(この物語はフィクションであり、実在の個人、団体及び地域、時代とは一切関係ありません。)
プロローグ
『昔々あるところに…』
そんな言葉で始まる童話を、少女たちは幼い頃に何度も聞かされて育つ。
そういう物語にはいつも美しいお姫様が出てきた。
辛いこと哀しいことを乗り越えて最後には美形の王子様と結ばれた。
しかし、少女たちは成長してふと気づく。
現実の世の中には童話のようにうまい話なんてありはしないことに。
どんなに望んでも夢は叶えられないし、待てど暮らせど王子様は現れない。
そもそも自分はお姫様になんてなれない。
綺麗なドレスを着て、働かなくても優雅に何不自由なく暮らし、優しい王子様の愛に包まれて幸福になるなんて有り得ない。
日々の生活に追われて、くたびれた洋服を着て、靴をすり減らし、重い鞄を抱えて、働き詰めに働いて、疲れ果てて夢なんて見ている余裕はどこにもない。
そんなかつての少女たちにこの4つの物語を捧げる。
1) 海の泡
昔々あるところに広大な海の王国があり、魚人の王が海の生き物たちを治めていました。
魚人の姿は人間と似ていますが、全身がびっしりと鱗で覆われていてエラで呼吸をします。
少しの間なら海の外でも生きられますが、あまり長く海を離れるとたちまち息が苦しくなって死んでしまうのです。
魚人の姫・メルは好奇心旺盛な少女でした。
船に乗って海を渡る人間に興味を持ち、そっと眺めているのが好きでした。
ある時メルはいつものように人間たちの船を眺めていてふと一人の美しい男性の姿に目を奪われました。
人間たちの会話に耳をそばだてていたメルは、その男性がある国の王子で、ティエルという名だと知りました。
整った顔立ちにすらりとした体、澄んだ瞳の優しい眼差し。
人間の崇める「天使」とかいうものはおそらくこんな姿をしているのではないかと思えるほどの美しさでした。
もっと彼の傍に近づきたい。言葉を交わしたり触れたりしたい。
でもこの魚人の体では決して叶えられない夢。
(人間の女の子に生まれたかった…。)
メルは悔しくて唇を噛みました。
ある日ティエルの乗った船がいつものように沖に出ると突然嵐がやって来て、大きな船はまるで木の葉のように荒波にもまれ、乗っていた多くの人間が海に投げ出されました。
メルはティエルの身が心配で、横倒しになって沈んでゆく船の周りを必死に探し回りました。
すると板切れに掴まったティエルが意識を失いかけていました。
このままではティエルが溺れて死んでしまう。
メルは自分の醜い姿のことも忘れて夢中で傍まで行くとティエルを抱いて必死に岸に向かって泳ぎました。
(貴男だけは絶対に死なせない。わたしの生命(いのち)に代えても。)
荒れた海を自分よりも遥かに背の高いティエルの体を抱いて泳ぐのは魚人のメルであっても簡単なことではありませんでしたが、メルは何とか岸に辿り着くとティエルを横たえてその顔を覗き込みました。
ティエルはただ気を失っているだけで息はしていたのでメルは少し安心しました。
いつの間にか嵐が過ぎ去り、雲一つない青空から降り注ぐ太陽の日差しを受けて、冷え切っていたティエルの体に少しずつ温かみが戻って来て、青白い頬や唇にも赤みがさしてきました。
(よかった…。)
メルがほっとした途端人間の近づいてくる気配がしました。
メルははっと我に返り、さっと身を翻して海へ飛び込むと少し離れた岩陰からそっと岸の様子を窺っていました。
近づいて来たのは何人かの女性。
身なりからして身分の高そうな少女とその侍女たちのようでした。
人形のように美しい顔立ちの赤毛の少女は、宝石のような翠(みどり)色の瞳(め)を大きく見開いて「まあ!」と声を上げ、倒れているティエルに駆け寄ると薄いピンク色の美しいドレスが汚れるのも構わず岸に跪いてティエルを抱き起こして声を掛けました。
「どうなさったの?しっかりなさいませ!」
「…ううん…。」
少女の呼びかけにティエルは意識を取り戻しました。
「大丈夫ですの?お怪我はなくて?」
