きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

『邂逅』あとがき解説

2020-07-26 19:37:04 | 小説
恒例のあとがき解説です。

最初のヒントは映画『DISTINY鎌倉ものがたり』でした。
歳の差夫婦は前世でも夫婦で、時間差で転生したという設定です。
小説家である夫のモデルは太宰治、ないし小説『人間失格』の主人公です。名前が太宰の本名と主人公の名前を捩ってつけられたものだと、知っている人ならすぐわかるかと思います。
直木賞と芥川賞を捩ってつけた直川賞受賞作の小説『自由の旗の下に』は松本零士作品からヒントを得ました。
作中人物がキャプテン・ハーロック、大山トチロー、クイーン・エメラルダス、ラ・ミーメをモデルにしているのは、元ネタをご存知の方には丸わかりかと思います。
妻の名前の読みが『あさみめい』なのはミーメの捩りです。
前世部分の登場人物、クロフォードとクック・ザ・キッドはガンマンの名前を検索した中から選んで捩りました。
ジェイドは二転三転しまして、エメラルダスをモデルにしたので、宝石名なども検索したりして、一旦は過去の自作小説でも使ったエレクトラ(琥珀)に決めかけてのですが、現世の過去に出てくる『翠』が『翡翠』の翠だというのと合わなくなるので翡翠の英名でジェイドとしました。
ミーナはミーメと表記が似ているということで決めたのですが、これは元々クロフォードが別のRPGキャラクターからつけようとした名前の候補が幾つかあって、その一つのキャラの妻の名前がミナだったこともありました。
一族の名前がアルコル族というのは、元ネタでミーメがアルコールが主食の宇宙人という設定だからです。
秘密の島の名前のリーベルタースは、ジェイドの名前候補を検索中候補の一つに上がったものです。女王や女神などの名前を検索していました。
出版社は秋田書店という実在の出版社を捩って春田出版社とつけました。
編集者の前野は、以前別の作品でも使ったことがありますが、とあるコミックで漫画家の前の担当者を前野としていたので、モブキャラはこれでよかろうとシャレでつけた感じです。

最初は元ネタの映画のように、前世で夫婦だった二人が何故歳の差で転生したのか、というところをどうするか、というところに悩んだのですが、そこを掘り下げるのはやめることにしました。

前世の男女四人ですが、奇遇なことに転生して巡りあったのかは実際にはわかりません。
現世で偶然似たシチュエーションに遭遇しただけかも知れないからです。

主人公の小説家はそんなにカッコイイ人ではなく、寧ろ人間としていろいろ残念なおじさんです。
若い頃の思い出を美化するような小説を書き、たまたま評価されて、作品が受賞することになりました。
それでもどうやら妻とは前世の縁が深く、かなりのタイムラグはあったけど、何とか出会えたということだったのでしょう。

大いなる生命という設定はRPGファイルファンタジーⅦのライフストリームから着想を得たものです。

余談ですが、キャプテン・ハーロックや他のアニメの名セリフの捩りが隠れているところがあります。おわかりになったでしょうか。



邂逅

2020-07-26 17:50:33 | 小説
「島津先生?直川賞作家の島津葉治先生でいらっしゃいますよね?」
帰宅した途端、自宅の玄関脇に眼鏡をかけて髪をポニーテールにした、すらりと痩せ型の若い女性が立っていて、そう声をかけてきた。
「いかにも、私が島津だが。」
島津が苦笑しながらそう答えると、女性は満面の笑顔を浮かべ、体を二つ折りにするようにして深々と頭を下げた。
「わたくし、この度島津先生の担当をさせて頂くことになりました春田出版社の浅水芽以(あさみ・めい)と申します。わたくし、先生の大ファンでして、大変光栄です!」
島津は一気にまくし立てて来る彼女に向けて右掌を挙げて制止し、
「まあ、こんな所では何ですから、とにかく中へお入りなさい。」
と鍵を外して扉を開けた。
「あっ、はい。失礼しました。わたくしったら、あまりの感激でつい。」
そういうと彼女は玄関の中に入って、
「失礼致します。」
と上がり框で体を反転させて三和土の隅に靴を揃えた。
「担当の編集者が変わると前任者の前野君から聞いてはいたが、まさか貴女のような若いお嬢さんだとは思わなかったよ。まあ、どうぞ。」
島津は仕事部屋の座敷に彼女を通して座布団を勧めたが、彼女はそれを横に避けようとし、再度勧めると裏返しにして座った。
「前野君は常々『編集者が女性だと女癖の悪い私が手を出すから』と言っていたもんでね。」
島津がそう言うと彼女は可笑しそうに笑って答えた。
「確かにそう言われましたが、わたくしが熱烈な先生のファンだからと執拗にお願いしたもので、『そんなに言うならやってみれば良いが、なかなか筆が遅くて大変だよ。後で後悔しても知らないよ。』とついに編集長が折れまして。」
「そうか。そういうことなら仕方ない。確かに厄介な作家の担当を志願してしまったね。まあ、これも何かの縁かもしれない。よろしく頼みます。」
と島津も苦笑しながら殊勝に頭を下げた。
彼女は両手を激しく振りながら大慌てで言った。
「いえ、いえ、畏れ多いです。どうか頭なんて下げないで下さい。わたくしはずっと先生に憧れて来たんです。わたくしに取って先生はまるで神様のような存在なんですから。」
島津はまた苦笑した。自分は若い女性に神様だなどと言ってもらえるようなものではない、と少し恥ずかしくなったのだ。
「しかし、貴女のような若い女性がファンとはちょっと驚いた。私が直川賞を取ったのはもう30年近く前の話ですよ。」
島津は還暦を過ぎ、文学賞を取ったのも遥か昔のことで、今も文筆活動はしているものの、特に若い読者に受けるような作品を書いている訳でもないのだが、彼女は純粋そのもので、決してお世辞が上手そうには見えなかった。
「わたくしはまだ出版社に勤め始めたばかりですが、子供の頃から読書が好きで、とりわけ先生が直川賞をお取りになった『自由の旗の下に』は大好きでした。
孤独な海賊が流離いの旅人と出会って生涯の親友となり、更に孤高の女海賊と共に同志として戦う冒険活劇の面白さ、海賊を慕う女性との、無言でも阿吽の呼吸で通じ合う艶っぽい恋愛物語、それが一体となって…。」
彼女が滔々と語り初めると島津はまた苦笑して、
「あ、いや、それは私が書いた物語だから、筋書は、ね。」
と制止すると、彼女は耳まで真っ赤になりながら、
「あ、ごめんなさい。そうでした。わたくし、つい夢中になってしまって。とにかく、とても面白くて、何度も何度も読み返しました。それからも先生の作品はずっと読ませて頂いています。世界観というか、魂が共鳴するというか、この物語を書かれた先生はもしかしたらわたくしの心の中を透視していらっしゃるのではないかと思うくらい共感を覚えまして、ぜひお会いしてみたいものだと思ううち、それなら先生の作品を出版している出版社に勤めたら夢が叶うのではと思いました。それがこんなに早く実現するなんて信じられなくて、嬉しくて、お訪ねせずにはおれませんでした。」
島津は長身で顔立ちも悪くはなかったため、そこそこ女にはもてたが、未だ独身で、当然子供も居ないが、世間並に結婚して子供がいたとしても、もしかしたら彼女はその子供よりも年下かもしれないくらいの年齢差だった。
島津は彼女の若さが眩しかった。純粋で無垢で、真摯で一途で、こんな時代が自分にもあったのだろうか、と思いを巡らしてみたが、それはあまりにも遠く遥かな記憶でぼんやりと現実感がなかった。
一方で彼女を初めて見た時、既視感というか、懐かしさというか、初めて会ったような気がしなかった。そんなはずはないとわかっていたのに。
「有難いねえ。貴女のような若い女性が、私が昔に書いた物語をそんなに気に入ってくれていたとは。」
島津が彼女と視線を合わせると、稲妻に体を貫かれたような衝撃が走った。
この世にこれほど美しい人が居るのかと思った。
容貌の美醜というのではなく、透き通った泉を覗き込むように、彼女の瞳から魂が透けて見えた気がした。魂の奥底で全裸の乙女の姿を見つけたような気がして、今度は作家が耳まで真っ赤になった。
「先生?どうされました?お顔が赤いです。お熱でもおありですか?」
彼女はそう言うと自分と島津の額にそれぞれ掌を当ててきた。
島津の額に触れた彼女の掌はひんやりとして柔らかだった。
照れ臭くなった島津は彼女の手を押し退けるようにして、
「いや、何でもない。気のせいだろう。きっと、そうだ。」
と早口で言った。
彼女はぽかんとして、
「え、ええ、お熱はなさそうですね。きっと、気のせいです。ごめんなさい。失礼しました。」
と言った。
「今日はご挨拶だけなのでこれで失礼します。お仕事のお邪魔をしてすみませんでした。」
と彼女が座布団を外して裏返し、立ち上がった。
「ああ、じゃあ、そこまで送ろう。」
と島津も立ち上がり、固辞する彼女を押しきるようにして玄関まで行き、扉に鍵をかけて最寄りの駅までぶらぶらと並んで歩いた。
道すがら訊くともなく彼女が自らの生い立ちを話してくれた。
両親は既に亡く、都会へ出て働いても、反対する者も帰る家もないので、好きなことをしても良いのだ、というようなことを言っていた。
髪型や服装こそ地味ではあるが、清楚で上品で、教養もある良家の子女という印象の彼女が、この先都会の荒波に揉まれて、都会に染まって行くのは見ていて忍びない気がした。

