真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

Rayの呟き~聖徳太子が敬えという「三宝」とは、仏・法・僧?

2024-03-28 21:38:35 | Rayの呟き

一般に、聖徳太子の十七条憲法の第二条の「三宝」について、「仏・法・僧」という表明的で意味の分からない解釈に留まって改竄されて一般化していることに義憤していましたが、以下の訳文で本来の『三宝』の意味であることがわかります。

聖徳太子の十七条憲法 http://kjs.nagaokaut.ac.jp/mikami/slide/17joukenpou.htm

抜粋:二に曰わく、篤く三宝を敬え。三宝とは✖仏・法・僧」」となり。即ち四生の終帰、万国の極宗なり。いずれの世(今の時期)、いずれの人(弥勒眷属)か、この法を貴ばざる。人、はなはだ、悪しきものすくなし。よく教うれば従う。それ三宝によらずんば、何を以てかまがれるを直さん。

(末日に至りて:現在)万国も治まり、輪廻を脱します。

弥勒浄土は、この「三宝」を伝えることが核心です。

和を以て尊しも「三宝」を極めることで成就することができるわけです。

当然、聖徳太子は「道:三宝」を得て、悟りの境地に達していました。

※聖徳太子は、文殊菩薩の化身

「三宝」が、達摩の四諦句「不立文字(文字で表さない)、教外別伝(経典など教えの外に別に伝える)、直指人心(心の在り処を直に指す)、見性成仏(本来の性を見て仏と成る)」である故に、秘密法のため歴史的に謎が多いわけです。

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第三章 天性の変化と修法 (七)宿命と運命の改変

2024-03-28 21:10:20 | 天道の淵源

(七)宿命と運命の改変

宿命とは一応、輪廻に入っても転生した霊が債務を帯びて生まれてきた時の命を言います。

「命(めい)宿る」「宿っている命」とも解釈しますが、前世の功罪がどうなっているかはその人の生まれた状態によって判断すればわかります。

同じ時と場所に生まれ、同じ環境に育てられても人によって智能の程度と性質の強弱に違いが生じたり、平等の教育を施しても感度に利鈍の別があるのは、そのような理由があるからです。

宿とは、つもる、たまる、又はやどす、との意味ですから、前の物が積りたまってきた命のことをあらわしていいます。

年が変わっても昨年の借金は帳消しになりません。

年度換えになっても前年の残額(黒字赤字にかかわらず)は、今年度に繰り越してきます。

新しい車に乗り換えたからといって、違反した事項は取り消しできません。

死んで地獄で清算されても医(いや)されても霊魂に傷が残ります。

地獄はわれわれの魂の傷を浄め医やすことがあっても、滅し尽くすことはできません。

罪を滅ぼし得られるのは人間界で功徳を積むことによってこそ補えるのです。

つまり、人間界で犯した過ちは、人間界に生まれて償(つぐな)い贖(あがな)う必要があります。

そのような使命を受けてきたのが宿命であり、現在のわれわれを左右する運命となります。

今、述べたように宿命は出生と同時に一応定まって来た命ですが、運命は「命を運ぶ」意味から、われわれの意思によって善へも悪へも運べるのです。

正しい道に決意して進めば聖賢に達し、悪の誘惑に負けてしまえば、奈落の底へ沈んでしまいます。

仏典に八大地獄(はちだいじごく)・八大寒誘惑(はちだいかんゆうわく)と、その他数々の刑罰地獄があると載っているのは、例えば水の清濁分離機(清濁分離機)であり、浄化槽(ろかそう)・濾過槽(ろかそう)のような存在で、これも上天の特別の御配慮にあずかるところなのです。

われわれが敢(あ)えて地獄を否定するのはむしろ科学的であり、自然の摂理に逆(はん)しているといえます。

恐いから強く否定して己を慰めている愚論と見てよく、むしろ逆に地獄はもっと精密細密な装置で構成された、正邪清濁を分判する淘汰場であるといえます。

仙仏と凡俗はその理にかなわない行いに端を発するものであり、善悪の行為はその人の迷悟の観念の違いによって分かれてゆくものであることをしるべきです。

言い換えれば、今のわれわれの決意次第で、迷途(めいど)転じて明悟となり、賢者となり得る訳です。

道を求め、徳を積めば過去の歴世の罪業を消滅することができます。

そうなれば暗愚な人であっても心温かい賢明な人となり得るでしょう。

われわれの握る運命という舵(かじ)は切りようによっては過去の負債を帳消しにし、なお、大成果を証することができます。

六万年前の昔に返れば、過去に犯した数々の罪に悩まされることはありません。

世の中はもとより根っからの悪人はいません。

ところが厳として悪事を行っている事実があり、悪の結果として表われているのは一体どのようなわけでしょうか。それは愚盲な人があまりにも多いからです。

結果的に悪くなったり、また今、悪事を働いている人でも、悪を行っていると気づかない場合もあります。

なぜなら良い動機と思って行っても悪の結果にもなり得るからで、結果を見透す眼が開かれていないから判断力に乏しい訳で、もし心眼が点破されていたならば、いかにして過去の宿命を贖い、いかにして未来を切り開いてゆくか自ら判然となります。

その嗅ぎは速やかに明師に逢って指点を受けることです。

定まった命を背負って出生してきたのが宿命であるなら、勤勉奮発(勤勉奮発)や堕落退廃(だらくたいはい)によって変わってゆくのが運命です。

もって生まれ定まった宿命はなるほど避けられないでしょうが、過去により良く自分を勤修練磨(健修練磨)していたならば現在の境遇は、ずっと好転しているはずであり、違った運命の星の下にうまれていたわけです。

過去の世に散乱した心をもっと修養したり、収拾していたならば、今世の智能的働きはもっと冴え聡明であり、暗黒にとらわれて途惑うこともなかったはずです。

つまり前世においてすでに今世の原因を積んでいたことが分かれば、今生の心の持ち方が来世の良しあしを決める基礎であることも分かり、今に永遠の解脱法も得られることが理解できます。

昔、降生当時が第一天性であり、輪廻転生してきたのが第二天性であるから、第二先天性はわれわれの意思によって開拓できることが察せられます。

天道降生に遭(めぐ)り会えるのは、このような決意を容易にならしめ、直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に至らしめられることに等しいのです。

しかし、運命は開拓によってよりよく改められるといっても、可能な人と不可能な人と早晩の違いがあります。

素直と純真に一貫せる熱心さが備わっていれば、第二先天性のもたらした宿命をなお一層良い方へ導き、大好転を獲得できますが、怠惰・傲慢・卑屈の性格を兼ね備えてしまうと、向上が不可能だけはなく、悪の連鎖反応を起こして、いよいよ悲惨な末路を辿(たど)らねばなりません。

正しい法を得れば、すべての宿命や運命を素晴らし方向へ改変することができるのであります。

続く


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【サアラさん】『エンリルの計略』“縄文時代の地球の闇”~支配の為の人類教育

2024-03-28 20:12:38 | サアラさん

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