この創作垢で書くべきか、別の生活垢で書くべきか、迷いに迷って生活垢で書き始めたものの、やっぱり違うなと垢を移動して今ここに至る。
ずっと頭の中でいろいろ考えている時はどうにも取っ散らかってしまってまとまらないので、見切り発車で書き始めることにした。自作小説だって書いているうちにだんだんと変化して行って、結果の良し悪しはともかく、何とか形にはなるのだから、きっと何とかなるだろう。
先日オタク仲間のとある友人に誘われて大阪あべのハルカスで開催中の「庵野秀明展」を訪れた後に、コロナ禍で久しぶりにリアルに会えた友人と長時間語り合ったのだが(『長時間大声での会話は避けましょう』とはいうが、飲んでいたのはそれぞれジュースやラテ1杯ずつだし、サシだったので大人数でもないから、そこはちょっとご勘弁願おう)、展覧会の感想から始まって、他の漫画やアニメ、ゲームの話、更にはそれらの考察サイト動画にまで話が及び、最終的には私の自作小説の世界観にまで話が発展した。
自分一人ではなかなか見えないものが、他者目線での意見を聴くと、急に視界が開けると言うのか、ある種の気づき、ないし、それに至るヒントのようなものが得られることがあるようだ。
最近の自作小説について語るうちに、最終的に友人氏が指摘したのは
「自己破壊願望のようなもの(正確な言い回しはうろ覚えだが、意味はほぼあっていると思う)が感じられて怖い」
と言うことだった。
あまりに長時間、あまりに多くのことを話したので、全てを思い出せるわけでもないし、うまくまとめることも難しいのだが、自作小説に繰り返し出て来る「天才と秀才」みたいな構図であったりとか、「(自分にとっての)恋敵への思いを抱いている相手への報われない片思い」とかは、形を変えた作者の実体験に基づく精神世界の一部であったりはするが、
それを通じて作者自身が「自分探し」というか、
「まだ漠然としているがおそらくはその先に答えが見つけられるであろうと思える方向を探りながら、真の答えを模索しているような気がする」
と私が言うと、友人氏は
「もしかしたら答えなど最初からないのかもしれない」
と言った。
「螺旋階段のように同じところをぐるぐる回っているように見えても少しづつはある方向に向かって動いていて、その先に進めばあると思った答えは辿り着いてもそこにはなくて、更にまた先に道が続いていて、今度こそ答えに辿り着いたかと思ったら、また道が続いているような」
と言うのである。
10年前に創作活動を始めてから現在に至るまで、ほぼ一貫して根底に流れる精神世界が、作者を投影した登場人物に対して「これでもか」と言わんばかりの精神的・肉体的な苦痛を強いていたり、あたかも「死は救済」とばかりに死なせてしまったりするところが、「ちょっと心配だ」と友人氏は言うのであるが、「そこは人身御供的な感じで、作者の痛みを登場人物が身代わりになって受けてくれているのだ」という説明に納得はしてくれた。
一見すると話は変わるように見えるのだが、半年ほど前に見たアニメ映画で(見ていない人に対するネタバレ防止のため詳細は語らないけれど)、「大義」を掲げて悪役を演じた登場人物が「真面目過ぎて闇落ちしたんだろう」と(私と同じ水瓶座であるということから)共感したことがあった。
そしてたまたま昨日、自宅で昔のアニメ映画を視聴する機会があり、そこでもまた敵役が「大義(という言い回しではなかったかもしれないが意味的にはそういうことだろうと思う)」を掲げているのだが、彼は周囲の複数の登場人物をして「純粋すぎる人だから」と言わしめるのである。
これは私個人の、自分の価値観や世界観に寄せた、穿った想像なのかもしれないが、彼ら(ないし、他作品や自作小説の中でも、彼らに類した者)は、
「この世界(とか、全人類とか、同胞たちとか)を護るために必要なことをしようとしている自分は、『悪』と呼ばれることも厭わないし、そのためになら自分の命を捧げられる」
くらいの勢いで、本気で自分なりの大義を貫こうとしていて、一方で(仮にその大義が思想としては正しいものだとしても)多くの他者を犠牲にするそのやり方は本当は間違っているし、やってはいけないことであるとわかってもいるので、ライバルに対して
「どうか自分を止めてくれ、殺して苦しみから解放してくれ」
と思っているのではないかとすら思えてしまう。
前述の友人氏にも、自作小説で似たような登場人物を描いた話をしたので、「自己破壊願望」という話になったのである。
