ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

オウム、アーレフ問題理解のために(3)

2006-12-02 20:56:58 | カルト
ケン・ウィルバーの「眼には眼を」という本の中の、第八章、「新宗教における正当性、本格性、権威性」で、宗教社会学者ディック・アンソニーが提唱している三種類の判定基準を採用しながら、アメリカの新興宗教を論じている。この中で、オウム問題を考える上で、非常に参考になる箇所が、「問題のないグループ」である。

ここで、ウィルバーは、問題を起こしにくいグループを見分けるための五つの「基準」を掲げている。特に、4と5は、重要だと思いますので、全文を引用しておきます。

1.前合理的でなく、超合理的。

2.正当性がひとつの伝統に根差していること。

3.段階-特定的権威性を持っていること。・・・・・・導師とは案内人、先生、あるいは医者であり、王や大統領やトーテム・マスターではない。

4. 完璧なマスターに率いられていないこと。

 完璧さとは、唯一、超越的本質において存在するものであり、顕在した存在に現れるものではない。ところが、信奉者の多くはそのマスターをあらゆる意味で、「完璧な」究極の導師と見る。どんな場合であれ、これは問題を引き起こす兆候である。本質と外的存在を混同することによって、信奉者は自分自身の古代的、自己愛的、全能的空想を「完璧な」導師に投影しがちだからである。こうして、あらゆる種類の古代的、魔術的、一時過程的認識が再活性化され、導師にはなんでもできる、導師は偉大だ、選ばれた自分もまた偉大だ、ということになる。これは極端に自己愛的な立場である。

 だが、当然(神の恩寵)、導師も結局は当人の人間的側面をさらすことになる。すると、信奉者はショックを受け、幻滅し、打ちひしがれる。そうなると、信奉者は、導師はもはや自分の自己愛的陶酔を支えてくれないために、そのグループを去るか、導師の行動を正当化する。「酔っぱらったて?導師が酔っぱらったて?いやそれは彼が、ただ酒の悪さを身をもって強調していただけさ。」 トゥルンパに関連した有名な事件があるーーー生徒を裸にし、ののしったのである。このトゥルンパに関して、さまざまな弟子があるゆる種類の高等な説明を施したが、どれも正しくはなかった。トゥルンパは言語道断かつ言い訳のたたないまったく馬鹿げたまちがいをしでかしたのである。

 良い導師とは、もちろん、神聖ではあるが、同時に、人間でもある。キリストさえもふたつの性質(人間と神性)を備えたひとりの人物(ジーザス)であったと言われている。さらに、導師が魂と精神の徹底的訓練を受けているという事実は、心身も同じように徹底的に訓練されているという意味ではない。いまだかつてわたしは導師が「完璧な身体」で、一マイルを四分で走るのを見たことはないし、「完璧な心」で、アインシュタインの特殊相対性理論を説明するのを見たこともない。導師もまた人類に根差しているのであり、人類ーーー勿論、森羅万象ーーが最上位の完璧な状態へと進化しない限り、完璧な導師の出現は不可能である。そのときまでは、完璧さは、唯一、超越のうちにあり、顕在のうちにはない。つまり、「完璧な導師」には気をつけたほうがいいのである。

 この帰結として、次のことがいえる。

5. 世界を救おうとしないこと。問題のあるグループに所属する人の多くが、最初、他人を助け、世界をよくしたいという利他的な理想主義にかられて参加していることは、しばしば指摘される事実である。だが、その「理想主義」は、「完璧な導師」のそれーー古代的で自己愛的ーーに類似した構造を持っている。その根底には、「わたしとグループが世界を変える」という衝動があり、「わたし」のほうに力点が置かれている。さらに、その自己愛的核心は、その姿勢そのものの傲慢さに見ることができるーーわれわれは唯一の(最善の)方法をもっており、世界を変えるのはわれわれである。つまり、無知で、あわれな人たちに自分たちの考えを押し付けるのである。もちろん、彼らはそういう言い方はしないであろう。だが、彼らは実際にはそう感じているにちがいない。頼まれもしないのに、誰かを助けようと考えるのは、相手が助けを求めており(劣っている)、自分にその能力があると思っているのである。
 
 この自己愛的な「利他主義」は、いかに高尚な「理想主義」をもってしても、覆い隠すことのできない伝道熱や異様な改宗の勧誘などに現れてくる。こうした強迫観念的衝動は、つねに問題がつきまとっている。少なくとも、自分たちが極め付きの方法をもっているという思い込みは、実質的には聖戦をも含むあらゆる方法を正当化することができるからである。聖戦は罪でもなければ殺人でもない。人を救うために自分が殺している相手は人間ではなく異端者だからだ。

◆ケン・ウィルバー著「眼には眼を」(青土社)第八章、「新宗教における正当性、本格性、権威性」より
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オウム問題の解明に、このウィルバーの分析が非常に参考になる。
4の「完璧なマスターに率いられていないこと。」
これは、オウムの極端なグルイズムに端的に当てはまります(ましたか?)。尊師はなんでもお見通し、という観念の元で、一連のオウム事件が引き起こされたことは間違いないでしょう。これほど、外部の人間にとって恐いものはない。
勿論、利他的な世界を救おうとする熱意を否定してはならないと思うが、肥大化した「世界救済」「人類救済」という観念と、尊師はなんでもお見通しという観念が結合したとき、とんでもない事件が起こることは地下鉄サリン事件で証明された。

アーレフの上祐氏は、来年、新団体を立ち上げるそうだが、かつてのオウム教団内の問題に対して、どのような総括をしたのか、その再発防止策とは、どのようなものか、外部社会に、明確に公表しなければならないと思う。

ところで、このウィルバーの「眼には眼を」は、1987年出版である。オウムを立ち上げて、これから伸びていこうとする時期だった。今、この本は絶版で、なかなか古書店でも見つからない。