きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

「芙蓉に似た花」 あとがき解説

2022-01-03 18:35:25 | 日記
 前編23261字・後編17510字、合計40771字で完成・投稿した「芙蓉に似た花」は昨年11月から執筆を開始しました。
きっかけはネタ探し中に見つけた(私は不勉強で知らなかったのですが)「ジュリアおたあ」という歴史上の人物についてのネット記事でした。
 いろいろと資料検索して(諸説ありますが)どうつなげたら物語の形になるか考えて大まかな方針が決まったものの、いつものことながら、途中で紆余曲折あり、途中で大幅に改変した部分もありました。
 集中して一気に執筆できない分、スマホのメモアプリや、アナログノート(ネタ帳)を駆使して、部分部分を繋ぎながら書き進め、全体が一通り出来上がってからも何度も見直しを重ねました。
 歴史とか宗教とか、繊細な部分を含むだけに、書き始めてからも何度も悩みましたが、いつものことながら、最終的には「フィクションだし、まあ、いいか」で開き直った感じではあります。

 登場人物名や地名などの固有名詞は元ネタが想像できるレベルの改変しかしていませんが、オリジナルキャラクターであるセバスチャンは語感だけでつけた執事っぽいイメージの名前で、弥九郎はちゃんと元ネタに沿っています。同じくオリジナルキャラクターの多喜はヒロイン滝子に似た名前を考えて付けました。源氏名の『橘』はオランダ語の女性名『タチアナ』に語感が似ているということで付けましたが、本編では特に触れていません。

 テーマについて、当初はあまり深く考えていませんでしたが、漠然と「原点回帰」を意識していたとは思います。
「愛している人が別の人を愛していて、その人もまた別の人を愛している。でも、別の誰かを愛していることも全部含めてその人を愛する。」みたいな設定はごく初期の作品にあったものですし、父親に憧れすぎて正しく恋愛できない「エレクトラコンプレックス」も比較的初期の作品に見られた設定です。
 一通りストーリーを辿って書き上げた後に、たまたま縁あってクリスマスからお正月にかけて見たアニメ映画、アニメビデオ、動画などからちょっとずつヒントをもらって加えた部分が、雷の夜に「父を投影した相手を失うのが怖くて、抱き締められても抱き締め返すことができない」という場面の描写と、「聖女」と「純愛」のキーワード。
 別垢のブログでも触れたのですが、敬虔な聖女と言われるヒロインや、その従者然とした狂言回し役の二人が、本当に何処までも聖人になりきってしまって良いのか否か、人間臭い煩悩の部分との兼ね合いについて悩んだりもしましたが、はっきりと断定的な描写は意図的に入れませんでした。

 ブログ小説を初めて約十年。時の流れと共に、作者自身の人生や経験、境遇も変化するし、それによる思いや考えもまた変わってくると思います。
 何度も書いて来ましたが、作家にとって主要な登場人物はどれも自分の分身で、意識して、或いは無意識でも、どこかしらに自分を投影して、実体験に基づく出来事やその時の心情などを、形を変えて表現していることもありますし、逆に、本当の自分とは違うけれど、理想とする自分の姿を具現化している場合もあります。
 若い頃好きだったのと同じ小説を、歳を重ねてから読み返すと、別の立場からものが見えたり、当時共感したのとは別の人物に感情移入したりすることがあります。アニメなんかでも同じですね。前は子供側の目線で見ていたのに、後になると親目線で見ていたりする。なので、ナルシストという理由ばかりではなく、自分の過去作品を時に読み返すのも私は好きです。

 と言ったので思い出しました。年末年始は過去の傑作(結構長めの続き物が何作かあるうちのどれか)を投稿しようかと思っていたのですが、何としても三が日の間に新作を完成しようと頑張っていたのに加え、今年は年末年始の休みも少なかったので、それはまた次の機会に。
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芙蓉に似た花 後編

2022-01-03 18:32:07 | 小説
(この小説は歴史上の人物等から発想を得たものではありますが、実在の人物、宗教、歴史等とは一切関係ありません。)

*序章から5章までのあらすじ*

 全国統一を成し遂げた太閤・富豊義英(とみとよ・よしひで)により李国征伐の大将に任ぜられた大西幸永(おおにし・ゆきなが)は孤児となった李国高級貴族階級の幼女を猶子(ゆうし・作者注:相続権のない養子)とし、滝子と名付けた。異国の神ゲウスを信仰する幸永の影響で入信した滝子はジュリアの名を授けられ、薬業を営む商家の出身である幸永に習い施薬所で奉仕活動を手伝い、幸永の理想である『神の国の実現』を夢見る。
 太閤没後、幸永は切腹・斬首、将軍となった奥川保家(おくかわ・やすいえ)によって滝子は侍女として召し抱えられるが、何度も側室になることを求められては拒み、ついに保家は禁教令を発令し、見せしめにゲウス信者を弾圧し、同僚までも拷問しても、なお信仰を貫こうとする滝子を流罪とした。
 最終流刑地・神集島(こうずしま)で島民の子供の手当てをしたことをきっかけに島民に受け入れられ、他の信者と共に教会兼施薬所で奉仕する滝子の前に現れた罪人の子の野生児を保護し、弥九郎と名付けられたその少年は入信し、セバスチャンの名を授けられた。滝子と弥九郎は姉弟のように支え合い、薬草園兼自家菜園で働き、奉仕活動をしながら暮らしていた。

6章 島を離れて

 [禁教令発令の四年後に大御所様・奥川保家公が亡くなられてから後は、世の中から久しく忘れ去られたような存在となっていたゲウス信徒たちは、大御所様の子から孫へと将軍が代替わりとなった特赦で流刑から無罪放免となり、望む者は本土への帰還を許可されることになりました。それはジュリア様が三十歳、私は二十歳になった頃でした。私はこの神集島に流刑となった罪人の子として生まれ、島から一度も出たことがありませんでしたが、ジュリア様が本土への帰還を望まれるなら、例えその行き先がこの世の果てだとしても、何処だろうとお供させて頂けるようお願いするつもりでした。]

 「長きに亘り、島民の皆様にはお世話になりましたが、我らゲウス信徒はこの度特赦にて本土への帰還を許可されることとなりました。皆様のご厚情はこの身に染みて、感謝の念に堪えません。」
滝子は教会を後にするにあたり、島民に挨拶をした。
「ジュリア様、やはり行ってしまわれるのですね。どちらへ行かれるのですか?」
島民の一人は別れを惜しむように言った。
「わたくしが育った土地は西国ではありますが、わたくしは養父(ちち)の生家のある商都・巽州楠庭(せんしゅう・なにわ)の狭加井(さかい)へ行ってみたいと考えております。かつて帝都・芙志美(ふしみ)城に勤めていた時の知己も、養父の縁者もいるようですし、彼の地の信徒たちも力になってくれるでしょう。何よりわたくしは養父の生まれ育った土地をこの目で見てみたいと思っています。」
滝子はもし島を出ることを許される日が来るならば、今も愛してやまない亡き養父の所縁(ゆかり)の地を目指すといつしか心に決めていた。
「ジュリア様が向かわれる場所ならば、どこまでも私がお供いたします。」
恭しく礼をして、弥九郎は言った。
「セバスチャン、あなたが生まれ育ったこの島を出て、わたくしの供をしてくださるのですか。あなたが真に望むのであれば、それも良いでしょう。この広い世界にはまだまだわたくしもあなたも知らないことがたくさんあるでしょう。島を出て見聞を広めることもきっとあなたの更なる学びの肥やしとなるに違いありません。そしていつかまた島に戻り、教会で奉仕して、ゲウス様の教えを広めて、多くの人を救う助けとなれば、わたくしも嬉しく思います。」
滝子は弥九郎の申し出を受け入れ、二人は神集島の港から船出した。

 [ジュリア様のお養父上に所縁のある方々や、狭加井の信徒の方々のお力を借りて、ジュリア様と私は三年間奉仕活動をしながら暮らしましたが、ジュリア様の養父・大西幸永様の名を知る異国人の聖職者に乞われ、那賀崎(ながさき)の教会が運営する養生所を手伝うことになり、ジュリア様と私は那賀崎へと赴きました。そこで私たちは西洋の医学薬学を学びながら、病や怪我に苦しむ民を救うために古来の伝承薬学の知識を生かして奉仕することが出来ました。当時私は二十代半ば、ジュリア様は三十代半ばでしたが、それから約三十年の間、私たちは那賀崎に留まることになりました。]

 女は三十代後半ともなれば、まだ若いとはいえ、人生の絶頂期から下り坂へと変わりつつある年代であった。少し前ならいくらでも無理を重ねることが出来たが、やはり歳と共に徐々に疲れは取れにくくなり、滝子は十歳年下の弥九郎の力を借りることが多くなった。少年だった弥九郎も二十代半ばともなれば体だけではなく精神的に頼り甲斐のある大人に成長し、滝子の相談相手として助言ができるまでなっていた。滝子はいつしか弟のような存在だった弥九郎に、父性すら感じるようになりつつあった。
「最近のセバスチャンはすっかり一人前になって、ジュリア様より十も年下なのに、年上のような錯覚に陥ることさえあります。勿論もう何人か子供が居てもおかしくない年齢ですから、当たり前なのかもしれませんが、まるで父親のような器の大きさ、広さ、温かさまで感じさせます。」
養生所で共に働く信者の一人が、微笑みを浮かべて滝子にそう言うと、滝子もその視線の先にいる弥九郎を眺めながら、
「ほんに、父のような…。わたくしの養父もとても優しく良い父親でした。セバスチャンは親を知らずに育ちましたが、もし子を持てばきっと養父のように優しい良い父親となるでしょうに。」
と目を細めたが、その言葉を耳に留めた弥九郎は、少し複雑な表情を浮かべていた。
滝子に頼られる存在となれたことを喜んでいた弥九郎であったが、やはり滝子にとって養父の存在は特別なものであり、その面影を弥九郎に重ねているのだと思うと、どこか切なかった。それでもその養父への思いごと受け止めて滝子を愛すると誓った以上、滝子が弥九郎に父親の代わりを求めているとしても、自分が聖母のような滝子に母を求めたように、自分が滝子の父の代わりになれるなら、それで良かった。

 西国には毎年大風や豪雨、落雷の季節がある。滝子の幼少時にも勿論あったし、大海に浮かぶ神集島も大風に襲われることはあったが、安全な城内で家族といた幼少時とは違い、また東国の小島に比べて西国の大風・豪雨は遥かに厳しかった。
ある時那賀崎を大風が襲い、豪雨と落雷が激しくなった夜、滝子は落雷の音に怯えるように耳を塞いで小刻みに体を震わせていた。
「ジュリア様、大丈夫ですか?」
弥九郎は普段の凛として物事に動じない滝子が、豪雨と落雷の夜は取り乱しがちであることを、島に居る頃からうすうす感じ取ってはいたが、今は滝子の様子からはっきりと恐怖を感じていることが見て取れた。
「激しい雨風や雷の音を聞くと、普段は忘れている恐ろしい記憶が蘇るのです。わたくしが母国に居たのは三歳くらいまで。親の顔すら覚えていないのに、突然思い出してしまうのです。阿鼻叫喚の地獄絵図を。」
すると、弥九郎は滝子の体に両腕を回して抱き締めた。
「天にまします父なる神・ゲウス様や亡きお養父上よりどのようなお咎めを受けようと覚悟の上で、ご無礼致します。」
「セバスチャン!」
刹那、滝子は当惑して抗おうとしたが、落雷の音が鳴り響き、思わず弥九郎の胸に顔を埋めた。
「弟が姉を守るためにその体を抱き締めることに何の憚りがありましょうか。今夜は亡きお養父上の代わりに私がジュリア様をお守りします。」
大きな鳥がその翼の中に包み込むように、弥九郎は滝子をしっかりと抱き締めて言い、
「セバスチャン、わたくしが幸せになることは許されないのです。わたくしのために苦しんだ人々のために、わたくしは全てを神に捧げ尽くさねばなりません。わたくしが大御所様の側室になることを拒んだばかりに、わたくしの友であったばかりに、クレアとルチルは拷問され、生涯消えることのない烙印を額に押されました。ゲウス信徒であること以外、わたくしとは何の関係もない国中の信徒が迫害され、命を奪われたのです。わたくしの罪が消えることはありません。例えそれが信仰を貫くための試練であったとしても。わたくしは決して許されてはならないのです。」
普段冷静な滝子が涙を流しながら、そう訴えると、弥九郎は父が娘に諭すように、静かに答えた。
「あなたはもう既に十分にやって来られました。島の施薬所でも、狭加井でも、ここ那賀崎の養生所でも、たくさんの人の命を救って来られたのですから。それはお養父上が武将として戦で人を殺めながらも、異国人の孤児であったあなたを救い、施薬所で人々を救って来られたのと同じです。神の御子の如く、重い十字架を背負い長き道を歩き続けることを、お養父上があなたに教えて下さったのではありませんか。全てはこの地上で世界中の人々が共に手を取りあって神の国を現すため。そうなれば戦はなくなり、皆が救われると、あなたが私に教えてくださったのではないですか。」
滝子は両腕を弥九郎の背中に回して抱き締め返すのを躊躇うように、ただ腕を強張らせ、震える指先にぐっと力を込めて拳を作ってその衝動を堪えた。
雷が止んで、滝子が落ち着き、眠りにつくまで弥九郎はずっと滝子に寄り添っていた。

