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ミシン考(2)2008/08/04

2008-08-04 07:27:00 | 日記
1-3 世界史におけるミシンの登場
 ミシンは、産業革命期のイギリスで、1589年、ウイリアム・リーが編み機を発明したことに端を発し、1755年、ワイゼンソール(Charles Weisenthal)が新式の縫製機を発明したことから発達をとげた。
1790年、トーマス・セント(Thomas Saint)がワイゼンソールとは別の仕組みの環縫いミシンを発明したが、不完全な機械であったために、普及しなかった。

 右の図版(3)は、トーマス・セント考案のマシンをアメリカのウィルソンが復刻したものである。

 ワイゼンソールとセントのsewing machine(ソーイング・マシン)は、どちらも量産はされずに終わったが、イギリスからフランスへ舞台をうつし、フランスのティモニエ(Barthelemy Thimonnier)が1830年に特許をとり、軍服を縫う目的で1840年に80台生産された。
しかし、フランスの仕立て屋たちは、ミシンによって失業することをおそれ、生産されたミシンを破壊した。

 新大陸へ移入したミシンは、アメリカ人のハント(Walter Hunt)が改良を加えた。ハントは、1830年代はじめに、現在のミシンとほぼ同じ構造の、ミシン針の先端に穴があいていてそこに上糸を通すしくみのミシンを発明した。
 しかし、特許をとらなかったため、この後、複数の業者による特許紛争の原因になった。

 ハントとほぼ同じ構造のミシンの特許を取得したのは、アメリカのハウ(Elias Howe)であった。
 アイザック・メリット・シンガー(Isaac Merrit Singer)は、1850年にミシンを現在とほぼ同じ構造の機械(綻縫式)に改良し、翌年特許をとった。I. M. シンガー社(のちのシンガー社)を設立し、大量生産をはじめた。世界中で「シンガー」という商品名が「sewing machine(ソーイング・マシン)」の代名詞として通用したのである。

2-1 日本のミシン

 幕末のミシンについて年表にまとめてみると。

1854年 ペリーが2度目の来航をした
1855年 ハリス、初代駐日領事となる
1856年 近衛敬子(このえすみこ=島津篤子が近衛家の養女となり改名)が13代将軍徳川家定に入輿。御台所となる。
1857年 12月10日、ハリス将軍家定に謁見。米国大統領フランクリン・ピアースからの親書を提出.する。アメリカ大統領から将軍家定への献上品のなかのリストにはミシンの記録はないが、ウィーラー&ウィルソン社がハリスを通じて、献上した品のなかに、「シウイングマシネ(sewing mashine )」があった。
1858年 御台所は、タウンゼント・ハリスを通じて、ミシン献上者のウィーラー&ウィルソン社へ返礼の品を贈った。(4年後のニューヨークタイムズの記事による)
1858年 7月将軍家定死去。御台所は落飾し天璋院と称す。
1860年 咸臨丸により渡米した通訳中浜万次郎がミシンをアメリカより持ち帰る
1861年 竹口喜左衛門信義、妻子とともに、神奈川成仏寺在住のアメリカ長老教会宣教医師ベボン(james Curtis Hepburn)を訪問。ミシン縫製を見学
1862年 駐日領事ハリス、アメリカに帰国。ニューヨーク新聞に日本関連の記事が掲載された。ウィラー&ウィルソン社に対し、ミシン返礼として、金糸、銀糸で豪華な綾織の日本の織物が幕府から贈呈されたとの記事。
1862年頃 沢野辰五郎、成仏寺でブラウン夫人にミシン縫製教授を受ける
1868年  幕府開成所がミシン伝習生を募集

2-2 天璋院篤姫のミシン

 中山千代『日本婦人洋装史』の記述によると。
 1862年4月5日付け(文久2年3月7日)の『ニューヨーク新聞』第330号に以下の記事がある。その記事が我が国の『官板 海外新聞別集』に翻訳掲載された。

日本の当方延大君より、ホエールスおよびウヰルソンの組合より全対君に進上し    足る美事なる縫道具の返礼として、亜国ミニストル、トオセントハルリスに頼て、右の組合にはなはだ珍しく且つ貴むべき数多の品物を贈れり。是は種々に彩色して何れも長サ五ヤールドの天鵞絨(びろうど)五巻と、金銀の綾模様ありて種々の鳥或は花を画きたる何(いづれ)も立方一ヤードの貴き絹五巻なり、但し其鳥の中にはその色黒して異形なる鳥数十羽、並びにきれいなる牝鳥の周囲に牝鳥雛の集まれる有様を画きたり。今此織物はクラホードの作なるデンシングセンニーの華麗なる肖像とともに、ホエーレル及びウヰルソン組合の展観場の飾物としてあれり。外国珍器をミルを好む輩は、日本製造の器械も常に探索すべし。予等ハルリスの知らせにて聞きたるに、亜国夫人の如く、前大君の寡婦は右進上したる縫い道具を玩りと。(原著注:『官板 海外新聞別集 上巻』『幕末明治新聞全集3』 明治文化研究会昭和36年))

