第6幕 晦(つごもり)
「東方に猛々しき若獅子・琉斯覇獣王(るしは・ししお)あり。」
君主となった獣王の名は津々浦々に知れ渡り、地の果ての辺境の寒村に至るまで遍く轟いた。
獣王は東国の戦況不安定に対する懸念から西方の居城(しろ)には入らず、側近の武官豊川猿彦(とよかわ・さるひこ)に留守を任せて自身は東方の前線に近い自らの居館(やかた)に留まった。それは遠からず行われるであろう獣王の妹愛(めぐ)姫と東隣の国の君主の御曹司との婚礼に備える為でもあった。
その許婚は今を時めく琉斯覇一族と姻戚関係を結ぶ事で今や飛ぶ鳥をも落とす勢いの獣王の力にあやかろうとして一日も早く婚礼をとの矢の様な催促を送って来た。
獣王はこれまでは戦況が激しく私事を行う余裕がないとし、今は君主交代による国内の地盤固めが優先だ等と実しやかな理由をつけては毎回のらりくらりと婚礼を先延ばしにしてきたがもうそれも限界に近づいていた。
隣国との交渉に当たっていた文官の佐田龍狼(さた・たつろう)が帰館して獣王と愛姫に訴えた。
「獣王様。かの国の忍耐も既に限界。度重なる延期に痺れを切らし最早抜き差しならぬところまで来ております。これ以上の婚儀の遅延は戦にも発展しかねません。
西の隣国、正室・狛妃(こまき)様の父君とは同盟関係にあるとはいえ、豊川殿が留守居をしておられる西方の居城には未だ面従腹背の亡き父君、前君主・高望(たかもち)公派の輩も潜んでおります。その輩がかの国と密かに手を結べば直ちに火種となり東西から挙兵されて挟み撃ちにされましょう。
今は出来るだけ早く愛姫様にお輿入れ頂き、東国全体の安定を図らねばなりません。
…私はかの国と約して参りました。婚礼の儀は次の三日月の日に執り行うと。
重要な国事の全てを独特の占術によって決定するかの国の慣例に従い、吉日のその日に婚礼を執り行う事だけは決して譲れぬと極めて頑なな態度にございました。
獣王様には大変余日少なく承服し兼ねると仰りたいところではございましょうが、ここは何卒ご了承賜りたく…それが今この国の為に最も必要な事なのでございます。」
「…お兄様…。」
愛姫が縋る様な目で獣王を見た。龍狼の言葉は正しい。それが間違っていない事は誰もが知っていた。
「…愛…。止むを得ん。そういう事だ。そんな目をして見るな。この戦世(いくさよ)で君主の家に生まれた女の運命(さだめ)とお前も覚悟はしていたろう。来るべき時が来たまでだ。…俺だってお前をこんなに早く手放したくはなかった。
いつかはそんな日が来るとしてももっと先だと思っていた。口惜しいが、あの男の言う事は間違ってはおらん。絶対に正しい事しか言わん男だ。忌々しい程にな。
…愛。非力な兄を許せ。俺にはもうこの手で直接お前を守ってやることは出来ん。
正室とは名ばかりで要は人質。お前をそんな目に遭わせたくはない。だが拒否する事は許されん。俺も辛いのだ。
…狛妃も義父(おやじ)殿が俺を見込んで下された正室だが、あれはよくできた女だ。義父殿も
〈狛妃は女にしておくのが勿体ない。この娘(こ)が男でさえあればとつくづく思う。〉
と仰せになる程だ。
天下を目指す俺と志を共にし、俺を立て俺を支え、しかし決して俺におもねる事がない。はっきりと自分の意見を言うし、極力俺には頼らん。何一つ言わずとも俺の意志を察し、俺の事国の事を慮って自分のすべき事をを判断し、行動する。
お前に狛妃の様になれとは言わんが、お前も琉斯覇獣王の妹だ。凛として自分を見失うのではないぞ。…水藻。あれを。」
『はい。』
背後に控えていた小姓の尾咲水藻(おさき・みずも)が獣王に一振りの懐剣を手渡した。
「お前が嫁ぐ日の為に異国から取り寄せた護身用の懐剣だ。