7章 仮初の花嫁

 [その頃の那賀崎の花街には異人相手の娼館があって、女郎たちの中には異人の子を身籠る者もおりました。娼館では神の教えに背き密かに堕胎を試みていましたが、中には堕胎に失敗し、父親の特定できない混血の私生児が生まれることもありました。男の子なら生まれてすぐに命を奪われてしまうことが多かったようですが、女の子はそのまま娼館で下働きとしてこき使われ、客の取れる歳になれば母と同じく異人相手の女郎として働かされていたようです。私たちの養生所にも、そんな身の上の少女が運ばれて来たことがありました。「巷の医者になら治療の対価を支払わなくてはならないが、教会の運営する養生所なら面倒を見てくれるだろう」と、まるで犬猫の子を捨てるように夜の闇に紛れて養生所の門前に運びこんで置き去りにされていたのです。]

 「君、大丈夫か?しっかりしなさい。」
医者が声をかけると少女はうっすらと目を開けて、こくりと頷いた。少女の小柄な体は酷く痩せて、げっそりと頬がこけ、顔色は土のように悪く、唇も紫色になって乾ききっていた。はだけかけた着物の襟元や裾などから覗く肢体のあちこちには痣があり、それはまだ新しいものもあれば、できてから相当時間が経っているであろうと思われるものもあった。
所内に運び込まれた少女を診察した医者は、
「病気についてはまだ詳しいことはわからないが、衰弱が激しくて、治療よりも先に体力の回復を図らねばならないでしょう。」
と言った。
「わかりました。では、セバスチャン、これを。」
と滝子は紙にさらさらと筆を走らせて薬湯の処方を示した。
「はい、ただいま。」
弥九郎はすぐに施薬所に行って必要な薬草を選び、滝子の処方通りに薬湯を作った。
出来上がった薬湯を飲ませようとしたが、それすら難しいほどに少女は衰弱していた。
「生きろ。生きるんだ。まだ君は若い。病気に負けてはいけない。」
弥九郎は清浄な綿花を薬湯に浸し、少女の口元に滴らせた。
最初は飲み込むことも苦しそうだったが、わずかずつでも喉を通るようになってきた。
「そうだ。うまいぞ。その調子で、もう少し飲んでご覧。」
それから数日間は消化の良い薄い粥から徐々に食べ物を与え、薬湯を飲めるようになると少女にやっと生気が戻って来た。
「まずい…。」
少女は眉を顰めて呻くように言った。
滝子は微笑んで、
「それは良かった。ではもうそのお薬はおしまいにしましょう。あなたの体がもうその薬を必要としていないという証です。次はまた別のお薬を処方しますからね。」
と言った。
「えええ…。」
とやはり少女は顰めっ面で呻くように言った。
「あなたとお話が出来るようになって良かった。わたくしは大西滝子ジュリア、あなたの世話をしてくれたこの者は弥九郎セバスチャンと申します。あなたのお名前は?」
滝子は、幼い日に養父が自分にそうしてくれたように、少女と視線を合わせてじっと顔を覗き込みながら、優しく問うた。
「店では『橘』という源氏名で呼ばれてた。異人さんたちの国の女の名前に響きが似ているから覚えやすいんだって。本当の名前は、多喜。店の表に出る前の下働きの頃まではそう呼ばれてた。」
「では、わたくしたちもあなたを多喜さんと呼ばせて頂きましょう。」
滝子がそう言うと後ろで弥九郎も頷いた。
多喜は目にいっぱい涙を溜めて、声を震わせながら言った。
「多喜って呼んでくれるの、嬉しい。もう誰もあたしのこと多喜って呼んでくれないと思ってた。」

 多喜は滝子や弥九郎の献身的な世話のおかげで、少しずつ食事も取れるようになり、衰弱しきっていた体に少しずつ体力がついてきて、病の完治は見込めないとしても、曲がりなりにも日常生活は何とか送れるくらいには元気になって来たようだった。
多喜は半分は異国人の血を受け継いでいるためか、抜けるように白い肌をしていたが、血色が良くなると頬はほんのりと赤みが差し、二重瞼で目が大きく、同年代の娘たちよりは少しだけ鼻筋が通って彫が深いが、異国人と見間違えるほどに顕著ではなかった。それでも、やはり赤みがかった髪は少し癖毛で後れ毛の先が自然とくるくる巻いていた。

 [多喜は自分の年齢を十八と言いましたが、女郎の化粧をしない素顔の多喜はまだ幼さの残る顔立ちで、成長過程で栄養状態が良くないため発達が遅かったのかとも思えましたが、どう見ても十六にも満たない少女のようにしか見えませんでした。幼い体で無茶な仕事をして来て、異人相手の女郎となってからはどんな目に合わされたのかと思うだけで辛くなるほどぼろぼろの体でした。西洋医学を学んだ医者も、手の施しようがないと匙を投げ、余命いくばくもない多喜が最期まで安楽に過ごせるように手を尽くすことが精一杯だということでした。体調の良い日は床から出て養生所の中を歩いてみたり、私やジュリア様の後をついて歩いて、様子を眺めていたりすることもありましたが、一日中床を出られず苦しそうに呻いている日もありました。少年時代の私がジュリア様を姉のようにお慕い申し上げていたように、多喜もまた妹のように私たちを慕ってくれているものと、私は思っていたのです。]

 「ねえ、セバスチャン。じゃなくて、弥九郎さん。」
多喜は滝子や周囲の大人たちを真似て、年上の弥九郎に対しても「セバスチャン」と呼んでいたが、「それはいけない」と周囲の大人に叱られ、せめて名前に「さん」と敬称をつけて呼ぶようにと何度も注意されていた。
「弥九郎さんは何で嫁をもらわないの?弥九郎さんと同じくらいの歳の男は皆嫁をもらって子供がいるんでしょ?この前養生所でお腹が痛いのを治してもらってたおばあちゃんが言ってたよ。」
「私は生涯をゲウス様に捧げ、ジュリア様にお仕えすると心に決めているんだ。島流しになった重罪人の子で、しかも子供の頃に畑泥棒をして捕まった私に、ジュリア様は『親の罪はあなたの罪ではありません』と言って教会で引き取って育てて下さった。その恩は一生かかっても返しきれない大恩だから、ジュリア様のお養父上の望まれた『神の国』をこの世で実現するという、ジュリア様の願いを叶えるために、ジュリア様のお傍でずっとお支えしたい、それが私自身の願いなんだよ。」
多喜の問いに弥九郎が真摯に答えると、
「でも!信徒でも嫁や子供のいる人はたくさんいるじゃない。嫁をもらっても、弥九郎さんの夢の邪魔にはならないよ?」
と多喜は反論した。
弥九郎は穏やかに微笑みながら、
「私には重罪人の血が流れている。その血を受け継ぐ子供が不憫でもあるし、そんな負い目を贖う術を与えて下さったゲウス様とジュリア様はどれだけ感謝してもし足りない、命よりも大切な存在なんだよ。私は不器用な男だから、家族が出来ても、それは決して譲れない。自分よりも家族よりも神の教えや人々への奉仕を優先する私には、おそらく家族を幸せにすることはできないだろう。」
と言った。
「そんなの、どうでも良いよ。弥九郎さんのことが好きな女なら、弥九郎さんが『幸せにしてあげよう』なんて思わなくったって、そんなこと望んじゃいないし、幸せにしてもらおうなんて絶対に思ってやしないよ。女ってのはね、幸せにしてほしいと望むんじゃなくて、ただ惚れた男が一緒に居てくれることだけで幸せなんだから。ねえ、弥九郎さん、異人の血が流れていても嫌じゃなければ、あたしを嫁にもらってくれない?それとも異人の玩具にされて身も心もぼろぼろになった女なんて穢れているから嫌なの?」
多喜は自虐的な物言いをしながら俯いた。
「いや、決してそんなことは思っていない。それに、ジュリア様のご両親だって李国人だが、皆それをどうこう思ったことはない。そんなことは関係なく、私は君を妻にすることはできない。それは君だからではなくて、他の誰でも同じことだ。」
弥九郎は誠意を込めて答えたつもりだった。
「弥九郎さんの意地悪!」
多喜はそう言い捨てるとその場を去って行った。

 多喜にはわかっていた。自分のことを子ども扱いして、恋愛対象とは思っていない弥九郎が愛している女性はこの世にただ一人だけ。それは滝子であるということを。そして滝子も姉と弟のように接してはいるが、心の中では弥九郎を思っているに違いないことも。それでも誰にも愛されることなく本当の愛というものがどんなものかも知らずに生きて来た多喜にとって、弥九郎に対する恋心はこの上なく大切なものであった。もう自分は子供を産むこともできず、長生きもできそうにないと知っている多喜は、例え夫婦(めをと)になっても好いた男の子供を授かることはできないことはわかっている。ただ、弥九郎を求める気持ちだけはどうにも抑えきれなかった。

 「多喜さんの望みを叶えてあげてはどうですか?」
多喜への対応を相談した弥九郎への滝子の答えは、弥九郎にとっては到底受け入れがたい信じられない言葉だった。
「多喜さんが求めているのは、本当は父や兄のようなあなたでしょう。でも、多喜さんは今まで子供のまま無理やり大人の世界に引きずり込まれて生きて来て、同じ年頃の少女のような夢を見ることもできなかったのです。お医者様方はもう多喜さんに残された時間はそんなに長くないと仰っています。多喜さんは、遊女ではなくただの一人の娘として、好きな殿方と結ばれることで神に許されたいのでしょう。そのお手伝いをすることは、悪いことではありません。本当の夫婦でなくても良いのです。仮初の夫婦でも、多喜さんはきっと喜ばれると思いますよ。」
「ジュリア様がそう仰るのならば。」
弥九郎が不服そうに言うと、滝子はふっと寂しげな表情を受かべて言った。
「まこと、殿方には、女子の『恋しい男と添いたい』と願う気持ちなぞ、わかろうはずもありません。」
弥九郎はその言葉が聞こえていない振りをしながら、心の中で反論した。
(好きな女人から他の女と夫婦になれと言われる男の気持ちが、あなたにお判りになりますか?)
それでも、好きな人に振り向いてもらえない辛さは、滝子も弥九郎も、そして多喜も皆同じだと思い直し、弥九郎は、妹のような多喜のために、彼女の思いを遂げさせてやろうと心に決めた。

 「多喜。」
背を向けている多喜に弥九郎が声をかけた。声は立てずとも、小刻みに肩が震えているのはきっと泣いているのだろう。
「君の気持ちも考えずに、すまなかった。」
多喜は振り向くと、涙に濡れた顔を上げて無理に笑った。
「あたしがもう子供を産めないことも、弥九郎さんがあたしのこと女として見てないことも、弥九郎さんが好きな人が誰なのかも、あたし全部知ってる。でも、このままあたし死んじゃうんじゃないかって思うと、怖くてたまらないの。あたしのこと好きじゃなくても良い。妹みたいにしか思えなくても良い。それでも良いからただ、あたしのこと抱きしめて欲しいの。お金で買った女郎じゃなくて、普通の一人の女として、抱きしめてくれる人が欲しいの。あたしの体は汚れてるから、あなたと一つになんてなれなくても良い。ただ、一人ぼっちはとても寂しいから、あたしの体と心を包み込んで抱き締めてほしいの。」

 多喜もまた親を知らず、花街に育った自分を愛してくれる人は居なかった。母のような滝子に憧れ、父のような弥九郎に淡い恋心を抱いた。かつての弥九郎も、滝子の心の中では今も養父の存在が大きくて、とても敵わないと思いながらも、自らの思慕を断ち切ることなどできはしないと苦悩した日々を思い出し、島に居た頃からずっと、滝子を抱き締めたい思いを必死に抑えていた弥九郎は多喜と自分を重ね合わせた。
「もしもこんな身の上じゃなかったら、もし普通の家の娘に生まれていたら、普通に誰かを好きになって、夫婦になって、子供を産んで、幸せに暮らせていたかもしれないけど、神様はあたしにはそんな運命を与えて下さらなかった。でも、それはあたしの試練だとジュリア様が仰ったの。『あなたはどんなに厳しい試練にも負けない強い人だから、きっと乗り越えられるはずだと、神様があなたに試練を与えられたのですよ。』って。あたしは数えきれないほど好きでもない異人の男に抱かれて来たけど、最期くらいは本当にあたしの好きな男に抱かれたい。今まで頑張って来たご褒美だと、神様もきっと許してくださるよね?」
多喜は涙を流しながら笑って言った。
「私が君を抱いても、夫婦ならば姦淫ではない。きっと神様は許してくださる。」
弥九郎は多喜を抱き寄せて言った。突然で驚いた多喜も次の瞬間にはほっとしたような笑顔になった。
「ありがとう。弥九郎さん。ありがとう。」
涙を流しながら多喜は弥九郎の体にしがみついた。

