第3章 アンスロポス王国の終焉
「闇の神獣(ディヴィスティア)」メフィステレスの「器(ヴェセル)」であるアルベルトは、弟であり聖の神獣・ジクフリートスの器であるケイネスによって、愛する「巫女(メティア)」アメリアと共に謀殺され、不老不死の「死人(しびと・ルヴナン)」として「現世(うつしよ)」に蘇り、復讐を遂げようと試みるも捕らえられてしまった。数十年後メフィステレスの力で脱獄し、晩年のケイネスを倒すことに成功するも、ケイネスを初代国王とするアンスロポス王国兵によって再び幽閉されてから更に数百年の月日が流れていた。アンスロポス王国はケイネスの末裔が歴代の王位継承者となり存続していたが、ケイネス王からの伝統的な「大魔石(クエレ)の加護の下の疑似魔法(メギカ)至上主義」に異を唱える者たちや、「魔石(ライストン)への過剰な依存は『星の命』を削る行為であるという魔力枯渇問題を先送りにし、「生得(しょうとく)魔法(マギカ)」を使える五属性の民の末裔「蛮族(バルバリアン)」を酷使し使い捨てるような非道な仕打ちを止め、魔法依存を止めて万人が平等で平和に暮らせる道を模索すべき」と考える者たちが反乱を起こしたが、王国政府は非現実的な理想論と相手にしなかったため、王国は自然に分裂した。反王国派を中心にして建国し、隣国となったロイテンドルフ共和国の掲げる目標は、かつてのアルベルトの「万人を平等に全て救いたい」という思想に近く、真偽不明の伝説に聞く死人、『幽閉されし幻の王・アルベルト』の存在を知り、秘密裏に捜索していた。そして長い年月を経て聖の結界が劣化したことが幸いし、とうとう化け物として幽閉されていた異能者、闇の器・アルベルトを救出した。共和国に与(くみ)することとなったアルベルトは、遥か昔に亡くなった弟ケイネスの末裔にあたる母国・アンスロポス王国の王族に復讐を誓った。ケイネスは「アルベルトが死すべき魂を救済することは真の救済にはならない」と考えていたため、二人は相容れなかった。後になってケイネスは「アルベルトとアメリアを謀殺したのは若気の至りによる行き過ぎだった」と後悔し、善き王となることで償おうとしてきたが、幽閉中のアルベルトがそれを知ることはなく、「ケイネスが私利私欲のために王座を奪ったのだ」と信じ込んでいた。アルベルトは晩年のケイネスと相対した時にケイネスの真意を知るも、それによって失ったものが戻る訳ではないと拒絶し、アルベルトはケイネスを打ち取りはしたが、どこか満たされないまま再び幽閉の身となっていたからである。
ケイネスの末裔は初代の国王であるケイネスの遺志を受け継いで魔導国家として発展して来たが、アルベルトとケイネスのみが神獣の器となるべき「魔法耐性(マアイク)」のある特異体質であっただけで、その体質が子孫に遺伝することはなかった。ロイテンドルフ共和国に身を寄せたアルベルトは反王国派の同志たちと共に王国軍との戦いに身を投じていた。不老不死状態のアルベルトは単独で暗躍し、ついに現国王の暗殺に成功するに至った。
「アンスロポス王国の国王陛下であらせられますね?」
白髪に深紅の瞳の男が何処からともなく王の寝所に現れ、王の枕元で囁くように言った。
「そなたは?」
「陛下の祖先、初代国王ケイネスの兄にして、『幻の王』と呼ばれている者です。」
王は薄闇の中でギラリと輝く眼光鋭い深紅の瞳に睨みつけられると、金縛りにあったように身動きできなくなった。
「伝説は真実だったのか。」
王は喉を締め上げられたような苦しさの中で、呻くように呟いた。
「黒い髪、切れ長の目、我が弟にして初代国王ケイネスの面影を宿している。間違いなくケイネスの末裔、アンスロポス王族の証ですな。僅かでも王族の血脈に繋がる縁者は悉くわたしが手にかけた。生き残った王族は既に現国王陛下と嫡男のラニット王子のみとなりました。」
アルベルトは視線を外さず、淡々と語った。
