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[聖書の高等批評:文書説はその重要な部分]

旧約聖書のモーセ五書は、いくつか複数の文書が編集されて出来上がっている。それを知って旧約聖書を読むと、いわば書物の素性が分かって読むような形になり、同じような話が重複して繰り返されたり、矛盾して見える内容が出てきたりしてもその理由が分かって納得できる。創世記の冒頭に創世の二つの物語が出てくることにその顕著な例を見ることができる。(以下、本ブログにしては長文)。

その前に文書説について略述すると次のようになる。



J文書(ヤハウィスト文書)・・BC9C. 大らかな先祖の物語
E文書(エロヒスト文書)・・・BC8C. 北イスラエル、預言者の影響下、倫理的、宗教的
P文書(祭司文書)・・・・・・バビロン捕囚後. ユダヤ教団の祭司、明確な神学に立脚
この三つが主な文書(資料)であるが、もう一つあげなければならない。
D文書(申命記学派による)・・捕囚直前のBC550年頃。モーセ以後の歴史を編集。

英語であるが次の図が時間的な関係をよく表している。Oral は口頭伝承。



 創世記1,2章の場合についてウィキペディアが次のようにまとめている。

• 祭司資料による伝承(『創世記』1:27-1:31)
o 3日目に乾いた陸と植物が創られ、5日目に水中の生き物が創られ、6日目にまず地上の動物が創られた。
o 全能者である神エロヒムは自らにかたどって人間を創造した。
o 男と女は同時に創造された。
o 神は男女を祝福し、子孫を増やして地上に満ちて地を支配するよう命じた。

• ヤーウィスト資料による伝承(『創世記』2:6-2:25)
o 主なる神ヤハウェが天と地を作ったとき、地に木も草もまだ生えていなかった。神は雨を降らせていなかったが地は「泉」(地下からの水)で潤っていた。神は土の塵(アダマ)から人(アダム)を形作り、その鼻から命の息吹を吹き込んだ。のち、草木を創りエデンの園を管理させた。
o アダムが動物の中で自分に合うふさわしい助け手を見つけられなかったので、神はアダムを眠らせ、あばら骨の一部を取って女をつくった。
o アダムは女を見て喜び、男(イシュ)からなったものという意味で女(イシャー)と名づけた。

一般にはヤーウィスト資料のアダムとエバの創造物語が有名であり、中世においては、この部分の記述から「男のあばら骨は女より一本少ない」と真剣に考えられていた。かつては(その解釈が聖書の著者の意図に沿っているのかどうかはともかく)女性蔑視の根拠となったこともあるが、祭司資料においてはより人間賛美的・男女同権的思想であると言えよう。 (引用終わり)

つなぎの部分が紛らわしいが、2章4節前半「これが天地創造の由来である」までが祭司文書による創世の記述で、4節後半からJ文書による二つ目の創世の記載が始まる。そして5節にヘブライ語「テレム」טרםが二度出てくるが、これを欽定訳の訳者は「・・の前に」(before)と接続詞にとって、「地上にある前に野の全ての木を作り、育つ前に野の草を作られた」と訳出した。その場合、動詞 made は4節bの天地にもかかるように見え、万物を創造の業の前に作ったと読めるようになっていた。(それでJSの霊的創造の改訂が生じた)。

しかし、この「テレム」には「まだ・・ない」(副詞not yet)の意味があり、欽定訳以外の聖書のように「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである」(新共同訳)と訳すのが正しい。英文でその部分を書き出すと相違が浮き彫りになる。

The New English Bible

4a This is the story of the making of
heavens and the earth when they were created.

4b When the Lord God made earth and
heaven, 5 there was neither shrub nor
plant growing wild upon the earth,
because the Lord God had sent no rain
on the earth; nor was there any man
to till the ground.

King James Version

4a These are the generations of the
heavens and of the earth when they were
created,
4b in the day that the Lord God
made the earth and the heavens.

5 And every plant of the field before it was
in the earth, and every herb of the field
before it grew: for the Lord God had not
caused it to rain upon the earth, and
there was not a man to till the ground.

これは、二つの資料(文書)が連続して並置されたことに気付かなかったことが、「テレム」の語義を取り違えることに繋がり、誤訳が生じた例である。

高価な真珠のモーセ書3:5に、神はすべてのものを地上に自然にあるに先立って霊として創ったと霊的創造の概念を掲げているのは、欽定訳に二つの創世の物語が重複して登場するのを解決しようとしたからにほかならない。モーセ書の読者は、ジョセフ・スミスが聖書の改訂作業の一環として取り組んだものが、聖典として後に取り入れられたことを覚えるべきである。「テレム」の語義をはじめ二つの創世の文書について、欽定訳の誤訳を指摘したアンソニー・ハッチンソンは、ジョセフ・スミスの聖書改訂をユダヤ教におけるミドラシュ(注釈)に比較できるものと見、広義に言えば霊感と呼べるし、「ミドラシュの想像的手法、古代の著者を模して書くこと、教義や本文の書き換えが見られることは、ジョセフ・スミスをむしろイスラエルの預言者や聖書の著者と同列に置くものであり、隔てるものではない」と見ている。

なお、少し前になる(2000年春季ダイアログ誌)が末日聖徒の中にどれくらいの研究者が旧約聖書の文書説を受け容れているかについて、ケビン・バーニーがまとめていたので紹介しておきたい。

[clickすれば大きくなります]

