(これまでの物語については第一部「狐神編」Episode 1~3及び Episode 0、第二部「巫編」Episode 4~6、第三部「因縁編」Episode 7~9を御参照下さい。)
Episode 10 妖刀の贄(にえ)
『それが“貴様”の望みとあらば。』
ぞっとする程冷たい声が響いた。長い前髪を結わえ、その貌(かお)や腕、手甲に朱い文様が浮き出た白狐神の従者、辰狐(しんこ)・狐王(こおう)は自らが愛刀、妖刀・草薙(くさなぎ)でその左腕を深く切り裂いたかつての朋友(とも)、狗神(いぬがみ)・村雨丸(むらさめまる)を見下ろして立っていた。
右は金、左は銀のオッドアイは冷酷な視線を足元に横たわる村雨丸の上に落とし、無表情なその貌は氷の様に冷たく美しかった。
闘いに敗れ、かつての朋友の手による死を懇願する村雨丸の首を、狐王は顔色一つ変えず無言で刎ねた。
村雨丸の首はこの時空の狭間の異空間の鈍色の空に勢いよく飛ばされ、赤い砂の大地に落ちて転がった。
その表情は驚いた様にかっと目を見開き、何事か言おうとした様に唇を歪めていた。
狐王は妖刀・草薙をぶんっと振って刀に付いた血を振り払った。抜身の妖刀・草薙は妖しく冷たく青白く輝いていた。
闘いで妖力が枯れた筈の妖刀はまるで首を刎ねた時に村雨丸の躰に残っていた全ての妖力を吸い尽くしたかの様に溢れんばかりの妖気を刀身に漲らせている。
(“貴様”…だと?)
白狐神の魂・物忌(ものいみ)は今まで村雨丸を『お前』としか呼ばなかった狐王の言葉に引っ掛かった。
気持ちが高ぶって言葉を荒げたという訳でもなく、寧ろ今の狐王は水の如く静かだ。それにあの無表情な貌。
明らかにいつもとは様子が違う。
出雲(いずも)でも津雲(つくも)でもない狐王ではあるが、二人の魂の融合体である以上どこかしら彼等らしい片鱗が窺える筈なのだが、今目の前に居る狐王からは二人のいずれとも違う、底冷えのする様な冷酷さを感じる。
真っ直ぐで熱い出雲ともしなやかで温かい津雲とも違う、まるで見知らぬ他人の様な違和感しか存在しない。
(やはり来るべき時が来たか…。)
物忌は確信した。狐王の妖力が暴走し始めている。
妖刀・草薙はその強大過ぎる妖力で、主の魂を喰い尽くす魔性の刃。
共に一人では生き続けられない程に弱り切っていた狐神の双生児(きょうだい)を救う為にこの妖刀を与え、その妖力によって1つの躰に2つの魂を宿らせた時から、いつか来るであろうこの時をずっと怖れていた。
二人が交互に躰を使う事で魂の半分を眠らせ、狐王の妖力が暴走しない様に制御してきたが、狗神との死闘の中でついに妖刀・草薙の真の力が覚醒を始めてしまった。
このまま放置すれば出雲と津雲の自我は失われ、妖刀・草薙が主に取って代わって狐王の躰を乗っ取り、実体化しようとするだろう。
そうなればもう誰にも止める事は出来ない。理性も良心も持たないただの妖(あやかし)となってこの世の全てを破壊し尽くしてしまうかも知れない。
物忌は決心した。狐王もろとも妖刀・草薙を封印するしかない。しかしその為には「贄」が必要であり、その贄になれる者は物忌自身を置いて他になかった。
《斎(いつき)。良く聴くのじゃ。もうすぐ我が声は汝(うぬ)には届かぬ様になる。
…狐王の妖力は既に我が制御の限界を超えつつある。
最早狐王は出雲でも津雲でもないものになろうとしておる。
…我は狐王を妖刀・草薙と共に封印すると決めた。
…汝は巫女として覚醒を始めた。宿敵・狗神も亡き今、我と我が眷属は既にその役目を終えたのじゃ。
汝はこれより獅洞(しどう)の元で巫女として独り立ちせよ。
…案ずることはない。現世(うつしよ)から我らが消えても、我等は魂の欠片となりて、神社の狐塚に眠る白狐の亡骸を憑代に、歴代の巫女達や汝の父母と共に、幽世(かくりよ)より汝を見守っておる。》
そう言うと、斎の躰から青白い光の珠(たま)がすうーっと抜け出して、透き通って光り輝く美しい女の姿になった。
物忌が天を仰いで両手を広げ、呪文を唱えると狐王は急に胸を抑えて苦しみ出した。
『…物…忌…様…。何故…貴女は…私を…。うっ、うぅ…。』
そして物忌の魂は狐王の魂を抱いたまま妖刀・草薙の中に吸い込まれて消えた。
