きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

紅牡丹と白百合 後書き解説

2021-04-19 17:47:56 | 小説
 今回のきっかけは二つのネット記事でした。
「樋口一葉」と「山川登美子」についてのものです。


 樋口一葉といえば、五千円札にもなった女流作家として有名ですよね。
文学史で代表作「にごりえ」「たけくらべ」などなどを暗記した記憶があるかもしれません。
 一方の山川登美子は樋口一葉に比べるとちょっと知名度は低いかもしれませんが、女流歌人で与謝野晶子のライバルでした。

 文豪が異能を使って戦うコミック『文豪ストレイドッグス』では、瀕死の患者をフル回復する能力を持つ女医与謝野晶子(中途半端なダメージの場合は医者自らが瀕死にさせてから治療する)や上司兼先輩の芥川龍之介に憧れるヤンデレ女ギャング樋口一葉をはじめ、いろいろなキャラクターが活躍します。勿論私の推しは心中したがりの探偵太宰治ですが、樋口一葉の健気さは結構好きでした。

 そのコミックの樋口一葉から興味を持ち、記事を読んだ後、ネット記事にありがちな、「この記事を読んだ人はこんな記事もオススメ」的なリンクで次に読んだのが、山川登美子の記事でした。

 身内に国語教師もいて、自分自身も国語は得意だったけど、失礼ながら二人とも作家名や代表作は知っていても、あまり作家自身については詳しく知らないので、興味を持ったのです。

 その結果、樋口一葉と山川登美子を足して2で割ったようなヒロインという発想が生まれたのです。
樋口一葉の師匠・半井桃水と山川登美子の師匠・与謝野鉄幹を重ね、ちょっと太宰治のエッセンスも加え、ヒロインの憧れの師匠としました。
ヒロインの先輩でありライバルでもあり、憧れの師の妻というキャラクターは与謝野晶子がモデルです。

 元ネタに興味を持たれた方は検索して頂くとして、ほぼ元ネタのままの部分もあれば、細かい部分では元ネタと真逆の部分もあります。
物語の前半のヒロインは樋口一葉、後半は山川登美子を想定して書いていますが、違和感なく二人を融合することに力を注いだものの、設定だけは元ネタからですが主要キャラは全て殆ど独自の妄想から作り上げた人物かもしれません。

 実はヒロインが亡くなってから後の部分は、勢いで後付けした部分でして、最初は何も考えていませんでした。
結局最後はこれかい、とセルフツッコミしてしまいそうではありますが、重要な場面で師匠が語る言葉の中に既に伏線がありまして、登場人物は皆どこかしら作者の分身ですので、その流れのままに身を任せるとここに流れ着かざるを得ないのかな、という感じです。

 本来ならばもっと時間をかけ、もっと膨らませ、もっと掘り下げるべきなのだろうとは思いますが、そこは素人の限界とご容赦願えればと思います。天才小説家を描くのに、作中作品のクオリティがこれかと、冷汗三斗の思いで書いていることに免じて何卒ご勘弁ください。

 この作品より遥かに前から執筆中の作品がありまして、そちらは最終章(エピローグの手前)の途中なのですが、書きあがったところで全体の見直し、メンテナンス作業もあり、まだ完成のめどは立っておりません。
何よりも、今はまだ魂がこもっていない気がしていまして、世に生み出されるために必要な、一番大切な鍵を探しているような感じです。 
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紅牡丹と白百合

2021-04-18 12:07:58 | 小説
 白百合の君

  私には憧れてやまない方がいらっしゃいます。
その方は高等女学校で私の一年先輩にあたる方なのですけれども、私のような面白味のない凡人とは大違いで、ただその方がいらっしゃるだけで、その場がぱっと明るく熱気を帯びるような、情熱的な美しさとでも申し上げればよろしいのかしら、まるで咲き誇る鮮やかな深紅の、大輪の牡丹の花のような方なのです。
 その方に憧れるあまり、私がある時、失礼ながらその方にお手紙を差し上げて、私もその方と同じように小説家になりたいと思っていることをお伝えすると、その方は私に
「井口奈津子さん、お手紙をありがとう。切磋琢磨して一緒に小説家を目指しましょう。わたくしには弟しか居なくて、あなたのような清楚で可憐な妹が欲しかったの。これからはわたくしのことを姉と思ってくださってもよろしくてよ。」
と仰ったのです。
私は嬉しくて飛び上がりそうな自分をぐっと抑えて、やっとのことでその方を『お姉さま』と呼ばせて頂くことをお許し頂いたのです。
 お姉さまは悪戯っぽく微笑んで
「あなたはお手紙の中で、わたくしのことを『深紅の牡丹』に例えてくださったわね。それならあなたは『純白の百合』かしら。わたくしとは正反対で、穏やかで淑やかで純粋無垢で、あなたが居るだけで、雲一つない抜けるような青空を映した、漣一つない静かな水面のように、皆を心安らかにさせて、まるで匂い立つ白百合の花のようだわ。」
と仰ったので、私は恥ずかしくて耳まで真っ赤になってしまいました。