「私のことは好きにして構わん。だが…。」
王の言葉を遮るように、アルベルトは王の首を切り裂き、一突きに心臓を刺した。
「残念ながら、陛下。それは聞き入れられませんな。」
アルベルトの言葉に、王の両眼からは涙が溢れた。
アルベルトが視線を外した途端に、王の身体はどさりと寝台の上に倒れ、アルベルトは振り返ることなく王の寝所を後にした。
王国城の寝所へアルベルトが侵入して国王を暗殺する間、闇の結界が張られていたために、誰もそれを阻止することはおろか、察知することさえできなかったのである。
国王が暗殺された後、「神託(オラケル)の巫女(メティア)」アマルティは、神託により新国王としてラニット王子が選ばれたことを告げられた。王子であっても神託を受けなければ王になれない伝統が受け継がれており、まだ若いラニットは一人っ子で、父王もまた一人っ子であったため、ケイネスの直系に当たる者はもうラニット王子以外に残されていなかった。それはまるで呪いのように、歴代国王には王子一人以外の子供は生まれないか、生まれても成長する前に早逝していたからである。アルベルトは数百年間幽閉されていたので、現国王がケイネスの直系であると知って暗殺したが、ラニット王子が数百年ぶりに生まれた特異体質の持ち主であり、光の神獣の器となり得る人物であるなどと、その時はまだ知る由もなかった。
突然父を失ったラニットは、まだ父の死も受け入れられないほど混乱していたが、そこに追い打ちをかけるように「光の神獣・タブリュス」の器として覚醒した。
「この世、即ち現世、光の世界を守るために戦うことがあなたの宿命(フェイト)。」
と、心の中に呼びかける声が聞こえた。そしてその声は
「あの世、即ち幽世(かくりよ)と呼ばれる死後の世界、闇の世界を守るべき闇の器が現れて、あなたを狙っている。我が名は光の神獣・タブリュス。あなたは我が器となるべく選ばれし者。わたしの魂をその身に受け入れ、共に戦いましょう。」
漆黒の髪に端正な顔立ちの青年、それがアンスロポス王国の王子にして新国王となるべきラニット王子であった。真っ直ぐな性格の彼は神獣の言葉を信じ、光の神獣タブリュスとの契約を受け入れることを決心したラニットは、巫女のアマルティと共に神殿に赴き、光の御神体の前で神獣タブリュスとの契約の儀式に臨んだ。ラニットの胸にはタブリュスの「術式回路(シャルトクライス)」が刻み込まれ、タブリュスの魂と肉体を共有したラニットは光の器として生まれ変わったのである。光の器として覚醒したと同時に彼の瞳の色は黒から鮮やかな真紅に変わった。
幼馴染でしっかり者の神託の巫女・アマルティは肩までの黄金の髪に深紅の瞳の美少女で、古代種・光の民(リヒトロイテ)の末裔であることは独特の尖った形状の耳でわかる。絶滅寸前の光の民は、歴代の混血により、もう純粋な光の民は存在しないが、アンスロポス化しつつある中でも、まだ先祖返り的に光の民の特徴を色濃く残している子供が生まれることがあった。生まれながらにして巫女に覚醒している者もあるが、巫女は神の神託を受けて覚醒するものなので、何らかの原因で巫女の力が失われたら別の巫女が覚醒する形で後天的に覚醒することもあり、一世代には一人しか存在しないが、歴代の巫女は皆、尖った形の耳と深紅の瞳を持っていたと言われている。
アマルティが巫女に覚醒し、光の神獣・タブリュスの器として覚醒したラニット王子が王に選ばれたという神託を受けることになったのは、正に因果によって結ばれているとしか言いようがなかった。かつて「禍罪(まがつみ・ディザスター)の魔女」の汚名を着せられて生きながら奈落へ堕とされた悲運の巫女アメリアも、彼女と心を通わせていたアルベルトを王にという神託を受けていたし、アルベルトは闇の器であった。巫女と王と神獣の器とは深い因果で繋がっているのである。ただ、意外だったのは、ラニットを器に選んだのが光の神獣タブリュスであったことだ。