これからお前はたった一人で敵地に赴くに等しい。
だが怖れることはない。俺達兄妹がかつて琉斯覇の居城に引き取られた時とさして変わらん。ただ今度は俺はお前の傍に居てやれん。
自分の身は自分で守れ。それ故お前にこの懐剣を授ける。持って行くがいい。」
獣王が愛姫の眼前に突き出した懐剣は金銀宝玉を散りばめて贅を尽くした美しい鞘に収められていた。愛姫ははらはらと涙を流しながらその懐剣を胸に押し頂いて言った。
「…お兄様…。ありがとうございます。お兄様のお気持ちは良く判っているわ。…この懐剣をお兄様だと思って肌身離さず後生大切に致します。」
愛姫はきらきら輝く宝剣を胸に抱いて広間を去った。
「…水藻。今夜は晦だったな。今夜庭の一番高い糸杉の上に月がかかる頃獅子の間で待っている。寝衣(しんい)のままで人目に触れぬ様忍んで来い。勘のいい貴様の事だ。その意味は…判るな?」
獣王は水藻の方を振り返り、ニヤリと笑って言った。広間には今二人だけしか居ない。
「…貴様に聞いて貰いたいもう一つの“望み”があるのだ…。」
獣王は遠い目をして半ば独り言の様に呟いた。水藻は妖しく美しく微笑んで答えた。
『はい。獣王様。承知致しました。僕は貴男の従僕(いぬ)ですから。全て貴男の“お望み”のままに…。』
深夜庭園の一番高い糸杉の上に消え入りそうに細い晦の月が上った頃、水藻は一人密かに広間の奥のからくり扉を開け、獣王の秘密の部屋・獅子の間に足を踏み入れた。
「水藻。こっちだ。」
奥の方から獣王の声がする。今まで気づかなかったが飾り棚の裏側にもう一つ隠し部屋があるらしく、そこから微かな灯りが漏れている。
水藻が部屋に入るとそこは獣王の寝所(しんじょ)だった。
仄暗い部屋の中央には異国風の大きな寝台があり、ふんわりとした大きな羽枕に片肘をついて横になり水藻を待っていた一糸纏わぬ獣王の姿を傍らの小卓に置かれた小さな灯りが照らし出していた。真鍮の枠で縁取った八面の硝子板に囲まれた異国風の燭台の中央で蝋燭の炎がゆらゆらと儚げに揺らめいていた。
獣王が片手を上げて迎えると水藻はふっと微笑んで何も言わずに腰の柔らかな細帯を解いた。両肩から襟を外すと寝衣はするりと足もとに落ち、その白い躰には何一つ身に着けていなかった。いつもは胸に巻いている晒(さらし)さえも。
「…美しい…。」
獣王は隻眼を細めて上から下まで水藻を視姦し、存分にその美を堪能した。
細い頸、長くて細い手脚、括れた腰、そして胸には形の良いふくらみまでがあった。
『獣王様。貴男のもう一つの“望み”をお伺いいたしましょう。』
水藻の柔らかく艶めかしい声が獣王の耳を擽る。
「貴様にはおおよそ察しがついているのだろう?だからその様な姿で現れた。違うか?」
水藻は音も立てずにゆっくりと寝台に近づき、そっと寝台に上がると静かに獣王の隣に躰を滑り込ませてその耳元に囁きかけた。
『僕は男でもあり女でもあるもの。そして男でもなく女でもないもの。
男は僕の中の女を抱きたいと欲し、女は僕の中の男に抱かれたいと願う。
だから僕は与えるのですよ。それぞれが求めるものを。ただそれだけです。
僕は貴男の“望み”を映す水鏡。…お聞かせください。貴男の“望み”とは何なのですか?』
水藻の金茶色の瞳に見つめられ獣王は苦悩の表情を浮かべた。
「…水藻。俺のもう一つの“望み”、それは…。俺にはずっと心に想ってきた女がいる。その女を俺だけのものにしておきたい。
だがその想いを遂げる事は人の道に外れる。決して許される事ではない。…それでも俺はその女以外の女を抱けない…。」
『…だから今までもずっと小姓がお相手だったのですね…。』
(!?)
