真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

仏説「兜率天(とそつてん)」と五七億六千万年の弥勒浄土

2024-03-22 19:11:03 | 弥勒浄土

 文殊菩薩

兜率天は「内院」と「天処」に分けられます。

内院とは浄土であり、天処とは天人の快楽の場所です。

どの菩薩も成仏する以前は皆先に内院に住み、然る後に初めて人の世界に来て成仏するのです。(釈迦仏が世間に来て成仏する以前は、やはりそこに住んでおります)

現在住んでいる菩薩は弥勒であり、仏教で称されている弥勒菩薩とはこの意味です。

故に又、補処弥勒とも呼びます。(補処とは、成仏する以前、まず仏の空席を補います。これは内院に中にあって、また弥勒浄土と呼びます。この内院はどの菩薩も最後に住む世界です)外院は即ち天処です。

沢山の天神がそこに居ります。そこには酒、色、財、気があり、とても快楽な所です。

内院に入ろうと思うならば、まず先に天処(外院)を通過しなければならず、多くの禅師が天処まで来られたら惑わされ、内院に入ることができません。

兜率天の時間は、次の様なものです。人の四百年は兜率天でのただ一昼夜に等しく、故に兜率天の一年は人間の十四万四千年に等しいのです。

そして兜率天の天寿は四千歳で人間の世界では五十七億六千万年になります。(以前、仏教で言われている五十七億六千年とはここから来たと聞きました。仏経上に五十七億六千年後に弥勒仏が世間に来られると言われましたが、実はこの数は兜率天の天寿を指しています。世間の人の寿命は六、七十歳に過ぎず、人は実に微妙なもので、故に多く修道して功徳を積むことが必要なのはこの意味なのです。インドでの教え方と私達のとはちょっと異なります。「百万」は上において「億」であり、故に私達の数え方では、五億七千万年になります。しかしインドでの数え方では、五十七億六千年です。また五十六億七千年は誤りなのです)

故に私達が分かるのは、どの菩薩も世間に来て成道する以前は、皆内院に一度住み、時間が来るのを待って初めて世間に出世し、修道して成仏して帰って行くという事です。

釈迦仏は、既に成仏して帰って行かれて、今は弥勒仏により運を引き受け、補処弥勒と呼びます。

何処に出世なさるかに至っては、私達は知る必要がありません。

もし私達が仏は肉体を以て出生なさると思うならば、それは誤りです。

天の事は、私達が見える形象をもって論定するのではありません。

もし、肉体を以て論じれば、釈迦仏はただの八十歳でした。

ところで釈迦仏が運を引き受けたのは三千年でした。

この三千年は何を以て数えたのでしょうか?

これは天の運を受けた時から数えたのです。

肉体の運を引き受けた時から数えたのではありません。

釈迦仏は当時もやはり、目ばたき、食べ、眠り、腹痛、下痢さえしました。

但しこれらのことは経典上に記載はありません。

私達はこれらのことを知るべきです。

当初は彼も一人の人間でした。

キリストが十字架に張り付けられた時、やはり痛い想いをしたのと同じことです。

但し、彼の真理は不生不滅であり、故に修道するには真理を根拠とし、形相に執着してはなりません。

兜率天は又知足天と名づけられています。

この天に生まれる条件は、足りる事を知り、止まる事を知ります。五欲(財・色・名・食・睡)に対して適度で止める事を知るべきです。

※天は四王天(しおうてん)・忉利天(とうりてん)・焰摩(えんまてん)そして兜率天(とそつてん)・化楽天(からくてん)・他化自在天(たかじざいてん)の六天あり欲界天と言い、人間は欲界天の中にあります。

又、天地開闢の始めは原始時代の為、人間に天命統掌の重責を担わせられないので、神仏を遣わして約四万年に亘る長い間、天盤を掌(つかさど)られました。「天盤」とは宇宙の総理に当たるお役目であります。

燃灯仏 青陽時代の天盤 治世 紀元前2500年頃から1500年間

釈迦仏 紅陽時代の天盤 治世 紀元前1000年頃から3000年間

弥勒仏 白陽時代の天盤 治世 紀元2000年頃から10800年間 

現在、弥勒仏治世の時代です。


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【Ray:宇宙人の科学は人間の理性を超えることはできません!】QFS/量子金融システムと量子システム:アシュター ※QFS ※量子金融システム ※量子システム

2024-03-22 19:09:22 | 新しい時代の統治・金融システム・BPPF(個人年金基金)

QFS/量子金融システムと量子システム:アシュター ※QFS ※量子金融システム ※量子システム


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第三章 天性の変化と修法 (三)利欲の心をなくすれば本性に帰り善となる

