(この物語は現実のニュースを題材にしていますが、完全なフィクションであり、前作『蛇』のスピンオフ作品として書かれたものです。
実在の個人、団体等とは一切関係ありません。)
「居た!居ました!」
天井裏で声が上がった。
捕獲に向かった人たちの手で捕らえられ、抱き抱えるようにして連れてこられた姿を見た途端、涙が溢れた。
「良かった…。」
その言葉と共に全身の力が抜けて、両脚からへなへなと地面に崩れ落ちた。
(もしかしてあいつが人を襲ったら…)
そう思うと夜も眠れなかった。
運ばれて来たあいつは何事もなかったようにおとなしくとぐろを巻いて、その上にちょこんと頭を乗せて、済ました顔をしていた。
何事もなくあいつが戻って来て良かった。
それ以外何も考えられなかった。
俺が子供の頃、父親が図鑑を買ってくれた。
俺はその図鑑に夢中になった。
特に好きだったのは爬虫類で、画像を見ただけでもひんやりとした滑らかな体表やくねくねとうねる長い尾やちろちろと震わせる細い舌がリアルに想像できた。
実物の蛇や蜥蜴を自分で飼えたらどんなに良いだろうと夢みたけれど、万に一つもそれは実現できないとわかっていた。
俺の母親は何よりも爬虫類、特に蛇が苦手だったからだ。
本物の蛇でなくても、ロープやホースを見間違えただけで、断末魔のような悲鳴を上げたし、TVで画像が映っただけでも大騒ぎしてチャンネルを替えてしまう。
そんな母親に蛇を飼いたいなどと、口が避けても言えるはずはなかった。
俺が大人になって自分一人で暮らせたら、自分のお金で蛇を買えるようになったら、きっと蛇を飼おう。
そう決めていた。
他のペットのように、鳴き声がうるさいとか、抜け毛の掃除が大変とか、毎日の散歩やトイレの始末や餌やり等、そんなものは何もない。
脱皮はするとしても、犬や猫よりもずっと世話は楽だ。
餌だって月に一度冷凍鼠を与えれば、丸呑みして全て残らず消化してしまうのだから。
俺はついに夢を叶えられると喜んだ。
マンションの自室で爬虫類に囲まれて暮らせる。
規制があるので必要な届け出はしないといけなかったが、それさえしたら夢が叶うのなら、俺はもう我慢しなくて良い。
本当は自宅マンションはペット禁止だったが、犬猫と違い、近所の迷惑にはならないだろうと思った俺は、家主や管理会社には内緒で爬虫類を飼い始めた。
あいつと出会ったのは3年半ほど前だった。
その時はまだ掌の上でとぐろを巻けるくらいの小さい蛇をペットショップで買った。
他の爬虫類たちと同様に、俺は自宅マンションの一室であいつをケージに入れていた。
あいつはどんどん大きくなり、胴体は缶ビールほどの太さになり、体長は3m以上、体重は10㎏を越えるほどに大きくなり、俺のペットの中では2番目に大きかった。
俺は毎日あいつを眺め、度々写真を撮ったり、訪ねて来た同好の仲間に見せて自慢したりもしていた。
あの日、俺は朝ガラス窓を開けて換気のために網戸のまま家を出た。
ケージにもドアにも鍵をかけてあるので特に気に留めることもなく。
だが、夜になって家に戻った俺は、部屋のドアを開けてひんやりとした夜風を感じ、網戸で換気していた窓を閉めなきゃと思いながら灯りをつけた瞬間、全身が凍りついたように固まってしまった。
網戸が外れて隙間が開いており、ケージの中にあいつは居なかった。
俺はがたがた震えるほどの悪寒に襲われた。
頭が真っ白になって完全に停止した。
数秒後、我に帰った俺はスマホから緊急通報した。
想像したくはなかったが、もし、あいつが人に被害を及ぼしたりしたら、俺はどうしたら良いだろう。
万が一にも命に関わるようなことになれば、幾ら謝っても許してもらえるはずはない。
暫くして警察官が到着し、俺は顛末を説明した。
爬虫類愛好家仲間にも連絡して捜索を手伝ってくれと頼んだ。
警察官は現場検証で俺の自宅マンションの内外を捜索し、近所の住民にも聞き込みをしていた。
その日はもう辺りも暗く、できる限りの捜索をしたが手がかりも得られないまま終了し、翌日から専門家も交えて本格的な捜索活動が行われた。
朝起きてみたら昨日の事が全て悪夢であればどんなに良いだろうと思っていたが、習慣でつけたTVのワイドショーで、ニュースキャスターが淡々と昨日の出来事を語っていた。
