第5幕 居城
狛妃(こまき)と愛(めぐ)姫が広間を去ると、獣王(ししお)はグラスを脇の小卓の上に置いて籐椅子から立ち上がり、奥の壁に懸かった大きな掛け軸の正面に立って両脇に垂れた飾り房の紐の一方に手を掛けた。
「水藻(みずも)。ついて来い。」
獣王が紐を引くと掛け軸が巻き上がって後ろの壁に埋め込まれた獅子の紋章が現れた。一見ただの装飾にしか見えないが、その紋章に獣王が手を触れるとからくり扉が開いて中の隠し部屋に灯りが燈った。
獣王に従って室内に入ると背後でひとりでに扉は閉じた。
「どうだ。水藻。面白かろう?異国の技術を用いて作らせた俺の秘密の部屋だ。俺はいつもここで天下取りを実現するための策を練っている。」
部屋の中央の大きな机の上には戦場(いくさば)を再現した模型が並べられ、壁には大きな地図が貼られている。異国の武器や道具が所狭しと積み上げられていて少年の様にきらきらと目を輝かせてそれらについて熱く語る獣王の異国への関心の高さが窺えた。
『獣王様…。貴男は何をお望みですか?貴男の心からの、一番の“望み”とは何なのですか?』
水藻は金茶色の瞳でじっと獣王の深い黒色の瞳を覗き込んだ。
「…“望み”か…。そうだな。俺の“望み”は世界だ。
今はこんな小国の、しかも父上の名代に過ぎんが、俺はこのままでいるつもりはない。
この国の全てを掌握した暁には俺はこの目で世界が見たい。
世界にはこの国よりももっと進んだもっと優れた国がたくさんある。
俺はこの国をどんな国よりも素晴らしい国にしたいと思っている。
まだまだ今は手が届かんが実現するまでは諦めない。
俺はきっと“望み”を叶えてやる。」
力強く語る獣王が突然ふっと表情を暗くした。
「…しかし父上はそれを全く理解してくれんのでな…。
今実質的に戦場に出て敵を倒し領地を拡大しているのはこの俺だ。
父上は金に汚く女にだらしなく怠惰で無能だ。
棚ぼた式に先代から受け継いだこの国の領主の地位に胡坐をかき私利私欲に溺れている。
俺はこの体の中にあの男の呪われた血が流れていることがおぞましい…」。」
琉斯覇(るしは)一族は元来東方の一小国でありながら眠れる獅子と恐れられた先代君主の威光によりこの戦乱の世においても侵しも侵されもせぬ確固たる地位を保持していた。
先代の三男高望(たかもち)は正室の子の兄二人とは別腹で、妾腹ながら君主の血筋である事を鼻にかけて放蕩三昧の暮らしをしていた。
その頃琉斯覇の居城(しろ)の下働きに美人で評判の姉妹が居た。高望はその姉妹に目をつけ嫌がる姉妹を相次いで手籠めにして二人を孕ませた。
高望の側近はその不始末が主君に知れる前に姉妹に大金を与えて口止めし里へ戻らせた。その後程なく姉は男児、妹は女児を生んだ。
先代君主が原因不明の病で他界しその隙を衝いて隣国が侵攻を開始した。
何とか戦には勝利したが君主の跡を継ぐべき長男と次男も父と同じ病でこの世を去り、三男の高望が名乗りを上げ君主となった。
三人の真の死因は病ではなく異国の毒薬によるものと判明し表向きには隣国の間者による暗殺とされたものの、高望の陰謀ではないかと疑う者も多かった。
政略による婚儀で迎えた高望の正室には子がなく、高名な医者の診断でもこの先子宝は望めそうにないと判った。
高望は側近に命じてかつてお手付きとなって居城を追われた下働きの姉妹から幼子を取り上げ、彼女等を殺害した。
二人の幼児を正式な養子として迎えるにあたり生母の存在は邪魔でしかなく後顧の憂いを絶つ事に万全を期した。
獣王と愛姫は高望の実子であると共に母親同士が姉妹の従兄妹でもあった。二人は誰も味方のいない誰にも頼れない孤独な居城での生活の中で互いに支え合い睦み合い慈しみあって生きて来たのだった。
