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経済学という翻訳語について2008/08/09

2008-08-09 16:11:00 | 日記
nipponianippon
> 明治時代に翻訳がなされた西欧語のなかから、「経済学」について

「経済学という翻訳語について」(最終稿)

目次
1-1 エコノミクスの翻訳者
1-2 四字熟語「経世済民」からできた「経済」
2-1 エコノミスト海保青陵
2-2 経済思想家・海保青陵
2-3 日本の経済学


1-1 エコノミクスの翻訳者
 ギリシャ語の「家=オイコスoikos」と「法や慣習(公)=ノモスnomos」が合成語となり、家計、家政を意味するオイコノミーができた。
 オイコノミーは、「オイコスの成果をポリス にふさわくしくノモス化したもの」を言い、英語のエコノミーになった。
「economy」の本来の意味は、家庭の統治における財の扱い方ということだ。

 近代産業社会では、ポリスすなわち国家の財を扱うことになり、ポリティカル・エコノミーは、近代国家運営に必須の学問となった。
ポリティカル・エコノミーは、現在の日本語では「経済」の訳語が当てられているが、エコノミーでなく「political economyポリティカル・エコノミー」の訳語としてであることに注意する必要がある。
ポリティカルエコノミーpolitical economyを「経済」と翻訳したのは福澤諭吉である。

 西周は、『百学連環』のなかに、エコノミクスに「経済学」の訳語をあてたのは津田真道であったと、記している。津田は、幕末に幕府から派遣されてオランダに留学、西洋の啓蒙的な諸学をおさめ、帰国。明治初期に西や福沢諭吉らと明六社を設立した人である。
明治期に翻訳されたエコノミクスとは、「political economyを研究する学問」の意味であった。

 「明治時代に翻訳された西洋語・和製漢語」についての私の知識は、そのほとんどを惣田正明『日本語開化物語』(朝日選書1988)と、柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書1982)の2冊に負うている。

 明治期に西洋語から翻訳された「和製新漢語」について、詳しく知るには、専門の論文も多数発表されていると思うのだが、私は、この2冊に書かれていることのほかは、これまであまり多くを知らなかった。
 
 また、思いこみでまちがった理解をしていた語もあった。

 まちがって思いこんでいた「経済」という語について。
 私は、「明治初期、西洋語の翻訳が盛んだった頃、エコノミクスを西周らが、「経済学」と翻訳した」という説を誤解し、「経世済民」が「経済」という省略語になったのも、明治期だと思いこんでいた。

1-2 中国の四字熟語「経世済民」からできた「経済」

 私は、経済にうとく、デフレスパイラルもスタグフレーションも、何がなにやらわからない経済音痴人間である。経済に興味を持たず、「貧乏暇なく働いても、楽にならざりじっと手を見る」しかなかった。
そのせいか、どうか、「経済」という用語が、江戸時代にも通用して使われていたことを知ったのは、なんとつい最近、2007年12月のこと。

 半年前まで、ずっと「経済は、もとは中国の経世済民という四字熟語であったが、西周らがエコノミーを翻訳したとき経済という省略語にして利用した」と思いこんでいた。
 エコノミクスを経済学と翻訳したのは西周ら明治の啓蒙家であったことは確かだったが、「経済」は、もともとの漢語である。

 私が「経済」という語について詳しく理解したのは、海保青陵(1755~1817年)という江戸時代の経世家について知ったことによる。
 経世家というのは、今でいう経営コンサルタントのようなもの。
 海保は、諸国の藩をめぐって、経済指南をつとめる学者だった。


2-1 エコノミスト海保青陵

 『本富談』という本の中で青陵は、自分のことを「経済を承る儒者」と言っている。
この場合の「経済」とは、現代語でいう「経済」と同じ「ものの売買、貨幣金融に関わること」を意味している。

 海保青陵は、丹後宮津藩青山氏の家老職であった角田市左衛門(青渓)の長子として生まれた。ご家老さまの長男としてそのまま過ごせば、自分も家老職をついで一生安泰に暮らし、それなりの実績も残したことだろう。

 しかし、荻生徂徠の弟子であった宇佐美潜水に儒学を学んだ後、22歳で心機一転、家督を弟に譲ってしまった。
 青山家は150石を青陵に与えて「宮津藩儒学者」として召し抱えたが、青陵は、それも返上して諸国漫遊の旅に出た。