『初見の時の僕に向けた狛妃様の視線と言葉…そうではないかと思っていました。
…そして貴男が本当に心から愛する女性とは…愛姫様…ですね…・。』
驚いて言葉を失った獣王に水藻は淡々と言った。
「…そこまで気づいていたのか。しかし貴様は今までの小姓とは違う。
俺は今夜小姓としての、男としての貴様ではなく、貴様の中の女を求めてここへ呼んだのだ。
妹はもうすぐ他の男のものになってしまう。そう考える事は耐え難いが、俺にはどうする事も出来ない。
この体の奥に燃え盛る炎をどうにも抑えられなくなりそうで、俺は自分が恐ろしい。
俺の中にはあの男の血が…俺の母と妹の母を玩具にして捨て、その手から愛し子の俺達兄妹を奪って殺したあの男の悍ましい血が流れているのだ。俺は妹が欲しい。恋しくて愛しくて今にも気が狂いそうだ。
…今夜初めて俺は妹以外の女を抱きたいと思った。しかしその一方で他の女を抱くことは妹への想いを穢す汚い裏切りの様な後ろめたさを感じてしまう。こんな矛盾した俺の“望み”は貴様以外には聞かせられない…。」
苦渋に満ちた表情で絞り出すように獣王は言った。
『でも、貴男には狛妃様という奥方がいらっしゃいます。』
水藻は極めて冷静な口調で言った。
「…判っている。…いずれは狛妃に俺の子を産んでもらわねばならん。狛妃はその為に嫁してきたのだからな。
…狛妃は信頼に足る同志だ。俺が女に興味を示さない男だと知っても狛妃は何も言わん。
俺は別に狛妃を嫌っている訳ではないのだ。ただ、狛妃を女としてみる事は出来ん。とてもそんな気にはなれんのだ。」
水藻は獣王の頬を両手で包み込んでじっと深い黒色の隻眼を見つめて言った。
『…貴男は正直ですね…。さあ、もう一度僕に貴男の“望み”を聞かせて。貴男は今目の前の僕に何を“望む”のですか?』
口を開こうとした獣王の唇に白くて細長い指を当てて閉じ水藻は獣王の耳元に自らの唇を寄せて熱い吐息と共に甘く囁いた。
『言葉ではなく、貴男の感情の赴くままに、貴男の体で示して見せて…?』
「…愛!…愛!」
獣王は水藻の白い胸に顔を埋め、妹の名を繰り返した。
夜明け前獣王がふと目覚めると燭台の蝋燭は燃え尽き薄暗い寝所の中には既に水藻の姿はなかった。
早朝から本陣へ見廻りに出かける為支度を整えて獣王が居館の表に出ると、愛馬の白馬・疾風(はやて)の手綱を持って跪く水藻が待っていた。
『おはようございます。獣王様。見廻りには僕もお供致します。』
立ち上がった水藻から手綱を渡された瞬間獣王はふと違和感を覚えた。
「水藻?」
『はい。』
「貴様はそんなに背が高かったか?こうしてみると貴様は俺よりも少し背が高いのだな。」
(昨夜は俺の腕の中にすっぽりと収まっていたはずなのに…?)
『ふふふ…獣王様。ご存知ですか?ある種の魚は海中をより速く泳ぐために胸鰭を体内に収めることが出来るそうですよ。
僕は生まれつき躰も関節もとても柔らかく、自分の意志で少しだけ姿形を変えることが出来るのです。背の高さは勿論、突起や隆起を外に出すも内に収めるも自在なのです。
…昨夜の僕は確かに女だったでしょう?それは誰よりも貴男が一番よくご存知の筈ではありませんか?』
水藻は獣王の耳元に唇を寄せ、小声でそっと囁いた。
獣王の脳裏に昨夜の水藻の美しい姿態が甦った。
容姿の美しさだけではない。今まで経験した事のない感覚に溺れ酔いしれた。
それはまるで噂に聞く異国の媚薬の如く。人を夢中にさせとろけるような夢心地に誘う甘き毒薬。
まさに傾国の妖(あやかし)の名にふさわしい不思議な魅力の持ち主だった。
獣王はその幻を振り払う様にぶるぶると頭(かぶり)を振るとひらりと疾風にまたがり鞍上から手を差し伸べて水藻に言った。
「貴様も乗れ。」
そしてその細い手首を掴んで水藻を背後に乗せると鐙に掛けた両足で勢いよく疾風を一蹴りして振り返りニヤリと笑って言った。
「しっかりと俺につかまっていろよ?」
to be continued