聞き慣れたメロディーが流れる。
ホルストの組曲『惑星』より「ジュピター」。
僕たちが好きな曲だ。
僕がスマホを持ち上げ、曲が止まる。
「翔くん、元気?」
ディスプレイの向こうから、手を振るアヤカのきらきらした笑顔が飛び込んで来る。
「元気だよ。アヤカは?」
僕が答えてからアヤカに問いかけると、アヤカが
「元気だよ。」
と答える。
「何してたの?」
「帰って来て、飯食って、風呂入ってた。」
「そうなんだ。」
「アヤカは?」
「ちょっと寝てた。どうせ翔くん、このくらいの時間にならないと居ないでしょ?」
「そうかもしれない。」
特に用件があるわけでもないし、同じような日常の生活が繰り返されていても、ただ顔が見られて、声が聞けるというためだけの会話。
今はそれが僕にできる精一杯だから。
「翔くんに会いたいよ。」
アヤカは最後はいつも泣きそうな顔でそう言う。
「僕だって、アヤカに会いたいよ。」
僕も少し泣きそうになりながら答える。
二人の間には遥かなるディスタンス。
遠く離れて触れ合うこともできない。
離れている時間が長くなるほど、会いたい気持ちが募る。
ディスプレイ越しではなく、見つめあい、手を伸ばせば互いに触れられて、体温を感じられて、その肉声も吐息もはっきりと受けとめられたら。
二人の間に横たわる遥かなるディスタンス。
それが僕とアヤカを遠ざけている。
心は繋がっていると信じたいけど、寂しさが不安を掻き立てる。
「じゃあね、また明日。」
「うん、また明日。」
暗くなったディスプレイに僕が映る。
…最初から僕一人だったことを知らしめるように。
新型ウイルスの感染拡大を受けて、日々の生活はすっかり様変わりしてしまった。
在宅勤務になったり、リモートで飲み会が行われたり。
時が過ぎて、大半がかつてのように出社する生活が戻って来た。
元々アヤカと僕は遠距離恋愛だった。
ディスプレイ越しに会話してきたのは、ウイルス騒ぎが始まるずっと前からだった。
毎日ほぼ決まった時間に、短時間とりとめのない雑談をするだけだったが、それをアヤカは冗談めかして「生存確認」と言っていた。
なかなか会えない寂しさから、僕はアヤカには内緒で、アヤカとの会話を録画して編集した。
そうすれば、いつだって好きな時にその映像を見て、アヤカと会話している気分になれる。
でももしそれを言ったらアヤカに気味悪がられないか心配だし、録画されていると知れば、きっと普段通りの素のアヤカの姿ではなくなってしまう気がしたから。
ウイルス騒ぎが落ち着いたら、すぐにアヤカに会いに行こう。
僕はそう思っていた。
そしてその日を楽しみに待っていた。
…まさかそんな未来は永遠に来なくなるなんて、想像できるはずもなく。
二度とアヤカに会えなくなるなんて、僕には信じられなかった。
「翔くん、私、感染したみたい。」
「え?」
「担当している患者さんの容態が急変して、亡くなって。その患者さんから感染したらしいの。」
「え?アヤカ、大丈夫?」
「ごめんね。だから、明日からしばらくは連絡できないかも。」
アヤカは看護師だった。
ウイルス感染した患者を担当していたらしい。
「アヤカは若いんだし、きっと大丈夫」と自分に言い聞かせていたが、何故か胸騒ぎがして、心配だった。
元々アヤカは子供の頃から体が弱く、何度も入院したり、手術したこともあったという。
大人になってからは、体も丈夫になったから、かつて小児患者だった自分に親身になってくれた看護師に憧れて看護師を目指したのだと聞いたことがある。
それでもよく風邪を引いたりするので、僕が心配すると、いつも
「仕方ない、仕方ない。だって看護師は病原菌やウイルスを持ってる患者相手の仕事なんだもの。他の人より病気にかかりやすいのは当たり前でしょ?」
と笑っていた。
アヤカと最後に話してからしばらくして、アヤカのお母さんから電話があった。
アヤカは、もう、帰って来ない。
家族すら直接会うことも許されないまま、坂道を転がり落ちるように容態が悪化してアヤカは亡くなった。
家族すら立ち会うことのないまま、アヤカは小さな軽い白い箱になって帰って来た。
お母さんは泣きながらそう話してくれた。
アヤカが
「自分にもしものことがあったら、この人に連絡してね。」
と僕の連絡先を残していたのだった。
お母さんは「縁起でもない」と怒ったが、アヤカは
「きっと、ずっと私を待っててくれてるはずだから。何も知らないでずっと待たせっぱなしにしてはおけないでしょ?」
と言ったという。
僕には未だに実感が湧かない。
アヤカがもう絶対に手の届かない遠くに行ってしまったなんて。
もう二度とアヤカに会えないなんて。
今も遠距離恋愛のまま、ディスプレイの向こうにアヤカが居る気がして。
そして今日もスマホのアラームが鳴る。
いつもアヤカと会話していた時間にセットした「ジュピター」のメロディーが流れる。
録画を編集したアヤカの映像がディスプレイに現れる。
手を振りながら笑顔で
「翔くん、元気?」
と語りかける。
「元気だよ。アヤカは?」
「元気だよ。何してたの?」
毎日同じ会話が繰り返される。
二人の間に横たわる遥かなるディスタンス。
どうやっても越えられない、絶対に縮まることのないディスタンス。
僕の時間はアヤカを失ってからずっと止まったまま。
立ち止まったままではいけないことはわかっているけど、いつか一歩を踏み出す時に、アヤカを忘れてしまうことを怖れる僕は、今はまだ、未来に向かって歩き出すことはできない。