きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

涙壺(1)

2013-06-06 10:01:22 | 日記

(この物語はフィクションであり、実在の個人、団体及び地域、時代とは一切関係ありません)

第1章 想い壺

 開け放たれた窓からの夜風に揺れる華奢な茎の上に薄紫の縁取りのある白い花が一輪、窓の外の漆黒の闇を背景にして仄白く浮かび上がっている。
 桔梗(ききょう)は自分と似た名前を持つこの異国の花が大好きだった。古来から本邦に生育する花の名を付けられた桔梗だが、本来の名の由来である深い紫色の花はもっとしっかりして芯の強い凛とした女性にこそふさわしい。頼りなくて人に流されやすい自分には寧ろこの異国の花のように儚げな方が似合っている。そんな感じがしたからだ。
 一輪挿しの置かれた古い鏡台と対になった椅子の座面を持ち上げて、桔梗は異国風の色彩と意匠のからくり箱を取り出した。
慣れた手つきで仕掛けを外し、桔梗が開けたからくり箱の中から姿を現したものは鮮やかな深い碧色の硝子の壺。
木の葉のような形をした開口部の下に水鳥の長い首に似た優雅な曲線を描いて括れた管が続き、その下にはふくよかな丸みを帯びた体部がある異国風の壺だった。
桔梗はその壺の開口部にそっと唇を寄せ、囁くように小声で何言かを呟くとまた丁寧に壺を箱に納め、椅子を元に戻した。
毎夜寝室に戻って一人になった時、こうして壺に哀しみや切なさを吐き出すのが桔梗の日課になっていた。
 この鏡台も椅子も桔梗の唯一の嫁入り道具だ。
普段物をねだることはおろか自分の意思すら殆ど口にしない桔梗がこれだけは珍しく譲らなかった。
育ての母である祖母の形見の品だからどうしてもこれだけは持って嫁ぎたいと強く望んだ。
後生だから、と涙ながらに懇願する桔梗に夫の甘糟完二(あまかすかんじ)は鷹揚に許可を与えた。
しかしその椅子の中に隠している箱とその中身について甘糟は知る由もなかった。
 その官能的な形状の壺は「涙壺」と呼ばれるものだ。
遠い昔異国の兵士が戦地に赴く時、恋人が彼を想って流した涙を溜めて愛の証に贈ったと言われている。
桔梗はかつて高級貴族だった実家を訪れた異国の賓客からもたらされたこの美しい碧色の硝子の壺を一目見て、取り憑かれたように魅入られたのである。
 先の王朝が瓦解し、現在の共和国―現実には軍事独裁国家ではあるが―へと世の中が激変する中で、桔梗達貴族は称号を剥奪され、家を失い財産もあらかた没収されたが、憲兵隊長として旧貴族達を取り締まり、再び騒乱の種とならぬよう監視する立場にあった甘糟少佐が桔梗を妻にと望んだ時、花嫁の祖母への敬愛に理解を示す寛容な夫であることを示そうとしたのか、甘糟は桔梗が形見の鏡台を持参することを咎めはしなかった。
桔梗はそれ以来ずっとこの壺の中に涙ではなく秘めたる想いを溜めて来たのである。
 桔梗にはずっと以前から憧れている男性が居た。
下級貴族の子弟で、名を高倉樹(たかくらいつき)という。
歳は同じくらいだが、身分が違うこともあり、高倉が余りにも女性に人気がありいつも取り巻きの女性達に囲まれていて声を掛けることはおろか、近づくことさえも出来ずにただ遠くからその姿を見つめていただけだった。
すらりとした華奢な体に白い肌。茶色の髪と瞳。優しくて美しい微笑。甘い声と柔らかで優雅な物腰。
そこはかとなく芳香が漂い、この世の者とは思えぬ、まさに天使が降臨したかのような男性だと思った。
しかし、王制が廃止され貴族の称号も剥奪されてから、高倉は自ら志願して国軍に入隊したという噂を聞いた。
 国内外の情勢が不安定な今、高倉はどうしているのだろう。
桔梗は彼の身を案じて夜も眠れなかった。
一時は国外に駐留していたものの今は既に帰国していると聞いたこともあったが、その消息も定かではなかった。
毎夜壺に向かって桔梗が語り掛けるのは恋しい高倉への届かぬ切ない思い。
(…ああ、高倉様。貴方は今どこにいらっしゃるのでしょう?何をしておいでなのでしょう?ご無事なのでしょうか?
今何を考えておられるのでしょう?愛しいお方のことなのかしら?
貴方が愛するのはどんな方なのでしょう?きっととても美しい方なのでしょうね…。)
 桔梗は座面を閉じた椅子に腰掛け、鏡台に向って髪をとかし始めた。
長い黒髪と黒い瞳。
鏡に映ったその顔立ちは目も当てられない程醜いという訳ではないが、お世辞にも美人とは言い難かった。
それ故、あの美し過ぎる高倉に思いを告げるなんて烏滸がましくてとても出来ない、と思っていた。
 夫の甘糟にしても決して桔梗の容姿に惚れて求婚した訳ではない。
平民出身の甘糟にとって没落したとはいえ高貴な家柄の貴族の娘を娶るということは自分の劣等感を克服するための手段であり一種の貴族社会への報復でもあった。
 更に桔梗は甘糟にとっては扱いやすい、即ち都合の良い女だったからだ。
贅沢はしないし言わない。何も望まない。甘糟の意のままに動く純粋で従順な女。