ラニットの祖先にあたる初代国王ケイネスが契約したのは、聖の神獣ジクフリートスであったが、実兄のアルベルトが契約した闇の神獣メフィステレスによって倒されたと言われている。神獣の器は魔法耐性に優れた特異体質でなければ務まらない。そしてそんな特異体質を持って生まれるのは数百年に一度あるかないかの奇跡だと言われている。闇の神獣メフィステレスの器は初代国王の兄アルベルトであったが、彼は伝説上の人物で実在しないと言われていた。ケイネス王亡き後、新たな神獣の器は現れておらず、何故今回ラニットが神獣の器に選ばれたのか、それが古の霊獣大戦で活躍して以来長き眠りに就いていたと言われる光の神獣タブリュスなのか、不思議なことだらけだったが、「神獣の器は、魔法耐性はあるが生得魔法を使えないアンスロポスの中からしか生まれず、王と巫女と器は因果で繋がっている」とは伝え聞いていた。
早くに母を亡くして父一人子一人で育ったラニットは、幼馴染だった年上のアマルティに母性を求めてか、彼女を心の支えとしていた。まだ若く、父を亡くしたショックからも立ち直れないラニットが神獣・タブリュスの器として覚醒したばかりなのに、その上「新国王に選ばれた」という神託を受けていたことを告げれば、「混乱して消化しきれないのでは」と気を揉んでいたアマルティは、契約の儀式が終わるまでは神託のことは黙っていたが、巫女の使命としてそれを告げない訳にはいかなかった。
「ラニット、国王陛下を亡くされたばかりで辛いでしょうに、神獣と契約した上に、国王に選ばれたなんて、神託とはいえ、私もあなたに伝えるのが心苦しいわ。」
「ああ、アマルティ。うん、確かにまだ心の整理はつかないけど、父上はいつも僕に王族として、王子としての心構えを説いて聞かせてくれた。『王族の誇りと矜持を持って、どんな時も凛として振舞わねばならない』と。だから僕は受け入れなきゃいけない。父上は、『神託によって選ばれなければ王にはなれないが、いつ神託が下りても良いように常に覚悟を決めておきなさい』と言っていた。そして、恐らく父上は僕に魔法耐性があることも、特異体質であれば、いつか神獣と契約する時が来るかも知れないことも、予想していたのだと思う。もしそんな時が来ても、自分に課せられた『宿命』を受け入れて、見事に使命を果たさねばならないと諭されていた。…大丈夫。僕は、僕の宿命から逃げ出したりはしない。僕にはこの国を、民を、世界の全てを背負う覚悟を求められているんだ。僕は光の神獣タブリュスと契約して器となったことを受け入れる。そしてアストロポス新国王として即位する。」
いつの間にか、自分が思っていたよりも、大人びて男らしくなったラニットの笑顔を、アマルティは眩しそうに眺めた。
「そう、わかったわ。ラニット。あなたが覚悟を決めたのなら、私が言うことは何もない。でも、これだけは覚えておいて。どんなあなたでも、私にとってのあなたは、今までと変わらない。あなたの身に何事が起きたとしても、私はあなたを全力で支える。それが巫女としては勿論、私自身のあなたへの変わらぬ想いの証だから。」
真摯な表情でラニットの目を真っ直ぐに見つめながら、アマルティは両手で包み込むようにラニットの手をぐっと握った。
「ありがとう。アマルティ。君が居てくれるから、僕は強くなれる。君は本当の僕をずっと見て来てくれた。僕の弱いところも汚いところも、全てを知ってくれている君だからこそ、僕は君になら全てを曝け出すことが出来る。ずっと僕の傍に居てくれ。君と一緒なら、僕は何でも出来るし、何処へでも行ける。僕が神獣の器になって、僕が今までの僕でなくなっても、君は僕を受け入れてくれるだろう。君を信じているからこそ、僕は強くなれるんだ。結婚しよう。アマルティ。僕の子供を産んでくれ。君も僕も今や天涯孤独の身の上だ。たくさん子供を作って、親子兄弟仲良く、楽しく賑やかな家族になろう。」