 私は人見知りが酷く、人付き合いが苦手で、子供の頃から本が好きで、特に小説を好んで読むうちに、自分でも物語を紡いでみたいと思うようになっていました。
高等女学校に通う女生徒は皆裕福な家庭の令嬢が多く、身に着けるものも綺麗で豪華なものが多かったのですが、私の実家も決して貧しくはなかったけれど、私が小学校の高等科を首席で卒業して、進学したいと望んでも、母は「女に学問など必要ない」と考えており、父が「これからの時代は女も学問が必要になるだろう」というので渋々同意したものの、倹約家の母は「学問をしに行くのなら古着で十分」と私はいつも貧しい身なりをしていたので、気後れして積極的に同級生と関わることもできず、本だけが友達のような生活でした。

 そんな私が、高等女学校で一学年上の鳳翔子(おおとりしょうこ)女史が小説家志望と噂に聞いて、どんな方なのかと興味を持ったのです。
しかし、直接話しかけるなどということは畏れ多く、しかも、彼女は余りにも魅力的で同性・異性を問わず常にどなたかと居られて、私のような者は到底近寄れまいと諦めておりました。
それでも、彼女に対する憧れは日に日に募るばかり。
ついに清水の舞台から飛び降りるような思いでお手紙を差し上げることにしたのです。
そのお返事を頂けただけでもとんでもなく嬉しかったのに、『お姉さま』とお呼びすることができ、小説について語り合うことができるようになって、もしかしたらこれは夢ではないかしらと何度も自分の頬をつねってみたほどでした。
しかも、お姉さまはご自身が師事されていた新進小説家の仲井柊二(なかいしゅうじ)先生を紹介してくださるというのです。
私は自分の世界が急速に展開していくことに、嬉しさと同時に、「こんなに幸せで良いのかしら」と恐ろしささえ感じていました。

 紅牡丹の君

 わたくしが高等女学校に通いながら、新進小説家の仲井柊二先生の教えを乞うて小説家を目指している、と知った一年後輩の女生徒から手紙を受け取りました。
時代遅れの、地味な着物を着た、おとなしそうな優等生、というのが彼女の第一印象でした。
その女生徒、井口奈津子さんは、小柄で華奢で色白の、清楚で可憐な女性でした。
奈津子さんは手紙の中でわたくしのことを『深紅の牡丹』のようだと書かれていましたが、そうだとすれば、わたくしとは正反対の奈津子さんは言うなれば『純白の百合』のようでした。

 手紙から奈津子さんの真面目な性格や、小説に対する真摯な思いが伝わってきましたし、噂では小学校の高等科を首席で卒業した才女だと聞き及んでいましたので、
「わたくしの師である仲井先生を紹介しますから、共に切磋琢磨して小説家を目指しましょう。」
と奈津子さんにお返事をしたところ、奈津子さんは耳まで真っ赤になりながら、何度も何度もお辞儀をして、涙を浮かべんばかりに喜んでいらっしゃるのがわかりました。
わたくしには弟しかおらず、「可愛い妹もいてくれたら良かったのに」と常に思っていましたので、奈津子さんに「わたくしを姉と思って」と申し上げたら、とても喜んでくだすったので、わたくしの方も嬉しくなりました。

 ただ、仲井先生は若くて美男子でどんな女性にも優しいので、一度お目にかかっただけで先生の虜になってしまう女性が多くて、かく言うわたくしも、先生に奥様がいらっしゃることは承知していても、恋心を抑えることができないくらいなのだから、奈津子さんのような無垢な女性には刺激が強すぎはしないかしらと心配になってしまいます。

 先生にわたくしの燃ゆる思いをお伝えしても、先生はいたずらっ子のように笑って
「良いことじゃないですか、鳳君。恋愛は小説家にとっての肥やしですよ。鳳君は情熱家だから、その情熱を小説に生かせばいい。若いうちは若いなりに、成熟すれば成熟したなりに、女性の情念を小説に落とし込めば、きっといい作品が書けます。教え子の小説の肥やしになるなら、僕も師匠冥利に尽きるというものです。」
などと仰るのです。