前作のタイトル「Thanatos」は「デストルドー」とニアリーイコールだと言われているが、デストルドーについては「全てを原初(元通り)に戻したいと願う」というような意味であると(うろ覚えだがなんとなくそんなニュアンスだった気がする)、最近どこかで聞いたか読んだかしたのだが、一般的に知られているのは「死への欲望、及び、死に向かう衝動」であり、言葉を換えれば友人氏のいう「自己破壊願望」に近いのではないかと思う。
かつて心を病んだ経験のある私だが、「死にたい、死のう」と思っていたかというと、それは少しニュアンスが違う。
「もし今~~したら、私は死んでしまうかもしれないけど、それでもいい」と言う方が正確に近いかもしれない。
「死にたい」ではなく、「死ねたらいいのに」みたいな、意識の中心が自分にはなく、(俯瞰で見る水瓶座の性質によるものなのかもしれないが)自分のことなのにどこか他人事のような感じである。
「別にMっ気があるわけでもないだろうが、もしかしたら相当痛みには強いのかな?」
と友人氏は言った。
そうでもない、と自分では思うのだが、自分に負荷をかけるとか追い込むとかは、無意識にやってしまいがちなのかもしれない。
生死というほどの大げさなことではないけれど、豆腐どころか豆乳くらい脆弱なメンタル、硝子のハートのくせに、無意識に「負荷をかけるならかけてみろ」みたいな、「どれだけ自分を追い込めるか、やれるところまでやってやる」みたいな、意地になってしまうところはあるかもしれない。
現実世界でもヘロヘロボロボロに疲れているのに無理にでもこなそうとしてみたり、不利になることはわかっているのにその条件で戦おうとして見たり、無謀な挑戦をしようとしたり、そういう傾向があるのは否めない。
「楽ちんだとかお得だとかそういうのに乗っかりたくない」みたいな変な意地もあるし、ましてずるをするのは絶対に許せない。
やっぱり山羊座寄りの水瓶座なのかもしれない。
でも、そういう無理を通して見せようとするのは、ある意味で一種の自己破壊願望なのかもしれない。
前述の2つのアニメ映画の敵役たちに共通する「破壊衝動」は世界を壊すとか、大量虐殺をするというわかりやすい形ではあったけれど、現実の私の中には、形を変えた破壊衝動がある気がする。
「(精神的・肉体的・経済的・社会的などいろんな意味で)自分自身を損なう、傷つけるなどという行為を是とする傾向」というか。
価値観の違う(同僚などの)一般的な人々は、私の精神世界を深くは理解してないだろうから、彼らにとって私は「突拍子もないことや非現実的なことばかり夢想する単なる変人」でしかないだろうが、多少なりとも私を理解してくれる人にとっては、私は「ちょっと危うい破壊衝動を秘めた人物」なのかもしれず、それは(自分で言うのも恥ずかしいが)「自分個人よりも、例えば、世界や人類や同胞を重んじるような、真面目さや純粋さ」故なのかもしれない。
「かつては自傷行為を繰り返し、リアルに自己破壊願望を体現していた時期もあったが、今は破壊衝動の代償行為として小説を書き、その登場人物に自己を投影することで、昇華させているのだろう」
と、自ら友人氏に語ったように、私はそう信じている。
「(この世界に対して、人類に対して、などというほど大げさなものではないにしろ)私以外の人々に対しても害をなす可能性を持つ」と判断した許せない相手に対して義憤を覚えないわけではないが、今までならそこは理性を持ってぐっと堪えて来たので、滅多にわかりやすくキレることはなかったのだが(もちろん皆無ではない)、歳を重ねて前頭葉が劣化するに従い、最近は多少キレやすくなったかもしれないけれども、あくまでも根本的には破壊衝動のベクトルは外向的ではなく、内向的で自虐的である。
最後に現在の創作活動の経過報告を。
ギリギリ4月末に前作を完成投稿して、5月からは、(前述の友人氏にも語ったのだが)とあるゲームに関する考察動画をヒントに新作の構想に着手し、例の如く最初は元ネタのほぼ「まんま」からスタートして粗筋はほぼ決まった。
ここからいろいろ資料を検索したり、元ネタをどう捻るかとか、付け加える部分や削り取る部分を考えていくわけだが、また別の何かのネタと融合することで、ガラガラポンしてオリジナリティーを生むというのが常套手段だけに、その+αのネタがまだ見つかっていない。今のままではテーマとしても弱いし、何より「ただのパクリ」であってオマージュでも何でもない。
せめてもう1ネタ、2ネタをミックス・ブレンドしてこそ、何かが生まれる起爆剤となりうるのだから、まだまだピースが足りない。
なので、完成までどのくらい時間がかかるかとか、書き上がりのヴォリュームがどのくらいになるかとか、何もつかめない状態ではあるが、幾つかあるボツネタ原稿とは違い、おそらくいつか何とか実を結ぶであろうと思われるので、根気よく創作活動に精進しようと思っている。