〈物忌様!待って!行かないで!出雲、津雲…ずっと一緒だって言ったのに…絶対離れないって言ったのに…。お願い。戻って来て!私を一人ぼっちにしないで!〉
斎の叫び声は虚しく宙に消え、ごうごうと大きな音を立てて赤い砂は渦を巻いて強風に舞い、斎は地割れの隙間に落ちた。
そしてその異空間は狗神・村雨丸の亡骸と輝きを失った妖刀・村雨を飲み込んで崩壊した。
「斎!大丈夫か?斎!」
祖父・獅洞の声で目覚めた斎は神社の自室に戻っていた。
〈お祖父ちゃん?〉
「急に消えたかと思うたら、暫くしてまた急に戻って来たんじゃよ。…津雲はどうしたのじゃ?姿が見えんが、一緒じゃなかったのかね?」
獅洞に問われた斎はうわーっと声を上げて泣きながら、異空間で起きた出来事を話した。
常夜神となっていた父が最期に人間に戻った事。狗神が狐王に敗れて死を望んだ事。狐王の妖力が暴走しそうになり、物忌が自らを贄として妖刀・草薙を狐王もろとも封印した事。
〈私の躰から物忌様が抜けてしまわれて何だか少し寒くて心の半分が空っぽになったみたいな変な感じなの。
それに…出雲と津雲も居なくなっちゃった。…ずっと一緒だよって約束したのに。
…狐王が別人みたいになってしまったの。出雲でも津雲でもない全然知らない人みたいに…。
物忌様はお祖父ちゃんの所に戻って巫女として独り立ちしろって言われたけど、そんなの私にはまだ無理だよ…。
私一人で、一体どうしたらいいんだろ…。〉
斎は途方に暮れ、俯いたままぽろぽろと涙を零して獅洞に訴えた。
(汝は一人ではないと申したに、もう忘れおったか。)
心の中に物忌の声が聞こえた気がしてはっと顔を上げると、そこには柔らかな光に包まれた5人の男女の人影…
うっすらと体が透けた幻影達の姿を見て斎の表情がぱっと明るくなった。
勝気そうな顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かべた物忌を中心に、慈愛に満ちた笑顔の母・神凪杏彩(かんなぎあずさ)、儚げな優しい微笑みの父・園城寺禎彦(えんじょうじさだひこ)、そして金色の右隻眼が力強く輝く出雲と、銀色の左隻眼が穏やかな光を湛えた津雲。
(皆して汝を見守っておると申したであろうが?)
皆が微笑んで頷きながら斎を見つめていた。斎は今はっきりと感じた。
“私は一人ぼっちなんかじゃない”と。
〈皆そこに居たんだね…。〉
幻影達は1つの青白い光の珠となって、すうっと狐塚に吸い込まれて消えた。
『おはようございます。斎様。もうお目覚めになりませんと。』
柔らかな青年の声が心地よく耳に響く。
〈津雲っ!?〉
慌てて飛び起きたが、そこには誰も居ない。
鳴り出した目覚まし時計のアラームを止めて寝床から起き出し、高校の制服に着替えて台所へ向かう。
台所の扉を開けると、背の高い黒いスーツの後ろ姿。振り返って微笑む穏やかな銀色の左隻眼。
〈津雲?〉
しかしやはりそこには誰も居ない。
一人でトーストと、紅茶の朝食を用意した。温かい紅茶のカップを口に運びながら斎は思った。
(私が淹れた紅茶はどうして津雲がいつも淹れてくれた紅茶みたいに美味しくならないんだろ…。)
こんな風に何か考え事をしていると、いつもなら津雲が
『如何なさいました?何かお気がかりな事でもございましたか?』
と尋ねてくれるのに。
(少しは慣れなきゃって思うのに。いつまでも甘えてないで強くならなきゃって思うのに。)
一人で現世に戻されてから、獅洞に鍵を貰って斎は初めて神社の裏手の蔵に入ってみた。
いつも津雲が読んでいたであろう父の心理学書や父が描いた母の肖像画と共に、斎が部活の課題で描いた自画像も大切に保管されていた。
いつも津雲はここで一人で本を読んでいたのだろう。その姿が目に浮かんだ。
津雲は自分が救えなかった斎の父の代わりになりたかったのではないか。
父が遺した本を読めば父の代わりになれるかも知れないと思っていたのではないか。
そして罪滅ぼしだけではないと彼は言ってくれた。他ならぬ貴女だからこそ守りたいと。
彼等が現世から消えても、幽世から見守っていると物忌に言われて一人でも頑張らなきゃと決心はしたものの、居るのが当たり前だった彼等が居ない事がこれ程までに心許ないものとは思っていなかった。我ながら情けないと斎は思った。
どんなに自分が大切に守られて来たのか、今になって彼等の深い愛情をしみじみと思い知った。