 [その夜私は多喜と仮初の夫婦になりました。表面的には聖人君子のように装いつつも、生身の男である私には、夫婦になりたいと望んでも手の届かないジュリア様の身代わりに、私を慕ってくれる多喜を利用するつもりは微塵もなかったとは言い切れないと私は少し後ろめたい気持ちになりました。それでも嬉しそうに微笑んで、乙女のように恥じらいつつ私に身を委ねる多喜は、元女郎だったというのを忘れるほどに美しく清らかに見え、多喜は思いの丈を遂げてそのまま満足そうに眠りにつきました。
 私が多喜と一夜を過ごした翌日から、多喜の容態は急変しました。数日の間、私たちも医者も出来得る限りのことを試みましたが、薬石効なく、終に多喜は天に召されました。血の気の引いた白い顔は、うっすらと微笑みさえ浮かべ、満足げな表情に見えました。正式な契りを交わした訳ではないけれど、仮初にも夫婦の真似事をした多喜を失うことはやはり辛かったのですが、ジュリア様が、
「多喜さんはきっと天国からあなたを見守ってくれているでしょう。命を救うことのできなかった多喜さんのためにも、同じように苦しんでいる患者さんを一人でも多く救うことが、これからのわたくしたちの使命だと肝に銘じねばなりません。」
と仰ったので、私も気持ちを切り替えて、より一層精進の日々を送るべく決意を固めたのでした。]

8章 時の流れに

 [那賀崎に移り住んで十年の月日が流れ、ジュリア様は四十代となり、目も疎くなり、血の道症で度々体調不良に見舞われることもありました。温厚で常に冷静さを失うことのなかったジュリア様が、些細な出来事にも少し苛立ちをお見せになるようになると、私は少し悲しく思いましたが、後になってジュリア様がお気に病まれないように、私は何事にも動じぬ素振りをするよう努めておりました。
 私がかつて多喜という元女郎と仮初の夫婦になったことを知らない信徒や患者の中には、
「何故三十代の男盛りとなっても妻も娶らずに独り身を貫くのか」
と訝しむ者もありましたが、誰かに訊かれると決まって私は、
「私は命を救ってくださった大恩あるジュリア様と共に生涯をゲウス様に捧げる覚悟を決めています。そのために私は命に代えてもジュリア様をお守りし、全身全霊で神に奉仕せねばなりません。」
と笑顔で答えました。]

 心優しく、逞しい体を持ち、真面目で仕事熱心な弥九郎に仄かな好意を寄せる女も少なからず存在したが、弥九郎は頑なに同じ言葉を繰り返した。弥九郎は常に影のように滝子に寄り添い、心身の衰えを隠し切れなくなってきた滝子に一途に尽くし続けた。

 [更に十年が過ぎ、ジュリア様も五十代となり、既に初老の域に達すると、何をするにも若い頃と同じようにうまく行かないことが増え、更に私の世話になることでジュリア様ご自身が自信を失いつつあるように思えることが多くなりました。分別盛りと言われる四十代の中年男となった私は、なるべくジュリア様のお気持ちの負担にならないよう細心の注意を払って、さり気なくジュリア様を支えられるように努めました。私には子供は居ませんが、ジュリア様の敬愛してやまない養父・大西幸永様ならばどうなさるだろうと常に想像して行動しようと思っておりました。父の居ない私にとっては、大人の男の手本となるような人物がどんなものなのか、と考えた時に思い当たるのが、常にジュリア様から語り聞かせて頂いた幸永様しかなかったのです。
 重罪人の血が流れていると言われたことで自暴自棄になって荒れていた若い頃の私を救ってくださった恩人であるジュリア様に対する敬愛が、長じて何時しか女人としてのジュリア様に対する恋愛感情となり、その愛が決して報われることのないものだと知りつつも、異人の血が流れている元女郎の多喜を仮初の妻とし、更にその妻を亡くしても、常にジュリア様に寄り添い、いつまでも、何処までも生涯かけて献身的に尽くし続けようと心に決めておりました。ジュリア様のお養父上への断ちがたい思いも含めて、ジュリア様の全てを包み込んで受け入れることこそが私なりの愛の証と信じていたからです。]

 「セバスチャン、ちょっとよろしいですか。」
弥九郎は養生所を手伝う若い信者から声をかけられた。
「何でしょう。」
弥九郎が答えると、若者は診療録と処方箋を差し出して見せて、
「ジュリア様の出された処方箋なのですが…。」
若者は言いにくそうに言った。弥九郎は、訝し気に診療録と処方箋を受け取り、見比べるとはっと顔を上げて若者を見た。
「やはり。」
と若者は頷き、弥九郎は筆を取るとさらさらと処方箋に筆を走らせた。
「ジュリア様には私からご報告申し上げるので、これでお願いします。」
と弥九郎が診療録と処方箋を渡すと、
「わかりました。ありがとうございます。宜しくお願いします。」
と若者は一礼してその場を後にした。
(ジュリア様…。)
弥九郎は眉を顰め、視線を落として暫し考え込んでいたが、ふと意を決したように顔を上げ、滝子の元へ向かった。
 「ジュリア様、少しお時間を頂戴できますか。」
弥九郎の表情がいつもより硬いことに気づいた滝子は、
「ええ、わかりました。」
と答え、二人は他に誰も居ないことを確かめて話を始めた。

 「ジュリア様、今日診察の助手をしていた信徒の若者から、患者の女児に対するジュリア様のご処方について、『本来与えるべき薬の分量とかなり違っているのではないか。再度見直してほしい。』と私に申し出がございました。」
弥九郎が詳しく説明をすると、滝子は驚き、青ざめた顔で弥九郎を見つめた。
弥九郎は軽く頭を下げて、滝子に淡々と事実のみを報告をした。
「出過ぎたこととは存知ましたが、『ジュリア様には私からお伝えするから』と言い含めて、私が書き直した処方で薬を調合するよう指示を致しました。」
「ありがとう。わたくしのせいで、あなたにも、皆にも迷惑をかけてしまいましたね。」
滝子は申し訳なさげに言うと深々と頭を下げた。
「いいえ!迷惑なんてとんでもないことでございます。誰にでも過ちはあります。私だって、島の施薬所に居た頃はよく間違えてジュリア様に叱られたではないですか。」
と弥九郎は切なげに訴えた。
「それが今では叱られるのはわたくしの方なのですから。先日も薬草の名を取り違える誤ちをあなたに見つけてもらいましたし、歳を言い訳にしてはいけないのだけれど、やはり老いというものには勝てません。わたくしはあなたたちに助けてもらってばかりです。」
滝子は悲しそうに言った。犯してしまった過ちに対する反省は勿論だが、『些細な事』では済まない過ちにすら気づけなくなった自らの不甲斐なさに忸怩たる思いが溢れ、情けない気持ちで自らを責めても、どうすることもできない老いがひしひしと迫り来る恐怖に打ちひしがれていた。
弥九郎はそんな滝子の辛さをどうすることもできなず、歯がゆい思いだった。
「ジュリア様、まだ私があなたに拾って頂いて薬学を学び始めた少年の頃、薬草の名前を取り違え、分量を計り間違えた時のことを覚えていらっしゃいますか?ジュリア様は『過ちはだれにでもあることだ』と仰いました。『まだ害を被った者もないし、気づいて誤りを正せば問題はない』と。他の者より劣っていると焦るあまり、何でも一人でやろうとしていた未熟な私に、ジュリア様は『人は一人では生きられないのだから、助け合わなければいけない。もっと周りの人を頼りなさい。』と諭してくださいました。そして養父上様に『生真面目は疲れるから、もっと楽に生きろ』と言われたジュリア様に、私が似て来たと仰ってくださいました。ならばジュリア様。今度はあなたが私に頼ってください。世話になるとか、迷惑をかけるとか、そんな風に思われずに。私だって間違えることはあります。お互いに助け合い、支え合うのが人ならば、もっと私に頼って頂きたいのです。頼られないと私はジュリア様にとって信頼に足る人物ではないのではないかと思えて自信を失ってしまいそうになります。もしも私にその資格があるのなら、今までジュリア様が私を導いてくださった恩をこれから私に返させて頂くことはできませんか。私はもう十代の少年ではありません。巷では分別盛りと言われ、早いものなら孫さえできようかという四十代になりました。私たちはもう姉と弟ではなく大人の男女です。畏れ多いことだと今まで一人胸に秘めて来ましたが、私はジュリア様を、あなたを、一人の女人として愛しています。あなたも私を一人の男として見てはくださいませんか。」
弥九郎は堰を切ったように秘め続けた思いが溢れ出すのを止められなかった。
滝子は俯いて半身を捻るようにして弥九郎に背を向けながら、涙に震える小さな声で答えた。
「もうずっと前からあなたの思いには気づいていました。でも、わたくしはそれを受け入れることができなくて、気づかぬふりをしてきました。」
そしてその声は次第に大きく、いつもの冷静沈着な滝子らしからぬ熱を帯び始めた。
「初めて出会った時からずっとあなたのことは愛していました。最初は年の離れた弟のように。でもいつしかあなたの存在が、わたくしの中でどんどん大きくなっていくことが恐ろしくて、あなたを一人の殿方として意識すまいと、自分に言い聞かせていたのです。わたくしは、養父上を失ってから、『もう二度と愛する者を失いたくない』と怯えていたのです。大人になったあなたに養父の面影を求めて愛し、依存することを恐れて。あなたが雷に怯えるわたくしを抱き締めてくれた時は本当は嬉しかった。でも、そんな自分の気持ちを認めてしまうことが怖かったのです。人々はわたくしを『聖女』と呼びますが、わたくしは決して『聖女』などではありません。『わたくしには、万人を平等に愛する博愛、神の愛だけがあれば良い。特定の誰かだけに対する恋愛感情などあるわけがない。』と固く心に決めていました。それでも、多喜さんがあなたと夫婦になりたいと望んだ時、本当は、わたくしは自分の中に醜い嫉妬の感情が生まれそうになるのを、必死に堪えていたのです。あなたはわたくしのものでもないのに、あなたを失うのが怖かった。あなたと結ばれた多喜さんを羨む気持ちが微塵もなかったとは言い切れません。それでも、今までずっとわたくしはあなたへの思いを押し殺して来たのです。養父上以外の殿方をこんなにも恋しく思ったのは、あなたを置いて他にはおりません。でも、わたくしはもう決して若くはありません。何もかもがあなたの記憶の中にある昔のわたくしとは違います。セバスチャン、これから今よりもっと老いて、醜く、衰えていくわたくしでも、あなたは変わらずに愛してくれますか。ずっとわたくしの傍に居てくれますか。どんなわたくしでも、あなたは受け入れてくれますか。」
滝子の体をしっかりと抱き締めて、弥九郎は力強く答えた。
「ジュリア様、私が如何に頑固で不器用な男かは、三十年もの間を共に過ごしたあなたが一番よくご存知ではありませんか。あなたは『愛を知ることこそ人が生きる意味だ』と教えてくださいました。私はあなたを愛し、神の愛を学び、生きる意味を知りました。あなたがどれほど歳を重ね、変わって行かれたとしても、そんなことで私の気持ちが変わろうはずはありません。生涯あなたを愛し、共に生きると、私は今ここでゲウス様にお誓い申し上げられます。」
「セバスチャン、ありがとう。それほどまでにわたくしを思ってくれていたのですね。わたくしもまた、全ての人々を愛し、慈しむことだけが愛ではなく、あなたへの愛を知ることで、真の愛を、生きる意味を知りました。わたくしの残りの人生の全てをあなたに委ねても良いのですか。あなたはわたくしの全てを受け止めてくれるのですか。」
滝子ははらはらと綺麗な涙を零しながら言った。
「勿論です。ジュリア様。あなたの心も体も魂も、あなたが抱き続けておられるお義父上への思いもその願いも、あなたにまつわる何もかも全てを私の全身全霊かけて受け止めましょう。いつかあなたは私に『人は誰も一人きりでは生きられない』と仰いました。この先もずっと、神に召されるその日まで、あなたと私は互いに支え合いながら共に生きて行きましょう。」
弥九郎もまた泣いていた。

 弥九郎はその後もずっと従者の如く常に滝子の傍らに控え、片時も滝子から離れることはなく、滝子も何かにつけて弥九郎に相談し、その意見を聴いて頼るようになり、傍目には心身の衰えを自覚した滝子の面倒を甲斐甲斐しく弥九郎が看ているように映ったが、滝子がそれを気に病む様子もなく、弥九郎もまたそれを重荷に感じる様子もなく、その仲睦まじい様子はまるで長年苦楽を共にして来た夫婦のようであった。