 わたくしは先生がそんなことを言いながら、今までにも何人もの教え子の女性たちと恋仲になり、今の奥様もまたかつての教え子であったことを知っているのです。
先生はわたくしの気持ちに気づいていながら、はぐらかして、弄んでいるのです。
それがわかっていても、わたくしの先生への思いは微塵も揺らぎません。
わたくしは他の誰にも負けるつもりはないのです。
先生の奥様やお子様には申し訳ないけれど、いつかきっと先生をわたくしのものにしたい、わたくしだけのものにしたいという気持ちは抑えようがありません。
先生だって満更ではないことはわたくしにもわかっています。

 奈津子さんの才能を生かすには、先生の教えが必要だと思うけれど、奈津子さんは明らかに今までの先生のお相手とは違います。
例え奈津子さんが先生に憧れたとしても、先生が幼くて地味で真面目な奈津子さんをお相手にされるはずがありません。
奈津子さんは先生にとって「小説の才能ある教え子の一人」にしかなりようがない、と、わたくしはそう思っていたのです。

 柊サロン

 僕は仕事部屋として使っている部屋をサロン代わりに、教え子の女性たちを呼んで小説の指導をしています。
かつての教え子であった女性の一人を娶り、子も生しまたが、僕が世間で「新進小説家」「若手作家」ともてはやされ、小説家を志す若い女性が教えを乞いたいと尋ねて来るようになると、優柔不断な性格が災いして断るに断れず、一人受ければ他の人を断ることができず、常にいろいろな女性が出入りするようになっています。
そんな僕の仕事部屋はいつの間にか教え子たちから『柊サロン』と呼ばれるようになっていました。

 流石に自宅では妻も良い顔をしないし、子供もいるので、仕事部屋で自分の執筆の傍ら後進の指導をするようになると、妻からは不貞を疑う目で見られ、実際に積極的に恋愛感情を示してくる女性と関係を持ったこともあるけれど、それはあくまでもお互いに大人の関係、「小説の肥やしとして、情愛の描写に真実味を与えるために必要な経験である」と納得しての関係だと、僕は思っていましたが、どうやら、男性と女性とでは脳の構造が違うらしく、男性は、心と体を別のものとして、割り切った関係で済むものを、女性は体の関係ができてしまうと歯止めが利かないというか、もうそれだけでは収まらず、心も体も何もかも全て手に入れないと済まなくなってしまうことがあるようです。
ある程度年齢と経験を重ねた女性ならば、そんな面倒なことにはならないのですが、若い女性はどうも一途でいけません。
現在の妻がそうだったことに懲りて、特に女学校を出たばかりというような若い女性は、恋愛が人生の全てであるかのような入れ込み具合になりがちなので、大人であるこちらの方が上手に導いてやらねばならないと思っています。

 そんな女性の中でも一番情熱的なのが、まだ高等女学校の女生徒である鳳祥子でした。
女学生とは思えないほど妖艶で、大人びていて、うっかり彼女の情熱に浮かされてしまいそうになるくらいでした。
祥子の小説も彼女らしい情念に溢れた作品で、確かに才能に溢れていて、うまく育てれば女流作家として大成するに違いないと思いましたが、まだ若さゆえの青さ、硬さが随所に見られ、もう少し成長して、大人の女性になったら、きっと素晴らしい小説が書けるだろうと思いました。

 その鳳祥子がある時後輩だという女生徒を柊サロンに連れてきました。
目鼻立ちがはっきりしていて、大柄で肉感的で妖艶な肢体を美しい着物や装飾品で飾り立てている祥子とは正反対で、顔立ちは不美人ではないが、小柄で華奢で色白で、地味で古風な着物を着て化粧っ気も装飾品もない井口奈津子というその女生徒は、清楚で真面目そうで、実年齢より幼く見えました。

 その日は何人かの教え子たちがサロンに集まって自作小説の一節を披露しあい、僕がその講評をするという日でしたが、他の女性たちは皆着飾って来ている中で、新参者の奈津子だけが、一人異質の存在でした。
古参の者から順に小説の一節を読ませていくと、祥子と奈津子以外の教え子たちは皆ありきたりの、凡庸な作風で、決して悪くはないが、皆既読感を禁じえない、これと言って特筆するものもないような出来でしたが、引き続いて発表された祥子の小説は、女学生の書いたものとは思えないような、どろどろとした生々しい情念に溢れ、綺麗事ではない、生の人間の煩悩を的確に表現した意欲作でした。

 「では、最後に今日初めて来てくれた井口奈津子君。鳳祥子君の女学校の後輩だそうです。皆さんこれからもよろしくお願いしますね。井口君、初めてで緊張するとは思うが、ゆっくり落ち着いて、作品を発表してください。」
僕が一堂に紹介すると、奈津子は真っ赤になって深々とお辞儀をして、
「よろしくお願いします。」
と言った後、原稿用紙を広げて読み上げ始めました。
震える声で、しかし、しっかりとした口調で読み上げられた奈津子の作品は、奈津子自身の人柄を反映するように、生真面目な文体で、しかし、その中に描かれた世界の描写は的確で瑞々しく、耳から入る物語は脳内に鮮明な映像を映し出し、人物の心情も心に染み入るようで、高い才能と感性を余すことなく表現していました。

