(この物語はフィクションであり、実在の個人、団体及び地域、時代とは一切関係ありません。)
序章 三津屋郷怨霊伝説
「作家先生?こんな田舎まで、長旅お疲れ様でしたねえ。」
人の良さそうな中年女性が声を掛けて来た。
余所者は滅多に足を踏み入れない土地らしく一目でわかる。
そもそも一日に一本しかないバスから降りてきた者は他には居ないのだから間違いようがない。
その女性は遠来の客を大きな平屋の古民家に案内すると、前栽(せんざい)を取り囲むようなコの字型をした黒光りする板張りの縁側を通り、奥の座敷の障子を開けて中に招き入れた。
「息子が使っていた部屋なんですけどね。
都会の大学を出て、そこで就職して嫁を貰って、家も建てたし子供も出来て…もう滅多に帰って来る事もないから。
今夜は遠慮なくここでゆっくり休んでくださいね。
お祖母ちゃんは夜は早く寝てしまうんで、お話は明日の朝起きてからゆっくり聞いて下さい。
それからでも明日のバスの時間には十分間に合いますから。
お食事の支度が出来たらお呼びしますね。
お食事の間にお風呂を沸かしますんで食べ終わったら入って下さい。
お風呂の間にお布団を敷いておきますから。
ではそれまでごゆっくり。」
女性はそういうと障子を閉めて部屋を後にした。
この三津屋郷(みつやごう)といわれる集落の伝説の取材のため、集落で一番長寿の老婆を訪ねた作家を迎えたのはその老婆の孫娘に当たる女性。祖母の家に同居して介護しているらしい。子供は既に独立しており、集落内の三津屋神社(通称お沙和稲荷)の神主である夫は普段社務所に居てこの家にはあまり来ないらしい。
翌朝、昨夜の女性が障子の外から声を掛けて来た。
「作家先生、起きとられますか?
お祖母ちゃんが今朝は調子が良いみたいなんで、先生さえ良かったら今からお話さして貰いますけどって。」
女性に案内されて老婆の部屋に行くと、布団の中に座椅子を持ち込んで背中に大きなクッションを当てて上半身を起こした老婆が手招きした。
痩せて筋力が衰えてはいるが、頭はしっかりしているのだろう。
その鋭い目つきはとても百歳を超えているとは思えない。
耳が遠いのか、女性は自分の口元に手を添えて老婆の耳に向かって大きな声で言った。
「お祖母ちゃん、先生にお沙和様のお話してあげて。」
すると老婆は自分の背後を指し示しながら女性に、あれを、あれを、と言った。
女性は大袈裟に頷いて見せながら、ああ、はい、はい、と答えて部屋の大きな箪笥の引き出しから古い和綴じの本のようなものを出してきて客の方に差し出した。
「資料になるかも知れんから、先生にお貸ししなさいってお祖母ちゃんが。
これからお話しするお沙和様の伝説について書かれた本というか日記みたいなものらしいんですけど、かなり古いものだから素人には全く読めなくて。
良かったらお持ち帰り下さい。」
ありがとうございます、と客が受け取ると老婆が口を開いた。
普段あまり長く話す機会がないせいか、少々声は震えてはいたが、しっかりした口調で老婆は語り始めた。
「…お若いの。小説を書きなさるそうな。お沙和様の伝説を聞きに来られたとか。
これはわての曾祖父(ひいじいさん)から聞いた話やが、今あんたに渡した本はその曾祖父の養父(やしないおや)で叔父にあたる三津屋八雲(みつや・やくも)という人物が書き遺したものらしい。
あんたのお役に立てるかどうかはわからんが、持って帰るがええ。
この孫娘の連れ合いが神主をしとる三津屋神社―この辺の者はみなお沙和稲荷と呼んどるが―そこに祀られとる沙和という怨霊の話、ようお聴きなされ…。」
(つづく)
序章 三津屋郷怨霊伝説
「作家先生?こんな田舎まで、長旅お疲れ様でしたねえ。」
人の良さそうな中年女性が声を掛けて来た。
余所者は滅多に足を踏み入れない土地らしく一目でわかる。
そもそも一日に一本しかないバスから降りてきた者は他には居ないのだから間違いようがない。
その女性は遠来の客を大きな平屋の古民家に案内すると、前栽(せんざい)を取り囲むようなコの字型をした黒光りする板張りの縁側を通り、奥の座敷の障子を開けて中に招き入れた。
「息子が使っていた部屋なんですけどね。
都会の大学を出て、そこで就職して嫁を貰って、家も建てたし子供も出来て…もう滅多に帰って来る事もないから。
今夜は遠慮なくここでゆっくり休んでくださいね。
お祖母ちゃんは夜は早く寝てしまうんで、お話は明日の朝起きてからゆっくり聞いて下さい。
それからでも明日のバスの時間には十分間に合いますから。
お食事の支度が出来たらお呼びしますね。
お食事の間にお風呂を沸かしますんで食べ終わったら入って下さい。
お風呂の間にお布団を敷いておきますから。
ではそれまでごゆっくり。」
女性はそういうと障子を閉めて部屋を後にした。
この三津屋郷(みつやごう)といわれる集落の伝説の取材のため、集落で一番長寿の老婆を訪ねた作家を迎えたのはその老婆の孫娘に当たる女性。祖母の家に同居して介護しているらしい。子供は既に独立しており、集落内の三津屋神社(通称お沙和稲荷)の神主である夫は普段社務所に居てこの家にはあまり来ないらしい。
翌朝、昨夜の女性が障子の外から声を掛けて来た。
「作家先生、起きとられますか?
お祖母ちゃんが今朝は調子が良いみたいなんで、先生さえ良かったら今からお話さして貰いますけどって。」
女性に案内されて老婆の部屋に行くと、布団の中に座椅子を持ち込んで背中に大きなクッションを当てて上半身を起こした老婆が手招きした。
痩せて筋力が衰えてはいるが、頭はしっかりしているのだろう。
その鋭い目つきはとても百歳を超えているとは思えない。
耳が遠いのか、女性は自分の口元に手を添えて老婆の耳に向かって大きな声で言った。
「お祖母ちゃん、先生にお沙和様のお話してあげて。」
すると老婆は自分の背後を指し示しながら女性に、あれを、あれを、と言った。
女性は大袈裟に頷いて見せながら、ああ、はい、はい、と答えて部屋の大きな箪笥の引き出しから古い和綴じの本のようなものを出してきて客の方に差し出した。
「資料になるかも知れんから、先生にお貸ししなさいってお祖母ちゃんが。
これからお話しするお沙和様の伝説について書かれた本というか日記みたいなものらしいんですけど、かなり古いものだから素人には全く読めなくて。
良かったらお持ち帰り下さい。」
ありがとうございます、と客が受け取ると老婆が口を開いた。
普段あまり長く話す機会がないせいか、少々声は震えてはいたが、しっかりした口調で老婆は語り始めた。
「…お若いの。小説を書きなさるそうな。お沙和様の伝説を聞きに来られたとか。
これはわての曾祖父(ひいじいさん)から聞いた話やが、今あんたに渡した本はその曾祖父の養父(やしないおや)で叔父にあたる三津屋八雲(みつや・やくも)という人物が書き遺したものらしい。
あんたのお役に立てるかどうかはわからんが、持って帰るがええ。
この孫娘の連れ合いが神主をしとる三津屋神社―この辺の者はみなお沙和稲荷と呼んどるが―そこに祀られとる沙和という怨霊の話、ようお聴きなされ…。」
(つづく)