島津はいつも仕事場にしている自宅の座敷で原稿を書いている。
文章にしろ絵画にしろ音楽にしろ、何かを生み出す芸術家というものは、芸術の神が降臨した如くすらすらと創作が進む者も居るには居るであろうが、大抵はまるで女が子供を出産するように産みの苦しみにうんうん言いながら、自分の中から何ものかを捻り出そうと試みているものだ。
締め切りというものがなければそれもよかろうが、芸術を生業として暮らす以上、作品を売らねばならず、小説家の場合は雑誌なり書籍なりの形にして出版せねばならないので、必然的に締め切りに追われることになる。
編集者は締め切りまでに小説家から原稿を受け取るという使命を帯びて、小説家が原稿を放棄して逃亡せぬよう見張りつつ、少しでも仕事が捗るようにと雑用を請け負ったりすることがある。
例えば茶湯を出したり、食事を準備したり、小説家が愛煙家なら煙草を買いに行ったりと言った具合に。
独り者の島津は、普段ならば外食をするが、当然そんな事が許されるはずもない。
前任者は出前を取ったりして済ましていたが、新しい編集者の彼女は予め食材を仕入れて来て、仕事の合間に食べられるおむすびやらサンドイッチやらをこしらえてくれた。
凝った料理ではないが、素朴な軽食とはいえ、どれも昔から食べ慣れた味のように妙にしっくりと島津の口に合った。
大ファンを自称する彼女だけに、アイディアに行き詰まると、『こんな風にしては如何でしょう』と助言や提案をしてくれた。
それはいつも的確で、まるで島津の脳内に広がる深海に彼女が潜って海底に埋もれた宝物を探し当ててくるかのようだった。
そんなことを繰り返すうちに、島津は彼女をかけがえのない存在であると思うようになり、彼女もまた、自分がずっと側に居て島津を支えたいと思うようになった。
互いに惹かれ合う二人は次第にその愛を深め、やがて共に生きたいと願い、結婚を決意した。
元より島津に憧れ続けた彼女はただ望みが叶う嬉しさで満たされてはいたが、島津が親子ほど歳の離れた彼女との結婚を決意することは簡単なことではなかった。
それでも時を重ねる毎に二人の離れがたい想いは募り、ついに二人は式を挙げることもなく結婚し、ひっそりと島津の自宅で共に暮らし始めた。
結婚を機に彼女は出版社を辞め、代わりに前任者の前野が再び島津の担当者になった。

「こんにちは。」
締め切りが近付き、担当編集者の前野が島津の自宅を訪ねて来た。
「こんにちは。お役目ご苦労様です。」
彼女が玄関に前野を出迎えて言った。
「やあ、浅水ちゃん。いや、今は直川賞作家島津葉治先生の奥さんか。『島津先生に女性の担当をつけたら手を出すから止めろ』と言ったのになあ。冗談が本当になっちゃったよ。」
前野の軽口をさらりと受け流すように彼女は言った。
「どうぞお上がりになって。もうぼちぼち原稿が仕上がるんじゃあないかしら。」
やれやれ、と前野は苦笑した。
「遅筆で有名だった島津先生が、締め切りで苦労することが殆どなくなったんだから、編集者としては奥さんには感謝しかないけどねえ。」
仕事場の座敷に向かうと、まさに締め切り寸前の原稿がちょうど仕上がって、島津が愛用の万年筆を置くところだった。
「やあ、前野君、良いタイミングだね。たった今原稿が仕上がったところだよ。」
島津は笑顔で前野を迎えた。
「はあ。」
以前は遅筆の島津を追い立てていた前野は拍子抜けして間抜けな返事を寄越した。
「それにちょうどぼちぼち食事時だ。良かったら食べて行かないか。家内は凝った料理は作らないが、家庭料理はなかなかに旨いんだ。」
「あ、はあ、では、お言葉に甘えて、ご馳走になります。」
「先生、そろそろお食事のお支度が整いますよ。」
妻が座敷に現れて声をかけると島津は言った。
「前野君の分も準備してやってくれないか。」
妻は微笑んで答えた。
「そう仰るだろうと思って、もうご用意していますよ。ご馳走は何もありませんが。」

島津と前野が食卓につくと、妻は甲斐甲斐しく給仕をして、質素な食事が始まった。
「そう言えば奥さん、さっき『先生』と呼んでいましたね。結婚しても『先生』と呼んでるんですか?」
前野に問われて島津は苦笑して言った。
「そうなんだよ。何度も注意はしたんだが、その度に『気をつけます』と言うのに、気を抜いてはまた『先生』に逆戻りなんだ。」
「ごめんなさい。まだなかなか先生の奥さんになったという実感が湧かなくて。わたくしに取って先生はずっと憧れだったので、つい。」
顔を見合わせて微笑み合う二人を見ていて、前野は『歳は離れていても似合いの夫婦だな』と微笑ましく思った。
妻が夫を敬愛していることも、一生結婚には縁がないかとすら思っていた夫が若い妻を信頼し、大切に思っていることも、二人の様子からはっきりと感じ取れた。
それはまるで永年連れ添った夫婦のように固い絆で結ばれていて、とても新婚間もない夫婦とは思えないほどだった。『お似合い』等という単純な言葉ではとても言い表せないとさえ思えた。