「…貴女は?貴女が助けて下さったのですか?」
まだ朦朧とした意識の中で訊ねるティエルに少女が答えました。
「わたくしはドロテア。隣国の王女です。
遠い修道院の寄宿舎に預けられていましたが、父王がこの国の王子・ティエル様との婚約を勧めるので国へ帰るところでした。
貴男は嵐で難破した船に乗っていらしたのね。運よく岸に打ち上げられていたようですわ。」
「貴女がドロテア姫だったのですか。私がそのティエルです。
このような恥ずかしいお姿を見せてしまい面目ありません。
貴女は私の命の恩人です。
こんな情けない男がお嫌でなければ是非私と婚約して下さい。」
ドロゼルは、まあ…と小さな声を漏らすとぽっと頬を染め、恥ずかしそうにティエルを見ながら言いました。
「ティエル様…。嫌だなんて、そんな…。
でも今は貴男のお体のことが心配です。お城にお戻りになられた方がよろしくてよ。」
ドロテアの侍女が知らせたのか、すぐに迎えの者達が現れてティエルを連れて去ってしまいました。
(婚約者…。)
メルは衝撃を受けました。
嵐の海からティエルを救ったのはメルなのに、ティエルはそれを知りません。
たまたま運よく岸に打ち上げられて、通りかかったドロテアに助けられたと思い違いをしています。
しかもそのドロテアは何とティエルの婚約者だったのです。
美男美女、いかにもお似合いのカップルに見えました。
メルは哀しみで胸が潰れそうでした。
こんな醜い魚人の姿でなかったら。
本当は貴男の生命を救ったのはわたしです、と名乗ることすらできません。
『やあ、魚人の姫・メル。』
頭の上から呼び掛ける声にメルが見上げると、美しい青年がふわふわと宙に浮いて微笑んでいました。
銀灰色の髪をさらさらと風に遊ばせ黄金(きん)色の瞳が妖しく輝くその青年は、銀色のローブに黒いマントを羽織り短い杖のような棒を持っていて、まるで空中の見えないソファーに寝そべるようにしてメルを見下ろしていました。
(この人は誰だろう?どうして宙に浮いているの?)
メルが不思議に思う気持ちを見透かしたように青年は言いました。
『僕の名はジルベール。白銀の魔法使いとも呼ばれている。
君はあの人間の王子に憧れているんだね。いつも彼だけを見つめていたことを僕は知っていたよ。
でもどんなに彼が好きでも今の君の姿では彼の前に出られっこないよね?
だってその全身鱗だらけの体を見たら人間たちに王子を襲いに来た化物と思われて彼の家来に殺されてしまうかも知れない。
残念ながら人間というものは、自分と違う姿をしているものに対しては脅え、それ故に相手を排除しようとするものだから。
メル。僕には君の願いを1つだけ叶えることが出来る。
君が強く願えば、その願いは必ず叶う。僕の魔法で叶えてあげる。
でも、いいかい。メル。
ひとたび僕と契約を結んだらもう取り消すことは出来ないよ。
願いを叶えられるのは一度きり。
だから良く考えて答えて。
もし仮に君が僕の魔法で願いを叶えたことを後悔して、僕と契約した自分自身を呪ったりしたら、魔法は解けるけれどその時何が起こるかは誰にもわからないんだ。
この僕自身も全く予測がつかないから責任は持てない。
それでも君が望むなら、1つだけ君の願いを叶えよう。
さあ、メル。
君は何を望む?何を願う?』
(わたしは…。わたしの望みは…。わたしの願いは…。)
メルは考え込みました。
もしも人間の姿になれたら。
例え真実を告げることが出来なくても愛しいティエルの傍に行きたい。
あの時確かにこの胸に抱いた彼の体の感触がまだ今も肌に残っている。彼の息遣いも。柔らかな髪も。滑らかな肌も。
もう一度会いたい。
そのためなら何を犠牲にしても惜しくない。
メルは決心しました。
(…人間の姿になりたい。)
ジルベールは薄い笑みを浮かべて問い返しました。
『人間の姿になりたいんだね?メル。
魔法で人間の姿になれば、君はもう二度と魚人の姫には戻れないよ。
海の王国を捨て、父王を捨て、ただの人間の少女になるんだよ?