甘糟は今までこんな女に出会ったことはなかった。
自分のために使う金以外には吝嗇で男尊女卑の甘糟は女はみんな薄汚く生意気で我儘で贅沢な鼻持ちならない奴ばかりだと思っていた。特に貴族の女は論外だった。
しかし元貴族達を政治犯予備軍として監視する任に就いてから生まれて初めて「女とはかくあるべき」と思い描いて来た理想の女を見つけた。
金と権力を手にした今、甘糟には貴族の女を隷属させたい欲求と、理想の女を手に入れたい衝動とを押さえる必要などなかった。
案の定桔梗はすんなりと承諾した。
(こいつはそこいらの馬鹿女とは違う頭の良い女だ。元貴族の分際では憲兵隊長の俺に決して逆らえないことをちゃんと承知している。
俺は懐の深い心の広い男だ。嫁入り道具の一つくらい望みを叶えてやるなど何の雑作もないことなのだ。
寧ろ新品の豪奢な調度品や道具類をそろえて欲しいとねだりもせず、祖母の形見の古ぼけた鏡台一つだけを持って嫁ぎたいとは健気な女だ。
妻にするなら女は地味で質素なのが一番。
男を立てて絶対に逆らわず大人しく黙って笑っていれば良い。)
そんな風に甘糟は思っていた。
 桔梗には自分と言うものは存在しない。少なくとも表に表すことはない。
不器量に生まれた自分には何の価値もなく中味も空虚でただ貴族の娘というだけの値打ちしかない。
もし貴族の家に生まれていなかったら、一体自分には何が残るのだろう。何もありはあしない。
そう思って今まで生きて来た。
まして深窓の令嬢・箱入り娘として純粋培養で育てられて、父親以外の男というものに接する機会が殆どないままに成長したから男に対する免疫がなく生身の男が恐ろしかった。
 甘糟に求婚された時、周囲は当然ながら最初は反対した。平民出身の粗野な男に嫁いだら世間知らずの桔梗が苦労するのは目に見えている。
しかし零落した元貴族の娘と元貴族を取り締まる立場の憲兵隊長との力関係からすれば、親族達も悔しさに歯噛みしつつも沈黙せざるを得なかった。
 尤も当の桔梗は周囲が拍子抜けするほどこともなげに結婚を承諾した。
それは自分のような何の価値もない人間でも妻にしてやろうと言ってくれる人が居るならそれに従うしかないと思ったからだった。
それは傍目には半ば自暴自棄になっているかのようにさえ映ったが、実際には桔梗はそれ程深く考えてはいなかった。
今までもずっとそうしてきたようにただ流されることが当たり前になっていて何の違和感も覚えなかった。
「女は愛するより愛される方が幸せ」…どこかで聞いた言葉をお題目のように唱えて自らを納得させようとした。
どれほど高倉を想っても彼が振り向いてくれることは絶対にないのだ。
そもそも彼にこの想いを伝えることすら永遠にできそうにない。
それなら求めても決して得られることのない愛を追うよりも求めてくれる者に自分を与えるのが一番良いのではなかろうか。
高倉を想う気持ちを消すことは出来なかったとしても、愛されていればいつかこの人を愛せる日が来るかもしれない。
桔梗は寂しさに押し潰されてぽっかりと空いた胸の空洞を甘糟が埋めてくれるかもしれないと期待した。
こんな自分でも受け止めて甘えさせ癒してくれるかもしれないと。
見た目は神経質そうな男だけれど愛しているという言葉は嘘とは思えなかった。
桔梗は甘糟の差し伸べた手に縋りつく他ないのだと自分に言い聞かせようとした。
 しかし結婚してすぐに桔梗は自らの過ちに気づいた。
確かに甘糟は桔梗を愛しているには違いない。
ただ、お互いの求める愛の形は微妙に違っていた。
いつか二人の求める方向が修正されて一つになることを期待したが、残念ながらそれは永遠に不可能であると思い知らされた。
桔梗と甘糟の間に存在するものは、それを愛と呼んで良いのかにさえ迷う程の歪んだ愛情でしかなかった。
それぞれが似て非なる歪な愛情を自分では如何ともし難く、さりとて互いに自らが変わることなしに相手が自分の望む方向に合わせて変わってくれることだけをただ只管願いつつ待つだけのような、そんな不器用さだけが二人の共通点だった。

to be continued

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1 コメント

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続きが楽しみ (Kenjiro Ishiki)
2013-06-06 23:03:16
Nobuko、続きが楽しみです。でもあなたの登場人物の名前は綺麗ですね。トワ、セツナ、キキョウ、イツキ・・・あなたの憬れがそんなステキな名前を生み出すのでしょうか。零落していく気位高き寂しい人たち・・・世の中の暴虐に対するには弱いですね・・・でも弱いもの、悲しむもの、疲れたもの、そんな人たちこそ魂の王国の住民であると信じています。Nobuko,がんばって書き続けてください。 健二郎

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