 そしてまた十年が経つ頃にもなると、滝子は還暦を迎え、長年の無理が祟って体のあちこちが悲鳴を上げ始めた。弥九郎も既に五十代になり、頑丈な体にも衰えは隠せなくなってきていた。それでも滝子を支えるという気持ちだけは変わることなく、片時も滝子の傍を離れることはなかった。
 そんな二人には、折に触れ神集島で共に暮らした頃の様々な出来事が懐かしく思い出された。思い出話は尽きず、次第に望郷の念にも似た気持ちが膨らんでいった。
「セバスチャンは生まれ育った神集島が恋しくはなりませんか?わたくしには生まれた李国の記憶はないから、育ったところと言えば西国ですが、養父が亡くなって十年の間に帝都から東都へ、更に閑阜へ、更に短い間でしたが大島から新島を経て神集島で七年を過ごしました。それでもどういう訳だかわたくしは、もしかしたら流罪になった時に『生涯出られないかもしれない』と覚悟を決めたあの神集島が、何故か第二の故郷のように思えるのです。あなたや島の人々への感謝の気持ちは、今もわたくしの中にずっと残っています。わたくしに残された時間はもうそれほど長くはありません。あなたの生まれたあの神集島へわたくしを連れて戻ってはくれませんか。わたくしは最期の時をあの島で迎え、あの島の土に還りたいのです。」
滝子は穏やかにしかしはっきりとその意思を弥九郎に伝えた。
「ジュリア様の望む場所ならば、どこへでもお供致します。例えそれが地獄だとしても。」
弥九郎は言葉を選ばずにそう言った。神に仕える者として、地獄へ等とはものの例えにしても口にすべき言葉ではないのかもしれないが、それほどまでに滝子に忠誠を尽くすという気持ちが嘘ではないことを、無意識のうちに強調した表現であることを滝子も充分理解していた。
「わたくしはあなたよりも十も年上です。わたくしは先に天に召されるでしょうけれど、神の国で必ずあなたを待っています。」

9章 帰還

 [ジュリア様と私は那賀崎を後にして東国に向かい、神集島に向かう船を頼みました。三十年経って島へ戻って、島の様子も島民も変わってしまってはいないかと一抹の不安を抱きつつも、島を目指しました。]

 「流人でもないのにわざわざ本土から一番遠い神集島に渡りたいなんて、おたくらも物好きだねえ。ま、礼金さえもらえば客は客だから、あっしらの知ったことじゃあねえんだがよ。」
船頭は呆れ顔で言った。弥九郎は穏やかな笑みを湛えて答えた。
「私はあの島で生まれ育ったものでね。故郷へ帰ることにしたのですよ。」
「ほお、そういうことかい。」
どうでもいい、と口には出さないが、船頭は興味なさげな返事を寄越した。

 島に降り立つと滝子と弥九郎はかつて共に暮らした教会兼施薬所を目指した。途中で立ち寄った島民の村にはまだ顔見知りが何人も居て、三十年ぶりに会っても、滝子と弥九郎のことはよく覚えていると歓迎してくれ、特赦になってもそのまま島に残った信者と、布教により入信した村人たちによって滝子たちの活動は引き継がれていたことを伝えてくれた。信者が増えて薬草園兼自家菜園も大きくなり、教会では集会も行われて村の子供たちもゲウス神の教えを学んでいた。
 村人たちは教会の近くに滝子と弥九郎の住む場所を用意して、昔のように教会の手伝いをすることが出来るようにしてくれた。
弥九郎は、年を重ねたとはいえ、まだ仕事をこなすことが出来たが、時が経つに従って老いて弱って来た滝子は次第に床に臥すことが多くなって来て、弥九郎は懸命に看護し、島民や信者たちも代わる代わる世話をしてくれた。少しでも滝子に元気をつけようと毎日薬草を集めては試行錯誤で調合した薬湯を飲ませていた弥九郎だったが、滝子は徐々に弱り、食物を口にすることさえできなくなって、日に二度の薬湯でやっと命を繋いでいるような状態だった。

 終に暖かい小春日和の日に滝子は弥九郎はに最後の言葉をかけて、神に祈りを捧げた。
それからは水すら口にすることなく、大輪の花が枯れるように、滝子の命の火は静かに消えていった。

 滝子は閉じたままの瞼の裏の暗闇から、いつしか眩しい暖かい光に包まれ、天に召された。魂のみの存在となった滝子が天に向かって両腕を伸ばすと、体がふわりと浮き上がってどんどん高みへと昇って行く。
「滝子。さあ、おいで。」
聞き覚えのある優しい声が聞こえる。高い空の上に、養父・大西幸永アウグスティヌスが滝子に向かって手を差し伸べている姿が見える。二人の養母、喜久姫ジュスタと竜乃殿カタリナも手招きしている。
「ジュリア。待っていましたよ。」
「さあ、共に天に昇って神の国へと参りましょう。」
滝子の手が養父の手に届くと、眩しい光に包まれて滝子の魂は養父母と一つになり神の国へと召されて行った。
「セバスチャン、きっとまたあなたには会えますから、わたくしは少しも寂しくありません。わたくしは先に神に召されますが、神の国であなたをずっと待っていますよ。あなたはあなたのなすべきことの全てをなし終えてから、ゆっくりと神の国へおいでなさい。」
滝子は遠く離れて見えなくなっていく地上に向かって心の中でそっと呟いた。

終章 李国風の墓

 [『神津島の土になりたい』というジュリア様のお望み通り、私は島でジュリア様を弔いました。本当の李国に行ったことはありませんが、物知りな信徒のジョンに尋ね、島の墓地に見よう見まねで李国風の墓を建てて、ジュリア様を埋葬しました。島民は皆ジュリア様をお慕いしていたので、墓を建てることに異議を唱える者は誰もおりませんでした。
 私ももう十分歳をとりましたし、必ず待っていると約束してくださったジュリア様と神の国で再びお会い出来るよう、日々ゼウス様にお祈りを捧げています。

 ある日、ジュリア様の墓前に芙蓉に似た大輪の花が供えられていて、私は初めて見たその花の名前を知らなかったのですが、博学なジョンが『木槿』という花だと教えてくれました。ジュリア様の故国・李ではよく見られる花だそうですが、一体誰がその木槿の花を供えてくれたのかは、誰に尋ねても知らず、とうとうわからず仕舞いでした。その後もジュリア様の命日には決まってジュリア様の墓前に木槿の花が手向けられていたのですが、誰もその花を供えた人物には心当たりがなく、結局ずっと謎のままでした。]

 数奇な運命に翻弄され、最愛の養父の理想とした世界の実現を夢見て、信仰のために人生の全てを捧げた聖女・大西滝子ジュリアと彼女を愛し、生涯支え続けた弥九郎セバスチャン。
滝子は若くして失った養父・大西幸永アウグスティヌスの代わりとして無意識に年下の弥九郎に父性を求め、弥九郎もまた愛する滝子のために父代わりを務めようとした。

 滝子は信仰によって救われ、信仰を唯一の心の拠り所としたために将軍の求愛を拒み、長い間弥九郎の恋愛感情をも拒否して来たが、もしかしたらそのことに対する罪悪感をずっと感じていたのかもしれない。弥九郎が余命幾許もない元女郎の少女多喜と仮初の夫婦となったことでようやく一人の人間であり、女である自分の本心を認めた滝子は、初老となってやっと弥九郎の思いを受け入れ、穏やかな最期を迎えることが出来て、神の国に召された。

 弥九郎は滝子の死後も神集島で滝子の墓守をしながら暮らし、滝子の遺志を継いで、生涯を布教と奉仕活動に捧げ、没後は滝子の眠る神津島の墓地に埋葬されたと言う。
 神津島では、弥九郎の死後も、元流人の信者と島民たちの子孫によって滝子の残した教会の活動が継承され、滝子を慕いその墓に訪れる者が絶えることはなく、滝子の命日には、毎年決まって故国・李の花『木槿』が、滝子の墓に供えられていたという。

『芙蓉に似た花』終わり
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芙蓉に似た花 前編

2022-01-03 18:31:18 | 小説
(この小説は歴史上の人物等から発想を得たものではありますが、実在の人物、宗教、歴史等とは一切関係ありません。)

序章 小春日和

 [秋ももうそろそろ終わりだというのに、まるで春のように暖かなこんな日には、ふと思い出します。ちょうどこんな小春日和の日でした。明るい日の光が射し込んで照らされるそのお顔には、年齢を感じさせるいくつもの皺が刻まれていてもなお美しく、暖かい風が白いものの混じった鬢(びん)の髪を微かに揺らしていました。もう既に食事が喉を通らず、日に二度私の作る薬湯(くすりゆ)だけでも飲むのがやっとで、殆どの時間は静かに眠っておられたのに、あの日はふと目を覚まされて私に声をかけて来られたのです。
「…セバスチャン。」
「ジュリア様、お目覚めですか。」
私は小枝のように細くなったジュリア様の手を取り、答えました。
「もうあなたとお話できるのはこれで最後になるかも知れないから、あなたにお礼が言いたいのです。これまで長い間共に生きてわたくしを支えてくれて本当にありがとうございました。」
「ジュリア様!」
私は咄嗟のことで動揺して暫し言葉を失い、思わず涙が溢れました。
「どうか最後なんて仰らないで下さいませ!あなたに救って頂いて、お導き頂いたからこそ今の私が居るのです。私こそ、あなたには感謝の一言では到底表せない大恩を頂いたのですから。」
ジュリア様は私を見つめて幽かに微笑んでお答えになりました。
「セバスチャン。どうかわたくしのために泣かないで下さい。わたくしはやっとこの世での試練を終えて、間もなく神の国に召されるのですから。」
そしてジュリア様は天に向かってお祈りをされました。
「天にまします我らの父なる神よ。わたくしの罪をお許しください。世の人々の全ての罪をどうかお許しください。そして天と同じく地上にも神の国が来ますように。全ての人々が神の愛を知り、互いに愛し合い、慈しみ合えますように。この世から戦がなくなり、親を亡くす子や、子を失う親が生まれませぬように。」
そう言うとジュリア様は静かに目を閉じて、再び眠りにつかれました。
それからはもう薬湯さえ口にされることなく、二日ほどして大輪の花が枯れるように静かに天寿を全うされました。
 これは数奇な運命に翻弄された一人の女人の物語です。]

1章 李国の幼女

 [かつて太閤・富豊義英(とみとよ・よしひで)公は、天下統一を成し遂げた勢いから海を越えて隣国『李(り)』へと兵を送りました。その一番大将を務めたのが大西幸永(おおにし・ゆきなが)様で、武将でありながら、遠い異国のゲウスという神を信仰していたために、情深いお方と民に慕われていたそうです。]

 当時李国の高級貴族階級では、侵攻してきた兵たちに捕らえられて他国へ連れて行かれることを恐れ、美形の女子や子供たちを守るために、わざとぼろぼろの衣服を着させ、顔に煤を塗ったり、身体が不自由であるかのように脚を引き摺って歩いて見せたり、奇声を上げ、あらぬ方向を見つめて狂気を装ったりしたが、殆どは拙い偽装を見破られて連れ去られたり殺されたりしたという。

 幸永は、攻め入ったとある高級貴族の屋敷で、偶然部屋の隅の戸袋の中に隠れて泣いている三歳くらいの幼女を見つけた。幼女は、芙蓉に似た大輪の花を模したような柄の、瀟洒な刺繡を施した紅梅色の絹の衣服を身につけており、一目で高級貴族階級の子女であることが見て取れた。幼女ならば、殺伐たる戦場となったこの屋敷で戸袋の隙間から覗き見た地獄絵図に、恐怖から声を限りに泣き叫んで親を呼ぶところであろうが、その子はぼろぼろと涙を流しながら声を圧し殺して泣いていた。敵に見つからぬようにと親に言い含められていたのかもしれないが、その両親はじめ家族や使用人の大人たちが皆殺されたり捕縛されたりする中で、両の拳を固く握りしめ、歯を食い縛って耐えるその気丈な姿はあまりに健気で、幸永はこの幼女を保護しようと決めた。
(このまま捨て置けば、親の居ない幼女は一人では生きて行けまい。或いは悪意ある大人によって危険な目に合うかもしれぬ。)
と思ったのだ。

 「そちの名は何と申す?」
幸永は幼女に問うたが、幸永の言葉の意味がわからぬというように幼女は押し黙ったままぶんぶんと激しく頭(かぶり)を横に振った。初めて見た異国人の、血塗れで抜身の刀を持つ甲冑姿の武将が、鬼か悪魔のように恐ろしくて声も出せなかったのかもしれない。
「我が名は、大西幸永、と申す。」
と幸永は跪いて幼女の顔を覗き込みながら、自らの胸に手を当ててゆっくりと名乗り、更に幼女に向かってゆっくりと続けた。
「そちの、名は、何と、申すか?」
「…たぁ◯△✕…。」
幼女が呟いた異国の言葉は、何度聞き返しても幸永には聞き取れなかったが、ただ「たぁ」という音だけははっきりとわかったので、幸永はその耳に聞こえた音に一番近い新しい名前を幼女に与えることにした。
「よし、では今この時よりそちの名は滝子じゃ。我が大西家の猶子(ゆうし・作者注:相続権のない養子)として迎えよう。」
幼女も言葉は通じなくても、幼女の目線に合わせるように跪いて自分の目をじっと見つめている幸永が自分に危害を加えるような相手ではないと感じたのか、こくりと頷いた。
幸永は幼女を抱き上げ、幼女も抵抗することも怯えることもなく幸永に身を委ねた。