早めの夕食が済んで、前野が原稿を持って去り、妻が後片付けを終えた頃、島津は妻を散歩に誘った。
「原稿も仕上がったし、少し散歩でも行かないか?」
「はい、先生。お供します。」
「ほら、また。『先生』はもうよそうと言ったろう。」
妻は頬を赤らめて詫びた。
「ごめんなさい。」

自宅から少し歩いた所に小さな川が流れている。
二人は川からの涼しい風に吹かれながら、土手をそぞろ歩いていた。
「初めてお会いした時に、直川賞作品の『自由の旗の下に』を読んで貴方のファンになりましたとお話しましたでしょう?」
妻は夫の斜め後ろを歩きながら、そんな言葉をかけた。
「そうだったね。若い人がかなり昔の作品のファンだと言われて意外だったのでよく覚えているよ。」
島津は肩越しに振り返って妻に答えた。
「主人公の海賊と、彼を慕う女性、海賊の親友と、女海賊との冒険と恋愛のとても素晴らしいお話でした。
まるで登場人物が目の前に実在して、いきいきと活躍しているのを見ているような。」
妻が物語の感想を語るのを、島津は嬉しいような、恥ずかしいような、何ともこそばゆい感覚で聴いていた。
「あれはね、昔の私とその友の思い出を、形を変えて描いた物語で、私に取ってはとても思い入れのある作品なんだよ。勿論、小説だから、事実とは違う所もたくさんあるがね。」
「まあ、そうだったのですね。だから、あんなに登場人物がいきいきと描かれていたのですね。」
妻は目を丸くして、興味深く聴いていた。
「若い人はよく知らないだろうけど、昔学生運動というのが盛んな時代があってね。若気の至りというか、当時の若者が世の中を憂えて、社会や大人に対して抗議するというのを大義として、過激な活動に身を投じたものだった。
私はそれほど過激ではなかったが、多少とも義憤みたいなものに突き動かされて、同志の集会に参加するうち、私よりは少し年下のある青年と知り合った。
彼と共に活動するうちに、更に少し年下の女性活動家と知り合った。
彼女は私や彼とは目指す方向は違うが、方法論的に協力する必要があると思えたので、一時期一緒に活動していた。そして彼と彼女が互いに惹かれあっていることを知った。
私はしばらくして熱が覚めたというか、現実に戻って活動から身を引くことにしたのだが、彼らはそれからも活動を続けていたようだ。
それでも時が過ぎて、世の中も変わって、いつしか時代も変わって行ったのだが、結局彼らとはそれきり縁が切れてしまってね。それからどこでどうしていたのか、随分後になって風の頼りに二人が今でいう事実婚のような関係になったと聞いた。
若い頃のほんの僅かな期間だったが、彼らと過ごした時期こそが私の青春だったのだな、と後になって懐かしく思い出すようになった私が、彼らとの思い出を下敷きに物語を書き上げたのがあの『自由の旗の下に』で、たまたま雑誌に投稿した作品が評価されて直川賞に選ばれることになったんだよ。」
島津は饒舌に小説の裏話を妻に語った。
妻は黙ってそれを聴いていたが、前を歩く島津は妻がどんな様子で話を聴いていたのかはわからなかった。
「がっかりしたかね。冒険恋愛譚の裏話はそれほど格好の良いものではないのだよ。私はかけがえのない親友との青春の思い出を自分の飯の種に売ったようなものだ。」
後ろを振り返りながら島津がそう言うと、妻は感動のあまり涙を流していた。
「いいえ、いいえ、決してがっかりなんてしませんし、格好悪くなんてありません。生活のためだなんて仰るけれど、あの物語は読者に感動を与えた名作なんですから、先生が恥じることなんて何もありません。
主人公の海賊が先生で、親友と女海賊はどちらも実在した先生の同志だったのですね。だからあれほど人物が皆いきいきと描かれていたのですね。わたくしは先生の若い頃のことは知りませんし、そんな時代があったことも歴史の一部として知識があるだけですけど、間違いなくそれは先生の青春ですし、親友との友情も、親友とそのお相手の女性との愛情も、きっと本当に先生が感じ取られたものなのだとわかるし、物語が素晴らしいのも頷けます。
…では、先生。海賊を慕う女性は?先生のお側にそういう女性がいらしたのでしょうか?」
「いや、そんな女性は居なかったよ。恥ずかしながら、同志であり恋人同士でもある彼らを見ていて、私にもそんな女性が居てくれたら良かったなと、想像で作り上げた架空の人物だ。」
「いいえ、何も恥ずかしいことではありません。あまりにも描写が素晴らしくて、まるで本当に存在した人物のようにいきいきと描かれていたので…ただ、少しだけ残念で寂しいのは、わたくしがそこに存在できなかったことです。
でも、わたくしが知らない時代の、想像でしかない時代の出来事が、今ここに再現されているかのような物語に仕上がったことは素晴らしいし、そんな作品に出合えたことは素敵なことですよね。」
島津は妻がそれほどまでに小説を愛してくれていることに感謝し、自分の過去も含めて受け止め、受け入れてくれていることが、何よりも嬉しかった。
『この世の全てを敵に回しても』という例えをよく耳にするが、正にそんな気分だった。
他のあらゆるものを失ったとしても、妻だけは失いたくない、かけがえのない存在であると思えたし、改めて妻を深く愛していることを気づかされた。

この国がどん底から這い上がり右肩上がりの成長を遂げようとしていた時代、首都圏を中心とした帝都大学を始めとするインテリ学生達が、体制や社会に対して反旗を翻した、所謂学生運動。
帝都大学に在籍していた島津葉治もまた、その渦中にいた。
『田舎には珍しい秀才』と持ち上げられて帝都大学を目指したものの、人口が多くて競争の激しい都会の学生との学力差は如何ともし難く、苦労して入学はしたものの、故郷の訛りを気にして友達も作れず、成績もあまり上がらずで、すっかり自信を喪失した彼はそれほど熱心に勉学に勤しむこともなく、趣味の小説を書くことにうつつをぬかしては、日々怠惰に過ごしてはいたが、生来人に流され易い性格が災いして、学生運動に身を投じた顔見知りの学生からの熱心な勧誘を断りきれず、集会に顔を出すことになってしまった。