 読み終わると、その場に同席していた全員が、まるで極彩色の映像を見ていたように深いため息をつき、感動に包まれました。
「素晴らしい。井口君。あなたらしい作風で非常に好感が持てました。皆さん、どうでしたか?」
僕がそう言うと祥子が答えました。
「とっても素晴らしくてよ。奈津子さん。活動写真を見ているように、お話がすっと頭に入って来ましたわ。」
「お姉さま、ありがとうございます。」
奈津子は恥ずかしそうにもじもじしていましたが、他の教え子たちも頷いていました。
教え子の中でも一番才能があると思っていた祥子に勝るとも劣らない奈津子の出現で、古参の者たちは度肝を抜かれた様子でした。
内心では、「こんなみすぼらしい小娘に負けるはずがない」と思っていたので、悔しい思いをしていたのかもしれません。
その時僕はこの才能に溢れた清楚で可憐な奈津子に出会い、非常に興味をそそられました。
それはあくまでも小説家としてだとその時の僕は思っていました。
その日以降、誰が言い出したのか、柊サロン内では、教え子たちが、鳳祥子を『紅牡丹の君』、井口奈津子を『白百合の君』と呼んでいたようです。

 奈津子と柊二

 井口奈津子が女学校を出ると間もなく父が急死し、奈津子は長女として家を支える立場となった。
その頃既にあちこちの文学雑誌などに投稿を試みて一定の評価は得ていたものの、奈津子が作家として独り立ちするところまではまだ至っていなかった。父の遺産ですぐに路頭に迷うことはなかったが、この先いつ貯えが底をつくかもしれず、一日も早く職業作家として安定した収入を得られるようになりたいと奈津子は考えていた。
姉同然に慕っていた鳳祥子は一足先に大胆な作風で既に作家として売れ始めており、奈津子は多忙となった祥子を慮って連絡を控えていたが、悩んでいる奈津子の下に師である仲井柊二から「サロン ニ コラレタシ」と電報が来た。

 その日は珍しく朝から降り続いた雪が、街中にも積もり始めていた。
久しぶりに柊サロンを訪れた奈津子を柊二が迎えた。
「やあ、よく来たね。雪で大変な中来てもらってすまないね。」
「いいえ、先生。少々取り込んでおりましたもので、ご無沙汰をしてしまい、申し訳ありませんでした。」
「まあ、寒いから中に入り給え。」
「お邪魔致します。」

 雪のせいか、今日は他に来客もなく、室内は奈津子と柊二の二人きりだった。
「寒いから、火鉢にあたりなさい。」
柊二に言われるまま、奈津子は火鉢を挟んで柊二と向かい合った。
「師弟とはいえ、今日は他の教え子が居なくて、若い娘さんと僕の二人きりというのはまずいかな。」
柊二が言うと、奈津子は火鉢で火照ったのか、恥ずかしいのか、少し頬を赤らめて言った。
「いいえ、そんな。電報を頂きましたので、お伺い致しました。」
「そんなに緊張しなくても、僕は狼じゃない。君を取って食べたりはしないよ。」
柊二が微笑むと、奈津子は耳まで赤くなって、
「いいえ、そんな。」
と繰り返した。
「君が小説のことで悩んでいるようなので相談に乗れたらと思って、来てもらったんだが、そんなにしゃちこばっていては、お互いやりにくいだろう?僕は君のことを年下の男性の友人と思って話すから、君も僕のことを年上の女性の友人だと思って聴いてくれたら良い。」
柊二はそう言ったが、微笑みを浮かべたままの端正な柊二の顔をまともに見ることもできない奈津子は、
「そんな風に仰られても、私にはできません。」
と俯いて言った。

 始めた会った日から、小説の師匠として尊敬していると思っていた。
美しくて優しく、落ち着いていて包容力のある年上の柊二に憧れてはいたが、姉のように慕っている鳳祥子の思い人でもあり、他の教え子たち皆の憧れであり、何より妻子のある柊二に対して好意を持つことには罪悪感が伴うので、それを恋愛感情だと認めることはできなかった。
でも、否定すれば否定するほど、胸が張り裂けそうに苦しくなった。
今にも心臓が口から飛び出しそうなほどの激しい動悸を悟られはしまいかと恐ろしかった。
「奈津子君は真面目だからねえ。それは君の長所でもあるが、弱点でもあるんだよ。」
(奈津子君?)
奈津子は初めて下の名前で呼ばれたことでますます激しく動揺した。