そして君は海を捨てるんだから、この先海は君を呪い、君を拒む。
君には帰るところがなくなるんだ。それでもいいんだね?
もう一度言う。
1つだけ願いは叶う。でももしその願いを後悔し自分を呪ったために魔法が解けても責任は持てない。
それでも君は人間の姿になることを願うんだね?』
メルは覚悟を決めました。
生まれ育った大好きな海。幼い頃から慈しみ育ててくれた年老いた父王。
後ろ髪引かれる思いが全くないと言えば嘘になります。
それでもこの先ティエルと会えないまま生きていくことは辛過ぎる。
一度彼に触れてしまった今となっては、ただ遠くから彼を眺めているだけなんてもう我慢できませんでした。
人間になって彼の傍に行きたい。彼に会いたい。ただそのことだけで頭の中はいっぱいでした。
(人間の姿になりたい。)
ジルベールがふっと笑って答えました。
『わかったよ。メル。
じゃあ、目を閉じて。君に魔法をかけてあげよう。』
『もういいよ。メル。さあ、目を開けてごらん。』
ジルベールの声で恐る恐る目を開けたメルは自分の腕を見て驚きました。
(鱗がない!)
顔を上げるといつの間にかメルは海中ではなく大きな岩の上に座っていてジルベールが微笑みながらじっとメルを見つめていました。
腕だけではありません。脚も体も滑らかな人間の皮膚です。
手で触れてみると頬にも額にも全く鱗はなかったのです。
ジルベールがパチンと指を鳴らすとメルの前に宙に浮いた大きな姿見鏡が現れました。
鏡に映るその姿はまさに人間の少女。
蒼色の髪、群青色の瞳。少し離れた両目と低い鼻。厚い唇。
お世辞にも美しい顔立ちとは言えませんでしたが、確かに人間の姿になったメルがそこに居ました。
『どうかな?メル。どこから見ても人間の姿にしか見えないだろう?
ただ、一つだけ大事な事を言っておかなくちゃいけないんだ。
君は元々魚人。
海の中でエラで呼吸していた君を陸で生きられるようにすることは出来たけど、君は声帯を持っていないから声を出すようにはできなかった。
君は人間の言葉を聞いて理解することは出来ても人間の言葉を話すことは出来ない。
それだけは覚えておいておくれ。』
彼に会えるなら言葉が話せないくらい何でもない、とメルは思いました。
メルがこくりと頷くとジルベールはパチンと指を鳴らして鏡を消しました。
『さあ、メル。岸まで泳いでお行き。
そして陸へ上がったら人間の少女として暮らすんだ。
君自身が選んだ人間としての新しい人生を生きろ。
幸運を祈っているよ。』
ジルベールが霧のように消えた後、メルは深呼吸した。
胸いっぱいに潮風を吸い込んで吐き出すと、振り返って大海原をじっと見つめた。
(さよなら…。)
生まれ育った海に別れを告げると、メルは岩から海に飛び込み泳ぎ始めました。
泳ぎは大得意だったはずなのになぜだかいつものようにうまく泳ぐことが出来ません。
これが人間の体というものなのでしょう。
魚人でなくなったことを思い知らされて少し悲しくなったけれど、人間の姿でまたティエルに会えると思えばそんな悲しみなどたいしたことではないとメルは思い直しました。
いつもならすいすいと泳げる岸までの距離がとんでもなく遠く思え、不慣れな人間の体はうまく動かず、やっと岸に辿り着いた途端疲れ果てたメルは気が遠くなって倒れてしまいました。
「…大丈夫?可哀想に…。」
どこかで聞き覚えのある少女の声が聞こえました。
一点の曇りもない、青空のように清々しい声が優しく呼び掛けています。
(…ドロテア姫?)