「昨日○○町のマンションの2階からペットとして飼われていたニシキヘビが逃げ出しました。飼い主の20代男性によると、3年7ヶ月になる雄のニシキヘビは体長3m以上、体重10㎏を越えており、ペットショップから購入後、自宅で蛇8匹を含む他の爬虫類約20匹と共に飼育していたとのことです。特定動物として届け出はされていたものの、家主によると現場のマンションではペットの飼育は禁止されており、飼い主の男性は無断で爬虫類を飼っていたようです。警察、消防、市職員等がボランティアの協力を得て、専門家の意見を聞きながら、付近の捜索を行っておりますが、今朝○時段階では未だ発見されて居らず、近隣住民からは不安の声が上がっています。」
コメンテーターが口々に、「飼い主の管理に問題があったのでは」などと意見を述べていた。
耳が痛いことには違いないが、「あんたらに何がわかる」という反発の気持ちも抑え切れなかった。
TVからは近隣住民へのインタビューのVTRが流れていた。
「子どもが居るので恐いですね。蛇が見つかるまで、外遊びはさせないように気をつけようと思ってます。」
「子どもの通っている小学校でも、集団登下校で保護者が付き添うようにするそうです。早く見つからないと不安でたまりませんよ。」
「怖くて雨戸を閉めたまま、窓も開けられないですよ。開けた時にそこに居たらと思うと恐ろしいから。何とか早く捕まえてもらわないと、おちおち夜も眠れないわ。」
「犬を飼ってるんですけど、散歩させるのも怖くて。できるだけ舗装された所を通るようにして、茂みや叢のある所は避けてます。犬がそんな所に近づこうとしたらリードを引っ張って引き戻すようにして。もしそんな所に蛇が隠れていたらと思うと怖いですから。」
「そもそもあのマンションはペット禁止なんでしょ?非常識にも程があるわ。飼い主は若い人らしいけど、自分勝手ですよね。そんな大きな蛇を飼ってたなんて、ぞっとするわ。今まで逃げ出さなかったのはたまたま運が良かっただけなんじゃないですか?」
続いてキャスターがゲストの専門家に説明を求めた。
「脅かすわけではないですが、ニシキヘビは神経質で決しておとなしくはないので、刺激すると反射的に噛むことはあります。特にまだ若い個体のようなので危険です。見つけても飛びつかれないように近づかないでください。昆虫や植物は食べず、小動物を丸呑みするので、噛みついて食いちぎることはなく、基本的に丸呑みできない大きさのものは食べませんが、鼻先で熱を感じ、舌先で臭いをかぎながら、体温を感じたものに飛びかかって巻きつき、鼓動が失くなるまで締め上げます。そのあとで大きすぎたら食べないだけで、攻撃はしてきますから、絶対に蛇の居そうな場所には近づかないことです。寿命は30年以上ありますし、何も食べなくても数ヶ月生きられます。夜行性ではありますが、それほど遠くまで行ったとは考えにくい。蛇に取って遠くまで行く理由がないので、おそらく十数mの範囲内に居ると思うのですが、たくさんの人が関わってこれだけ探しても見つからないことがむしろ不思議なくらいです。」
キャスターやコメンテーターたちは大袈裟に驚いて騒いでいた。
こいつらは何もわかっちゃいない。
蛇は生き物を丸呑みする。
一匹丸ごと呑み込むから、内臓も骨も、全てが蛇の栄養になる。
蛇に取ってはビタミンもミネラルも全てバランスの取れた理想の食事なのだろう。
あいつはペットショップから買って来て以来、冷凍鼠以外に他の餌を与えたことはない。
だからあいつは野生の栗鼠や野良猫が居たとしても、食べたりしないと思う。
生まれてから一度も生きた動物を自分で狩って食べたことなどないからだ。
かと言って、あいつが戻って来るとも思えない。
蛇は迷子の犬猫とは違い、人に懐くことはないし、飼い主が餌をくれているともわかってはいまい。
蛇マニアはペットの蛇に名前をつけることもないし、コレクションのように眺めて楽しむだけのものだ。
飼い主の方も蛇の方も犬猫のように家族みたいな感覚ではないのだ。
俺が名前を呼べば蛇が這い寄って来るなんてあり得ない。