 「奈津子君の小説は、綺麗すぎるんだ。美しすぎて、純粋すぎて、触れるのを躊躇う。まるでふんわりと積もったさらさらの新雪のように。それは奈津子君自身が純粋無垢すぎて、繊細すぎるからなんじゃないかと思う。人間というものはね、もっと煩悩にまみれ、欲にまみれ、汚くて醜いものだ。だから美しすぎるものは受け入れられない。奈津子君の小説は素晴らしい、が、厳しい言葉で言えば、面白みに欠ける。庶民はもっと娯楽的な作品を求めているんだ。もう少し、人間味があって良い。もっと負の感情を認めて良い。そういうところが少し残念だと僕は思う。」
 柊二の言わんとしていることはわからないではなかった。

 「例えばね、以前奈津子君がここへ持って来て見せてくれた作品があったろう。若者の純愛の物語だ。主人公の女性の片恋を描いたものだった。素晴らしかった。完璧だった。だが、あれが売れるかというと、おそらくは売れまい。奈津子君の小説は優等生の小説だ。もしかしたら将来文学賞を取るかもしれない。だが、出版社はそんなものは求めてない。目の前に広がる底の見えない沼に飛び込んで沈んでいる宝を探して来なければ。奈津子君は飛び込むのを恐れているんだよ。飛び込んでしまったら、自分がどうなるかわからないから。汚れてしまうかもしれない。壊れてしまうかもしれない。想像もつかないようなことが起きて、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。それが怖くて飛び込めずにいる。でも、飛び込んでみないとその先へは進めない。奈津子君が今閉じこもっている殻を破れるかどうか。それができたら売れっ子作家になれるだろう。僕が請け合うよ。」
 柊二は奈津子の悩みに的確な答えを用意していた。

 「奈津子君が幾重にも包み込んで隠している本当の気持ち、本当の心を恥ずかしがらず、恐れずに表に出せるようになったら、きっと君は変わる。君の作品も変わると思う。それはあたかも何枚も重ねて着こんだ衣服を全て脱ぎ捨てて、全裸で民衆の前に進み出るようなものだ。恥ずかしいし怖い。だが、作家というものは、多かれ少なかれそうやって自分を切り売りして生活の糧を得ているのだよ。もしもそれができないのなら、君は小説家を目指すべきではない。少なくとも、それで生計を立てる職業作家にはね。」

 長いこと話し込んでいる間も、外の雪は一向に降りやまず、日が落ちて暗くなってきた。
「遅くなってしまったね。これほど積もっては帰れまい。おうちには電報を打っておくから、今日はここに泊まってゆきなさい。」
「いいえ、そんな。」
「心配しないで良い。曲がりなりにも僕は君の師だ。君を守る責任がある。こんな日に君を帰して何事かあっては取り返しがつかない。奈津子君がどう思っていようと、僕にとって君は、かけがえのない大切な人なんだ。」
「すみません。私の性格が堅苦しくて、嫌な女だと思われたでしょう。私は怖いのです。先生が仰る通り、私は私でなくなりそうで怖いのです。先生のようにお美しく、お優しく、たくさんの方に思いを寄せられている方にはお判りいただけないかもしれませんが、私は今まで色恋とは無縁の人生を送って来ました。もし好きな人ができて、その人に夢中になってしまったら、自分が自分でなくなってしまいそうで怖いのです。お姉さまのように、ご自分の気持ちに正直になれたらどんなに良いかと思いますけれども、私にはできません。思いを心に秘めたまま、ただ憧れで終わるだけなのです。綺麗事と仰るのもわかります。でもその一歩が踏み出せないのです。もう後戻りできなくなるのが怖いのです。」
「誰だって怖いさ。男だって、女だって。恋なんて、何回やっても最初と同じだ。止められるような恋は本当の恋じゃない。そんなのただ、寂しくって、傍にいてほしくって、ぬくもりを求めているだけだ。傷つくのも傷つけられるのも怖い。でも、傷つけあうことなしに人と関わることなんて出来はしない。お互いを死に物狂いで求め合うのが恋だ。愛とは違う。恋は奪い合い、求め合い、愛は与え合う。自分のものにならなくとも、愛する人のために全てを捧げることが出来るのが愛だ。自分の全てを投げ打ってでも、愛する人の幸せを願うのが愛だ。愛する人が自分を愛してくれていなかったとしても。」