 幸永は帰国後西国の居城に戻り、正室の喜九姫(きくひめ)、側室の竜乃殿(たつのどの)に、幼女を滝子と名付け、猶子としたことを告げた。二人の妻にはそれぞれ一人ずつの女児と複数の男児がおり、妻たちもその子供たちも異国人の幼女である滝子を温かく迎え、本当の家族のように接した。幸永とその家族は根気よく滝子に言葉を教えたが、生来賢かった滝子は乾いた海綿が水を吸い込むように早々に言葉を覚え、元より美しい容姿と生まれ持った気品に加えて礼儀作法も教養もすぐに身につけてしまった。
 大西幸永とその家族は遥か遠い異国から伝えられたゲウス神を信仰しており、それぞれが信仰の証に名を与えられていて、滝子もその教えを受けて入信し、ジュリアの名を与えられた。

 「滝子、そなたはこの国と李国との争いに巻き込まれ、生みの親を失うと同時に、家族も家も同胞も故国も、自らの本名さえも失いはしたが、この国に来て、大西滝子という新たな名を得ると同時に、新しい家も親も家族も国も手に入れた。そして此度は父なる神ゲウス様の神の国へ入り神の子となるために、ジュリアの名を得て、ゲウス様を信じる世界中の全ての者がそなたの家族となった。これからは自らも精進しつつ、皆を導くよう努めよ。」
幸永はゲウス信者となった滝子にそう諭した。
 幼かったとはいえ、故国での体験は鮮明に滝子の記憶に刻み付けられている。惨殺された人々の断末魔の叫び声、血塗れで呻く瀕死の人々の姿、冷たく固い骸となった物言わぬ人々。父母の面影は薄れて消え失せても、戦場となった故国で見た残酷な同胞の死に様は悪夢となり、今も現実のように鮮明に蘇って来る。敵国の将であった幸永は言うなれば仇ではあったが、実の子と同様に愛し慈しんで育ててくれている幸永は、今や滝子に取ってはかけがえのない存在であり、実の親以上に真の父親であると言っても過言ではなかった。

 大西幸永は帝都に近い商都・巽州楠庭(せんしゅう・なにわ)の狭加井(さかい)の出身で、生家は薬業を営んでいた。次男であった幸永は長じて生家を出て他の商家の養子となり、商売のため度々居城を訪れていた武将・浮田家尚(うきた・いえなお)に見いだされ、武士に取り立てられて、召し抱えられた後に頭角を現し、自らも武将となり、ゲウス神を信仰する武将・多嘉山左近(たかやま・さこん)からの布教を受けて入信し、アウグスティヌスの名を授けられた。正室の喜九姫、側室の竜乃殿も幸永に嫁いで来てからその教えを受けて入信し、その子供たちも皆信者となった。

 幸永は武将の身でありながら、実家で得た薬の知識を生かして領内に無償の施薬所を設け、領民に奉仕していたが、少女時代の滝子もまた養父に習ってその手伝いをしていた。
「滝子、病や怪我に苦しむ民が、施薬所を訪れてその苦しみから解き放たれ、笑顔で日々過ごせるようになれば、本人や家族は勿論だが、ゲウス様も喜んでくださる。そして何よりもまず我らの喜びになろう。」
幸永は滝子にそう声をかけた。
「はい、養父上(ちちうえ)。皆が元気になっていく姿を見るのはわたくしにとっても大変嬉しいことです。」
滝子は微笑んでそう答えた。
「滝子、世の中には病気や怪我の他にも辛いことや苦しいことがある。それは全てが悪事に報いた天罰ばかりではなく、いわれなき理不尽な辛苦であることも大いにあり得るのだ。私は元は薬商人の子であった。薬によって人を救うのは素晴らしい仕事であることは今のそなたも身を持って感じておろう。だが、一方で私は武将として、そなたの故国の同胞のように、或いはこの国の同胞であっても、戦場(いくさば)では人を殺めねばならぬ。人を殺めることはゲウス様の教えに反することで、決して許されることではないが、それでも私は戦に赴き、敵は勿論、時には罪もない人々をも殺めなければならないことがある。その葛藤は常に私の中から消えることはない。施薬所で人を救いながら、一方で人を殺めるという矛盾は常に私につきまとう。滝子にも実の親にも李国の民にも本当に申し訳ないことをした。」
幸永は目を伏せて頭を下げ、滝子に詫びた。
「養父上、どうかお顔を上げてくださいませ。養父上はわたくしの命を救って下さった恩人なのですから。初めて養父上と出会った時のことをわたくしは朧気ながら覚えております。最初は血まみれで刀を持った甲冑姿の武将が恐ろしくて、まるで悪魔が襲って来たように思えて、わたくしは酷く怯えておりました。それでも跪いてわたくしに微笑みかけてくださった養父上の優しい眼差しとわたくしの名を尋ねる穏やかで心地良い声に触れ、今ではわたくしには、幼いながらに『この方はわたくしをお救い下さる神様の御使いかも知れない』と感じ取ったように思われてなりません。ですから、わたくしは養父上に感謝しておりますし、今では実の父以上と思うてお慕い申し上げております。」
滝子が大きな幸永の手に自らの小さな手を重ねて言った。
「ありがとう、滝子。だが、そんな矛盾が起こるのは、今この世の中がまだ神の国にはほど遠いからなのだよ。全ての人が、国の違いを越えて愛し合い、慈しみ合い、共に手を取って生きることができれば、この地上にも天のように神の国を築かれれば、戦も争いもなくなる。人が人を殺めるような世の中ではなくなるのだ。そのためには皆がゲウス様の教えに従い、清く正しく慎ましく生きねばならぬ。私は常にそこへ至る歩みは止めずに、せめて今は殺めた人への鎮魂の祈りを捧げながら、施薬所で奉仕することによって、できる限りの人を救う。李国の人々への鎮魂の祈りを捧げながら、実の親に変わって滝子を我が子として立派に育てる。それが私に与えられた使命だと思っているのだよ。異国人である滝子とも、今はこうして親子になれているし、他の兄弟姉妹とも全く同じように滝子を愛している。病気や怪我に苦しむ人もこうして薬の知識があれば救うことが出来るが、そもそも誰も戦で争うことのない世界で、皆が豊かで幸わせに暮らすことが出来れば、薬以外でも人を救うことが出来る。それは神の意志に通じる『愛』というものだ。『愛』を知ることが即ち生きることの意味なのだよ。」
幸永は自らが理想とする世界とは即ち神の国であり、愛を知るために人は生き、それこそが神の意志だと滝子に教えた。
「養父上、なぜゲウス様は罪のない人にも苦しみを与えられるのでしょうか。人が生まれながらにして背負う原罪への贖いなのでしょうか。」
滝子は少し悲しげに幸永に問うた。
「滝子、勿論それもあるだろう。だが、それだけではない。神は何度も人を試されるのだ。それを我々信徒は試練と呼んでいる。どれほどの苦しみを与えられても、神を裏切ることのない、深く強く揺るぎない信仰心を持ち続けられるかどうか、試されているのだ。どんなに厳しい試練を受けても、逆に甘美な誘惑の罠を仕掛けられても、一途に神を信じる者のみが神の国に受け入れて頂けるのだよ。苦しさに負け、甘言に負ける信仰心の弱い者は、神を裏切って地獄の業火に焼かれるのだ。そうならないように強く自分自身を律せねばならない。滝子も幼くして辛い目にあったが、今はジュリアの名を得て、ゲウス様がそなたと共にある。どんなに辛くても、ゲウス様を信じ、人に尽くし続ければいつかきっと神の国は来る。全ての人が救われ、神の愛に満ちた世がきっとこの地上に現れるのだよ。」
幸永の言葉に滝子は深く頷き、幸永の理想とする世界に滝子は心からの共感を覚えたのであった。

 滝子が大西家に来た当時はまだ三歳ほどの幼女であったから、目まぐるしく身辺が変化していく状況に対応するのが精一杯だった。言葉も通じぬ見知らぬ国へ連れて来られて、最初は不安で仕方なかった。幸永初め、大西家の家族は皆優しく、自分に危害を加える危険は微塵も感じなかったが、それでも不安と恐怖を拭い去ることはできなかった。物心ついて次第に環境に慣れ、日常に適応できるようになると、今までは考えてみたこともなかったことに悩み始めた。

 「何故李国は攻められたのか。」
仮に国と国との間に子供にはわからない難しい事情があって、戦になることは止められなかったとしても、同胞たちは何故殺されなければならなかったのか。おそらく彼らには何の罪もなかった。今の自分や養家族と同様に日々平和に幸福に暮らしていたことだろう。ある日突然異国から来た兵たちに理不尽に命を奪われ、たまたま自分は養父に引き取られ幸せに暮らすことができているが、同じように親を亡くした子供たちは、その場で親と一緒に殺されたり、一人ぼっちになって飢えて死んだり、悪意ある大人の手で連れ去られ、人買いに売られたり、辱しめを受けたりした者もあったという。
「何故そんな目に遇わなければならなかったのか。」
そう思うとやりきれなかった。
何故自分は戦に巻き込まれ、生きるためには仕方なかったとはいえ、親の仇と言っても良い敵将の子として引き取られて、見知らぬ異国へ連れて来られるという波乱の人生を生きねばならなくなったのか、と人生の不条理に納得することが出来ず、
「何故自分だけが。どうしてこんな目に。」
と繰り返し自問自答する滝子にもたらされた答えが、信仰であり、唯一の心の救済であった。
それ故に
「もうこれからは如何なる試練によって信仰を試されても、自身の信仰は決して揺らぐことはない。」
と滝子は固く神に誓った。

 それは養父の与えたゲウス神の教えが彼女に答えをくれたからであった。
「選ばれし者が死後に神の国へと招かれるための試練。そして全ての人が救われる神の愛。この世が神の愛に満ちていれば、天と同じく地上にも神の国が訪れる。自分に与えられた辛苦は、神の手によって養父の元へと導かれるためのもので、そこで神の教えを知り、神に受け入れられるための試練だったのだ。」と。
 滝子には他に何もなかった。全てを失い、得たものは信仰心だけ。猶子である滝子にとっては、今の居心地の良い大西家ですら、もしかしたらまた戦に巻き込まれたりして、いつか失うかも知れないものに過ぎず、決して奪われることのないものは信仰だけだった。
国が敗れ、家が壊れ、人が亡くなっても、神とその信仰だけは失われないし、誰にも奪われない。滝子に取っては信仰が全てであり、養父の語る理想の「神の国の実現」即ち「争いのない世界で、人々が愛に満ち、平和で幸福に暮らせること」、「愛を知ることで生きる意味を見つけること」はいつしか完全に滝子自身の理想そのものになった。

2章 運命の歯車

 [太閤・富豊義英公が亡くなると、「その覇権を継ぐ者は誰か」と世は混乱を極めました。太閤の側近であった菱田光斉(ひした・みつなり)殿が太閤の遺児を支えることで富豊家の存続を訴えたのですが、東国で強大な勢力を誇る武将・奥川保家(おくかわ・やすいえ)公が反発し、それぞれに賛同する諸国の武将たちは東の奥川軍と西の菱田軍に分かれて戦となりました。ジュリア様の養父である大西幸永様は、太閤殿下から李国討伐の一番大将を命じられたほど深く信頼されており、その恩義に報いるため大西幸永様は西軍の菱田光斉殿に与(くみ)することとなったのですが、戦力的に圧倒的に不利であった西軍は敗北し、大西幸永様も捕縛され、奥川保家公から切腹・斬首を命じられました。

 大西幸永様の猶子であるジュリア様の噂はかねてより保家公の耳にも届いており、
「李国討伐の際、大西幸永殿がかの国の高級貴族階級の孤児を猶子としたが、その娘・滝子殿は気品に溢れる絶世の美女で、教養深く礼儀作法も弁えた才色兼備である。」
と専らの評判だったので、保家公は養父を失ったジュリア様を、旧富豊家居城・芙志美(ふしみ)城内に住まう自身の側室付きの侍女として召し上げられたのですが、既に還暦に近い保家公は、噂以上の才色兼備であるジュリア様を目の当たりにすると、実に親子以上に歳の離れた、まだ齢十三ほどのジュリア様を何としてもご自身の側室にと望まれたのです。]