ずっと頭の中でいろいろ考えている時はどうにも取っ散らかってしまってまとまらないので、見切り発車で書き始めることにした。自作小説だって書いているうちにだんだんと変化して行って、結果の良し悪しはともかく、何とか形にはなるのだから、きっと何とかなるだろう。
先日オタク仲間のとある友人に誘われて大阪あべのハルカスで開催中の「庵野秀明展」を訪れた後に、コロナ禍で久しぶりにリアルに会えた友人と長時間語り合ったのだが(『長時間大声での会話は避けましょう』とはいうが、飲んでいたのはそれぞれジュースやラテ1杯ずつだし、サシだったので大人数でもないから、そこはちょっとご勘弁願おう)、展覧会の感想から始まって、他の漫画やアニメ、ゲームの話、更にはそれらの考察サイト動画にまで話が及び、最終的には私の自作小説の世界観にまで話が発展した。
自分一人ではなかなか見えないものが、他者目線での意見を聴くと、急に視界が開けると言うのか、ある種の気づき、ないし、それに至るヒントのようなものが得られることがあるようだ。
最近の自作小説について語るうちに、最終的に友人氏が指摘したのは
「自己破壊願望のようなもの(正確な言い回しはうろ覚えだが、意味はほぼあっていると思う)が感じられて怖い」
と言うことだった。
あまりに長時間、あまりに多くのことを話したので、全てを思い出せるわけでもないし、うまくまとめることも難しいのだが、自作小説に繰り返し出て来る「天才と秀才」みたいな構図であったりとか、「(自分にとっての)恋敵への思いを抱いている相手への報われない片思い」とかは、形を変えた作者の実体験に基づく精神世界の一部であったりはするが、
それを通じて作者自身が「自分探し」というか、
「まだ漠然としているがおそらくはその先に答えが見つけられるであろうと思える方向を探りながら、真の答えを模索しているような気がする」
と私が言うと、友人氏は
「もしかしたら答えなど最初からないのかもしれない」
と言った。
「螺旋階段のように同じところをぐるぐる回っているように見えても少しづつはある方向に向かって動いていて、その先に進めばあると思った答えは辿り着いてもそこにはなくて、更にまた先に道が続いていて、今度こそ答えに辿り着いたかと思ったら、また道が続いているような」
と言うのである。
10年前に創作活動を始めてから現在に至るまで、ほぼ一貫して根底に流れる精神世界が、作者を投影した登場人物に対して「これでもか」と言わんばかりの精神的・肉体的な苦痛を強いていたり、あたかも「死は救済」とばかりに死なせてしまったりするところが、「ちょっと心配だ」と友人氏は言うのであるが、「そこは人身御供的な感じで、作者の痛みを登場人物が身代わりになって受けてくれているのだ」という説明に納得はしてくれた。
一見すると話は変わるように見えるのだが、半年ほど前に見たアニメ映画で(見ていない人に対するネタバレ防止のため詳細は語らないけれど)、「大義」を掲げて悪役を演じた登場人物が「真面目過ぎて闇落ちしたんだろう」と(私と同じ水瓶座であるということから)共感したことがあった。
そしてたまたま昨日、自宅で昔のアニメ映画を視聴する機会があり、そこでもまた敵役が「大義(という言い回しではなかったかもしれないが意味的にはそういうことだろうと思う)」を掲げているのだが、彼は周囲の複数の登場人物をして「純粋すぎる人だから」と言わしめるのである。
これは私個人の、自分の価値観や世界観に寄せた、穿った想像なのかもしれないが、彼ら(ないし、他作品や自作小説の中でも、彼らに類した者)は、
「この世界(とか、全人類とか、同胞たちとか)を護るために必要なことをしようとしている自分は、『悪』と呼ばれることも厭わないし、そのためになら自分の命を捧げられる」
くらいの勢いで、本気で自分なりの大義を貫こうとしていて、一方で(仮にその大義が思想としては正しいものだとしても)多くの他者を犠牲にするそのやり方は本当は間違っているし、やってはいけないことであるとわかってもいるので、ライバルに対して
「どうか自分を止めてくれ、殺して苦しみから解放してくれ」
と思っているのではないかとすら思えてしまう。
前述の友人氏にも、自作小説で似たような登場人物を描いた話をしたので、「自己破壊願望」という話になったのである。
前作のタイトル「Thanatos」は「デストルドー」とニアリーイコールだと言われているが、デストルドーについては「全てを原初(元通り)に戻したいと願う」というような意味であると(うろ覚えだがなんとなくそんなニュアンスだった気がする)、最近どこかで聞いたか読んだかしたのだが、一般的に知られているのは「死への欲望、及び、死に向かう衝動」であり、言葉を換えれば友人氏のいう「自己破壊願望」に近いのではないかと思う。