「失敬、君は帝都大学の学生かい?」
島津は集会でたまたま空いていた隣席に座ろうとした若い男に声をかけられた。
「ああ、一応そういうことになるな。」
「何だよ、それ。可笑しな奴だな。」
男はからからと笑い声を上げた。
「俺は尾山達郎。大学生ではないが、この組織で活動している者だ。君は?」
「島津葉治だ。一応、帝都大学生。知人に誘われて集会に参加した。」
「君はなかなかに面白いな。よろしく。」
尾山はそう言って右手を差し出し握手を求めた。
「いや、その、まあ、よろしく。」
島津は照れ臭そうにその手を握った。
それがきっかけで島津は尾山と親しく付き合うことになった。
初めて出会った集会の後に、一杯飲みに行こうと尾山に言われ、一旦は断ろうとしたが、なかなかに押しの強い尾山に根負けして、尾山の行きつけの飲み屋で安い酒を酌み交わした。
「島津君、君はこの国の未来をどう考えている?俺はさっきの集会でも意見を言ったが、このままではこの国は滅びるぜ。他国の言いなりになって、まるで属国じゃあないか。今の政府には誇りというものがないんだ。皆、自分の身が可愛いだけなんだ。誰も真剣にこの国の未来なんて考えちゃあいない。そうは思わんかね?」
酒が入ると尾山は饒舌になり、酒が進むに連れて理想の未来とは何か、この国の有り様とは如何にあるべきか、等と熱く語り続けた。
「何だ、君はさっきからずっと、相槌ばかり打っているじゃあないか。殆ど君は意見を言っていない。…ふふ、ふふふ。でも、良い!君はそれで良い!…何故なら、集会で出会った時、君の目が死んだ魚のようだった。それで十分だよ。あそこではそんな奴は君しか居なかった。
面白いなあ。君は、頗る面白い。だから、良い。君はそれで良いんだ。」
尾山は笑いながら、訳のわからないことを喋り続けた。
島津にわかったのは、ただ、自分が尾山にいたく気に入られたようだということだけだった。
ついに尾山が酔い潰れたまま、店の閉店時間が迫って、島津は尾山に言った。
「尾山君、もう閉店だそうだ。ぼちぼち出なきゃいかんよ。君の家は何処だい?そんな風ではまともに歩けまい。送るから君の家を教えてくれ。」
「家?そんなもんありゃしない。帰る家なんざ、ねえんだ。なあ、島津君、君ん家に行こう。連れて行ってくれ。家に酒はあるかい?君ん家で飲み直そう。」
島津は勘定を立て替えて、一人では立つのもやっとの尾山に肩を貸して、その店から出た。
「困ったなあ。家は下宿だ。生憎酒なんて置いてないよ。」
半分眠っているような尾山に言うと、
「じゃあ水でも良いさ。君ん家にだって水くらいあるだろう。酔い醒ましにはちょうど良いじゃないか。」
尾山は無茶を言ったが、そんな尾山を放ってはおけなくて、島津は仕方なく自分の下宿へ連れ帰った。

「おう、これは、これは。なかなか良い部屋だね。…うむ、何だ、これは?原稿用紙?島津君は物書きなのかい?」
尾山は半開きの目で、文机や座敷に散らかった原稿用紙を目敏く見つけて言った。
「あっ…ははは、ただの道楽だよ。」
島津は照れて真っ赤になりながら、早口で言った。
「いやはや、やはり君は面白い。ますます俺は君が気に入ったよ。」
尾山はそう言うとまたからからと笑い声を上げた。
「すまんが、俺は猛烈に眠い。横にならせてくれまいか。」
尾山は急にそう言って糸の切れた操り人形のように畳の上に崩れ落ちたかと思うと、すぐに大の字になって高いびきで眠ってしまった。
島津はそんな尾山が嫌いになれなかった。
今まで出会ったどんな人間とも違う、破天荒で豪放磊落、とんでもなく変わった男だが、寧ろそれが小気味良くすら感じられた。

それ以来親しく付き合うようになって、尾山が年下だと知って島津は酷く驚いたが、島津が年上と知っても尾山の人を食ったような態度が変わる訳でもなく、学生運動では確かに多少先輩でもあった尾山に大人しく従っていた。
ある日尾山が付き合えと言うので付いて行くと、いつもとは違う集会に誘われた。
「よう。」
尾山がひょいと手を上げて挨拶したのは、すらりとした髪の長い女性だった。
「あら、珍しい。貴方が誰かとつるんでいるなんて。」
凛とした声で答えた女性は切れ長の目から鋭い眼差しを投げてきた。
「おいおい、そんな言い方は良くないな。俺は何と言われても構わんが、初対面の島津君に失礼だろう。」
尾山がそう言うと、彼女は島津をまじまじと見つめた。
「初めまして。島津葉治と言います。」
「島津君は帝都大学生でね、この前集会で知り合って意気投合したという訳さ。面白い奴でね、下宿でこそこそ小説なんざ書いてるんだぜ。」
尾山がくすくす笑いながら島津の自己紹介に補足した。
「彼女は翠。『翡翠』の『すい』で『みどり』。今日は彼女の同志の集会に参加する。」
尾山が言うには、彼女とその仲間達は、女性の地位の向上を訴える活動をしていて、自分達とは多少目指す所は違うけれども、互いに協力できる所は協力しあった方が、何かと便利なのではないかということで、交流を深める中で知り合ったということらしい。
『彼女は尾山よりも更に年下だけれど、気が強くて遠慮なくずけずけ言いたいことを言うから面白いのだ』というようなことを尾山が言っていた。
「この人、どこまでが真面目でどこからがふざけているのかわからないような変人だけど、意外とやる時はやる人なんで、こちらもそこは認めても良いかなと思って。」
翠は眉一つ動かさずにそう言った。
「酷い言い方だねえ、そう思わんかね?島津君。ともあれ、集会が始まるようだ。君は初めてだから、今後のために勉強しておくと良いと思ってね。」
席に着くと翠の同志達が理想とする、男女が同等に働ける未来を実現するために今我々が何をすべきか、という議論が始まった。
翠は仲間内で年齢的には最も若輩だったが、最も強く熱く語っていたのには驚かされた。

「いやあ、島津君、どうだい?今日の集会は皆女傑ばかりで、凄かったろう。驚いたかい?」
尾山は笑いながら、そう言った。
「特に翠。あいつは小生意気な奴だが、志は誰よりも熱くて強くて高い。年下だろうが、女だろうが、そこは認めて良いと思ってる。」
「そうだね。それははっきりとわかったよ。」
島津が肯定すると、尾山は真顔で頷いた。

その後、学生運動が激しくなり、尾山達も翠達も団体での実力行使に駆り出されることが増えた。
暴力に訴えることが果たして正しい方法なのか、とはいえ、口先でどんなに理想を語ろうと、何一つ変わる訳ではないとしたら、やむを得ず行動に移さねばならないのか、学生達にも葛藤や混乱はあったが、熱気を帯びた時代に炙られて、行き場を失った過剰なエナジーは爆発寸前だった。
熱すぎる尾山や翠とは違って、何となく流されるようにして身を投じた学生運動の過激化に、正直島津は次第についていけなくなりつつあった。
田舎の親は我が子の身を案じ、危険な活動に与することなく、早く将来安泰な仕事に就いて安心させて欲しいと手紙を寄越した。
親の気持ちは身にしみて分かるが、意気揚々と田舎を出て、都会に挫折した身では、田舎に戻って役場か郵便局に勤めて欲しいと望まれても、今更恥ずかしくて田舎に戻ることはできなかった。とはいうものの、大学での成績もふるわず、これと言って特技もない自分の勤め口なぞ、広い都会の何処にあると言うのだろう。
ただ、小遣い稼ぎに投稿雑誌に懸賞小説を送ってみたりしている内に、とある出版社が作品に興味を持ってくれて、多少とも『小説を書くのも悪くない』とは思い始めていた。
勿論小説家を生業にできる等とはまだこの時は畏れ多くて想像だにしていなかったが。