メルが目を開けると、大きな翠色の瞳がきらきらと輝いてメルを見つめていました。
「…よかった。気がついたのね。もう大丈夫よ。
でも不思議ね。あなたはどこから来たのかしら?」
凪いだ海の上には船影もなく、岸辺に倒れていたメルは何一つ身に着けていなかったので、ドロテアが侍女に命じて持って来させたのか、メルはガウンを着せられていました。
メルがぶるぶると首を振ったのをドロテアは(わからない、覚えていない)という意味に取ったようでした。
「あなた、お名前は?それも忘れてしまったのかしら?」
メルは腕を上げ真っ直ぐに伸ばして大海原を指さしました。
父王がメルの名は人間の言葉の「海」に似ていると言っていたからです。
ドロテアは首をかしげてメルの顔を覗き込みました。
「…あなた、言葉が話せないのね。
恐ろしい目に遭って声が出なくなってしまったのかも知れないわね。」
ドロテアはメルが遭難し、強い精神的ショックを受けたから声が出なくなったのだと思ったようでした。
「…海…メル?…そう。あなたはメルっていうのね?」
メルがこくりと頷くとドロテアは嬉しそうに微笑んだ。
「メル。いいお名前ね。わたくしはドロテアよ。
あなたが声が出せるようになって記憶を取り戻すまでわたくしの傍に居るといいわ。
きっと年も同じくらいでしょうし、私のお友達になって下さらない?
わたくしは長い間遠い所で暮らしていたからお友達が居ないのよ。
妹が出来たようで嬉しいわ。メル。
あなたは本当に綺麗な瞳(め)をしているのね。深い海のような群青色。
侍女や家来は得体の知れない者だとあなたを怪しむけれど、わたくしにはわかるわ。あなたはとても心が綺麗なひと。
私はもうすぐ嫁ぐけれど、その時あなたは花嫁の付き添い者としてずっとわたくしの傍についていてね。
あなたは今日からわたくしの大切なお友達よ。」
ドロテアに拾われたメルは彼女に妹のように可愛がられ、ドロテアとおそろいのデザインで色違いの美しいドレスを着て、常にドロテアに付き従いました。
もちろんドロテアがティエルと会う時もずっと二人の傍に居ました。
「…ドロテア姫。この少女は?」
「ティエル様。わたくしのとても大切なお友達のメルですの。
可哀想に海で遭難したらしくて、記憶もないし言葉も話せませんけれど、とても賢い娘(こ)なのです。
わたくしはメルを妹のように思っておりますの。結婚式の時も花嫁の付き添い者をお願いするつもりですわ。」
「…ほ、ほう?そうでしたか。メルとやら、私がドロテア姫の婚約者のティエルだ。よろしくな。
…うん?君とはどこかで会ったことがあったかな?…いや、失敬。そんなはずはないな。」
メルは両手の指でドレスを抓んで恭しくお辞儀をし、顔を上げてにっこり微笑んだ。
(そうです!ティエル様。あの嵐の日、貴男を救ったのは私です。)
メルは心の中で叫びましたが、その心の声がティエルに届くはずはありません。
ある日のこと、共にティエルの城を訪れたドロテアが一人だけ王様に呼ばれて、メルが中庭で彼女を待っていた時、偶然少し離れた所からティエルの声が聞こえてきました。
メルがそこに居ることなど全く気付かないティエルは友人らしい貴公子と話をしていました。
「…いよいよ年貢の納め時ですね。ティエル殿。仲間内では女たらしと悪名高い貴公が結婚とは。
しかも高嶺の花と言われていたドロテア姫と。真に羨ましい限りですよ。
これまで手を出した女の後始末をいつも我々に押し付けておいていい気なものだ。」
友人らしき貴公子が苦笑しながらそう言うと、ティエルはメルが今まで見た彼とは別人のような底意地の悪そうな笑顔で答えました。
「まあそう言うなよ。そんなことを言いながらお前たちだって散々おこぼれに預かって良い思いはして来たんだろう?
俺は女にもお前たちにもずいぶんと金を使ったんだぜ?