 「奈津子君、火鉢の向こう側に布団を敷くから、君はそこで休み給え。僕は火鉢の手前で搔巻を着ているから。火鉢の火を落としても、暫くは暖かいと思うが、寒かったら言いなさい。」
「先生、ご面倒をおかけしてすみません。」
「ほら、また。それがいけない。泊まれと言ったのは僕だからね。君が気を遣う必要はない。いろいろ厳しいことを言ってしまったが、焦らなくても良いんだよ。君が独り立ちできるまで、ささやかながら援助ができれば、と思っている。君の才能をここで潰してしまっては文学界の損失だ。僕に出来る限りのことをさせてくれないか。これは君のためというより、師として、男としての自尊心、僕自身のためなんだ。甘えてくれたら嬉しい。」
「ありがとうございます。」
「お休み。」
「お休みなさいませ。」
明かりが消え、二人は火鉢一つ挟んで眠りについた。

 その後、奈津子の小説の雰囲気は一変した。
まるで美しい陶器人形の頬に赤みが差し、肌がしっとりと柔らくなり、瞳に光が宿って生身の女に生まれ変わったように。
小説『片恋』は若い女性が年上の既婚男性に憧れ、その等身大の心情を赤裸々に綴った物語として、世の女性たちの青春時代や初恋の思い出を擽ると絶賛され、売れに売れた。プラトニックな恋愛の裏に湧き上がる女性の葛藤を余すところなく描写して、若き女流作家として奈津子はその地位を確立するに至ったのである。
 師である仲井柊二は数々の浮名を流したプレイボーイで有名であり、奈津子との関係について話題になったこともあったが、奈津子が柊サロンに宿泊した一夜のことは、その後柊二も奈津子も生涯語ることはなかった。

 柊二と祥子

 井口奈津子より一足早く女流作家として売れた鳳祥子は肉感的で扇情的な小説を得意とし、旧来の淑やかな女性像とは違う、自ら主張し、自ら性愛を求めるような新しい時代の逞しい女性像を世に問うた。
勿論その作風に眉を顰める者もあったが、一方的な価値観に押し込められることなく、自由奔放な生身の女性像を提唱して共感と支持を得ていた。その陰に師である仲井柊二の存在があったことは周知の事実であり、寧ろ祥子はそれを全く隠すことはなかった。
柊二が既婚者であり、祥子と不倫関係にあることは、誰の目にも明白だった。

 「ねえ、柊二さん、いつになったら、奥様と別れてくださるの?それとも、まだ未練があるんじゃないでしょうね?」
後輩の井口奈津子と共に柊サロンに通っていた頃は『仲井先生』と呼んでいた祥子だったが、今は下の名前で呼ぶことが普通になってしまっていた。
「もう、そんなものはとっくにないよ。今は子供のことで話し合いをしているところだ。妻と別れたって、僕が子供の父親であることには変わりないからね。」
「どうせ、お金なんでしょう?」
祥子はつまらなさそうに言った。
「往生際が悪いわね。子供の養育費だとか何とか言って、お金が欲しいだけじゃないの?それとも、まだあちらがあなたに未練があるのかしら?」
気性の激しい祥子は憎々しげに吐き捨てた。
「いい加減にしないか。もう終わっているって言ったろう。今の僕には君だけだよ。祥子。君からの熱烈な愛情にがんじがらめにされているけど、そんな君が愛おしい。」
「うまいことばかり仰るのね。」
(どうせ、他に女はいるんでしょ?女なしではいられないくせに。)
祥子は後半の言葉は口から出る前に飲み込んだ。わかっていても、そんな柊二に惚れているのは自分なのだから。
そして前妻との離婚が成立すると、祥子は柊二と結婚した。
相変わらず柊二は柊サロンで後進の指導に当たっていたが、祥子もまたそこに参加し、自らも指導にあたった。
女学校の後輩で、祥子自身がサロンに紹介して参加させた井口奈津子も少し遅れて作家デビューし、代表作となる『片恋』を完成させた。
祥子の代表作となる『黒髪』が性愛をモチーフとした作品であるのに対し、奈津子の『片恋』は純愛をモチーフとしたもので、女学校時代サロン内で『紅牡丹の君』『白百合の君』と呼ばれたように、正反対の作風であった。

 奈津子とは、女学校時代に祥子に憧れているという手紙をもらって知り合った。一学年下の奈津子は祥子を『お姉さま』と慕ってくれたし、小説の才能も素晴らしかったので、今や夫となった柊二に紹介したのであるが、最近になって、夫が奈津子を援助していたとか、関係があったのではという噂があった。
祥子には、自分とは正反対の、真面目で地味な奈津子など、恋敵にはなりえないという自信があったのだが、『片恋』は奈津子の柊二への思いをモチーフに書かれたものとも思えたし、父親が亡くなった奈津子を師として支えたと言われるが、数々の教え子と男女の仲になった夫のことだから、奈津子に手を出していないとは言い切れない。
祥子はいつしか無意識のうちに奈津子に対して敵対心、いや、もっと言えば嫉妬をしていたのかもしれなかった。
「ねえ、柊二さん、まさか奈津子さんには…。」
と言いかけたが、
「え、何か言ったかい?」
と柊二が答えると
「いいえ、何でもない。」
とごまかした。もしも夫が認めたら、などとは想像したくもなかったし、もしも白を切ったとしても、それを心から信じることはできないだろう。どちらにしても祥子の自尊心を傷つけるには十分だった。
祥子は、相手が他の女なら、まだ許せた。だが、何故か、奈津子だけは嫌だった。それが何故なのかは祥子自身にもわからなかった。