 「前大君の寡婦は右進上したる縫い道具を玩り」という記述は、「前将軍徳川家定の未亡人天彰院が、献上された縫い道具をもてあそんだ」ということになり、天璋院は、ミシンを大奥において飾っていただけでなく、実際に動かして使用してみたことがわかる。
 ただし、大奥には、ミシンを使用して縫い物ができる者はいなかったと思われる。

 また、江戸将軍へのミシン献上を行ったのが、ペリーなのか、ハリスなのかも諸説ある。
 吉田元は、『日本採訪ミシン史雑感』(日本ミシン産業100号昭和41年)『蛇の目ミシン50年史』(昭和46年)に、ペリー説を述べている。

 中山千代はハリス説をとる。ペリーは将軍に謁見していない、ペリー贈品の返礼をハリスが持ち帰るのは不自然という論拠による。
 江戸東京博物館の学芸員畑尚子も、ハリス説。(2008/06/12「ペリーとハリス」展が開催されているおりに、博物館図書室から内線電話での取材による)

 ミシンは、ときの御台所、「天璋院敬子=篤姫」の持ち物となったあと、江戸城内の火災が発生したため、大奥関連の多くの文書などとともに、燃えてしまった可能性が大きい。 この篤姫のミシンが、その後どうなったのか、明治期に「天彰院のミシン」についてふれた文書は見あたらない。

 天璋院は、江戸城明け渡しの際、大奥にあったものを「公共のもの」として、持ち出しを禁止したと、伝えられている。自分自身はわずかな身の回りのものだけもって、財宝類はそっくり西郷隆盛ひきいる官軍に引き渡したという。

 天璋院は、明治の頃は有名人であり、夏目漱石『吾輩は猫である』の一節にも登場する。
 猫の「吾輩」が、三毛子に三毛子の飼い主のことを尋ねると、三毛子は、「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行つた先の御つかさんの甥の娘なんだつて」と、飼い主を説明する。
 三毛子の飼い主が「由緒正しい」家柄であることを述べるのに、天璋院を持ち出していることでも、天璋院の存在が明治の世まで影響力を持っていたことがわかる。

 『吾輩は猫である』は1905(明治38)年に発表されている。
天璋院が亡くなって二十数年後のことで、まだ天璋院を直接記憶する人々が残っていて、ちまたの話題にもなる人物だったのである。

 私が江戸東京博物館において、『写真でみる日本洋装史』という大型の写真本を閲覧したときのこと。(2008年1月)
 皇族貴族の明治貴顕夫人たちの洋装写真がならぶなか、天璋院敬子の洋装写真があるのに、目をひかれた。ああ、明治時代になったとき、天璋院も洋装したのだな、と思った。

 天璋院のミシンがどうなったのかの記録がなく、幕末大奥関連文書の多くが火災消失という事態で、大奥でミシンをなんと読んでいたのかは、定かではない。「シウイングマシネ」だったのか、「仕掛け縫い物」であったのか。
 幕末、器械類は「仕掛け」と呼ばれていたのである。


2-3 ヘボンのミシン
 日本女性で最初にミシン縫製を習ったのは、竹口喜左衛門信義の妻である。
 伊勢の商人、竹口喜左衛門信義は、妻子を伴って、神奈川成仏寺在住のアメリカ長老教会宣教医師ベボン(James Curtis Hepburn)を訪問。家庭でのミシン縫製を見学した。
竹口の日記『横浜日記』に、妻がミシン縫いを習いたがったことが記述されている。

竹口のぶは、夫とともに、成仏寺を訪問。成仏寺に住む三家族と交流した。
ヘボン夫妻、ブラウン一家、ゴーブル夫妻は、宣教のために来日し、成仏寺を宿舎としていた。
ブラウン家の娘ジュリア(Juria Maria Brown21歳)がミシンで縫い物をするところを見て、竹口のぶは、夫に「習いたい」と申しでた。
信義は承知し、1861(万延2)年1月19日付け『横浜日記』に
「十九日 雨逗留昼後より晴」
のぶアメリカの縫いものを習わんといへる。昨日ヘボンへ咄す。同妻、教へんと いふに付、今日至る

 信義が「縫い物を教える」という返答を得たヘボンの妻クララ・ヘボン(Clara Leete Hepvurn)は、ニューヨークで女性信者のための「縫い物会」を開いていた。
伝道のために日本でも「縫い物会」が有用であるとしてミシンを携えて来日していた。