かつて心を病んだ経験のある私だが、「死にたい、死のう」と思っていたかというと、それは少しニュアンスが違う。
「もし今~~したら、私は死んでしまうかもしれないけど、それでもいい」と言う方が正確に近いかもしれない。
「死にたい」ではなく、「死ねたらいいのに」みたいな、意識の中心が自分にはなく、(俯瞰で見る水瓶座の性質によるものなのかもしれないが)自分のことなのにどこか他人事のような感じである。
「別にMっ気があるわけでもないだろうが、もしかしたら相当痛みには強いのかな?」
と友人氏は言った。
そうでもない、と自分では思うのだが、自分に負荷をかけるとか追い込むとかは、無意識にやってしまいがちなのかもしれない。
生死というほどの大げさなことではないけれど、豆腐どころか豆乳くらい脆弱なメンタル、硝子のハートのくせに、無意識に「負荷をかけるならかけてみろ」みたいな、「どれだけ自分を追い込めるか、やれるところまでやってやる」みたいな、意地になってしまうところはあるかもしれない。
現実世界でもヘロヘロボロボロに疲れているのに無理にでもこなそうとしてみたり、不利になることはわかっているのにその条件で戦おうとして見たり、無謀な挑戦をしようとしたり、そういう傾向があるのは否めない。
「楽ちんだとかお得だとかそういうのに乗っかりたくない」みたいな変な意地もあるし、ましてずるをするのは絶対に許せない。
やっぱり山羊座寄りの水瓶座なのかもしれない。
でも、そういう無理を通して見せようとするのは、ある意味で一種の自己破壊願望なのかもしれない。
前述の2つのアニメ映画の敵役たちに共通する「破壊衝動」は世界を壊すとか、大量虐殺をするというわかりやすい形ではあったけれど、現実の私の中には、形を変えた破壊衝動がある気がする。
「(精神的・肉体的・経済的・社会的などいろんな意味で)自分自身を損なう、傷つけるなどという行為を是とする傾向」というか。
価値観の違う(同僚などの)一般的な人々は、私の精神世界を深くは理解してないだろうから、彼らにとって私は「突拍子もないことや非現実的なことばかり夢想する単なる変人」でしかないだろうが、多少なりとも私を理解してくれる人にとっては、私は「ちょっと危うい破壊衝動を秘めた人物」なのかもしれず、それは(自分で言うのも恥ずかしいが)「自分個人よりも、例えば、世界や人類や同胞を重んじるような、真面目さや純粋さ」故なのかもしれない。
「かつては自傷行為を繰り返し、リアルに自己破壊願望を体現していた時期もあったが、今は破壊衝動の代償行為として小説を書き、その登場人物に自己を投影することで、昇華させているのだろう」
と、自ら友人氏に語ったように、私はそう信じている。
「(この世界に対して、人類に対して、などというほど大げさなものではないにしろ)私以外の人々に対しても害をなす可能性を持つ」と判断した許せない相手に対して義憤を覚えないわけではないが、今までならそこは理性を持ってぐっと堪えて来たので、滅多にわかりやすくキレることはなかったのだが(もちろん皆無ではない)、歳を重ねて前頭葉が劣化するに従い、最近は多少キレやすくなったかもしれないけれども、あくまでも根本的には破壊衝動のベクトルは外向的ではなく、内向的で自虐的である。
最後に現在の創作活動の経過報告を。
ギリギリ4月末に前作を完成投稿して、5月からは、(前述の友人氏にも語ったのだが)とあるゲームに関する考察動画をヒントに新作の構想に着手し、例の如く最初は元ネタのほぼ「まんま」からスタートして粗筋はほぼ決まった。
ここからいろいろ資料を検索したり、元ネタをどう捻るかとか、付け加える部分や削り取る部分を考えていくわけだが、また別の何かのネタと融合することで、ガラガラポンしてオリジナリティーを生むというのが常套手段だけに、その+αのネタがまだ見つかっていない。今のままではテーマとしても弱いし、何より「ただのパクリ」であってオマージュでも何でもない。
せめてもう1ネタ、2ネタをミックス・ブレンドしてこそ、何かが生まれる起爆剤となりうるのだから、まだまだピースが足りない。
なので、完成までどのくらい時間がかかるかとか、書き上がりのヴォリュームがどのくらいになるかとか、何もつかめない状態ではあるが、幾つかあるボツネタ原稿とは違い、おそらくいつか何とか実を結ぶであろうと思われるので、根気よく創作活動に精進しようと思っている。