そんなクールでドライな関係が良くて、爬虫類を飼いたかったのかもしれない。
俺の父親は自己中だった。
子どもが可愛いとか、愛しているとか、そんな感情はないに等しかった。
子どもをどこかに遊びに連れて行くのも、うまいものを食わせるのも、何かものを買い与えるのも、子どものためというより、自分が如何に良い父親をやっているか、という自己満足でしかなかった。
その証拠に、父親が連れて行ってくれるキャンプや遊園地や水族館、動物園等はどれも俺が行きたかった場所でもいきたいと思った時でもなかった。
父親が連れて行きたい場所へ、連れて行きたい時に連れて行くのであって、俺が嫌がっていてもお構い無しだった。
だが、子どもだった俺には父親に逆らうことはできなかった。
嬉しいふり、楽しいふりをしてみせる、親子ごっこだったのかもしれない。
俺の母親はそんな身勝手な父親に愛想を尽かしていた。
それでも怒らせたら面倒だからと表面的に合わせていた。
子ども心にもそれはわかっていた。
母親もずっと働いていたから、たまの休みに休ませてももらえず、行きたくもない所へ連れて行かれて、同じく不満な子どもの面倒をみなければいけないのにうんざりしていたのだと思う。
そんな父親を反面教師にしてほしいと思っていたのか、母親は厳しい人だった。
口煩いと言った方が正確かもしれない。
あれもダメ、これもダメと否定されてばかり。
母親の嫌なもの、嫌いなものは言語道断でダメだった。
父親とは違った意味で母親もまた勝手だった。
「あなたのためを思って」と口癖のように言ったが、それは単に母親の価値観を押し付けられただけなのかもしれないと思春期になって気づいたが、まだ幼かった俺は母親の期待や依存には気づけず、母親の言うことは全て正しいと信じ、従えない自分を責めた。
それでも、心の底では自由を求めていたから、大人になったら独立して一人で暮らしたいと思った。
父親にも母親にも干渉されない、自分の意思決定が自分でできる自由な暮らしをきっと手に入れようと誓った。
そしてついに自由を手に入れた俺は、母親が蛇嫌いなために飼えなかった蛇を飼えるようになったのだ。
ニシキヘビが人に危害を及ぼす可能性がある特定動物であり、届け出が必要なことは知っていたし、あいつを買った時も、少し成長して大きいケージに入れ替えた時も、きちんと届け出はしていた。
だが、最近あいつが更に大きくなり、またケージを移さないといけなくなったが、まだ届け出を出さないうちに仮のケージに置いていたら、逃げられてしまったのだった。
今までにも室内でケージから蛇が出て来てしまっていたことがなかったわけではなかったが、それはたまたま、と油断していたことは否定できない。
俺は自ら進んで睡眠時間を削り、時に体調を崩しても、積極的に捜索に加わった。
慣れない人が蛇の嫌がる触り方をしたりしたら、襲われるかもしれない。
できれば自分であいつを見つけたい。
そんな気持ちに背中を押されて必死に探した。
そうこうするうちに時間だけが過ぎて行き、焦りばかりが募っても、手がかりすらないままに二週間が過ぎようとしていた。
「「「お疲れ様です。」」」
蛇の逃走現場となったマンションの前に、TVのワイドショーにも出演していた有名な動物園の園長だというその専門家の男性が現れると、捜索スタッフの皆が口々に声をかけた。
「あなたが飼い主の方ですね?」
物腰の柔らかな初老の園長は俺に向かって言った。
「そうです。皆さんにご迷惑をおかけしてしまい、面目ありません。」
俺が頭を下げると、園長は大きな掌をぽんと俺の肩に乗せて言った。
「そんなことより、今は一刻も早く蛇を見つけましょう。」
頭を上げた俺は、はい、と答えた。
園長はその場のスタッフたち全員に向けて話した。