アマルティを抱き締めて、ラニットが想いを伝えると、アマルティも、ラニットの身体に回した両腕にぐっと力を込めて抱き締めた。小柄で華奢だった幼馴染は、いつしか自分の背丈を追い越し、こんなにも逞しい男性になっていたのだと、今更ながらに胸がときめいた。
「ありがとう。ラニット。死が二人を分かつまで、私はずっとあなたを支えます。」
そして、神殿を後にして、アストロポス新国王としての即位の儀式を行うため、アストロポス王国城へと向かったラニット王子と婚約者のアマルティの姿を、物陰から伺う怪しげな人物の姿に、二人はまだ気づいていなかった。その人物こそ初代国王ケイネスの実兄にして闇の神獣メフィステレスの器、アルベルトであった。本来ならば神獣の器同士は互いの魔力を察知することができるのだが、まだタブリュスの魂が十分にラニットの身体になじんでいなかったため、ラニットにはアルベルトを感知することが出来なかったのである。
新国王となったラニットは国内各地の視察や元蛮族の国であった各領内を統治する領主である五大諸侯との会談など、精力的に国務を熟(こな)していたが、その行く先々で暗殺者に命を狙われ、暗殺者はかつての反国王派、現在は独立してロイテンドルフ共和国を名乗る隣国の刺客であろうと思われた。未だ不明な前国王暗殺の実行犯が、新国王ラニットを狙っているものとみて間違いない。王国流剣術の腕前にも優れ、タブリュスの器となったことで光魔法も使えるようになったラニットは、幾度となく暗殺者の魔の手が迫っても、無事に回避し続けることに成功してはいるが、「何時何処で襲われるか」と警護兵たちの心も休まる時がなく、ラニット王の婚約者で未来の王妃アマルティも、彼の身を案じて四六時中片時も傍を離れなかった。
運命の歯車が回りだしたことで、二人は互いを慰め合うように不安に押し潰されないように、強く抱きしめ合って床に就いた。眠りに就いたラニットの胸の術式回路を指でなぞりながら、アマルティはそっと涙を流した。幼い頃尖った耳を異端視され、孤立していたアマルティにそっと手を差し伸べてくれたのがラニットだった。王子という立場は孤独だっただけに、アマルティの孤独に共鳴する部分を感じ取ったのかも知れなかった。ラニットが母性を求め、姉のようにアマルティを慕ったように、アマルティもまた幼いながらに自分を守ろうとしてくれたラニットに支えられ、共に手を取り合って生きて来たのだと思った。二人にとってお互いがかけがえのない存在であり、深い愛情で結ばれていることは揺るぎのない真実だったから、アマルティは「この先もずっとこのままの二人でいられたらいいのに」と思った。
そして今やラニットは神獣の器となり、他の誰にも理解されない特別な存在となってしまった。昔から巫女であるアマルティが感じて来た孤独と似て非なるものを今のラニットはその心に宿しているに違いない。今のラニットの心に寄り添うことが出来る者はアマルティ以外には居ないだろう。他の誰にも想像することの出来ない孤独を知る者同士として彼を支えるのはアマルティの使命であり、その役割を担うことが自らの宿命だと思った。
国内各地での国務を終えてアンスロポス王国城に帰還したラニットの下に、隣国ロイテンドルフ共和国議会代表で顧問のアルベールなる者が謁見を求めて来た。
「度重なる暗殺未遂を起こしながら、今更正式な手順を踏んだ謁見とはいったい何を考えているのか」と訝しみながらも許可を与えた新国王の前に一人の男が姿を現した。
「これはこれはラニット新国王陛下。ご機嫌麗しゅうございます。わたくしはロイテンドルフ共和国議会にて顧問を務めますアルベールと申す者にございます。ご即位のお祝いに馳せ参じましたところ、快く謁見の御承諾を賜り、恐悦至極にございます。」
慇懃無礼な印象を与えるその男が、恭しく帽子を取って深々とお辞儀をすると、長く伸びた白髪の巻き毛が一束、はらりと肩から流れ落ちた。