 奥川保家は西軍に与して斬首刑に処した大西幸永の猶子・滝子に自身の側室付きの侍女となるよう命じ、芙志美城へと召し出した。
まだ幼さの残る少女ではあったが、既に才色兼備の誉れ高いと噂に聞く滝子と保家が直に合い見(まみ)えるのは初めてだった。
陶器の如く白いきめ細かな肌、漆黒の髪と瞳。その立ち居振る舞いにも気品が感じられ、切れ長の眼(まなこ)からは利発さと意思の強さが伺えた。保家は噂以上の滝子の姿に一目で心を奪われた。既に還暦に近い保家にとっては子どころか孫と言ってもおかしくない小娘でありながら、圧倒されるような存在感と落ち着きはとても齢十三の少女とは思えないほどで、歳を重ねる毎に若い可憐な娘に興味を示すようになって来た保家でも、滝子だけは正に別格だった。

 「滝子殿、そちは大西幸永殿が李国の戦役の際に連れ帰り猶子とした李国人の孤児と聞く。養父を亡くしたそちを、儂(わし)の側室の侍女として、大西殿にも縁の深い元富豊家居城・芙志美城にて召し抱えたが、猶子とは言え大西家の息女。いっそのこと侍女ではなく儂の側室になる気はないか。」
滝子は深々と頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げるときっぱりと言った。
「養父を亡くしたわたくしを、侍女としてお召し抱え頂きましたことは、誠に有り難きお心遣いと心より感謝致しておりますが、わたくしはゲウス神の教えを受けジュリアの名を頂きし者故、主(あるじ)としてお仕え申し上げるのはゲウス様のみ。『万人を平等に愛し慈しむ神の愛を、この世で実現するためにのみ生きる』と、わたくしは心に固く誓っております。何方(どなた)であろうと今生で特定の殿方に添うつもりはございません。」
滝子には信仰を理由に断られたが、既に還暦に近い高齢の保家は、「滝子はまだほんの小娘で世間知らずなのであろう」と思い、「もう少し大人になれば、きっと考え方も変わるに違いない」と一旦は引くことにした。

 かつて太閤・富豊義英公が側室にした西の丸殿の実父・字居正長(あざい・まさなが)と義父・田芝家克(たしば・いえかつ)が共に若き日の太閤の手で滅ぼされているように、武家にとって女は人質や褒賞の如くやり取りされるものに過ぎない世の中だとしても、滝子は実の親の仇にも等しい大西幸永に猶子として引き取られはしたが、実の親以上に慕うその最愛の養父を奪われた滝子にとって、養父に切腹・斬首を命じた、文字通りの養父の仇である保家の側室になることだけは、決して受け入れられなかったのかもしれない。

 芙志美城内で侍女として働く傍ら、滝子は大西家で学んだ薬の知識を生かして無償で民に奉仕しながら、同僚等に布教し、でき得る限りの慈善事業も行っていた。
一人でも多くの人が信仰を持ち、神によって救われれば、いつかきっと養父が理想とし、今や自らの理想ともなった神の国の実現に近づくに違いない、と固く信じて疑うこともなく。

 ほどなくして帝から将軍位を授かった奥川保家は東国の要として築かれた東都城を居城とし、帝都に近い芙志美城から自身の側室付きの侍女として滝子を呼び寄せ、改めて「側室にならぬか」と滝子に問いかけるも、滝子は天下人たる将軍の側室となることにすら全く興味を示すことはなく、相変わらず「主は神のみ」と固辞して、東都城でも以前と同じように薬の知識を生かして奉仕活動を行い、布教と慈善事業に努めた。

3章 暗転

 [東西両軍の戦から五年、将軍位を子へと譲り、更に二年後には隠居として故郷の閑阜(しずおか)城に戻った大御所様こと奥川保家公は、ご自身の第一等侍女へと昇進させたジュリア様を閑阜城へ呼び寄せられたのですが、ここでも重ねて側室になるよう十八歳のジュリア様に迫られたのです。ジュリア様は相変わらず側室となることだけは頑なに拒まれ、ここでも引き続き真摯に職務をこなしながら奉仕活動と布教、慈善事業を行っておられたのです。度重なる「側室となるように」という大御所様の命令にも頑なに拒否を貫かれるジュリア様に、大御所様は次第に苛立ちを隠せなくなって来られていました。
 大御所様は熟慮の末に
(他の女ならば、二つ返事で従うはずなのに、滝子は決して首を縦に振らない。贅沢な生活や自らの権力を欲することもなく、強大な権力に屈することもなく、滝子が頑なに拒むのは全て信仰のせいである。何度側室になるようにと命じたとしても信仰がある限り滝子が受け入れることはあり得ない。ならば、信仰を棄てさせよう。)
という結論に至ったのでございましょう。
そして生来策謀に長けた大御所様は、ジュリア様のご性分から考えて、ジュリア様ご自身を責めるよりも、見せしめにジュリア様以外の信徒たちの苦しむ姿を見せる方がよりジュリア様を追い詰めることになるであろう、とも考えられたのです。]

 滝子に何度も袖にされたことに痺れを切らした保家は、東都城から閑阜城へ移って五年後、ついに『禁教令』により、全てのゲウス神信者の弾圧を開始したのである。
信者を捕らえて拷問にかけて棄教を迫り、応じぬ者は厳罰に処した。かつて武将と呼ばれた大名たちですら棄教を拒めばお家断絶の憂き目にあい、家臣の武士も切腹、庶民は捕縛し手足の指を切られるなどの拷問の上、死罪に次ぐ重罪である遠島等の厳罰に処すこととした。

 「そちは芙志美から東都を経てこの閑阜まで忠勤に励んで来たのに免じ、直ちに棄教すれば一切咎めはしないが、あくまでも強情を張るのなら、皆への見せしめに、そちに近しい邪教徒の顔に焼き印を施して島流しとし、そち自身にも遠島を申し付けねばならん。それでもそちは邪神への信仰を捨てぬと言うか。」
保家は滝子を呼び、直々に問うた。滝子は捕縛されるのなら殉死も覚悟の上で涙ながらに訴えた。
「如何様(いかよう)に仰られましょうとも、わたくしが身も心も捧げてお仕え申し上げるのは天にまします父なる神・ゲウス様のみ。例え殺されても信仰を捨てることなど出来ません。それはわたくしのみならず、全ての信徒も同じ思いでございましょう。」
滝子が保家の側室となりさえすれば、他の信者たちは弾圧を免れることはわかっていただけに、滝子は苦しんだ。
「これほどまでに儂が歩み寄ろうとしても、そちは頑なに儂を拒むと言うのだな。もうよい。それならば、この世で邪神の教える地獄とやらよりもずっと辛く苦しい責めを負うて、後悔しても後の祭りと知るが良い。」
保家はその場で滝子を捕らえさせ、すぐさま家臣に命じてそれぞれクレアとルチルという名を与えられた二人の信者を捕らえさせた。
二人は滝子と共に城内で働いていた侍女たちであり、滝子の布教に感化されて入信した者たちであった。
 少し離れたゲウス信徒の拷問の場が見える牢獄に滝子は一人で閉じ込められ、猿轡を嚙まされて言葉を発せられないようにされた上で身動きできないように縛り上げられ、両側から二人の獄吏に押さえつけられた滝子の目には、クレアとルチルが拷問の場に引き立てられて来たのが見えた。

 「忌まわしい異教徒め。邪神の教えを棄て去ると誓え。さもなくば、痛い目を見るぞ。」
役人はぴしりと鞭を地面に打ち付けて捕縛されたクレアとルチルを威嚇した。
「それだけはできません。例え殺されても、ゲウス様の教えを棄てることは決してありません。」
「これはわたしたちに与えられた神の試練なのです。教えを棄てることは神を裏切り、自らを裏切ることです。そんなことは絶対にできません。」
クレアとルチルは口々に訴えた。
「ええい、強情な女どもだ。」
役人は二人を鞭で打った。何度も何度も振り下ろされる鞭が二人の皮膚を破り、肉が裂け、血が流れても、鞭の音が止むことはなかった。
「待て。」
役人の傍らに居た保家の家臣が水平に腕を上げて役人を制しつつ二人に言った。
「閑阜城内にて共に勤めていた侍女の大西滝子なる女人に棄教するように口添えするのであれば、大御所様のお慈悲によりこれ以上の罰を免れることができるやもしれぬぞ。」
ぐったりとしていたクレアとルチルは、それでも顔を上げてはっきりと答えた。
「いいえ、わたしたちが教えを棄てることもありませんし、万に一つもわたしたちがジュリアに棄教を勧めることもありません。」
「それに、仮にわたしたちが勧めたとしてもジュリアは決して信仰を棄てないはずです。」
「そうか、ならば仕方がない。異教徒は額に十文字の焼き印を押して流罪とすることになるが、良いのだな。」
家臣は冷たく言い放った。
「考え直すなら今のうちだぞ。」
しかし、二人はきっぱりと答えた。
「それが神の思し召しならば。」
「神よ。どうか彼らをお許しください。彼らはまだ神の教えを知らないのです。」
家臣は役人に向かって一言
「やれ。」
と言い、役人は
「はっ。」
と答えて一礼した。
しゅうしゅうと音を立て、白い煙を立ち昇らせて、真っ赤に焼かれた鉄の焼き印がクレアとルチルの額に押し付けられ、二人の悲痛な叫び声が響き渡った。二人の額はじゅうじゅうと音を立てて焼かれ、肉の焼け焦げる臭いが鼻をつき、十字の形に醜く焼け爛れた額の痛みに二人は気を失うことも許されず、ただ呻き声だけを上げ続けていた。断罪を受けた二人はその場から連れ去られ、流人として離島へ送られる者たちが船を待つ牢獄に収容されることになった。

 クレアとルチアの断罪の顛末を目の当たりにして滝子は苦悩した。
友に思いを伝えたくても言葉にならないし、叫ぼうとすれば獄吏たちに強く床に押し付けられて呻くのがやっとで、止め処もなく涙は溢れるけれども、滝子には友を救う術はなかった。容赦なく加え続けられる拷問に蹂躙されて、美しかった二人の友の姿は醜く残酷に変わり果てて行くのを、滝子は目を逸らすことすら許されず、ただ見つめ続けるしかなかった。

 滝子は牢から出され、猿轡と縄から解放され、家臣によって再び保家の前に引き出された。
「そちのために二人の友が犠牲になったのに、それでもなお、人としてそちの心は微塵も痛まぬのか。今からでもそちが改心し、儂の側室となるのであれば、友の流罪だけは赦しても良いのだぞ。他の邪教徒たちの罰を減じてやっても良い。だが、あくまでもそちが儂を拒むというのなら、更にそち自身にも遠島を申しつけねばならんが、どうじゃ。」
保家は今度こそは滝子の心が折れて保家に従うであろうと信じて勝ち誇ったように言った。
確かに滝子自身のために友を苦しめたことは、自分が鞭打たれ焼き印を押されることよりも辛かった。しかし、人を人とも思わない悪魔の所業を平気でやってのける保家に、ここで屈することだけはできなかった。
(信徒の尊厳を踏み躙る保家の行為は神に対する冒涜である。保家こそ最早将軍ではなく魂を地獄に堕とした悪魔の王そのものだ。クレアとルチルだって、他の信徒たちだって、きっと同じ思いだろう。)
と、滝子は今にも折れそうな心を必死に奮い立たせながら、努めて冷静を装いつつ、きっぱりと答えた。
「クレアとルチルは立派な覚悟にございました。二人とも来るべき神の国ではきっとゲウス様のお側に並び立つことでございましょう。かねてよりお答えしております通り、わたくしがお仕えするのは天にまします父なる神、ゲウス様のみにございます。今生で殿方に添うつもりはないと申しました覚悟は、今もってなお微塵も揺らぎは致しません。それで流刑を仰せ付けられるのであれば、全てはゲウス様の思し召しのままに、これも試練と甘んじて刑に服しましょう。」
「ええい、勝手に致せ。そちはいずれ儂を拒んだことを死ぬほど後悔することになろう。」
保家は捨て台詞を吐き、家臣に命じて再び滝子を捕らえさせた。
 既に七十歳の高齢であった保家が、二十三歳の滝子を徹底的に苦しめようとする姿は、大人気ないという一言で言い表すには余りに残酷すぎる所業であった。

 信者たちは他の罪人共々流人ばかりの牢獄に集められて、数日から数ヶ月の間船を待ち、到着した船に乗せられ、船内では男女別に分けられて収容され、それぞれの流刑地となる島へと運ばれることになっていた。
 流刑地に向かう船が到着すると滝子は、ゲウス神の御子が人々の罪を背負い、罪人として処刑される時に刑場までの道程を裸足で歩いたのと同じように、牢獄から港までの二十里もの道程を裸足で歩くことを望んだ。
白い足が土で汚れ、砂や石を踏んで傷つき血で赤く染まりながらも、滝子は歯を食いしばって耐えた。

 流刑は死罪に次ぐ重罪ではあったが、滝子は幾つかある流刑地の島の中では一番近く、比較的罪の軽い者が送られる大島(おおしま)へ流された。何処に流されるにしろ、滝子にとっては窮屈な城内に居た時より、自由に神に祈りを捧げることが出来て、常に神の愛を受けられると思えば、寧ろ幸せだと感じられるほどであった。

