私達は「西行庵」に行くことになりました。




この日は、吉野に着いた時に雨が降っていたので、階段も滑りやすくなっていて、私は慎重に降りていたので、写真はあまり撮ることは出来ませんでした。



Iさんは、持って来たお酒を供えてご挨拶していました。

西行を調べてみました。
読んだ和歌は、2300首に及ぶそうで、「西行庵」は、京都にもあることがわかりました。


吉野から左手には高野山もあるし、やっぱり昔から重要な場所に神社仏閣はあるのだろうと思いました。

線路の真ん中にいると連絡があったので、IさんとYUさんが迎えに行ってくれました。

地図で見ると、徒歩20分と書いてありますが、金峯(きんぷ)神社の近くからどんどん階段を降りて行くのですね。



この日は、吉野に着いた時に雨が降っていたので、階段も滑りやすくなっていて、私は慎重に降りていたので、写真はあまり撮ることは出来ませんでした。
一番下にある広場の一角に「西行庵」はありました。



Iさんは、持って来たお酒を供えてご挨拶していました。
とても、尊敬しているそうですよ。

西行を調べてみました。
🌟西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 建久元年2月16日〈1190年3月30日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。
西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。
読んだ和歌は、2300首に及ぶそうで、「西行庵」は、京都にもあることがわかりました。
武士だったのに、若い時に出家して、沢山の歌を詠んだのですね。
「願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの もち月のころ」は、西行の辞世の句とも言える名歌です。
現代語に訳すと、「できることなら、満開の桜のもとで、春に死にたいものだ。 2月の満月のころに」という意味になります。
亡くなったのは、73才でこの歌の通り2月(新暦で3月)だったそうです。
それにしても、こんな山奥に3年くらいはいたようで、どうやって生活していたのだろうと思いました。
源義経が隠れていた場所に驚きましたが、それよりもっと深い森の奥ですからね。
私達は、来た道を戻ったのですが、階段をかなり降りて来たので、その分昇らないといけなくて、なかなか必死な帰り道でした。
Iさんは、私が死にそうな感じと言っていましたが、本当に苦しかったですよ。
私達は、車で吉野から伊勢に向かって行きました。

以前に記事で使った、国土交通省の紀州地域の地図をみると、境目の真ん中辺りにある吉野からまっすぐ右手に伊勢市があることがわかり、Iさんはそのまっすぐな道を走っていました。
道を走りながら、IさんとYUさんは、パワーを感じて頭が痛いと言っていて、私は特に感じなかったので、やっぱり私は鈍感なのだなと思っていましたが、どうも走っていた道は中央構造線の上だったようですね。

吉野から左手には高野山もあるし、やっぱり昔から重要な場所に神社仏閣はあるのだろうと思いました。
私達は、夕方に伊勢のIさんが予約してくれたホテルに着いて、近くで食事をして、みゆきちゃんが到着するのを待っていました。
みゆきちゃんから、伊勢の駅に着いたと連絡があったのは、21時過ぎでしたが、何だか迷っているようでした。
みゆきちゃんが予約していたホテルとは逆側に行ってしまったみたいです。

線路の真ん中にいると連絡があったので、IさんとYUさんが迎えに行ってくれました。
私は、さすがに疲れてしまったので、部屋で待っていました。
みゆきちゃんは、夕ご飯も食べてなかったので、一緒に食事もして、次の日の待ち合わせ時間も決めてくれました。
最初の予定は、8時出発で外宮に行こうとしていましたが、7時出発で二見浦から行くことになりました。
続きます。
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