「ありがとう。アルベール卿。」
ラニットが声をかけると、顔を上げた男の顔は不敵な笑みを浮かべ、赤い瞳がきらりと光った。
「その黒髪と切れ長の目、紅い瞳。紛れもなく初代ケイネス国王直系の末裔とお見受けしました。端正なお顔立ちもどことなく面影を残しておられるように思えます。」
数百年以上前の先祖のことを、さもよく知っているかのような口振りに違和感を感じた一同の脳内に、『幻の王』の伝説が過(よぎ)った瞬間、男は一瞬で玉座までの距離を詰め、ラニットの眼前すれすれに人差し指を向けて構えた。
「そう、俺は貴様らが今思い出した『幻の王』、初代ケイネス国王の実兄アルベルトだ。死人となって現世に蘇り、弟ケイネスを殺し、数百年間幽閉され続けて来た、闇の神獣メフィステレスの器でもある。そして前国王を殺めたのも俺の仕業だ。何度もラニット新国王を狙ったが、悉(ことごと)く失敗に終わったのは、ラニット新国王が、光の神獣タブリュスの器だったからなのだろう。だからもう暗殺するのはやめにした。正々堂々と正面から神獣の器同士、神獣に顕現して互いの力を開放して戦うことにするさ。だが、それは今じゃない。正面からまともに顔も見ないで、いきなり神獣に顕現して戦うのは礼儀に反するからな。今日はこれで失礼するが、以後お見知りおきを。最後に言っておくが、今回はあくまでも『ロイテンドルフ共和国議会顧問アルベール』として訪問したのだから、無粋な真似はしないでもらおうか。」
そういうと再び一瞬にして元の場所に戻ると、帽子を取って深々とお辞儀をし、
「では皆さま、ご機嫌よう。」
と去って行った。追いかけようとする警備兵に向かってラニットが腕を上げて制止した。
「追わずとも良い。こちらから攻撃を仕掛けない限り、彼からは手を出さないだろう。」
宣戦布告とも取れる言葉を残して去ったアルベルトだったが、最初にアルベールと名乗った時には気配を消していたのか、全く感じ取れなかった神獣の魔力を、アルベルトが正体を現したと途端にラニットは感知した。逆にアルベルトは、ラニットの身体にまだ馴染みきっていないタブリュスの魂の気配を感じ取っていたに違いない。ラニットには、「そう遠くない未来に、必ず光と闇の神獣は闘うことになるのだ」と、否が応でも思い知らされた体験であった。アルベルトの目的はケイネスの末裔の抹殺と血脈の根絶、そして王国の滅亡であることは火を見るよりも明らかだと、『幻の王』の伝説を知る者であれば、容易に想像が出来たからである。
アルベルトの突然の訪問の後、アマルティは再び神託を受けた。
「ついに光と闇の神獣による対決が行われ、その勝敗の行方には世界の命運を託し、現世と幽世の未来を占うものとなるが、その結果にかかわらず、双方の器の魂は消滅する。」
という内容にアマルティは愕然とした。
「ラニットには過去数百年の先祖からの因縁の相手との決着のみならず、世界の命運を背負って闘い、魂を捧げねばならない宿命がある。」
という、理不尽な神々の意思を知り、それを如何にしてラニットに伝えるべきか苦悩した。神獣の力で宿敵を倒し、本来なら滅することの適わぬ死人の魂を葬ることが出来たとしても、ラニットの魂もまた消滅し、永遠に失われてしまう。それが契約の代償とはあまりに残酷で、口にすることも憚(はばか)られる思いではあるが、真実を告げることが巫女としての使命である以上、隠匿することは許されなかった。
ラニットはアマルティの様子がいつもと違うことに気づいた。気丈で健気なアマルティが動揺を隠しきれないほどに、今回の神託は厳しいものであったことは想像に難くない。しかし、それが例えどれほど衝撃的な内容であったとしても、ラニットは自らの宿命を全うする覚悟は出来ているという自信があった。強敵の出現で、ある程度の厳しい未来は予想していただけに、神託の内容がどんなものであったとしても、それを受け止めるだけだとラニットは思った。