「経過については伺っています。皆さんが精一杯探して来られたことは重々承知しているので、気を悪くしないで頂きたいのですが、私はどう考えても、蛇が屋外に出て、遠くへ行ってしまったとは思えません。ご存知の通り、蛇は変温動物です。冬場ではないにしても、雨が降ったり、朝晩と日中の温度差のある屋外にいるよりも屋内にいる方が環境的に良いことは本能的にわかると思います。まして、ペットショップから買った個体だけに、屋内でしか生活したことがない。マンションの何処かに身を潜めている方が理にかなっていると思うのです。現場の状況も詳しく教えて頂いて、私が推理するに、体が大きくて重いので、蛇がケージの中で動いた時に、何かの拍子に重みで鍵が外れてケージから出たのだと思います。部屋の中をうろうろするうちに、窓際へやってきて、網戸の側を這っている時に胴体に触れた網戸がずれて隙間が生まれ、そこに頭を突っ込むようにして窓の外へ出たのではないかと思います。ベランダに出た蛇は何処からか屋内に戻れる場所を見つけ、身を隠せる隙間に潜り込んでいるのではないか、というのが私の仮説です。住人と管理会社の方にご協力頂いて、その逃走経路を追う形でマンション内の捜索をしたいと思います。」
園長が先頭にたち、スタッフは俺の部屋のベランダから捜索を開始した。
「園長、この隙間から天井裏に入れそうです!」
屋根に登っていたスタッフの一人が声を上げた。
「でも、天井裏は何回も探していますし、ファイバースコープでも見ていますが、見つかっていませんよ。」
別のスタッフが反論したのを制するように園長が言った。
「何度も探したのはわかってます。疑うわけではないが、今一度確認しましょう。その時は居なくても、今居るかもしれない。私に任せてもらえませんか。」
管理会社と隣人や階下の住人の許可を得た園長は風呂場の天井にある点検用の扉を開けた。
天井裏の配管の点検のために人間一人が通り抜けられる穴が作ってある。
脚立を登って、園長がその穴から頭を出して天井裏を覗いた。
「ちょっと入って見ますね。」
上半身を天井裏に入れた園長が叫んだ。
「居た!居ました!」
脚立の周りで待機していたスタッフの一人が続いた。
屋根を支える鉄柱に頭を乗せるようにして巻きついた蛇は胴体から尾にかけての全身の大半を木の隙間に潜り込ませてじっとしていたという。
園長が頭を、スタッフが尾を持って二人がかりで絡みついた蛇の体をほどくようにして外し、抱き抱えると、蛇はおとなしく従順に捕獲された。
二週間も見つからなかった蛇は約15分の間に捕まえられてしまったのである。
俺は安堵で全身から力が抜けた。
「良かった…。」
捕獲された蛇はケージに入れられ、現地に集まった報道陣の前に運ばれた。
とぐろを巻いた胴体の上にちょこんと頭を乗せた蛇は他人事のように涼しい顔をしているように見えた。
近隣から集まった野次馬が蛇の姿を見ると「おーっ」とどよめいた。
報道陣の質問はまずお手柄の園長に集中し、園長は経過を淡々と説明した。
「あれだけ長期間たくさんの人が探しても見つからないのはおかしいと思っていました。やはり遠くには行ってなかった。きっと屋内に居ると予想したのは正しかったです。当事者ではないが、気になって眠れなかった。飼い主初め、近隣の皆さんも落ち着かない日々だったと思います。」
マンションの階下の住人も
「これでやっと安心して眠れます。」
と答えていた。
俺が現れると報道陣だけでなく、野次馬たちも皆注目した。
俺はとりあえず謝罪せねば、と口を開いた。
「二週間の間、捜索に関わって下さった皆さんには大変な思いをさせてしまい、近隣住民の皆さんにはご迷惑とご心配をおかけしてしまったことを心からお詫び致します。申し訳ありませんでした。
蛇自身も無事で、誰にも怪我などさせたりせずに捕獲できて、ほっとしています。長く飼育する中で、室内で蛇が逃げ出すことはありましたが、今回は部屋から逃げ出してしまったらという想像力が足りず、管理不足でした。許可されていないケージで飼育していたこと、ペット禁止のマンションで他にもたくさん爬虫類を飼っていたこと、全て自分自身の至らなさからで、深く反省しています。マンションからは退去し、今後は生き物とは無縁の生活をすることに決めて、飼っていた生き物たちは然るべき場所に預けることにしました。」
スマホが鳴り、着信画面には『母親』と表示された。
「もしもし。」
「ああ、良かった。あなた、大丈夫なの?」
「ああ、もう大丈夫。」
「TVで見た時はびっくりしたわよ。あなたが蛇とかたくさん飼ってたなんて、知らなかったから。いつも家に来るなと言ってたのはそれでだったのね。」