ドロテア姫は深窓の令嬢。箱入りもいいところだ。
紳士的な王子を装えばもう俺にぞっこんだよ。全然疑いもせずに惚れている。
ドロテア姫は一人娘だ。
彼女を妃にすればこの国より遥かに豊かな隣国もいずれは俺のもの。
彼女は確かに可愛いが面白みがない。
結婚前後は暫く大人しくしておくが、そのうちまたお前たちと遊んでやるから、いい女を見繕って準備して待っていろよ。」
「やれやれ、ティエル殿はやはりティエル殿だ。結婚くらいでは変わりようもないか。」
そう言うとティエルと友人は可笑しそうに笑っていました。
メルは全身から血の気が引いていくのを感じました。
思わず自らの目と耳を疑い、悪い夢を見ているに違いないと思おうとしました。
美しくて優しい王子、ティエルは作り上げられた偶像だったのです。
生身の男としてのティエルの本性など知らなければよかった。
そう思うと同時にドロテアが心配になりました。
本来は恋敵のはずのドロテアでしたが、どこの何者かもわからないメルを拾って本当の妹のように可愛がってくれるドロテアに親しみを覚え始めていたメルはいつしか彼女と本当の友達になった気がして来たところでした。
(ドロテアは知らない。…ティエル様に騙されていると知ったら彼女はどれほど傷付くだろう…。)
メルにはドロテアにそのことを伝える術はありませんでした。
日常生活のだいたいのことなら身振り手振りと顔の表情で伝えることが出来るようになっていましたが、こんなに込み入ったことはとても伝えられそうにありません。
読み書きのできないメルにドロテアは熱心に文字を教えようとしてくれましたが、水かきのなくなったメルの手はうまく文字を書くことが出来ず、手紙を書いて伝える訳にも行きません。
何よりティエルがそんな汚い男だと知った今でも、メルはティエルへの思いを完全に捨てきることが出来なかったのです。
「メル?メル?どこに居るの?私の元へ戻っていらっしゃい。」
用を済ませて戻って来たドロテアがメルを探していました。
メルはいそいそとドロテアの元へ向かいました。
「あら?メル。そんなところに居たのね。一人で心細かったでしょう?もう大丈夫よ。待たせてごめんなさいね。」
ドロテアはいつもの笑顔でメルを迎えました。
そこへティエルが姿を現しました。
「ドロテア姫。本日はようこそこの城をお尋ね下さいました。
ちょうど今中庭の薔薇園が満開ですよ。薔薇はお好きですか?是非ご覧に入れたいので、よろしければ私がご案内します。どうぞこちらへ。
…メル。君もおいで。」
「ありがとう存知ます。ティエル様。この城の薔薇園の評判は伺っておりますわ。薔薇は好きです。お言葉に甘えて拝見致しますわ。
ね、メル。きっととても綺麗よ。楽しみですわね。」
ドロテアが本当に嬉しそうにそう答えてメルに微笑みかけました。
メルはこくりと頷きドロテアと共にティエルに従って薔薇園に向かいました。
ティエルが語る薔薇に関する薀蓄などうわの空で、メルはずっと考えていました。
(このまま二人が結婚したら、ドロテアが不幸になるのは目に見えている…。
それでは彼女が余りにも気の毒だけど、わたしには結婚を止めることは出来そうにない…。
それにわたしはまだどこかでティエル様を…彼がどんなに酷い男でもやはり憎むことも嫌うことも出来ない。
あの嵐の日のことを思い出すと今も体が火照ってくる。
…ああ、わたしは何故人間の姿になんかなったのだろう。
あの日のことを美しい思い出として心の奥にしまったまま魚人の姫として生きていたら良かったのに。
どうしてももう一度彼に会いたくて人間の姿になったけれど、あんなことは知らなければ良かった。
本当の彼は身も心も美しい「天使」なんかじゃないと。)
その夜、海に浮かべた大きな船の上でティエルとドロテアの婚約を祝う盛大な宴が催されました。
昼間メルが偶然聞いてしまったティエルと友人の会話。
その時メルはティエルが宴の席でドロテアを酔わせ、彼女を介抱する振りをして強引に関係を持とうと計画していることを知りました。
万が一にもドロテアの気が変わって婚約を解消されないように、今夜彼女を手に入れてしまおうというのです。
女なんて一度抱いてしまえば「愛してる」と囁くだけで何でも言いなりになる。
「貴女を愛しすぎてもう結婚まで待てないんだ」と言えばきっと俺の思い通りに操れるさ、とティエルはうそぶいていました。
メルの中で怒りやら嫉妬やら同情やら様々な感情が入り乱れ渦巻いていました。
メルは人間の姿になったことを後悔し、あの時ジルベールと契約を交わした自分を呪いました。
するとメルの足先がうっすらと透けはじめました。
(…消える?…わたし…消えてしまうの?)