 「お姉さま、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。」
突然奈津子から電報があり、来訪を受けた。祥子は電報を処分し、奈津子が訪ねてくること夫には伝えなかった。
「奈津子さんも、お元気そうね。小説が売れて忙しくなったでしょう。夫がお役に立てたようで良かったわ。」
祥子は、仲井の妻になったという余裕を見せつけるかのように言った。
「はい、お姉さま、先生にはお世話になり、感謝しています。申し遅れましたが、ご結婚おめでとうございます。」
「あら、ありがとう。」
祥子は勝ち誇ったように笑った。
「実は、私も結婚することになりまして。遠方に嫁ぐことになったので、先生とお姉さまにご挨拶に伺いました。」
奈津子の顔色は青ざめて、ひきつったような笑顔からはとても縁談が決まって喜んでいるようには見えなかった。
「そうなの。それはおめでとう。」
「ありがとうございます。親戚の紹介で親の田舎に戻って同郷の方に嫁ぐことになりました。」
「今日は夫が出かけていて、お会いできなくて残念だわ。」
「先生にもお世話になりましたとよろしくお伝えください。」
「ええ、わかったわ。お元気でね。」
奈津子はそのまま田舎に帰り、祥子は後から夫に伝えた。
「そうか、井口君がね。」
柊二はそれだけしか口にしなかったし、祥子は夫の表情からは何も読み取ることはできなかった。
祥子は、厄介者の奈津子が結婚すると知って、内心安堵していた。
もしも本当に夫が奈津子と関係をもっていたとしても、「もうこの先二人が会うこともない」と思うことで、やっと平静な心を取り戻せた気がした。

 奈津子と祥子

 自らの意思とは違う結婚の道を選んだ奈津子であったが、夫は寡黙で温厚な人物で、奈津子の創作活動にも理解を示してくれた。
穏やかな結婚生活の中で、かつて憧れた師である仲井柊二の言った「恋と愛の違い」を身をもって知ったのか、夫とは仲睦まじく、平凡ながら幸せな暮らしを手に入れたのも束の間、夫は病に伏して療養も空しく帰らぬ人となった。
夫との結婚生活を題材に書いた小説も評価されていたので、夫の死後は再び結婚前と同じように執筆活動を再開しようと、実家に戻ることを決意した。

 「お姉さま、お久しぶりでございます。私は寡婦になりましたので、職業婦人として働きながら、執筆活動もやっていこうと考えて実家に戻って参りました。」
挨拶に来た奈津子の訪問を受け、祥子は震撼した。
折角厄介払いしたと思ったのに、また戻って来てしまった奈津子に夫を奪われはしまいか。そんな恐怖に背筋が凍る感じがした。

 奈津子が結婚してこの地を去ってからも、夫柊二は相変わらずあちこちの女に手を付けていた。
かつて前妻から夫を奪った祥子だったが、同じように別の女が現れて夫を略奪しはしまいか。その恐怖は日に日に大きくなっていた。
念願の妻の座は手に入れても、生活は貧しく、家事と育児に追われ、身も心もボロボロになって容色も衰えた自分を夫が捨てはしまいかと思うと、夜も眠れないほどだった。
そんな時に未亡人となって戻ってきた奈津子は、昔と変わらず凛とした品があり、結婚を経験して質素ながら落ち着いた大人の女性になっていた。仕事をするようになってからは、更に自信に溢れて見えた。
人生で得た経験の全てが肥やしとなって小説に生かされて、深みや幅を与えていた。
祥子は奈津子が今や作家としても女としても自分より優位に立っているように思えて、嫉妬の炎が轟々と心の中で燃え盛っていた。

 祥子の夫、仲井柊二は自らの主催する柊サロンの出身者でかつて教え子であった作家たちの作品集を企画し、祥子と奈津子にも声をかけた。過激な作風が変わらぬ祥子に対して、結婚し寡婦となって人生経験を積んだからこその自然体で重厚な作品を書くことが出来るようになった奈津子との違いは以前にもまして対照的だった。