 流人たちは将軍の代替わり等で赦免が出ない限り生きて再び本土に戻ることはなく、赦免により帰還できる者は三人に二人と言われた。親類縁者から上限はあるものの金銭や食料等の援助を受けることはできるが、縁者との直接の接触を完全に絶たれた状態のまま、見知らぬ流刑地で生涯を終えることになる。
 縁者等からの援助がある場合を除き、流刑地では基本的に自給自足生活ではあるが、流刑地となる島の大半は耕作に適した土地が乏しく、島民でさえ度々飢える程であり、「食料が尽きて餓死するくらいなら」と犯罪を犯す者もあり、それを恐れた島民から食料を提供されることもあったし、公式には妻帯は禁じられているが、政権争いに敗れるなどして流された、元は身分の高い流人の世話をする役割の島民と後になって内縁関係になることもあり、島民は黙認していた。
 流人の住居は粗末な小屋だが、腕があれば改修することは可能だったし、流人は無報酬の労働が課せられることはないが、縁者からの援助が期待できない場合は、働けるなら島民の畑仕事などを手伝うなどして働き、食料を得ることが出来た。

 滝子がいつもそうして来たように流刑地でも薬の知識を生かして奉仕活動と布教を行いながら島で1ヶ月ほど暮らすうちに、保家の使者が現れ、
「翻意して保家公に恭順の意思を示せば恩赦を与える。」
と伝えたが、滝子はやはり頑なに申し出を拒み、『島換え』の沙汰を受けた。
島換えとはより罪の重い者が流される別の島へ移送されることで、滝子は大島よりも少し遠い新島(にいじま)へ移された。

 新島へ流された滝子はそこでクレアとルチルと再会を果たした。
「ジュリア!あなたは無事だったのね。良かったわ。」
「あなたと再会できてこれほど嬉しいことはないわ。」
「あなたたちにだけ辛い思いをさせてしまってごめんなさい。」
クレアとルチルはジュリアと手を取り合い、口々に言った。
「わたしたちのことは気にしなくて良いのよ。ジュリアは何も悪くないんだから。」
「そうよ、ジュリア。全てはわたしたちに与えられたゲウス様の試練であって、それぞれの信徒が個人の信仰を問われただけなのだから、誰のせいでもないの。」
「クレア…、ルチル…。」
「あなたは正しかったのよ。ジュリア。決して間違ってなどいないわ。わたしがあなたの立場でもきっとそうしたに違いないと思う。」
「そうですとも、ジュリア。神の国に召されるその日まで、共に神を信じお仕え致しましょう。」
三人は涙を流して再会を喜び、奉仕活動と布教をしながら共に暮らすつもりだったが、半月ほどしてまた保家の使者がやって来た。
前回と同じく滝子に赦免と引き換えに保家への恭順を求めたが、滝子は従わず、さらに島換えを命じられた。
クレアとルチルとも別れ、滝子は流刑地の中でも最も遠く、最も重罪人が流される神集島(こうずしま)へと移送された。

4章 神々の集いし島

 [心を許せる親しい友と再会したのも束の間、再び引き離されて、最果ての流刑地へ流されたジュリア様でしたが、その地がどんな場所であっても、信仰を支えとして、布教しながら薬の知識を生かして奉仕活動を行うお覚悟で神集島へと降り立たれました。
後になってジュリア様は神集島の名の由来を耳にされた時に、
『古の神話によると、この島々を生み出すにあたって神々が集い、話し合った場所であることから神集島と名付けられた』
と知っていたく感動され、
「ゲウス様とは違う神ではあるけれども、こうして『古の神々が集うた島』に来られたことはきっとわたくしの運命に違いありません。この島で残りの生涯を過ごすことになったのはゲウス様のお導きだったのでしょう。」
と仰いました。
それ故、私が生まれ育ったこの島でジュリア様に巡り合えたこともまたゲウス様の思し召しであり、運命の出会いだったのだと私は確信していたのです。]

 島の港から少し行くと島民の村があり、
「やーい、やーい、ここまでおいでー。」
村の子供たちが楽しそうに遊んでいたが、その中の一人の女の子が転び、膝を擦りむいて泣き出した。
「うわーん。」
「あら、かわいそうに。怪我をしたのですね。」
見慣れない美しい若い女に声をかけられて、女の子は驚いた様子で泣き止んだ。
「あなたたちの誰か、村に行ってきれいなお水と手拭いを持ってきてくださらない?」
女が子供たちに呼びかけ、子供の一人が村の井戸から汲んできた水と手拭いを渡すと、女は女の子の膝の傷を洗い、足下に生えていた草の葉を軽く揉んで傷に貼り付け、手拭いを包帯代わりに巻いて結んだ。
「この丸い銭が連なったように見える草はね、血止めのお薬になるのですよ。」
と女は言った。
「お姉さん、お医者様なの?」
目を丸くして女の子が尋ねると、
「いいえ、子供の頃にわたくしの養父上がお薬のことをいろいろ教えてくださったから知っているのですよ。それよりもあなたのお役に立てて嬉しいわ。」
と微笑んだ。
子供たちの中では年長の男の子が言った。
「お姉さんは今度の船で来た人だよね。よその国の神様を信じて捕まった人たちが来るんだって母ちゃんが言ってた。」
女は微笑んで頷いた。
「わたくしの名は大西滝子ジュリア。滝子は養父上から、ジュリアは神様から頂いた名前です。」

 女の子の怪我の治療をきっかけに、子供たちを介して、滝子は島民たちと交流を深め、最初は流人に対しても、異教徒に対しても警戒心を持っていた島民たちも、滝子を知るにつれて、その信仰心に裏打ちされた真摯な思いに触れ、滝子を受け入れるようになり、滝子と同じように流刑となった他の信徒たちにならい、『ジュリア様』と慕うまでになったのである。
 島民は滝子たちのために村外れにあった古い廃寺を改修して住居及び教会兼施薬所として使えるようにしてくれた。施薬所の近くには薬草園と自家菜園を兼ねた小さな畑も作っていた。

 薬草園の方から島民たちが騒ぐ声が聞こえ、滝子が向かうと地面にへたりこんだ少年を島民が取り囲んでいた。
「どうしました?何があったのですか?」
滝子が問うと、
「ジュリア様、畑荒らしの盗人ですよ。獣かと思ったらこの小僧でした。」
島民の一人が答えた。少年の衣服はぼろぼろで髪はぼうぼうに伸び放題、顔も体も真っ黒に汚れていて骨に皮を被せたかのように痩せていて、体力も気力も失ったように力なくうずくまりながら、ただ大きな目できょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
「きっとお腹が空いていたのでしょう。この子はもう動けそうもありませんし、許してあげてください。この子のお家はどちらですか?」
滝子がそう言うと、
「この小僧は昔流されてきた罪人の子供で、今はもう親が居なくて野生児のように裏山に隠れ住んでいるのです。」
と別の島民が答えた。
「そうでしたか。ではこの子は教会で引き取りましょう。」
滝子が言うと島民は驚き、異議を唱えた。他の信者も居るとはいえ、まだ二十歳過ぎの滝子が十歳ほどしか歳の離れていない粗暴な野生児の男子を引き取るというのは危険すぎると思ったからだった。
「それはいけません、ジュリア様。この小僧は長いこと獣同然に生きて来て、今までも村の畑を荒らしたりしてきた悪童なんですから。ご厚意に背いて何をしでかすか見当もつきません。」 
すると滝子は言葉は穏やかながら強い口調で言った。
「いいえ、悪いのはこの子ではありません。善悪を教えてくれる親が居なかったために、この子は何も知らなかっただけです。全ての人は神様の前では等しく、神様の教えによって、この子も救われるべきです。」
滝子の迫力に島民は圧された様子だった。
「ゲウス様の教えを学びながら、畑仕事や施薬所の手伝いをして働けば良いのです。ここに住み、食べ物も得られるのだとわかったら、この子はもう盗みをする必要はなくなります。」
「ジュリア様がそう仰るなら…でもお気をつけてくださいまし。」
しぶしぶながら島民が引き下がると滝子は優しく微笑んで言った。
「わたくしを信じて、この子の身をお任せくださりありがとうございます。」

 滝子は少年を教会に招き入れて食事を与えて話しかけた。
「あなたのお名前は?」
「俺、名前なんかない。真っ黒だから『クロ』とか呼ぶ奴、いた。」
少年はあまりにも長い間人と関わってこなかったため、言葉もたどたどしかった。
滝子は少年を不憫に思い、その身の上を思いやった。
「親はどうしましたか?」
「わからない。俺、小さくて、覚えてない。親、居なかった。死んだかもしれない。俺、『重罪人の子供』、『人殺しの血が流れてる』、言われてた。村、離れて、ずっと山で一人。」
幼い頃に村人に心無い言葉を投げかけられて、少年は人を避けて獣のように生きるしかなかったのだと思うと、少年が戦に翻弄された母国の戦災孤児たちと重なって思えた。この子には何の罪もないというのに、と。
「親の罪はあなたの罪ではありません。あなたが罰を受けることはないのですよ。」
「え…。」
そんなことを言う者に初めて出会った、と少年は驚いた。滝子はかつての自分に対して養父が与えてくれたのと同じように少年に新たな名前と人生を与えようと決めた。
「わたくしは幼い時に異国から連れて来られたので生みの親は知りません。養父上に滝子という名を頂きました。同じようにわたくしがあなたに新しい名をつけましょう。弥九郎。わたくしの養父上の幼名だったそうです。」
「弥九郎、俺の、名前。」
「あなたもゲウス様の教えに従い、ゲウス様を信じて生きていれば、天にまします父なる神・ゲウス様の国で、神の子になれます。懸命に働いて、学び、人に奉仕することで、あなたは生かされ、その存在に価値を得られるのです。」
 滝子と信者たちに従い、布教と奉仕活動を手伝い、畑仕事をして働くようになった弥九郎は、後に入信し、セバスチャンの名を与えられた。

5章 セバスチャンとジュリア

 [私が初めてジュリア様と出会ったのは、共に親や出生時が不明でしたので正確ではありませんが、私が十三歳、十歳年上のジュリア様が二十三歳の頃でした。とはいえ、私は物心ついた頃には既に人里を離れ、ずっと獣のような暮らしをしてきたため、教養もなく、礼儀作法も知らず、まともな言葉遣いさえもできない状態でした。何も知らず、何もわからない私に、ジュリア様は人として学ぶべきことの全てを根気よく教えてくださいました。私は神の教えと薬の知識を得て、他の信徒たちと共に施薬所で奉仕活動をしたり、畑仕事を手伝って薬草や野菜を育てました。そうするうちに村人たちも次第に私を受け入れてくれるようになったのです。]

 それから二年、思春期に差し掛かった十五歳の弥九郎は、心の奥底に封印して来た幼少時に思いを馳せるようになり、自らの存在について考えるようになった。
 木の又から生まれた訳ではあるまいし、親は居たはずだが、弥九郎には親の記憶はない。村外れの流人たちの集落で生まれたことは何となく知っていた。五つか六つの頃だったろうか、孤児の弥九郎は村の近くで遊ぶ同年代の子供たちの仲間に入りたくて、村に出入りするようになっていた。どういう経緯だったかは思い出せないが、村人から
「親は重罪人だろう。」
「人殺しの血が流れている。」
と言われ、村の子供たちと関わることを禁じられて、村を追われた。
流人の集落に戻っても、皆自分たちが生きることに必死で、孤児などに構う余裕はなかった。
幼いながらに弥九郎は「この世の何処にも自分の居場所はない」と感じて、一人で山へと分け入った。

 それからはずっと雨露を凌げる場所を探し、自生する草を食べたり、魚を取ったりや小動物を狩ったりして生き延びて来た。
何故かはわからないが、「生きなければならない」という思いだけがあった。
「いっそ死んでしまった方が楽になれるのかもしれない」と思ったこともあったが、それでも何故か「生きなければ」と思い直した。
成長と共に必要とする食物も多くなり、時に村や集落に降りて畑を荒らしたり、食物を盗まざるを得なくなった。
それは弥九郎にとっては生きるために必要なことだったから、罪悪感など感じていては生きていけない。
 そうして暮らすうちに、流人としてやって来たゲウス信者たちの畑を荒らしているところを村人に見つかり捕らえられたのである。
「生まれながらにして罪人である者は罰せられなければならない。」
幼い頃に村人たちから言われた言葉が蘇り、脳内に木霊して、罰として殺されるかもしれないと覚悟したが、やはり死ぬのは怖かった。
 ところが、ゲウス信者たちの指導的立場にあった滝子は、
「親の罪はあなたの罪ではありません。」
と許してくれた上に、弥九郎という名を与え、食物と仕事と居場所も与えてくれた。
その恩に報いようと懸命に学び、奉仕してきた弥九郎は、滝子が語り聞かせてくれた自身の生い立ちを知り、疑問を持ったのである。