 青陵は、曽祖父の姓である海保の姓を名乗り、生涯のほとんどを諸国漫遊にすごした。
 各地で諸侯豪農層に自らの富藩論(経済学)を啓蒙し、経営コンサルタントの役を負うて、諸般の経済改革に思想的な後ろ盾となったのだ。

 江戸時代は、武士は「金回り」のことに口を挟まない、金儲けは商人の行う卑しき家業、とされていたのを、海保は、「産業商売に関わらないでは、経世済民を行うことはできない」と説いた。


2-2 経済思想家・海保青陵
 
 「買わねばならぬ世の勢いならば、売らねばならぬはづ也。武士は物を売らぬものと云ふこと、をかしきこと也。貧になる証拠也」(『稽古談』のなかの青陵のことば)

 青陵は、荻生徂徠の「朱子学的思惟の解体」をさらに発展させ、利(経済活動)を肯定している。
 経世済民を行うためには、「君臣は売り買いである」という市道論も述べている。
 江戸時代には絶対的な価値とされた「忠君」思想だが、彼は「どのような君に使えるかは、どのような報酬を与えてくれるかで決めてよい」と考えた。

 青陵が文化期に行った経済政策助言。
 藩交易(産物マワシ)を主とした富藩政策の展開を加賀藩を例にとってみると。
 領外への産物輸出により利益を得るために、加賀米を大坂へ廻して売ることで利益を得、自国の消費米は隣国から安価に買い入ればよい、と青陵は進言した。
 たしかに、経済的にみれば、領地内で良質の加賀米を消費してしまうのはもったいない。経済効果からみれば、高く売れる加賀米はよそで売り、領地内では安い他国の米を食べればいい。

 このような経済政策は、反対派も多く、青陵の進言が功を奏するとは限らなかった。
 加賀藩でも、農民の反対により、「商品価値のある加賀米の他国輸出、領地内では安い米消費」という策は頓挫した。

 青陵の経済改革を理解する者のいた藩は、幕末の藩政改革に成功し、倒幕維新への歴史を切り開くきっかけとなった。
 土佐藩浪士坂本龍馬が、「海援隊」を組織し、貿易経済活動によって日本を作り直そうとしたのも、このような経済思想が根付いていたからだ。

 維新期に、地方の豪農たちは、倒幕の志士を援助し、明治期には自由民権運動を援助した。
 この思想背景には、安藤昌益や、この青陵らの思想が背景にあったこと、明治時代に日本が一気に近代産業化を行い得たのは、地方のすみずみまで、青陵らの思想が普及していたからである。
 「経済」という語と思想は、幕末から明治の社会を変革するひとつの力になった。


2-3 エコノミィ経済

 明治維新というと、私たちは「政治世界の変革」「政治権力者の交代」と思いがちであるが、変革の根っこには、このような経済活動の変革、思想の変革が根付いていたのだということを「経済」の一語によっても知ることができる。

 経済とは、経世済民(または経国済民)という語を略して「経済」にした語。
 経済の元になった「経世済民」は、世の中を治め(政治)、人民の暮らしを済度する、ということを意味した。

 このように、青陵が、江戸時代にすでに「経済を承る儒者」と自己規定していた、というエピソードによって、ようやく、私は「経済」が「経世済民」から略された語とはいえ、明治になってから略されたのではない、と気づいた。
 遅ればせながら、「経済」という語について調べた。

 「経世済民」という語の最も古い使用例は、東晋の葛洪(AD248~344年)の著作『抱朴子』(ほうぼくし)にある。

 葛洪は、神仙道教に理論的な基礎を築いた道教学者。丹陽句容に生まれ、字は稚川、号は抱朴子。号をそのまま著作名にしたのが『抱朴子』で、道教神仙思想の集大成である。

 時代がやや下り、隋代の王通『文中子』礼楽篇には、「皆有經濟之道、謂經世濟民」と書かれている。「経済」が、経世済民の略語として用いられていたことがわかる。

 以上、「経済」という語の成立について私がおかしていた誤解を訂正し、ようやく中国源流にまでさかのぼって理解することができた。


3-1 日本の経済学

 18世紀前半、太宰春台『経済録』(18世紀前半)は、「凡(およそ)天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」と述べている。
 江戸時代の「經世濟民(經濟)の學」は今日でいう経済学だけではなく、政治学・政策学・社会学など広範な領域をカバーし、「世を治める」ための幅広い知識を考察するものだった。