2024-03-22 19:05:12 | 天道の淵源

(三)利欲の心をなくすれば本性に帰り善となる

天性を明かに露(あら)わすには、先に気稟性(きひんせい)を浄化すべきです。

気質性は善ともなり、不善ともなる性質ですから、本人の自覚と周囲の環境の具合により悪化したり、または立戻ってきます。

人間の誕生は過去の因業により宿命づけられて環(めぐ)り生まれてきたのですが、それでも一応は霊性が清算されて美しくなり、一点の欲望も悪心も邪念もありません。

恨(うら)まず妬(ねた)まず、人を傷つけることもありません。

天賦の純真は見栄も飾り気もなく、ありのままに露(あら)わして表裏はありません。

それは虚霊不昧(きょれいふまい)の天性を表しているのです。

ところが次第に大きくなるに従って、眼耳鼻舌の感覚に偏りが生じて、官能が旺盛となって物を必要以上に求め欲します。

始めは、食べる物に対する争いが、今度は物を集積するため喧嘩をはじめます。

人間の肉体の生長に比例して欲望の度合いも深くなり、果ては利欲・色欲・名誉欲・権勢欲へと拡大して止む所を知らなくなります。

一人の所業の影響はまだ小さいのですが、集団をつくり、徒党を組んでしまいますと、環境を威圧する力となって時代をすり変えてしまうようにもなります。

刺激ある人生に進歩を促し、生存競争は新しい発展を生ずるのですが、気質性から習性に変ずる段階になると利己の目的に陶酔して不道徳のかぎりを尽くします。

悪の流れに投入してしまうと、本性が麻痺されて制止がきかなくなります。

悪い風俗がはびこり、淫(みだ)らな行為が横行してそれを平気で見られるのは病疾の徴候が明らかです。

進歩発展が人道を破壊し、徳義を失わされるようであるなら、われわれはすぐにでも進歩発展をやめなければなりません。

気稟性は半善半悪ですから、何らかの機会でふたたび良心の呵責(かしゃく)を受け、ある程度悪事をやめますが、一旦習性に変ずると病はいよいよ膏肓(こうこう:どうにも手のつけられない誤りや癖)に入って癒(なお)り難(にく)くなります。

人の本性は元来善であるが利欲によって一時的に姿を変え、醜い姿を見せるのです。

その貪欲の情を化して美しい姿に引き戻すべきであります。

次に孟子様と告子様の本性論を述べてみたいと思います。

告子様は「人の性格は、柔らかい杞柳(きりゅう:こぶ柳)のようなもので、善とも悪とも決定的な性格をもって生まれてくるものではない。

だから人間が仁義道徳の行いをするのはちょうど、杞柳を曲げて作った曲げ物と同じく、その天性を曲げて仁義道徳の行いをするように仕立てているのであって、本来の天性として仁義慈悲を具えていない。」と述べ、人の静は境遇次第で変化すると説かれました。

孟子様はその論拠の誤りを質(ただ)して「杞柳はそのまま曲げ物にならず、必ず大工を加えねばならない。あなたは杞柳の本性に従って傷め直さないで曲げ物を作れるのか。それとも杞柳の本性を傷め曲げて作ろうといわれるのか。人が仁義道徳をなすのは杞柳で曲げ物を作るのに同じだといわれたが、杞柳の本性に従わず、それを傷めて作るものとすれば人が善行を行うのもやはり天性を傷め損ねて実行するというのか。」人が正しい行いをしたいのは自然であり、本性の発露なるが故なのです。

告子様はまた、人生について「人の性は定まった形はなく一所に渦巻いている水にも似ている。それは、ぐるぐる回っていて出口がないけれども、その水を東の方へ切り落とせば東の方へ流れ、西の方へ切り落とせば西の方へ流れてゆき、一定の方向というのはない。人の性もそれと同じく善と不善の根本の差別はなく、ただ習慣によってどうにでも変わってゆくのは、水の流動性とよく似ている。」と論じられました。

孟子様はそれに反駁(はんぱく)して「水流には一定の方向がなくて、東とも西とも差別のつかぬものであるが、上から下へ移ってゆくという区別のつかぬことがあろうか。東へ切り落として東に流れるのはその地勢が低いからである。人の霊性が本来善であることは水が低い方へ流れてゆくのに似ている。人の性は古今賢愚、その他一切の条件を問わず不善なる者はいない。いかなる水も低い方に下って流れないものはないのと同じである。それがいかなる訳で不善の存在になるかを水に例えていえば、水は本来、低い方に落ちてゆくのが性であるが、その水を人が手を打って跳(おど)らせば額の上へも越すであろう。またその下流を塞(ふさ)ぎ止め激して逆行させれば、水は逆に流れて山の上にもつくようになろう。しかし、それらはともに本性ではなく、打ち、または激する力に迫られて、已むなくそうなるのである。本来性は善である。人々が時として不善な行いをするのは必然の勢いで鼻くその本性の善が小欲にかられ、また利害のために迫られて一時的にその光彩を失っただけで、激する力が取り去られれば自然下へ下へと流れる。人もまた、利欲の心を失くすれば、本性に帰って善をなすようになる。」と教えられました。

怒りを抱いて正に人殺しに出かけようする人であっても、無心の赤子が井戸に這い落ちるのを見て急ぎ抱き上げて救う真・善・美の本性があります。

人を殺すとか加害するのは、感情であり、欲望であり利害に流れた気質性、習性の故であり、人の難儀を見て自動的に救い助けるのは、潜在している天性の為す業(わざ)であり、天性の顕れなのであります。

続く


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