母親は恨めしそうに言った。
「ごめん、母さんが蛇嫌いだから、どうしても言えなくて。」
俺は謝るしかなかった。
「どうしてよりによって蛇なんか飼ってたのか…信じられなかったわよ。しかもペット禁止のマンションなのに勝手に買ってたとか、ちゃんと許可を取ってなかったとかってどういうことなのよ。」
母親の言葉には、「期待を裏切られて残念だ」と言わんばかりのため息が混じっていた。
「ごめん。」
何を言っても無駄だとわかっていた。
面倒なことを避けようとする所は母親譲りなのかもしれないと思うと少し可笑しくなり、同時にそんな風に思うのは不謹慎だろうかとも思った。
「蛇はどこかに預けるとか言ってたけど、大丈夫なのね?」
「うん、心配ない。」
「だったら良いけど。もう、そういうのは飼っちゃだめよ。絶対に。」
「うん、わかってる。」
「お父さんが居なくて良かったわよ。居たら何て言われてたか。あなたもどんな目に合ってたかわからないわ。」
父親は既に亡くなっていたのが、不幸中の幸いだったと言いたげな母親の気持ちはわからないではなかった。
確かに居たら面倒だったろうと想像はつくし、「母親の育て方が悪かったせいだ」と八つ当たりされて、その割りを食うのは母親だったろう。
だが、もう俺はいい大人だ。
父親が怒り狂ったとしても、暴れたとしても、子どもの頃のように父親を恐れたりはしない。
尤も母親の中では俺はまだ子どもの頃のままなんだろうけれど。
「とにかく一度顔を見せなさい。」
「ああ、うん。わかった。今は引越とかで大変だから、落ち着いたらね。」
「そう。」
母親は明らかに不服そうだった。
「じゃあ、ちょっと用事あるから切るね。」
俺は母親の返事を待たずに通話を終了した。
父親からもらった図鑑がなかったら、俺は蛇を好きになることもなかったかもしれない。
そう思うと蛇を愛でたのは父親からもらった唯一のギフトだった。
大嫌いだった父親のたったひとつの良い思い出だと言っても良いかもしれない。
そして母親の大嫌いな蛇を好きになったのは、もしかしたら母親へのささやかな反抗だったのかもしれない。
母親のことが憎かったわけではない。
父親に振り回されて気の毒だとは思っていたし、それなりに愛情はあった。
母親が俺を愛しているが故に厳しくするのだと言いつつも、それが本当の俺ではなく、母親の中で作り上げられた理想の息子に対する愛情なのだと気づいてしまっても、それを失うと俺には何も残らない気がして、知らないふりをし続けてしたのだ。
母親は最愛の息子は自分の分身であり、自分の好きなものが好きで、嫌いなものは嫌いなはずと無意識に決めていて、そう信じたかったのだと思う。
だから幼かった俺は蛇が飼いたいとは口に出せなかった。
でも蛇を飼うことで俺は、母親を越えたような、母親に勝てたような、そんな気になりたかったのかもしれない。
もしかしたら俺は、蛇を利用して、母親に復讐していたのだろうか。
だとしたら俺は蛇に悪いことをしてしまったのかもしれない。
蛇は何も悪くない。
ただ本能のままに生きただけなのだ。
閉じ込められていた場所からたまたま出られて、落ち着ける場所を見つけてそこに留まっていただけのことで。
蛇は多くの人間がよってたかって自分を探していたことも知らないだろう。
突然人間がやって来て捕まえられ、再び閉じ込められることになるまでに、人間たちが大騒ぎして右往左往していたことなど知る由もない。
俺は何だか憑き物が取れたようにすっきりした気がした。
もう蛇は居ない。
俺は俺一人で生きて行く。
もう蛇に頼らなくても大丈夫だ。
父親からも母親からも、卒業した気分だった。
俺の心の中にずっと居た蛇が、いつの間にか姿を消したみたいに。
今度はもう探さないよ。
お互い自由に暮らそう。
俺は空っぽになった部屋から、バッグひとつだけ持って出てきた。
引越荷物を積んだトラックが出発し、俺は管理会社の担当者に鍵を渡して頭を下げた。
「お世話になりました。いろいろご迷惑おかけしてすみませんでした。」
駐車場に停めた自家用の軽自動車に乗り込み、エンジンをかけた。
そして新居に向かうべく、アクセルを踏んでハンドルを切った。