 「生まれ故郷の李国からこの国に連れて来られて、生みの親と同胞の仇にも等しい武将・大西幸永の猶子となりましたが、わたくしは決して養父のことを恨んだりはしていません。何故なら養父はきっとゲウス信徒として苦しんだに違いありませんから。武将と信徒という相反する立場の板挟みになりながら、多数の同胞を殺めつつも、わたくしだけは救ってくだされたのです。わたくしも、信仰を捨てなかったばかりに、友や仲間を苦しめたこともありました。全ては養父の理想であり、悲願でもあった『神の国の実現』のためなのです。全ての人々が等しく神の子となり、愛し合い慈しみ合うようになれば、戦はなくなります。そうすればわたくしのような子供も生まれません。」
と滝子は慈愛に満ちた目で弥九郎を見つめて言った。
「ジュリア様、私は親を知りませんが、親の罪は知っています。親とは何か、親の愛とは何なのか、私にはわかりませんが、ジュリア様のお導きで、神の愛を知りました。初めてお会いした時に、ジュリア様が『親の罪はあなたの罪ではない』と言ってくださったことで私は救われましたが、『本当に私は救われて良いのだろうか?』と不安になることがあります。私は試練に耐えられるでしょうか?私は神の国を望んでも良いのでしょうか?どんな運命に弄ばれても、ジュリア様の信仰心が揺らがなかったのは何故なのですか?」
弥九郎はその疑問を正直に問うた。
「わたくしも『異国人』と後ろ指をさされたことがありましたし、あなたくらいの年頃に、『何故わたくしはこのような運命の下に生まれたのか』と悩み、苦しみました。そしてわかったのです。争いが起これば人と人が憎しみ合い、傷つけ合い、殺し合うようになり、大切な人を失い悲しむ者が生まれます。しかし、それも全ては神の国へと至る試練なのです。この世が神の愛に満たされれば、他の国の人々ともわかり合い、愛し合い、慈しみ合い、争いは生まれなくなります。国を失い、家を失い、親や家族を失い、多くの同胞を失っても、更にそれらの全てを補完しうる最愛の養父を失っても、帰る場所を失っても、信仰だけは決してわたくしを裏切ることはありませんでした。逆に言えば、何もかも失ったわたくしに残されたのは信仰だけ。わたくしを救済し得る唯一無二の存在が信仰なのです。だからわたくしが信仰を捨てることは絶対にありません。養父は『人は愛を知るために生きるのだ』と教えてくださいました。神の愛を知り、人の愛を知るために、わたくしたちは生かされているのですよ。」
滝子は凛とした表情でそう答えた。
「親もなく、家もなく、友もなかった私にも、信仰だけは残されているのですね。ゲウス様の思し召しで、こうしてジュリア様に出会えたことで、私は居場所を見つけられました。教会が私の家となり、ジュリア様はじめ信徒の皆さんが家族となり、私は奉仕することで生きる意味、存在価値を得ることが出来ました。信仰を失えば、私にはもう何もありません。ジュリア様と養父上様が望まれた神の国の実現のために私も全てを捧げます。そしていつか神の愛を知り、人の愛を知るためにジュリア様と共に生きて行こうと思います。」
弥九郎が晴れやかな表情でそう告げると、滝子は微笑んで頷いた。

 「お待ちなさい、セバスチャン。処方書きをもう一度よく見直して御覧なさい。」
滝子に止められて、弥九郎は滝子の書いた文字を目で辿った。
「あ…。すみません、ジュリア様、字面が似ていたので薬草の名前を見誤りました。」
「そうですね。それに、計り取る量もそれでは少し違っているのではありませんか。」
滝子の穏やかな言葉にも関わらず、弥九郎は悲壮な顔つきで薬草を秤に乗せた。
「申し訳ありません。私が不慣れなばかりに。」
弥九郎は何度も頭を下げて詫びたが、滝子は慈愛に満ちた笑顔で答えた。
「セバスチャン、顔をお上げなさい。過ちは老いも若きも男子(おのこ)も女子(おなご)も誰にでも起こりえます。わざとやったのではないのだし、誰かが害を被った訳でもないのだから、気づいて誤りを正せば何の問題ありません。人は過ちを繰り返すものですが、その度に何故誤ったのか省みて成長の糧とすれば良いのです。あなたはまだ学び始めたばかりなのですから、最初から何もかもがうまく行くとは限りません。皆がお互いに助け合い、補い合って、人は生きるものなのですよ。人は誰も一人きりでは生きられません。わたくしもあなたや他の信徒、島民の皆さんに助けられ、支えられているのですから、わたくしも、他の誰も、決してあなたを責めたりはしません。だから、何でも一人でやろうとせずに、周りの人たちに頼ってください。わたくしも出来る限りのことはお手伝いしますから。」
滝子に諭され、弥九郎の頬を一筋の涙が伝って落ちた。
「ありがとうございます。ジュリア様。お優しいお言葉に触れて、私は目が覚める思いでございます。私は、他のものより遅れている、劣っていると焦って、謙虚になって学ぶことを疎かにしていたのかも知れません。『早く皆に追いついて、一人前になって、もっといろんなことを知りたい、学びたい、出来るようになりたい。』と気負っていたのだと思います。今後は心を入れ替えて、真摯に一つ一つ目の前の課題に向き合っていこうと思います。」
「セバスチャン、あなたは本当に純粋で素直な人ですね。真面目で勤勉なのはとても良いことですが、同時に傷つき易く、辛い思いをすることもあるでしょう。わたくしもよく養父上に『真面目で一生懸命は良いことだが、疲れるであろう。もっと肩の力を抜いて楽に生きなさい。』と言われたものです。あなたもわたくしと共に暮らすうちにわたくしに似てきたのかもしれませんね。」
滝子がそう言って笑うと、弥九郎も笑顔になった。
「ジュリア様に似ているのなら、こんなに嬉しいことはありません。」
その時はまだ、弥九郎は憧れの滝子から、本当の姉弟のように接してもらえることが純粋に嬉しかった。ただ、今まで世界を相手に戦い、運命に抗って生きてきたような独りぼっちの自分を、家族同然に受け入れてくれて、良い時は褒め、悪い時は叱ってくれる人が居ることが、幸せだと感じていた。

 時が流れ、弥九郎は十八歳、滝子は二十八歳となっていた。発達が遅く、背も小さくて、目ばかりが大きく骨と皮ばかりに痩せていた弥九郎は、今や日々の薬草園での力仕事ですっかり筋骨たくましくなり、背も高くなって、すっかり大人びた姿となり、男らしい青年に成長していた。懸命の努力の甲斐があって、教養深く、礼儀正しく、五年前とは別人のように立派になった弥九郎だったが、体格は大きくなっても滝子には従順で、常に傍らに付き従い、滝子を支えていた。元々顔立ちは悪くなく、目鼻立ちもはっきりとした美丈夫だったので、弥九郎の出自を知らない者にとっては、少年の頃の彼が野生児のように育ったのは信じがたい事実であったろう。

 [私は心身ともに一人前の男になったつもりでおりましたが、ジュリア様にとっては未だ少年時代の私と同じく、弟のようにしか見られていないと感じることが、辛い気持ちになることがありました。初めて出会った頃はまだ子供で、寧ろ世間を知らない分実年齢よりも幼かった私にとって、既に大人の女性であったジュリア様は、お優しく、慈しみ深く、それはまるで『穢れなき乙女のままゲウス様の御子を身籠った大聖母様』のように思われ、畏れ多くも私には得られなかった母や姉のような存在とお慕い申し上げていたのですが、その敬愛の情はいつしかジュリア様への思慕へと変化しつつあったからです。歳は離れていても、一人の女性としてジュリア様を思う気持ちが日に日に膨らんでいくことを、まだ若かった私はどうにも抑えられなくなりそうで、人知れず日々苦しんでおりました。]

 「セバスチャンもすっかり大人になりましたね。村では同じ年頃の若者が伴侶を得て子を生していると聞いています。良い相手が見つかれば、そろそろ身を固めても良いかもしれませんよ。」
畑仕事をしながら信者の一人がそう言うと、弥九郎は穏やかな笑みを湛えながら答えた。
「村人は私の両親が重罪人であったことや、生きるためとはいえ、少年時代に私が盗みを働いていたことを今でも気にしているのですよ。先日もただ村の若い娘と話していただけで、その親から『あんたが改心して真面目に一生懸命働いていることはわかってはいるが、あんたに娘を嫁がせるとなったら、それはやはり別の話だから、あまり娘には近づかんでくれないか。』と言われましたよ。『私には全くそんな気はありません。』とは言ったのですがね。」
すると傍らで薬草を摘んでいた滝子が、
「愛する娘や生まれ来る孫を心配する親の気持ちもわからなくはありませんが、もし若い二人の心が一つであれば、手を携えて共に生きることをゲウス様もお許しになるでしょう。もしセバスチャンにそのようなお相手が見つかれば、わたくしは嬉しいし、わたくしにできる限りの手助けをすることを厭うことはありません。愛しい人を娶るために力を尽くせばきっと道は開けます。」
と後押しするように言った。
弥九郎は真顔になり
「いいえ、私は誰も娶るつもりはありません。ジュリア様と同じように、信仰に全てを捧げる覚悟でおりますから、ジュリア様が生涯ゲウス様にお仕えされるのであれば、私は生涯ジュリア様と共にゲウス様にお仕えすると固く心に決めております。」
その言葉に気圧されるように、先に話しかけてきた信徒は押し黙り、滝子も手元の薬草に視線を落としたまま黙り込んだ。
弥九郎からは背を向けたままの滝子の表情を窺い知ることは出来なかったが、それは精一杯の弥九郎の心情の吐露であり、間接的な求愛の告白でもあった。

 [その時はまだ私もほんの若造だったので、あまりにも漠然とした感覚でしかなかったものが、今になればはっきりとわかります。
如何にジュリア様が私を弟のように慈しんでくださっても、それは恋愛感情とは別のものであり、ジュリア様のお心の中には十三歳にして亡くされた養父・大西幸永様がずっと理想の男性として生き続けておられ、他の男性は決して幸永様を超えることはできなかったのです。というよりも、ジュリア様の思い入れの深さからして、神に次ぐ存在の幸永様を超える男性が現れることを恐れていらしたと言った方が正しいかもしれません。信仰を隠れ蓑にして、幸永様以外の男性を愛することに対する恐怖を心に秘めておられたのだと思います。
 命を救ってくれた恩人である幸永様を思うジュリア様の気持ちが、少女の抱く恋に似た憧れへと変わったのは、私自身が恩人であるジュリア様に対して抱く気持ちの変化とも通じるものでした。
『少しは私のことを一人の男として見てほしい、出来ることなら愛してほしい』という思いは確かにありましたが、それをそのままジュリア様にぶつけてしまうと、『今の姉弟のような関係すら壊れてしまうのでは』と恐ろしくて、私は一人悶々と悩んでいたのです。
 私はジュリア様を失っては到底生きていけません。例えこの世の全てを引き換えにしても、ジュリア様だけは失う訳にはいかなかったのです。全ての人に見限られても、ジュリア様にだけは見捨てられたくない。それ故ジュリア様への思いを胸に秘めて、ただお傍に居られることだけを神に祈りました。
 時には『もしかしたらジュリア様もこの思いに気づいてくださっているのではないか』と期待してみたり、『もしかしたらいつかジュリア様がこの思いを受け入れてくださるかもしれない』と妄想めいた微かな希望に縋ってみたりしながら、ジュリア様と過ごせる毎日を与えてくださる神に日々感謝しておりました。]

 弥九郎が滝子を愛しながらも、滝子の意思を尊重し続けようとしたのは、一人の生身の男としての思いと、信者として神の教えに背くまいという呪縛に似た感情と、滝子にとっての理想像であり続ける養父・大西幸永をどうやっても超えることが出来そうにないと言う挫折、そういったいろいろな感情が入り交じる苦悩から自ら出した一つの答えであった。
滝子がどうあろうと、その全てを受け止め、全てを包み込んで愛することこそが、自らの愛の形であると心に決めたのである。

 一方で滝子もまた一人前の男に成長した今の弥九郎が自分に恋愛感情を抱いていることに気づけぬはずもないのに、敢えてそれに目を背けてしまうのは、愛する者を失う恐怖のためであったのかもしれない。国も家も親も同胞も失っても、滝子には最愛の養父が居た。父への憧れは少女だった滝子にとっては淡い初恋にも似た感情で、
「大人になっても他家に嫁ぐことなくずっと傍に居たい」
とさえ願ったほどに愛した養父を、僅か十三の若さで失った滝子は、愛する者を失うことを何よりも恐れた。愛した者が自分の傍から居なくなってしまうのが怖かった。博愛の教えに従い万人を愛し慈しむ気持ちとは違って、情念の炎で身を焼き尽くすように恋焦がれて得た者は全て失われてしまうのではないかという不安と恐怖に苛まれ、
「ならば、誰も深く愛すまい、この世では誰とも添うまい」
と無意識のうちに己の心を律し続けて来た。

 互いに愛し合いながらも不器用な二人は、それぞれの心の奥底に思いを秘めて、さながら姉弟のような関係のまま、信仰と奉仕の日々を過ごしていたのである。

『芙蓉に似た花 後編』6章~終章に続く
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