 順風満帆に見えた奈津子だったが、体調の異変に気付いた時、その体は既に亡き夫と同じ病に蝕まれていた。
死を予感した奈津子の作品は達観したように凄みを増し、迫り来る死を恐れることなく、真っ直ぐにそれを見つめようとしていた。

 『その日は朝から雪が降っておりました。
しんしんと降り積もる雪が街並みを白く染め上げて、ふんわりとした雪の華がはらはらと空から舞い降りてまいります。
少女は民家の軒に入ると傘を傾けて、傘の上の雪を落とし、その雪は少女の足元に音もなく柔らかく積もりました。

 背の高い男性が引き戸を開けて、少女を迎えました。
部屋の真ん中あたりに丸い火鉢が一つ置かれていて、少女はその火鉢の傍に招き入れられました。
細い少女の指先は赤紫色に染まり、じんじんと拍動のような痛みが襲っていました。
「すまないね。寒かったろう。」
と男性は声を掛けました。
「いいえ、それほどでも。」
少女は少し強がって答えました。…(以下略)』

奈津子が病床で書き残した最後の物語は『火鉢』という作品だった。
 その作中では、少女が慕う年上の男性を訪ね、大雪で家に帰れなくなった夜に、火鉢一つ挟んで男性の部屋に泊まった場面が印象的だった。
その恋は少女の純粋な憧れであり、本当の愛とは違う、と男性に諭され、少女の初恋は純愛のまま終わる。
少女はその後別の男性と結婚するが、夫に先立たれ、自らも死の床にあり、窓の外を降る雪を見て、初恋の甘酸っぱい思い出が蘇り、自らの人生の物語を走馬灯のように思い起こし、小説にまとめたことで、
「これで心置きなく夫の待つあの世に行くことができるでしょう。」
と呟くところで終わっていた。

 『火鉢』は井口奈津子の死後に発表され、代表作の一つになった。
仲井柊二は『火鉢』が出版される際のあとがきに追悼文を寄せ、才能ある教え子の早すぎる死を悼んだが、小説の内容については殆ど語られることはなかった。
初期の奈津子の代表作『片恋』が発表された当時、柊二と奈津子の関係が取りざたされたが、『火鉢』の物語のように師弟関係にあった柊二に対する奈津子の憧れを描いたに過ぎなかったのだろうと、世間では推測した。

 「嘘つき。」
仲井の妻・祥子は『火鉢』を読み終えると一言だけ呟いた。
柊二は奈津子を愛していたのだ。
おそらく『火鉢』に描かれた情景は奈津子の得意な「綺麗事」だったに違いない。
だが、その晩二人に何があろうとなかろうと、そんなことはどうでも良かった。
奈津子にとって、柊二への思いは単なる憧れ、片恋であったとしても、柊二にとっては、奈津子は特別な存在だったのだ。
妻と体を重ねてもふと寂しそうな眼をする夫の心は、別の所にあった。
祥子は本当は知っていたのだ。認めたくなかっただけで。
数多の女を抱いても、二度の結婚をしても、夫が本当に愛したのは、祥子ではなかったのだ。

「お姉さま。」
奈津子の声が聞こえた気がして、振り向くと一輪挿しに純白の百合が活けられていた。
初めて手紙を寄越した女学生の頃のはにかんだような奈津子の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
「わたくしを姉と思ってくださってもよろしくってよ。」
本当の妹のように思っていた奈津子を、初めて柊サロンに連れて行ったあの日から、祥子は無意識に奈津子をライバルと感じるようになってしまった。

 祥子は奈津子のことも愛していたのだ。
柊二が奈津子を愛さなければきっと、今も奈津子は妹のような存在だったに違いない。
奈津子も柊二を思っていたことはわかっていた。
 今になって思えば、奈津子が縁談の報告に来た時の、青ざめた顔とひきつった笑顔は、身を引く覚悟だったのだとわかる。
憧れの柊二を、姉と慕う祥子が愛していることを知っていたから、そして、奈津子自身の柊二への思いが募ることを恐れて、奈津子は望まぬ縁談を受けることに決めた。
奈津子は祥子よりもずっと大人だった。
そんなことに気づかず、妻になったことを鼻にかけていた自分が恥ずかしい。
奈津子は柊二に愛されたまま、夫との愛を育み、夫の待つ天国に旅立ってしまった。
作家としても女としてもまだまだこれからというのに。

 最初から勝負はついていた。
いや、端から勝負にすらならなかった。
祥子はどんなに足掻いても奈津子にはかなわなかったのだと思い知らされた。
夫は何も言わないが、奈津子の死を悼み、彼女をモデルにした小説を書いた。
柊二の中で、奈津子は永遠に生き続ける。
妻の座を失うことはなくても、夫にとっての最愛の人には、永遠になれない、と祥子は思った。
コメント
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