『…獣王様。僭越ながら現君主高望公は王の器ではありません。貴男こそが正しき王の器。貴男は父君を排除し君主となられるべきです。』
「水藻!貴様は何という大それたことを!」
『貴男は本当は何を“望んで”おられるのでしょうか。
…僕には自分自身というものがありません。人に合わせ人に従って姿形を変える僕は貴男の心を映す鏡。水が器によって形を変える如く人の心を映す鏡に過ぎない。
僕に関わる人は全て僕によって自分自身の“望み”を映し出されてしまうのです。それは僕の持つ業の力なのかも知れません。
だからと言って僕がその“望み”を叶える訳ではないのです。僕はその人が持つ“望み”の形を映し出して見せるだけ。
…“望み”とは人の心の底に密かに住み着いた猛獣です。僕はその猛獣を目覚めさせてしまうらしい。
“望み”という名の猛獣を手なずけて飼い慣らすか、猛獣に食い殺されてしまうかはその人次第。
貴男は自らの心に秘めた“望み”を飼い慣らす自信がおありでしょうか。
獣王様。今一度重ねて問いましょう。
貴男の本当の“望み”は何なのですか?』
水藻は金茶色の瞳でじっと獣王を見つめて言った。
(俺の…本当の“望み”…?)
獣王は暫く目を閉じて考えてみた。
(俺は本当は何を望んでいる?
父が居ては俺の夢は叶えられない。
いや、それより怠惰で無能な君主の存在は国にとっての不幸だ。
そうだ。そしてこれは決して私怨ではない。俺の母と愛の母の復讐ではないのだ。
俺は今国の為に必要な事を為すべきだからだ。)
「…水藻…。」
『はい。』
晴れやかな表情で獣王は言った。
「貴様は俺の小姓だ。俺と共に父上の居城に来い。父上に〈挨拶〉に行こう。」
ニヤリと笑う獣王の言葉の真の意味はその響きだけで十分水藻には伝わった。
『そうですね。獣王様。参りましょう。お供致します。』
獣王と水藻は二人だけで高望の居城へ向かった。
「琉斯覇獣王が父上にお目通りを乞う。従者と共に挨拶に参った。いざ、開門!」
二人が部屋に通されると高望は両脇に女を侍らせて昼間から酒を飲んでおり既にかなり酔っている様子だった。
「父上殿ご機嫌麗しゅうございます。ここに控えるは我が従者尾咲水藻でございます。
…本日は父上に大変重要な話があり参上致しました次第。何卒お人払いを。」
獣王がそう言うと高望はちっと舌打ちして手を振り女達に退室を促した。
「一体何じゃ?改まって重要な話とは…。」
高望がそう言いかけると獣王はさっと身を翻して左腰の刀を抜き背後から高望を羽交い絞めにして首に刃を向けて言った。
「父上。この国の為に、今この場にてお命頂戴仕る。」
「獣王…な…何をする。気でも狂うたか。やめろ。助けてくれ。命だけは…。…誰かある!謀反じゃ!出会えーっ!」
獣王は喚き散らす高望の首筋に押し当てた刃を黙ってそのまま思いきり真横に引いた。
真っ赤な血潮が迸り高望は絶命した。
高望の叫び声を聞きつけた居城内の家臣達が騒ぎながら駆けつけて来た。
血だらけの抜身の刀を握ったまま獣王が言った。
「静まれ!これは奸誅だ。怠惰で無能な君主は国を滅ぼす。
琉斯覇高望は死んだ。たった今から高望が嫡男、この獣王が貴様達の主君だ!」
『獣王様。おめでとうございます。』
水藻は跪き高望の血にまみれた獣王の手を取りその手背に唇を押し当てて忠誠を誓った。
家臣達は皆一斉にその場に平伏した。
獣王が居城の楼閣から眼下を眺めると多数の兵達が口々に叫んでいた。
「新しい君主、琉斯覇獣王様。万歳!」
to be continued