登校中、斎は幼馴染の佳乃と美咲に出会った。
「おはよう!斎。」
「斎ちゃん、おはよう。」
〈佳乃ちゃん、美咲ちゃん、おはよう。〉
明るく談笑しつつ二人と通学路を並んで歩く。ついこの間まで彼女等の関係がぎくしゃくしていたとはとても思えない。
幼い頃神社で三人一緒に遊んでいた頃と同じだと斎は思った。
校門の前で保健体育教師の宇佐(うさ)が「生活指導部」の腕章をつけて立っていて、登校してくる生徒一人一人に大きな声で話しかけていた。
「おいこら、“おはよっす”じゃない!“おはようございます”だろ?やり直し!」
「お前、ちょっと髪が赤いな。染毛は校則違反だぞ。ピアスも禁止だ!」
〈宇佐先生、おはようございます。〉
「お~、おはよう~。」
にこやかに答える宇佐はいつもイライラしていた以前とは別人の様に明るくて元気な様子だった。
禁煙外来に通い始め、心身共にすっかり健康を取り戻したのだろう。
教室に入ると、転校生の信田(しのだ)と目が合った。同級生に囲まれて楽しそうに談笑していた。
「あぁ、神凪さん。おはようさん。」
〈信田さん、おはよう。〉
「あぁ、ごめんごめん。ほんで、何の話やったかいなぁ?」
挨拶もそこそこに早口の方言で話に夢中の信田が、転校当初心を閉ざして卑屈になっていた等と今の彼女からは到底想像出来ない。
「神凪さん、おはよう。HRが終わったら美術室に集合だったよね?」
〈おはよう。和泉(いずみ)さん。そうだよ。引き継ぎなんだって。〉
「え~、梅花(めいか)今日部活なのぉ?掃除当番変わってくんないの?
別の女生徒が声を上げた。
「だめよ。今日は部活なんだから。この前も変わってあげたじゃないの。たまにはちゃんと自分でやったら?」
同じ美術部員の和泉がきっぱりと答えた。以前の後ろ向きの肖像画しか描けず人の頼み事を断れない気弱な彼女はもう居ない。
HRが終わって斎は美術室に向かった。斎達の学年が正式に引退して、後輩の新部長から引き継ぎという名目の茶話会に招待されたのだ。
廊下に響くピアノの音。隣の音楽室から流れてくる調べ。1学年上の伏見奏(ふしみかなで)の弾く曲はどこか心洗われる様な温かい旋律だった。
そっと扉を開けて中を覗くと、ピアノに向かって演奏を続けたままの伏見が言った。
「美術部2年の神凪斎くんだろ?君にこの曲を聴いて貰いたかった。これは君が僕に与えてくれた曲だからね。
終業式の日に君に会った時の印象からこの曲は生まれたんだよ。タイトルは“海の星”。どうだい?いい曲だろ?」
そのメロディは以前彼が良く弾いていた哀調を帯びた曲とは全く異なっていた。
伏見は弾き終ると振り返りゆっくりと両目を閉じると再び開けてじっと斎の目を見つめた。
〈…わ…私が…ですか?〉
斎は頬を赤らめて小さな声でぼそぼそと言った。
「そう。夢を見た…と言っても内容は全く覚えていない。ただ、目が覚めたら急に君のイメージと共にこの曲が浮かんだんだ。気に入ってくれたかい?」
〈…あの…とっても温かい感じが…しました。〉
「よかった。君にそう言って貰えて嬉しいよ。」
伏見の笑顔は以前の様にどこか寂しくて儚げなものではなく、少年らしい心からの素直な笑顔だった。彼の頬にも少し赤みがさしている。
〈あ…あの…部活なんで失礼します。素敵な曲をありがとうございました!〉
ぺこりと頭を下げ、斎は音楽室を後にして隣の美術室に入った。
「どうしたの?神凪さん、顔が赤いよ?」
〈…いや、あの…何でもないっ!〉
美術室は笑いに包まれて和やかに時が流れた。
斎は思った。狗神は居なくても人の心には闇がある。鬼(なまなり)にならなくてもその闇は確かに人を蝕む。
これからは自分なりのやり方で心の闇に苦しむ人を救う手伝いをしたい。
人々を笑顔にする事こそ、自分に与えられた使命だと。
きっと幽世から見守ってくれている皆もそれを望んでいる筈だ。
一人ぼっちじゃない。皆がいつも一緒だ。
斎はそれ以後、良く蔵へ入って父の心理学書を読む様になった。
『僕は人間の事をもっと知りたいのです。それが貴女を守る事に繋がると思うから。』
いつか津雲がそう言ったのを思い出した。今度は自分が誰かを守る為に学ぼう。
そんな斎の姿を狐塚に眠る魂たちはきっと応援している事だろう。
the end