながりはとれていたわけで。。
霊感が枯渇しかけてあわてて書を充填したという説は説得力にかけるものがあるように感じます。

翻訳であっても創作であればなおさら、リーハイ書のストーリーは熟知していたでしょうから。

むしろ、物語を書きはじめてリセットしたくなって、自ら破棄して
書き直しのために予言を持ち出した。というほうが説得力あります。

オムナイとしてニーファイの小判にはもう書くスペースがなかったのでちょっとだけコメントしただけなんですが。。(^^)

 
 
 
リーハイ書の続き (NJ)
2012-04-04 15:14:18
ようこそおいでいただけました、オムナイさん。考えてみたんです、幾人かの耳慣れない記録継承者の中で一番良い名前であると。それはともかく・・

「リーハイ書の続きから」というコメントありがとうございます。

小版のスペースのこと承知しています。
 
 
 
並行線は変更なし? (NJ)
2012-04-04 15:26:07
豚さんへ。市民マラソンで途中かなり歩いていても参加して「走ってきた」と表現するのと同じで、「翻訳」という言葉も表現している本人の言葉で記述することがあるわけです。(通常の翻訳という言葉が当てはまらないことは承知。)

116頁の紛失が本当であったかどうかは、当時JSの妻が記憶していることですし、数か月作業が中断した後カウドリが来て再開したことなど、支持することが幾つかあります。・・私はそれ(116頁)が出てこないことになぜだろうという気持ちがあります。・・それ見なさい、と言われるかもしれませんが。

 
 
 
Unknown (Unknown)
2012-04-04 17:27:50
厳粛にわたしと誓いを立てたにもかかわらず,彼はそ
れをほかの人々に見せ,策略により原稿を取り上げられてしまった。(『教会歴史』1:21)

ジョセフの母ルーシー・マック・スミスは,ジョセフがマンチェスターの両親の家を訪ねたときのことや,マーティン・ハリスが原稿を紛失したことを聞かされたときのジョセフの苦く悶もんについて書き記している。マーティンは大分たってから,ジョセフの両親の家にやって来て,原稿が見つからないことを告白した。」(History of Joseph Smith『母親ルーシー・マック・スミスの語るジョセフ・スミスの生涯』pp.128-129)

どうも私は細かい事にこだわる悪い癖がありましてね~(相棒水谷豊風)

上の文章はインスティチュートのテキストからです。
「策略により取り上げられた」と「無くした」とは微妙に違いますよね・・・。どうしてなんでしょうかね~・・・。
 
 
 
名無しでした ()
2012-04-04 17:28:59
すんません、上のコメントは豚です。
 
 
 
書いてありました。 (オムナイ)
2012-04-05 13:09:33
教義と聖約10:41
それゆえ、あなたはベニヤミン王の治世に至るまで、すなわち、あなたが翻訳して所持している部分に至るまで、ニーファイの版に刻まれている記録を翻訳しなければならない。
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教義と聖約に (NJ)
2012-04-05 17:35:01
Omniさん、見つけていただいてありがとうございました。私はこの頃、聖句を捜すのが困難になっています。(例、「耳障りのよい話しに・・」の箇所が見つからず嘆いています。笑)
 
 
 
自転車を使いましょう(^^) (オムナイ)
2012-04-05 21:16:53
今や世界一のIT企業となったAppleにおけるジョセフスミス、故スティーブ・ジョブスはこんなことを言っています。

僕らは道具をつくる、そこが他の高等霊長類と本当に違うところですよね。地球上の様々な種の移動効率を計測したある研究報告を読んでみたら、一番少ないエネルギーで1km移動できるのはコンドルなんです。人間はあんま成績が良くなくて、ランキングの上から大体3分の1ぐらい下。生き物の王者がこれではちょっと自慢にならない。なんだこんなもんか、という感じでした。
ところが、です。そのうち「サイエンティフィック・アメリカン」(日経サイエンスの原版)に面白いこと考える人がいて、人間と自転車の移動効率をテストしてみたんです。そしたら自転車に乗った男、自転車乗った人間はもうコンドルなんて吹っ飛ばしちゃって、圧倒的大差でチャートのトップなわけですよ。