「アマルティ、神託は何だった?」
務めて普段通りの笑顔を浮かべて、何気ない口調で声をかけたつもりだったが、微かな声の震えを彼女に気取られはしまいかとラニットは少し心配になった。
声をかけられたアマルティは、一瞬驚いたように視線を外し、ほんの少しの間、心の整理をつけるように目を伏せてから答えた。
「ラニット、落ち着いて聞いてほしい。出来ることならあなたには聞かせたくないけれど、告げない訳にはいかないから。」
「わかった。心して聴くとしよう。」
とラニットが真顔で答えると、アマルティは一度深呼吸をして語り始めた。
アマルティは、出来る限り感情を抑えて、事実だけを述べることに集中しようとし、ラニットもまた一言一句を真摯に受け止めて、感情を差し挟むまいと意識して耳を傾けた。
「そうか。」
ラニットは呟くように一言だけ言った。
「ラニット。」
アマルティは彼にどんな言葉をかけるべきか迷い、結局名前を呼びかけただけで、それ以上は何も言えなかった。
二人とも視線を落としたままで、暫し沈黙が続いた後に、ラニットがぼそりと呟いた。
「魂が消えてしまうのは、僕の宿命なんだな。それを覆すことは、誰にも出来ないんだな。」
自分自身に言い聞かせるように、ラニットはそう言った後、俯いて両膝に置いた拳を固く握り締め、悔し涙を零しながら言った。
「君と結婚して、たくさん子供を作って、明るく楽しい家族を持って、子供の成長を見守って、子供たちが巣立ったら君と二人で仲良く歳を重ねて、最期は君に看取られて生涯を終えられたら良いな、なんて、普通の幸せを望むことなど、僕には許されないんだな。」
ラニットはアマルティの手を取り、涙でくしゃくしゃになった顔を向けて言った。
「本当は、怖いんだ。こんな弱音を吐ける相手は君だけだよ。僕は本当はそんなに強くない。宿命を果たす覚悟はあるなんて言いながら、本当は怖くてたまらない自分が、心の奥底で震えてる。死ぬのが怖いんじゃない。君を、君との未来を失うのが辛いんだ。僕が器で、君が巫女なのも、それぞれが自分の宿命を受け入れて役割を果たすべく生まれてきたことも、頭では理解している。だが、僕にも感情はある。君を愛して、君との未来を夢見て、それらの幸せが全て僕の手の中から零れていく。望んではいけなかったのかもしれない。でも自分の気持ちを止めることなど出来はしなかった。幼馴染の君を、母や姉のように慕っていた君を、いつの間にか一人の女性として愛するようになってしまったから、望むべきではないと思っても、君への愛を止められなかった。もしかしたら、ほんの少しだけでも、夢が叶うかもしれない。そんな希望を捨てたくなかった。だが、思っていたよりも随分早く、夢を諦めなければならないと知る時が訪れてしまった。本当は逃げ出したい。でも、僕はもう光の器としてタブリュスと契約してしまった。逃げ道はない。頭ではわかっていても、まだ僕の心がそれを受け入れられないんだ。」
アマルティも頬に涙を伝わせて、ラニットをじっと見つめて言った。
「私だって同じよ。ラニット。弟のように可愛かったあなたを、いつの間にか一人の男性として愛するようになってしまった。王と巫女としてだけではなく、あなたの妻になって、あなたを支え見守りたかった。あなたとなら一生苦楽を共にして暮らしていけると思えた。結婚しようと言ってくれた時は嬉しかった。いつかあなたが光の器としての宿命で、命を懸けた闘いに臨まなければならない時が来るとしても、心の何処かで一縷の望みに縋ってみたかった。もしもあなたが生き延びることが出来るなら、例えあなたの身体が動かなくなっても、私のことがわからなくなっても、あなたの傍に居たかった。出来ることなら宿命から逃げ出して、二人でひっそりと何処かに隠れて暮らして行けたらどんなに良いだろうって考えたわ。そのためならどんな罰を受けても、どんな犠牲を払っても良いとさえ思った。神に背いてでも、あなたを失いたくなかった。勝っても負けてもあなたは戻らないのだと聞いて、いっそ闘いに臨む前に、あなたと二人で逃げようとまで思ったわ。でも、それは出来ない。わかっているけど、受け入れられないのは私も同じよ。」