学生時代から書きためた小説の原案を小出しにしながら、あちこちの出版社に原稿を持ち込むうち、『手違いで紙面に穴が空きそうだから』と単発の短編小説などを採用されることがあり、少しずつ作家としての仕事も入りはしたが、まだ無名の島津には作家一本で生活できるほどの収入はなく、最初に島津の小説に興味を持ってくれた春田出版社の編集者に頼み込んで、編集や校正の仕事の手伝いやら、印刷所への連絡係やらの雑用をして、何とかぎりぎり暮らせるくらいの稼ぎはあった。

島津はそんな生活を10年近く続け、『このまま売れない作家を続けていても良いのか』と悩み始めた。『自分は何のために小説を書くのか?』と考えると、わからなくなってきた。
ただ好きなだけで、小説を書き続けていることに迷いが生まれた。
思い返せば、これまでの自分の人生とは何だったのか?
田舎に居た頃は、ろくに勉強などしなくてもそこそこの成績は取れた。勿論真面目に勉強したら、他の生徒たちより遥かによくできた。
教師の評価も高いので、親や親戚は期待し、自分でも満更でもなく、誰もが憧れる都会の大学を目指したが、それで何者かになりたいという確固とした志もなく、本当は大人が皆そうであるように勤め人になって毎日齷齪働くよりも、夢物語のような小説を書いて暮らせたら良いのになあ、などと漠然と考えていただけだった。
親に望まれて、大学を出たら就職しようと決めたものの、帝都大学出と言えばいくらでも仕事は見つかるというほど甘いものではなかった。
モーレツ社員でバリバリ働けば、とても小説を書く余裕はない。
かと言って学生時代のように、ゆるゆると小説を書きながらできるような仕事ではとても生活が成り立たない。
結局は親の望みにも応えきれず、夢も捨てきれず、ただ自尊心が傷つくのを怖れて田舎には帰れなかった。

そんな時にふと、学生時代のことが懐かしく思い出された。
あの豪快な尾山達郎はどうしているだろうか。
氷のように鋭い目をした翠はどうしているだろうか。
もう世の中はすっかり変わってしまって、かつての学生運動はもう過去のものになってしまった。
彼らもまたつまらない大人になって、日々生活に追われているのだろうか。
それとも今も学生運動ではない何かに情熱を燃やして、理想を追い求めているのだろうか。
そんなことを思い巡らすうち、彼らと過ごしたあの熱い日々こそが、自分にとっては唯一無二の青春時代だったのかも知れないと懐かしさがこみあげてきた。

そんな感傷に浸るうちに、あの思い出を小説にできないかという思いがむくむくと頭をもたげて来た。
主人公は本当の自分ではなく、自分の憧れであり理想である強い男にしよう。
寡黙な孤高の海賊。大海原を彷徨いながら、帝国の悪人が貧しい善良な民から搾取したものを奪い返しては、黙って去って行く。
そんな旅の途中に出会った風変わりな旅人。例え人から石を投げられ、殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられても、飄々として気にも止めないが、帝国の悪行に対しては果敢に戦う。
意気投合した二人は親友となり、共に戦おうと決めて旅を続ける。
お尋ね者の二人が帝国の罠にかかり、帝国軍に囲まれて苦戦している時、何処からともなく現れた女海賊が助太刀を買って出る。
二人同様に帝国に歯向かうお尋ね者の女海賊と共に帝国の軍隊を破ってその場を逃れ、三人は同志となる。
しばらく三人で旅を続けるうち、旅人と女海賊は互いを敬う気持ちから、次第に惹かれ合うようになるが、その後それぞれが別の道を行くことになり、
「またいつか、大海原の何処かで会おう。それまで決して死ぬなよ。」
と握手抱擁を交わして別れる。
一人になった海賊は旅の途中で帝国に同族を皆殺しにされた女性を助け、行く宛も帰る場所もない女性は海賊と共に旅を続ける。
寡黙な海賊と心を通わせた女性は、生涯彼を支えようと決心する。
そんな物語が出来上がった。
それこそが島津葉治が直川賞を受賞することになった『自由の旗の下に』という小説であった。
言うまでもなく、旅人のモデルは尾山達郎であり、女海賊のモデルは翠だった。
海賊と共に生きる女性のモデルとなるような女性は実際には存在しなかったが、島津の憧れであり理想である伴侶を模して描いた。
島津にとっては恥ずかしい話ではあるが、意識せずとも尾山と翠が恋仲になったのを羨む気持ちもなかったとは言わないけれど、実際に自分の側に本来居るはずの伴侶が何故か居ないような不思議な違和感をずっと感じていた。妄想と言われても仕方がないが、確固たる事実である。
そのため島津は結婚することもないまま歳を重ねることとなった。
直川賞作家となれば仕事も増えるし、暮らしも印税で豊かになったし、顔と名前が売れれば出会いもなかった訳ではない。
それでもずっと離れない伴侶の幻に囚われて、結局それを払拭できなかったのである。

そんな島津の前に突然現れたのが、現在は妻となった浅水芽以だった。
親子以上歳の離れた若い妻は、島津にとってジグソーパズルの最後のピースのように、欠くことのできない存在であり、元々そこに収まるべきものとして予め決められていたかのようにしっくりと馴染んだ。
ずっと昔からそこに居たように自然で、寧ろ居なかった時は違和感しか無かった。
何も言わなくても心が通じ合っているから、お茶が飲みたいと思ったら先にお茶が出て来るし、腹が減ったと思ったら食事の支度が出来ている。
出掛けようと思ったら、外出着は揃えてあるし、玄関には靴が並べられている。
常に隣に居なくても、家の何処かに妻の気配がするだけで何だか安心できた。
妻の笑顔がとてつもなく美しく思えたし、何気ない日常の全てが輝いて見えて、幸せというものはこういうものだったのかとしみじみ実感した。