 しかし、江戸後期になると次第に貨幣経済が浸透し、「經濟」のなかでも「社会生活を営むのに必要な生産・消費・売買などの活動」という側面が強調されるようになっていった。
 19世紀前半の正司考祺『経済問答秘録』に「今世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」と書かれてた。
 この正司の述べる「経済」は、今日の用法に近いと思われる。

 「経済」という語の用法の変化は、明・清代の中国の俗語において、従来の古典的中国語の用法と異なったこと、金銭・財務に関連する用法が広まったゆえの社会情勢と連動している、と思われる。
 以上の説は近代日本語成立を研究している杉本つとむの説である。

3-2 エコノミクス
 
 明治期に「エコノミクス」が「経済学」と翻訳されて以来、神田孝平『経済小学』などにより、「経済」もしくは「経済学(學)」が英語の「political economy」の訳語として用いられるようになった。
 經濟(経済)は、従来からの「貨殖興利」という用法もあいまって、economyの訳語として理解されるようになり、「民を済ふ」という規範的な意味は稀薄となった。

西周は、江戸時代の「経済」という語と、ポリティカルエコノミーの意味合いの違いを考慮し、別の語としたかったので、「制産学」という訳語を案出した。
エンサイクロベディアには「百学連環」という訳語を与え、そのなかで、第 1 編は、一般教養に当たる学を「普通学」と呼び、 歴史、地理学、文章学、数学を含めている。
第2編には、殊別学と名付けた部門別の学問をあて、心理上学として、神理学、哲学、政事学・法学、制産学などをあげている。
 しかし、福澤諭吉の訳語「経済」、津田真道の訳語「経済学」が一般に浸透していき、他の訳語は、普及しなかった。

また、この新しい用法は、本来の意味の「經濟」という語を生み出した中国(清)にも翻訳を通じて逆輸出された。
このほか、中国へ逆輸出された「新漢語=和製漢語」は、哲学、社会、人民、民主など、多岐にわたっている。

1877(明治10)年,東京開成学校は,東京医学校と合併して,東京大学と改称された。
1878(明治11)年には、アメリカから弱冠25歳のフェノロサがお雇い外国人教師として東大に招かれた。フェノロサは政治学・理財学・哲学を担当した。1978年の東京大学発足当時は、経済学ではなく、理財学という科目名であった。

 井上哲次郎の談話がある。(石井研堂「明治事物起源」第七学術 による)
「経済学」といふ言葉も、経済雑誌など〉、世間では既に使つてゐましたが、大 学では、経済は余り広過ぎる、政治学も何も入つてゐるやうなものだから、「 リティカル・エコノミー」の訳としてはいかぬといふて、私は、之を理財学と訳 し、大学でも、初め「理財学」としてあり、慶応大学は、今日尚之を用ひて居り ます。理財は、支那の昔の言葉によつて定めたのでした。だが、世間では依然と して経済と言ふてるので、たう/\それに負けて、帝大の方も、経済学になつて しまひました。
井上哲治郎(いのうえ てつじろう、 1856(安政2)~ 1944(昭和19)年明治時代に活躍した日本の哲学者・東京帝国大学教授

 井上哲治郎によると、慶応大学はエコノミクスの翻訳として「理財学」を用いたのに、東京大学は「経済学」を採用し、一般の語としては「経済学」が流通するようになったと述べている。
 エコノミイを「経済」と訳した福澤諭吉の慶応大学では、エコノミクスに「理財学」をあてて使い、東京大学では初期の「理財学」から一般社会に流通するようになっていた「経済学」へと科目名を変えていたことがわかる。
 

 以上、エコノミクスという語が「経済学」と翻訳されたことについて、中国語としての「経済」、江戸時代の「経済」、明治期の「経済学」について、調査した。

<おわり>


<参照文献>
石井研堂『明治事物起源・第七学術』ちくま学芸文庫復刻1997
石塚 正英・ 柴田 隆行 監修『哲学・思想翻訳語辞典』論創社2003
杉本 つとむ『語源海』東京書籍2005
惣田正明『日本語開化物語』朝日選書1988
柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書1982