ひとしきり泣きながら互いの心情を吐露しあった二人は熱い抱擁と共に唇を重ねた。器として、巫女として、それぞれの宿命を肩代わりできる者も、心底理解してくれる者も居ない孤独を抱えながら、愛し合い求め合う二人は抱き締め合い、初めて心も体も結ばれることで互いの満たされない魂を癒し合った。
月の光を浴びて寝台に並んで横たわる二人は心を決めた。
「アマルティ。僕は決めた。メフィステレスの器と闘う。僕が彼に敗れたら、全ての魂は幽世に送られて、現世は、この世界は闇に飲まれて消える。君の生きるこの世界を、僕は決して失わせる訳にはいかない。父上が護って来たこの国も、民も、他国の民も、いや、蛮族でさえも、この世界で生きる者全てを護るために、僕は彼を倒さねばならないんだ。僕は宿命を受け止めて、この世界を救うために、この魂を捧げる覚悟を決めた。」
そのラニットの言葉は静かだが落ち着いていて、ついに決心を固めたことが感じられた。
「ラニット。あなたが決めたことなら、私はそれに従うわ。この世界を救った後、あなたが戻らないとしても、私はあなたに代わってこの世界を守らなければならないもの。あなたが命を懸けて守った世界を、あなたが遺してくれた世界を、今度は私が命を懸けて護り抜くわ。」
アマルティの言葉にも揺るぎない決意と覚悟が感じられた。
二人は残された僅かな時間を惜しむように再び抱き締め合った。
程なくして、神託により告げられた時と場所において、光と闇の神獣による、世界の命運をかけた闘いの火蓋が切って落とされた。古の霊獣大戦の折に破壊されて廃墟となった広大な土地に結界を張って、ラニットとアルベルトが対峙していた。
「禍罪の鎖を絶ちて魂を苦悩より解き放つ者、暗黒を統べる闇より黒き者、メフィステレスよ。我が召喚に応えよ。」
先にアルベルトが聖句(シュクリト)を詠唱すると、続けてラニットも聖句を詠唱した。
「眩(まばゆ)き光の剣(つるぎ)にて闇を切り裂く者、鋭き光の矢を放ちて闇を射貫(いぬ)く者、タブリュスよ。我が召喚に応えよ。」
アルベルトが、漆黒の甲冑を身に着けた騎士姿のメフィステレスをその身に顕現させると、ラニットは、黄金の甲冑を身に着けた騎士姿のタブリュスをその身に顕現させた。
二体の神獣は剣を携えて距離を取り、互いに王国流剣術の構えを取った。魔法剣の剣術勝負に始まり、接近戦での体術や遠隔攻撃の魔法もほぼ互角、強いて言えば器としての経験に勝るアルベルトのメフィステレスが僅かに有利というところか。
(このままでは埒が明かない)と二人同時に感じた時、それぞれが完全顕現により神獣の姿となって戦うことを選択した。
「来たれ!メフィステレス!」
「来い!タブリュス!」
黒い六本足の半人半馬の神獣姿のメフィステレスが大剣をぶんっと振るい、黄金色に輝く翼竜の神獣姿のタブリュスが六枚の翼を広げて空に舞い上がった。
メフィステレスが大剣を振ると、鎌鼬(かまいたち)の如き真空の衝撃波が飛び、それを躱(かわ)したタブリュスの口から吐かれた光線が一直線にメフィステレスへ向かい、メフィステレスはそれを躱す。メフィステレスが放つ闇魔法の効果を相殺するように、タブリュスは光魔法をぶつける。神獣同士の一騎打ちは正に互角で、只管(ひたすら)魔力を消耗して行くだけで、戦況は膠着、その力は拮抗していた。
アルベルトの目には、光の神獣の器であるラニットの姿がケイネスとダブって見えて、闇の力全開で潰しにかかるが、目に映るこの世界は輝きを失い、愛する者を失った代償にしては、余りにも虚ろでしかなかった。闇の極大魔法を発動しさえすれば、全てが終わる。だが、タブリュスに余力の残っているうちは、光の極大魔法を発動することで相打ちになるか、或いは僅かにタブリュスに残された力がメフィステレスの力を上回った場合、闇の極大魔法はかき消されてしまうだろう。