遥か昔、大海原を幾つもの海賊船が駆け巡っていた時代。
「貴様、お尋ね者の海賊『キャプテン・クロフォード』だな!」
帝国海軍兵の一人が港の酒場の隅で一人で酒を飲んでいた長身の男に向かってそう叫んだ。
長身の男は微動だにせずグラスを傾けていて、目深にフードを被っていたためその表情を窺い知ることはできなかった。
「貴様の首には高額の懸賞金がかかっていると知って、訴え出た者があったのだ。観念しておとなしくお縄につけ!」
別の兵が叫んだ。
小さな酒場にはいつの間にか兵の一団が押し寄せ、数人が店の中に、そして店の周囲もたくさんの兵が取り巻いていた。
長身の男はまるで兵の上ずった叫び声など聞こえてもいないかのように、ゆったりと酒を飲んでいた。
「きっ、貴様ぁ!帝国海軍兵を馬鹿にしとるのかっ!」
腰のサーベルを抜いて長身の男に斬りかかろうとした時、ばん、と銃声がして、兵の右肩に弾丸が当たった。
「誰だっ?」
撃たれた肩を押さえて踞りながら兵は後ろを振り向いた。
小柄な男がまだ銃口から白い煙が立ち上る拳銃を構えて立っていた。
「海軍だか何だか知らんが、騒がしくてかなわん。ここは酒を楽しむ場所だ。捕り物騒ぎなら他所でやれ。」
小柄な男は銃を腰のホルスターに仕舞うと、再び座って酒を飲み始めた。
面目を潰された兵は顔を真っ赤にして激怒した。
「何だと!貴様ぁ!邪魔だてするなら貴様も捕らえるぞ!貴様は何者だ!」
「オイラはただの旅人だ。折角の酒が不味くなる。とっとと出て行け。」
小柄な男がそう言うと、兵達は一斉にサーベルを抜いて、長身の男と小柄な男の両方に向かって攻撃を始めた。
周りの酔客達は慌てて立ち上がり、我先にと店の外へ飛び出した。
店の周囲を固めていた兵達が一斉に逃げ出した酔客達によって混乱した隙をついて、長身の男も銃を抜き、小柄な男と共にあっという間に兵達に向かって威嚇射撃を行いながら、店の奥の隠し出口から地下道を伝い、港の一角に隠してあった小舟に向かった。
「追手が来る。俺の船に来ないか?」
長身の男、キャプテン・クロフォードが言った。
「面白い。行こうじゃないか。」
沖に向かうと港からは死角になる入江に海賊船が停まっていた。
「旅人よ、君の名を聞かせてくれないか。」
「オイラの名は、クック・ザ・キッド。ただ一人宛てもなく流離う旅人だ。噂には聞いているよ、キャプテン・クロフォード。傍若無人な帝国海軍に立ち向かい、民を虐げる君主や金持ちどもの貨物船を狙う海賊だとね。」
キャプテン・クロフォードの海賊船、ファルコン号に迎えられたクック・ザ・キッドは、そのまま船に留まり、共に旅をすることになった。

食事に招かれたクック・ザ・キッドが船長室に入ると、細身で髪の長い女性がキャプテン・クロフォードの傍らに立っていた。
「彼女は?」
クック・ザ・キッドが尋ねると、女性が一礼して言った。
「わたくしの名はミーナ。とある小国の出身で帝国海軍兵に一族を殺された生き残りです。キャプテン・クロフォードに命を救って頂き、船に置いてくださいましたので、ご恩に報いたいと身の回りのお世話をさせて頂いています。」
「ほお、それは、それは。」
クック・ザ・キッドはちらりとキャプテン・クロフォードを見た。
「最初は何処か安全な場所で船から降ろすつもりだったのだが、彼女が承諾しなかった。こう見えて彼女はなかなか優秀な助言者で、今となっては彼女はなくてはならない大切な存在になった。」
「あら、キャプテンは今日は珍しく饒舌ですこと。きっと貴方はとてもキャプテンに気に入られたのですわ、クック・ザ・キッド。」
ぼそぼそと喋るキャプテン・クロフォードを愛おしそうに見つめながらミーナが言った。

海には船乗りが通りたがらない危険な海域がある。
普段は用心しながら航海していても、天候の急変は予測を裏切り、穏やかな海が突然荒れて、濃い霧に包まれ、航海を難しいものに変えることがあるからだ。
帝国海軍の軍艦に追われ、やむを得ず危険を覚悟でそんな海域を通り抜けなければならないことも、海賊船には避けて通れない場合がある。
「キャプテン、これは酷いな。一寸先は闇だ。一つ間違えばオイラ達は海の藻屑だぜ。」
クック・ザ・キッドが心配そうに言うと、ミーナが答えた。
「大丈夫です。キッド。キャプテンは何度もこの海域を抜けて来ました。キャプテン・クロフォードとファルコン号を信じましょう。」
荒波に船は酷く揺られ、まるで嵐の海に浮かんだ木の葉のように翻弄されていた。
危険な海域を抜けると、嘘のように天候は鎮まり、穏やかな海に戻っていた。
すると何処からか帝国海軍の軍艦が現れた。追手が早々に引き返したのは、別の軍艦が待ち伏せしていたからだったのかもしれない。
ファルコン号と軍艦は共に速度を上げた。軍艦は徐々に海賊船に向けて舵を切って寄せて来た。
その時、遥か前方からファルコン号と軍艦に向かって来る別の船が現れた。
「あ、あれは、ジェイド号!」
軍艦から声が上がった。キャプテン・クロフォード同様に高額の懸賞金がかかったお尋ね者、女海賊のクイーン・ジェイドの海賊船だった。
『血も涙もない赤の魔女』の異名を取る女傑、クイーン・ジェイド。
真っ赤な海賊旗をはためかせ、全速力で突進して来るのを見た海軍兵達は震え上がった。
「撤退!撤退だ!二隻一度では歩が悪い!」
軍艦は慌てて舵を切って後退し始めた。
軍艦が海域を離れようとしているのがわかると、ジェイド号は速度を緩めた。
「キャプテン・クロフォード!久しぶりね。」
ジェイド号から凛とした女の声が聞こえた。
「クイーン・ジェイド。ひとまず礼を言おう。」
キャプテン・クロフォードが答えた。
「気にしないで。海軍が私の進路の邪魔になるから蹴散らしてやろうと思っただけよ。」
クック・ザ・キッドは初めて『赤の魔女』を見たが、指名手配書の似顔絵とは似ても似つかぬ美しい女性だった。
切れ長の眼は鋭く、気の強さを表してはいたが、長い髪を風に靡かせてこちらを見ているクイーン・ジェイドは、想像していたより随分華奢に見えた。
その視線に気づいたのか、クイーン・ジェイドは
「あら、見ない顔ね。」
と言った。
「クイーン・ジェイド、良かったらリーベルタース島へ行かないか?改めて礼がしたい。」
キャプテン・クロフォードがそう言うと
「そうね、良いわ。じゃあ、後で。」
とクイーン・ジェイドはゆっくりと船の進路を変えた。

ジェイド号とファルコン号はそれぞれ別の海路を取り、とある小さな島に向かった。
そこは海賊達が協定を結び、一切の争いをせずに過ごす秘密の場所、リーベルタース島。
海の上ではライバル同士でも、ここでは鳥が羽を休めるように寛ぎ、酒を酌み交わしたり、果物をもいだり、魚を釣ったりして休息する秘密の隠れ家になっていた。

「貴方からここへ誘われるなんて珍しいわね。キャプテン・クロフォード。」
先に来ていたクイーン・ジェイドが声をかけてきた。
「協力に感謝する。クイーン・ジェイド。彼はクック・ザ・キッド。」
キャプテン・クロフォードはクック・ザ・キッドをクイーン・ジェイドに紹介した。
「初めまして。オイラは流離いの旅人。今はキャプテン・クロフォードと一緒にファルコン号で旅をしている。」
「貴方、なかなかやるわね。腕が立つ男はすぐにわかるわ。気配に隙がない。絶対に敵には回したくないわね。」
クイーン・ジェイドは腕組みをして、薄笑いを浮かべた。