表で1はリベラルな学究的立場を指し、6は保守的・伝統的立場を指している。文書説を受け容れているldsの学者たちの中にD.P.ライト、A.ハッチンソン、キース・ノーマンらがいる。J.A.ウィッツオー、B.H.ロバーツ、BYUのJ.L.ソレンソン、S.K.ブラウン、ヒュー・ニブレー、それにこの記事を書いたK.L.バーニーらは否定もしないが肯定もしない中間に位置している。そしてJ.FieldingスミスやB.R.マッコンキーなどldsの大多数は文書説を受け容れない保守的な姿勢である。

 ジョセフ・スミスの聖書改訂(霊感訳聖書)は、一種の注解書的試みであって、このように書けば通りがよくなる、聖書の分かりにくい箇所や内容上の矛盾が解決する、という性格のものであって、オリジナルの本文を回復するものではない。モーセ書は彼の聖書改訂が一部正典として受け入れられたものである。モーセ書3章を含む部分は1851年3月F.D.リチャーズによってMillenial Star に掲載された。そこに今日受け容れられ難い内容が含まれているとすれば、それは物語論で言う「信頼できない語り手」(unreliable narrator)の問題がそこに生じているということになろうか。

参考文献
Kevin L. Barney, "Reflections on the Documentary Hypothesis." Dialogue: A Journal of Mormon Thought, Vol. 33, No. 1 (Spring 2000)

Anthony A. Hutchinson, "A Mormon Midrash? LDS Creation Narratives Reconsidered." Dialogue: A Journal of Mormon Thought, Vol. 21, No. 4 (Winter 1988)

Robert J. Matthews, "How We Got the Book of Moses?" Ensign, Jan. 1986

沼野治郎「霊感訳聖書とは何か」モルモンフォーラム4号(1990年春季)

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コメント
 
 
 
天と地ほどの違い ()
2014-02-10 13:43:48
現代の日本に住む私達と、その3千年ほど前に、中東に住んでいたユダヤ民族の人達と、同じものを見ても、理解が異なるのは当然の事です。

その意味で、「不変の真理は存在しない」と考えるべきでしょう。

創世記の冒頭も「始めに天と地を創った」次に「闇と光」宇宙と言う概念を身に着けてしまった、現代人が考えれば、どう見ても、順序が変です。

一部の宗教者の陥る間違いは「不変の真理が存在する」と思い込んでいることだと思いますね。

古代の人から考えると、はじめに天と地が無いと困りますよね。
 
 
 
真実とは普遍的な、今日に通用するもの (沼野治郎)
2014-02-10 23:41:49
最近読み始めた本が参考になっています。

旧約聖書の記述は聖書学で「神話」と呼ばれます。聖書学者上村静(男性)の本に、次のようにありました。「神話は史実の報告ではなく、直接的に真実を言葉にしたものでもない。あくまでも象徴的な言語で、間接的な方法で人間についての真実を伝えようとするものである。」
「現代人にはもはや神話をそのままで事実として受け止めることはできないし、無理にそうすることは知性を犠牲にするだけでなく、結局は神話の伝える真実を手に入れることもできない。聖書が神話であるということを認めるのは、決して聖書を侮辱することではない。むしろ、聖書の伝える人間についての洞察を現代においてなお有意味なものとして理解するために必要な前理解なのである。」(「宗教の倒錯」岩波書店、2008年)
 拘束される(受け身的になる)のではなく、価値あることを読み取る姿勢が求められるのだと思います。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2014-02-10 23:52:18
高価な真珠のモーセ書3:5に、神はすべてのものを地上に自然にあるに先立って霊として創ったと霊的創造の概念を掲げているのは、欽定訳に二つの創世の物語が重複して登場するのを解決しようとしたからにほかならない。
モーセ書の読者は、ジョセフ・スミスが聖書の改訂作業の一環として取り組んだものが、聖典として後に取り入れられたことを覚えるべきである。


と言うことは、ジョセフ・スミスは聖書訳の二つの違いをうめるためにすべてのものの霊的創造がなされたと想像した。
モーセ書は神から来たものではなく、ジョセフ・スミスの想像の産物である。

そう理解していいのでしょうか。

もし本当にそういう理解をされている方が、日曜学校の会長をされているというのが、私には驚きです。
 
 
 
現代のlds (沼野治郎)
2014-02-12 11:52:56
JSの聖書改訂(JST)でどのような改訂がなされたかは、数種類に分類されますが、その一部は主語を変えたり(悔いたのは主ではなくノアであった)、動詞を変えたり(笑った⇒喜んだ 創世17:17)する工夫があり、また捕飾・拡張的な追加など「霊感」による長い啓示(示現)のような内容もあります(モーセ書エノクの部分など)。

JSの聖書改訂は、完成を見ずに一部分で終わっています。行なった改訂は、導きを求めながらも大部分は理知的判断によるものと考えられます。

聖典であっても私たちは今日適用されないものがあることを承知しています。OTの律法の規定(割礼など)、NTのパウロの書簡の一部(女性は静かにしているように、など)、末日聖典でも肌の色に呪いが現れるという箇所、多妻にかかわる箇所、ジャクソン郡への集合などパスして読んでいます。それは読む個人によって差がありますけれども。

「驚き」が徐々に「そのようなldsもいる」という新しい認識に変わっていけば幸いです。

 
 
 
本当の価値 ()
2014-02-12 14:35:26
最近、「現代のベートーベン」とまで言われた、日本の作曲家の作品が、実は別の人の作であった、と言う話題が有りました。

その曲の、価値や評価が、創った人の環境や経歴などによって変わるのは理屈に会わないですね。

そのい「理屈に合わない事」が起きるのは、「曲の価値」を客観的に測定する方法が無いからです。


文章も同じでは無いかと思います。

預言者が書いたものでも、豚が書いたものでも、同じ内容の文章なら同じ価値のはずです。

物事の評価を正しく出来る人なら、「誰が書いたか?」は関係無いと思いますけどね。
 
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