メルははっと気づきました。
ジルベールが「何が起こるかわからない」と言ったのはこのことなのかも知れない、と。
それなら、とメルは考えました。
そして今これから自分のなすべきことがはっきりとわかりました。
宴が始まり、ティエルは言葉巧みにドロテアを酔わせ、計画通りに彼女を抱き上げていくつかある船室の一つへ運びました。
自らの計画を実行することだけに夢中のティエルはその時いつもドロテアの傍に影のように張り付いているメルがそこに居ないことに気づく余裕はありませんでした。
ティエルがドロテアをベッドに寝かせると、ドンドンとドアをノックする音がしました。
ティエルはちっと舌打ちし、「これからという時に」とひとりごちて、ドアを開け辺りを見回しましたが誰も居ません。
首をかしげて船室に戻ろうとした時に何者かに後ろから殴られてティエルは気を失いました。
ティエルがふと我に返りがばっと起き上がると、背を向けてベッドに横たわる少女の姿が目に入りました。
ティエルは何か釈然としない違和感を覚えましたが既にかなり酔いが回っていたのでその時はそれが何なのかははっきりわかりませんでした。
そっと彼女に近づき、ティエルは甘い声で囁きかけました。
「…ドロテア姫。ご無礼は承知の上ですが、私は貴女への愛をもう抑えきれません。
貴女も私を好いて下さっていると思うのは私の思い上がりでしょうか。
どうか私の愛に応えて下さい。」
すると突然彼女の方からがばっと体を起こしてティエルに抱きついてきました。
驚きながらもティエルは内心ほくそえんでいました。
(しめしめ…ついに堕ちたな…。)
薄暗い部屋の中で抱きついて来た彼女のドレスの色が薄いピンク色ではなく淡い水色であることにティエルはやっと気づきました。
デザインもサイズも全く同じだけれど色だけが違うドレス。それを着ているのは、メル。
口づけを交わそうとしてその事実に気が付いたティエルは思わずメルを突き飛ばしました。
その生臭いにおい。…突如として甦る記憶…ぬめぬめした鱗の感触。
「…あの時の…!?」
メルはティエルに飛び掛かると隠し持っていた紐を素早くティエルの首に巻きつけ、ものすごい力で締め上げました。
「ぐっ!」
ティエルは苦しそうに呻き声を上げましたが、助けを呼ぼうにも息が詰まって声が出せません。
メルは更にティエルの手と足を縛り、ティエルを抱えて船室を出ました。
とても普通の少女の力で出来ることではありません。
そして甲板からティエルを突き落すと、メル自身も海に飛び込みました。
もう膝の下まで透けて来ているメルには残された時間はあまり多くはありません。
ティエルを抱いたまま深い深い海底目指してどんどん潜って行きます。
宴の喧騒で物音は掻き消され異変に気づく者は誰も居ません。
(ティエル殿は今頃よろしくやってるんだろうなあ)とニヤつく件の貴公子以外は誰も二人のことを気にしていなかったのです。
ティエルが婚約者のドロテアを優しく介抱しているのだろうから心配はいらないと、二人には構わず皆宴を楽しんでいました。
ティエルの鼻と口から僅かに漏れていた泡が完全に出なくなると、ティエルの体はひとりでに海底に向かって沈んで行きます。
そしてとうとうメルの体は完全に消え、海の泡となって溶けてしまいました。
海面には淡い水色のドレスだけが浮かび上がりどこへともなく波に運ばれて行きます。
ドロテアはベッドの上ですやすやと寝息を立てて眠っています。
隣の船室の開け放たれたドアから見える空のベッドのシーツが何者かがそこで争ったかのように酷く乱されていることなど彼女は知る由もありません。
彼女が目覚めて最愛の婚約者と大切な友達を一度に失ってしまったことを知るのはまだずっと後のことになるでしょう。
(続く)