少し時を遡り、最後にして最大の闘いの前に、アルベルトの心境には微かな変化が生じ始めていた。遥か昔、生と死の境界で在りし日のアメリアの姿を具現化した思念体として現れた彼女の魂と共に、幽世(かくりよ)の神アトルから究極の選択を告げられた時は、この世界を救うことが自分の使命だと勝手に思い込んでいたが、最終決戦の前に、自らの宿命の真実を知ることとなった。
アルベルトは光の神アルブが統べる光の世界を終わらせるべく、闇の神アトルの意思により闇の器にされ、同様に光の神アルブの意思によって光の器とされたラニットと闘うことになったが、世界の命運をかけた闘いは、勝敗の結果に関わらず、双方の器の魂は、器となって神獣を宿した代償として、永遠に消滅する。光の器が勝てばこの世界は存続し、闇の器が勝てば世界は闇に飲まれて消える。それが真実だった。
しかしアルベルトにとっては、世界の行く末など最早どうでも良かった。アメリアを失った世界など、どうなっても構わない。ただ数百年以上生き続けることに、アルベルトはもう疲弊していた。ケイネスを倒した時に、復讐を終えれば良かった。ケイネスの末裔たる王族に対して復讐を継続したのは、ただ、死ねない自分がこの世に生き続けるための言い訳でしかなかった。誰にも殺せない自分を消滅させられるのは、器として戦える相手だけ。ケイネスの死後、別の器が現れるまで、只管待ち続けるよりなかった。そしてやっと現れたのだ。アルベルトは、本当は、無自覚に「自分が倒されることで全てを終わらせたい」と願っていた。この世界を滅してもアメリアが戻ることはないが、アメリアの居ないこの世界で永遠に存在し続けなければいけない自分を認められず、復讐という目的で自分を偽りながら、本当は自身の消滅を、ずっと無意識下で願っており、自害することすらできない死人であるから、器としての闘いの終わりと共に自らを消し去りたいと思っていた。かつて世界の全てを救おうとしてアメリアを救えなかったことを悔い、彼女はおろか自分さえも救えず、心が闇に堕ちて、世界の全てを終わらせて、消えゆく自分の魂の道連れにこの世を消し去ろうとした。
何故だかアルベルトは、ラニットとの激闘の中で、ふとアメリアの最期の笑顔を思い出していた。愛する人を失ったこの世界は、既に輝きを失ったとずっと思っていたが、最後の最後になって、アメリアはこの世界を愛していたことを思い出したのだった。アメリアは自身を迫害したにも関わらず、この世界を愛し、その魂を捧げたのだと。それを思い出した時、アルベルトは、闇の器としてこの世界を滅するという使命よりも、「光の世界を残すべきなのでは」と思い直し、ふっと力が抜けた。長く死人としてこの世に留まり過ぎて、疲れ果てたアルベルトは、「もう終わらせたい」という、秘めたる自分の気持ちをやっと認めることが出来た。
メフィステレスは闇の極大魔法デュンケルの詠唱を始めた。
「漆黒の闇、永遠の無、全ての魂よ…」(昏(くら)き世界に堕ちよ。デュンケル!)
それに対抗すべくタブリュスは光の極大魔法リヒテルの詠唱を始めた。
「黄金の光、永遠の生、全ての魂よ、輝き、遍(あまね)く世界に満ちよ。リヒテル!」
リヒテルが発動した瞬間、タブリュスの中でラニットの魂は気づいた。偶然なのか、敢えてなのか、アルベルトの魂がメフィステレスを制止し、突然詠唱を中断したことに。不完全な詠唱により、デュンケルの発動は不発に終わった。
圧倒的に強いかと思われていたメフィステレス即ちアルベルトだったが、最後は自滅するかのように、タブリュス即ちラニットの極大魔法リヒテルの攻撃が通って致命的な打撃を与えられることとなった。