で、これがまさに僕が考えるコンピュータで、僕にとってコンピュータは人間がかつて発明した中で最も驚くべき道具、僕らのマインドを乗せて運ぶ自転車なんです。
-------

http://www.ldsscripturestudy.com/

どなたか作られたかは知りませんが↑便利なサイトです。
感謝して使わせていただいています。

そんなわけで、「耳障りのよい話しに・・」の箇所はこちらでしょうか(^^;


テモテへの第二の手紙(新約聖書) 4:3
人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

----

様々なキーワード試すと面白いですよ。
 
 
 
便利な検索 (NJ)
2012-04-05 22:30:46
そうです。ありがとうございました。実は「耳触りのよい」を英語でどう言うか知りたかったのです。(普段ほとんど日本語の語句索引 concordanceを使わないのでこんな目にあいました)。このサイト、お気に入りに加えます。

私は自転車愛用派です。
 
 
 
ミクロも大事、そして・・ (NJ)
2012-04-06 11:39:12
豚さんへ。マーティン・ハリスにして見れば、初め妻だけにと思っていたのが身内に手渡され、さらに身近な隣人などに渡ってゆき、彼の立場からすれば策略に遭ったと表現したのでしょう。(あるいは教会内から見れば)。

後のルーシー・マックの記述は懐古的に短く書いたので単に「紛失した」になっているのだと思います。

いずれにしても「人をつまずかせる者は」呪われるべきである(マタ18:6)。私は、つまずいた者は、立ち上がるべし!の気概を持ちたいと思っています。
 
 
 
取り繕う? ()
2012-04-06 19:02:20
私はコメント欄には、長いので省略して書きましたが、インスティチュートのテキストには、もっと詳しい状況が書いて有ります。
それを読むと、NJさんの説明ではつじつまが合わない事が分かります。

余談ですが、インスティチュートのテキストには、今日4月6日が、イエスの誕生日で有ると書いてましたよ、それも、預言者が認めていると。
出来ましたら、この件に関して、別の話題で取り上げて頂きたいですね。
今日旬の話題です。
 
 
 
長崎で ()
2012-04-09 13:05:44
江戸の話を長崎で申し訳ないのですが、反論の手段を断ち切られましたので・・・。

>依然としてイエス・キリストの誕生日を紀元1年4月6日と思っている末日聖徒が多いことに驚いている。

私は、「多い事に驚いている」と言う表現に驚いてます。

モルモン教会が、はっきりとテキストの中に歌い、会員に対してそう教えているのですから、会員皆がそう信じるのは当然の事です。

NJさんが、自分の見解を表明するのは自由ですが、「会員の多くが誤解している」と言うような言い回しはいかがかと思います。

会員が、教会のテキストで書かれている事を教会の正式な意見だと取るのは普通のことです。
世間一般から見ても、ネット上でも教会の公式なHPで堂々と掲載され、誰でも読める状態で「4月6日はイエスの誕生日」って書いて有るのですから、それがLDSの公式見解と見るのは当然でしょ?

さらに、そこにははっきりと図解で書いているんですよ。記念する日ではなく「誕生日」として図解で書かれてます。

NJさんが、どうして、会員が勝手に誤解しているように書くのかが分かりません。

教会の見解が間違いで有ると言う意見なら理解できますが、「思っている末日聖徒が多いことに驚いている。」と言う表現は訂正すべきです。
 
 
 
はい (NJ (沼野))
2012-04-09 15:13:02
訂正 (イエスの誕生日記事へのコメント続き)

「・・多いと感じ、私は驚いてしまいました。」

(頑固ですね、この老人!笑)(えっ、おかしくない?)
 
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