秘密の島で親交を深めた三人は、それからもあちこちの海で出会い、時には共に戦った。
義賊と呼ばれるキャプテン・クロフォードと魔女と呼ばれるクイーン・ジェイドは、それぞれの目指す方向は違っても、共に自らの夢や理想を追い、戦う同志であったし、旅人クック・ザ・キッドもまた、自らの夢を追い求める旅の途中で親友となったキャプテン・クロフォードと共に戦った。
そしてキャプテン・クロフォードの側には常にミーナが寄り添い、彼を支えていた。

「キャプテン、ちょっと良いか?」
神妙な面持ちでクック・ザ・キッドが船長室を覗いて言った。
「キッド、どうした?改まって。」
キャプテン・クロフォードが訝しげに答えた。
「実は、その、クイーン・ジェイドに、オイラ、惚れちまったようだ。」
クック・ザ・キッドは耳まで真っ赤になりながら言った。
キャプテン・クロフォードは表情を緩めて答えた。
「前から知ってたよ、キッド。お前ほどわかりやすい奴は見たことがないくらいだ。」
キッドは照れながら言った。
「彼女に求婚したい。いや、夫婦になったからって、彼女を束縛するつもりはないんだ。彼女は今まで通りに彼女の道を行けば良い。オイラだって、縛られるのはごめんだ。これからも自由気ままに旅がしたい。きっと彼女なら、わかってくれると思うんだ。だから、今度彼女に会ったら、オイラ、求婚しようと思う。」
ミーナがキャプテン・クロフォードの傍らに立ち、椅子に座っているキャプテンの肩にそっと手を置いて言った。
「差し出がまくて申し訳ありません。でも、男も女も、人を愛する気持ちは、それぞれ形が違いますわ。きっと彼女とキッドならお似合いの夫婦になれると、わたくしは思います。」
「うむ。俺も同感だ、キッド。」
とキャプテン・クロフォードも言った。

リーベルタース島にクイーン・ジェイドを呼び出したクック・ザ・キッドが声をかけた。
「クイーン・ジェイド、話があるんだ。」
「何かしら?」
クイーン・ジェイドは腕組みをして目を細めてキッドを見た。
「オイラと、結婚、して、くれないか。」
クック・ザ・キッドが真っ赤になりながら、とぎれとぎれにそう叫ぶと、クイーン・ジェイドは高笑いして言った。
「面白い男ね。良いわよ。貴方のことは嫌いじゃない。ただ、私はこれからも私の道を、貴方はこれからも貴方の道を、それぞれ進んで行く。それでも良いなら、私は貴方と結婚しても良いわ。」
「ありがとう、ありがとう。」
クック・ザ・キッドは男泣きして喜んだ。
それから時々二人は秘密の島で逢瀬を楽しんだ。

「キャプテン、今まで世話になった。オイラ、ぼちぼち一人旅の続きをしたくなった。船を降りたい。」
クック・ザ・キッドがそう言うと、キャプテン・クロフォードは
「そうか。わかった。」
とだけ答えた。
キャプテン・クロフォードは近くの港までクック・ザ・キッドを送ると、最後に固い握手を交わして、二人は別れた。
「キャプテン、達者でな。」
「ああ、キッド。お前も元気で。またいつか、どこかで会おう。」

三人がそれぞれの道を進むべく別れてから、月日は流れ、ある時キャプテン・クロフォードは帝国が占領下に置いていた南の大陸から、莫大な鉱物資源を載せた貨物船が帝都に近い港を目指して出港するという情報を得た。
帝国上層部と繋がりの深い豪商が、現地の民を奴隷同然に働かせ、彼らの血と汗と涙の結晶といっても良い鉱物を、略奪に等しく、雀の涙ほどの金額で買い叩いて、帝国へ持ち帰ろうとしているというのだ。
親友のクック・ザ・キッドも盟友のクイーン・ジェイドも何処かで帝国海軍と戦っているはずだ。
キャプテン・クロフォードはその貨物船を襲い、鉱物資源を南の大陸に芽吹こうとしている新しい国の礎とするために、かの地の民の手に返そうと考えた。

「キャプテン、わたくしは何となく不安です。いつもとは何かが違う気がします。キャプテンのなさろうとしていることは、素晴らしいことだとわかってはいるのですが、でも、どうにも胸騒ぎがして、心配なのです。」
ミーナはキャプテン・クロフォードに訴えた。共に長く旅を続けて来て、彼女がそんなことを言ったのは初めてのことだった。
「わたくしの一族、アルコル族は太古の昔から、この大空と大海と大地の全ての源である大いなる生命の声を聴いて来ました。他の民族よりは直感力に優れていると言っても良いかもしれません。わたくしは感じるのです。どす黒い邪な気の流れを。多くの人々の悪意を。」
「ミーナ、お前の一族の力は知っているし、お前の能力も認めているが、俺がこれからやろうとしていることは、誰かがやらねばならんことなのだ。クック・ザ・キッドもクイーン・ジェイドも、別の形で関わっている。民を救い、友を助けるために、どんな困難にも立ち向かわなければならない。お前が俺の身を案じてくれる気持ちは痛いほどわかっているつもりだ。それでも、女のお前にはわからないかもしれんが、男には例え負けるとわかっていても、戦わねばならん時がある。男というものはそういう生き物なのだ。」
キャプテン・クロフォードは珍しく饒舌に語った。
ミーナは眼を伏せて、ただ黙って頷いた。その表情には、
「例えどんなことがあっても、愛する男を守り、愛する男の自尊心を傷つけることのないように、愛する男に従い、愛する男の邪魔にならないように、陰ながら支えて行くのは私しかいない」
という固い決意が現れていた。

そして、貨物船が出港し、航路の途中の海域で貨物船を襲うべく、キャプテン・クロフォードは計画を立てていた。
帝国海軍の軍艦も護衛に着くだろうが、航行の難しい海域に誘い込めば、勝機はある。
軍艦を巻いて貨物船を追い込み、乗り移って乗組員を全て排除し、船ごと強奪する。
いつもそうして来た通りに、今回もきっとうまく行くはずだった。

