きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

人間(ひと)もすなる日記(にき)といふものを狐もしてみむとしてすなり 葉月玖日

2014-08-09 00:31:18 | 日記
「肉の眼」と「傷付く覚悟」と「言霊」

何故自分は小説を書けなくなったか。

例によってちょうど1年前の自作小説がメールで届く。
拙い部分は多々あってもそれなりにすらすらと(という時ばかりでもなかったが)書いているのをみて思う。

一つには「肉の眼」
それは何かと言うと最近友人に借りて読んだ小説で元ネタは大御所漫画家の作品で映画化もされた話なのだが、簡単に必要な部分だけかいつまんで言うと

ある男が自分の野望のために魔物と取引をした
そのため男の息子は体の殆どの部分を失ったまま生まれた
育ての親によって仮の体を与えられて成長した青年は魔物を倒して奪われた体の部分を取り返してゆく
作り物の体だから眼球があっても実際には見えていない
本物の眼球を「肉の眼」と表現していた
他人の目に映ったものを感じることでしか見ることができないから見えているものが本当にそういう姿形かどうかはわからない
あくまでも他人の眼から見た姿形を間接的に感じることしかできないから

自分の過去の小説は「肉の眼」で見て書かれていないと思った。
というのはそれらは皆過去の自分が見聞きした作品のいろんな印象的な部分をブレンドして出来上がったものだからだ。

ツイッターである絵師さんが言っていた。

クリエイターというのは求められるものを商業的に描くものだから必ずしも自分が描きたいものを描く訳ではない
それなら上手下手ではなく自分の書きたいものを描けるアーティストの方がいい

自分の場合はアーティストですらなくアレンジャーであった気がする。
いろんなものをブレンドしてうまい具合に融合させて形にする作業。
それも一種の才能だなどという慰めは不要だ。

つまりは他人の眼で見て他人が吐いた言葉を拾って作り上げたつぎはぎの物語に感情移入したに過ぎない。
自分の「肉の眼」で見て自分の言葉で表現することができない猿まねだった。
それがわかっていながら気づかないふりをして来ただけのこと。
さすがにそれが恥ずかしいと思うようになって何とか自分のオリジナルをと思うけれど気持ちばかりが空回りする。

二つ目は「傷付く覚悟」
以前にも書いたが作家というものは多かれ少なかれ自分自身を切り売りしているようなところがあって全くの想像の産物である作品では人に感動など与えられるはずもない。
自分自身の肉をそぎ血を流してこそ作品に真実味が生まれるのだ。
だとすれば作品を書くと言うことはある意味全裸で人前に出て踊るようなものだ。
恥ずかしさをこらえて汚いところ幼いところ醜いところあざといところ全てを曝け出す覚悟が必要だ。
それを見た人即ち作品の読者に何と思われるかなんて恐れていたら話にならない。
決していい印象を持つ人ばかりではないだろう。
それでもひるまず堂々としていられるか。
それだけの覚悟が無くては小説なんて書けるはずがない。

三つ目は「言霊」
自分自身の言葉で自分を曝け出してとはいうもののとうに終わった過去の自分ならいざ知らず現在や未来の自分につながる何かを書こうとした時例えそれが虚構であっても恐ろしいのが言霊である。
自分や誰か身近な人間を題材にして書こうとした時にそれは単なるきっかけに過ぎず実際とは全く違うものであったとしてもそれを書くことで何か悪いことが起こってしまうのではとか恐れてしまう。
現実にそれが原因で恐ろしくなって中断したままどうしても続きを書くことが出来なくなったことは何度でもある。
BAD END、SAD ENDが売りだったのも関わらず現実的な話を書こうとすればするほど恐ろしくなってしまう。
だったらHAPPY ENDにすればいいようなものだがそれはあまりに嘘臭い。
人の心の闇を描こうとするなら今はまだ不確かなものを悪しざまに描かざるを得ないことだって有り得る。
しかし怖いのだ。
言霊って気を付けないといけないよとある友人が言った。
良くないことを言葉にすると本当になってしまうからできるだけ良いことだけを言葉にしないといけないと思ってそうしているんだと。
それまではともすればマイナス思考になりがちな自分を戒める言葉として聞いたのにそれは呪いの言葉のように自分を縛る枷になった。

悪いことを想像してそのことを言ったり書いたりした時にたまたま実際に悪いことが起こってしまったりするともういけない。
それは単なる偶然だったのかも知れないがとてもそうは思えなくなってしまった。

それ以来言霊の呪縛から逃れられない。
気のせいだ、気に病むな。
そう言われてもそれはトラウマになってしまっていてそうそう簡単には抜け出せなくなってしまっている。

産みの苦しみ。
脱皮を控えた蛹。
作り物から本当の自分の言葉自分の物語を生み出そうとする陣痛。
そうであればいいのだが。

何より厄介なのはこの頑固な性格と思い込みの激しさ。
自分で納得しないと梃子でも動かない。
三つ子の魂百までというやつか。

よく亡き父に言われたものだ。
物心つく前の口癖は
「ちがうのな!」
だったらしい。
そう言いだすとなだめてもすかしても頑として聞き入れなかったという。
自分では優柔不断でふにゃふにゃのよわたんだと思っていたがどうやら根っこは違うみたいだ。

まだ当分は五里霧中。
自分なりの物語を模索し続けるのだろう。

まずはトラウマの解決。
それにはもう少し時間がかかりそうだ。

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