ファルコン号がどこからともなく現れると、貨物船は動揺し、速度を上げて逃げようとした。
軍艦は遠隔攻撃をしながらファルコン号を追う。
予定通り貨物船は小島や岩礁の入り組んだ複雑な海域に向かって、追いやられて行った。
軍艦も追って来てはいたが、操船の難しさからか途中で断念し、増援を仰ぐためか後退して行った。
キャプテン・クロフォードは貨物船に乗り移り、乗組員を全て船から追い出して近くの島に上陸させ、貨物船はもぬけの殻となった。
「かかったな!キャプテン・クロフォード!」
ファルコン号から声が聞こえた。
いつの間にか海軍兵がファルコン号に乗り込んで、ミーナを捕らえていた。
「キャプテン!わたくしには構わずに逃げてください!」
叫ぶミーナの腹部を海軍兵が膝で蹴った。
「黙れ!誰が口を利くことを許可した?この蛮族の死に損ないめが!」
ぐっ、と呻いてミーナが体を二つ折りにして俯いた。長い髪が乱れて前に垂れた。
「ミーナ!」
キャプテン・クロフォードが叫ぶと顔を上げたミーナの口角からどろりと赤黒い血が一筋滴り落ちた。
「観念しておとなしく投降しろ。キャプテン・クロフォード。」
海軍兵は薄ら笑いを浮かべて勝ち誇ったように言った。
「だめ…、キャプテン。わたくしの命はもうとうの昔に消えていたはずの命。貴方に救われて生き長らえて来たのは、貴方に恩返しをするため。貴方のためならわたくしは死ねる。逃げて、キャプテン。貴方は生きてください。わたくしのために。」
ミーナは細い体から絞り出すように言った。
「うるさい!黙れ!」
海軍兵は再びミーナを蹴り、崩れ折れるように倒れたミーナを何度も足蹴にした。
別の海軍兵が屈み込んでミーナの顔を覗き込み、髪を掴んで顔を上げさせると、
「おいおい、もう止めておけ。蛮族でも女は女。殺す前に皆で可愛がってやりゃあ良いじゃないか。愛しい男のために身を捧げるなんて健気な話だぜ。」
とにやにや下卑た笑い顔で言うとサーベルを抜いてミーナの長い衣服の裾をひょいと剣先で持ち上げた。
「止めろーー!」
キャプテン・クロフォードの叫び声と同時にファルコン号の後方から銃声が響いた。
ミーナの髪を掴んでいた兵の頭に空いた穴から白い煙が立ち上ぼり、兵はバタンと前のめりに倒れた。続いて銃声が響くと、先ほどまでミーナを蹴っていた別の兵の胸に空いた穴からも白い煙が立ち上ぼり、バタンと音を立てて倒れた。
他の兵達が混乱して騒ぎ始め、赤い海賊旗をはためかせてジェイド号が近づいて来た。舳先にクック・ザ・キッドが銃を構えて立っていた。
「命の惜しくないやつはかかってこい!死にたくないやつはファルコン号から降りろ!」
そう言いながらキッドは次々と銃を構えようとした兵を狙って撃った。
兵は叫び声を上げながら船から飛び降りて、少し離れた場所に停泊していた軍艦に向かって散り散りに逃げて行った。
「キャプテン、大丈夫か?」
「キッド、来てくれたのか!」
声をかけあう間に、クイーン・ジェイドが船をつけ、ファルコン号に乗り込んでミーナを抱き起こした。
「しっかりして。私がわかる?」
ぷるぷると瞼を震わせて、ミーナはうっすらと眼を開けた。
「クイーン・ジェイド、キャプテンは無事ですか?」
駆けつけたキャプテン・クロフォードはミーナの体を抱いて答えた。
「ミーナ、俺はここだ。すまない、俺のためにこんな目に。」
ミーナは微笑んで震える手でキャプテン・クロフォードの頬に触れた。
「貴方が謝る必要はありません。貴方に救われたあの日からずっと、貴方のためなら、わたくしはいつでもこの命を差し出す覚悟はできていました。」
クック・ザ・キッドもやってきて言った。
「どうやら貨物船の一件は、キャプテンを誘き寄せるための巧妙な罠だったようだ。まんまと嵌められるところだったな。間一髪、間に合って良かった。」
「俺も焼きが回ったものだな。海軍があっさりと引いたから何かおかしいと思ってはいたんだが。ミーナが胸騒ぎがすると言っていたのは、このことだったのだろうに。」
キャプテン・クロフォードは後悔を口にした。
ごふっ、とミーナは再び赤黒い血を吐いた。
「ミーナ!しっかりしろ。すぐに医者を…。」
「いいえ」
キャプテンの言葉をミーナは途中で遮った。
「わたくしにはわかります。大空と大海と大地の大いなる生命がわたくしを呼んでいます。怖れる必要はありません。全ての命は大いなる生命に同化するのです。そしてまた来世で別の命として生まれ変わるのです。」
「ミーナ、行かないでくれ。」
キャプテンはミーナの手を握り、ぐっと力を込めた。
「わたくしは帰らねばなりません。大いなる生命が呼んでいます。誰しもこの運命からは逃れられません。転生は大いなる生命の巡り。ご縁があればきっとまた来世でお会いできますわ。キャプテン。わたくしの魂は貴方を探し求めて、きっと来世で貴方を見つけます。だから、それまで、暫しのお別れです。きっと、きっと、お約束しますから。」
ミーナはそう言うと静かに眼を閉じた。握り締めた手から力が抜け、抱き締めた体もぐったりと脱力した。

その後、ミーナを故郷に近い海に葬ったキャプテン・クロフォード、クイーン・ジェイド、クック・ザ・キッドはそれぞれの道を進み、時に出会い、そして別れ、それぞれの人生を精一杯生きた。

大いなる生命の巡り、それはこの惑星に存在する全ての命のエナジーの集合体。全ての命は大いなる生命の一部であり、その運命に従い、生を全うしてまた大いなる生命に帰る。
そしていつかまた別の命として生まれ代わり、その生を全うして大いなる生命へと帰ることを繰り返す。
人間に生まれるものもあれば、獣に生まれるもの、魚や鳥、虫に生まれるもの、木や草花に生まれるもの、路傍の石に生まれるもの、流れる水に生まれるもの。ありとあらゆる生きとし生けるもの、一見命があるようには見えないものにまで、全てが大いなる生命の一部なのである。
ひとたび大いなる生命に帰ったものが、来世に生まれ代わっても、それは全く違う命であって、前世の記憶がある訳でもないし、そもそも人間が再び人間に生まれ代わる保証もない。
ただ、もしも深い絆と縁で結ばれているもの同士なら、その思いが極めて強ければ、微かな前世の記憶のようなものが、その命に染み着いていることもあるのかもしれない。
同じ人間同士に生まれ代わり、同じ時代に、同じ場所に存在できる確率は極めて低いかもしれないが、皆無とは言いきれない。

「先生、わたくしは先生に出会えて本当に良かった。先生のお側に居られて、わたくしは幸せです。先生はわたくしと随分歳が離れていると仰いますけど、何だかわたくしはずっとずっと前から、先生のお側に居た気がします。」
妻は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ほらまた、『先生』と呼んでいる。」
と島津も穏やかに微笑んで答えた。
「不思議なものだね。私も初めて出会った時、会ったことはないはずなのに、何だか懐かしいような、何とも言えない気持ちになったものだ。年甲斐もなく、若い娘に一目惚れした等と言うのも恥ずかしくて、そんな素振りを見せないように努めたけれど、内心衝撃を受けた。長年生きてきて、全く女性との出会いがなかった訳ではないが、どうにも直感的に『この人ではない』と思えて、それは縁がないということなのだろうと思っていた。焦って無理やり誰かと結婚したとしてもきっとうまくいかないだろうと思い、生涯独身でも致し方ないと諦めていた。ところがあの日初めて出会った時に、私の心の中にぽっかり空いた穴に、どうしても見つからなかったジグソーパズルの最後のピースを見つけたように、ぴたりと収まる人に出会えた。まるでずっと前から探していた人を見つけたような感じがした。私も幸せだよ。私は随分歳上だから、きっと先にあの世に行くだろうが、それまではずっと一緒に居ておくれ。」
島津はそっと妻を抱き寄せた。
まるでそんな二人を祝福するかのように、爽やかな風がさわさわと路傍の叢を揺らし、小川に漣が広がって、夕陽が静かに遠くの山の向こうへ沈もうとしていた。