 竹口のぶにミシンの使い方を教えたことを端緒として、ヘボン夫妻は、のちの「明治学院大学」の前身となるヘボン塾を開設する。
 ヘボン塾は「ミセス・ヘボンの塾」として知られるほど、クララの力が大きく貢献していた。

 ジェームズ・カーティス・ヘボンは、日本最初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字にその名を残している。
私は、数年前、明治学院大学に立てられているヘボン胸像を見学しに、白金の明治学院へ出かけたことがあった。
 日本語学にとって、偉大な足跡を残すヘボンであったが、その妻クララが、日本の「ミシン」にとっても大きな存在だったとは知らなかった。

 成仏寺でヘボンと共にキリスト教布教の機会を待っていたブラウン。その妻エリザベス(Elizabeth Goodwin Brown)も、ミシン縫製技術を習得しており、娘のジュリアに教えただけでなく、日本人にも、ミシン技術を教えた。

日本最初の「ドレスメーカー」となった沢野辰五郎は、1861(文久2)年ころ、成仏寺で、ブラウン夫人からミシン縫製技術と女性洋装仕立てを習った。

 足袋職人であった辰五郎は、目が悪いブラウン夫人のかわりに、家内のシーツなどを縫うため、彼女の指導を受けながらミシン縫製を覚えた。
ブラウン家の裁縫仕事を引き受けての出入りであり、ミシン技術を教えてもらいながら、辰五郎は一日に700文の賃金を受け取った。一人前の大工の一日の賃金が300文、人足は一日150文の時代、教えてもらいながら賃金を受け取った辰五郎はたいへん幸運な職人であった。
 これも、「異人の家に出入りするなど、恐ろしい」と、だれもが尻込みする時代に、一介の足袋職人辰五郎が、勇気をもって「異人の宿泊所」になっていた成仏寺へ向かった成果であった。

 辰五郎は、ミシン技術を習った当時の思い出を語っている。
『横浜貿易新報』に載った辰五郎の話は『横浜開港側面史』に「女性服裁縫の始め」と題されて、1907(明治40)年の11月より2年間にわたって連載された。

 辰五郎のほか、在留西洋人にミシン技術を習い、明治初期に外国人向けの洋装仕立を業とした者に、片山喜三郎、伊藤金策、柳原伊四郎がいる。この事実を述べているのは
片山のひ孫弟子にあたる西島芳太郎(明治20~昭和56)。『洋裁師不問物語(ようさいしとわずがたり』1974年である。(西島芳太郎『明治百年洋裁随想』『西島洋裁全集』が、出版されているが、文献での確認はできていない。)


2-4 ジョン万次郎のミシン
 1860年、遣米使節団に同行した通訳:中浜万次郎(通称:ジョン万次郎)が、写真機と手回しミシンを持ち帰っている。

 遣米使節団(木村喜毅軍艦奉行が代表者)の様子を描いた随行員佐藤秀長の「米行日記」にも、アメリカで見たミシンの事柄が、刻明に記されている。

 当時、ミシンの量産がはじまったところで、アメリカ社会にとって、ミシンは「ヨーロッパに劣らないアメリカ文明」の象徴であった。
 一行は、サンフランシスコの造船局士官の家で娘がミシンで縫い物するところを見物。
 
其器きわめて簡便にして、足にて踏めば機関自然に転旋し、緩急意のごとく、其 奇巧なるに堪り(木村喜毅『奉使米利堅紀行』万延元年遣米使節資料集成所収)

 随行員勘定組頭森田岡太郎の記録によると、一行はワシントンで再度ミシン縫製を見学している。ウィラードホテル(Uillard Hotel)の縫物所における「ミシン見物」の様子は、アメリカの新聞に挿絵つきで報道された。
 森田岡太郎は、ミシンを「車仕懸ヶ之品」と表現している。

 新聞には、日本使節団ら一行が、ミシン縫をしている女性をかこんで眺めているイラストレーションが描かれている。(図版10)
 咸臨丸一行が見ているミシンも、イラストから、天彰院のミシンと同じく、ウィラー・ウィルソン社製であることがわかる。

 中浜万次郎は、自費により3台のミシンをサンフランシスコで購入。持ち帰った。これは第三者に転売されているので、「我が国初のミシンの輸入貿易」とも言える。
 買ったのは、東京愛宕下の軍服仕立業植村久五郎。

 植村は、大金120両を支払って買ったという。(『東京洋服商工同業組合沿革史』昭和17年による)
 幕末の貨幣価値に異同はあるが、幕末期には、1両=3~4千円なので、現在のお金にしても50~60万円ほどになり、高価な買い物であったことがわかる。仕立て職人が3ヶ月以上働いた手間賃に相当した値段だったのである。
 植村の一族はその後信用を得て軍服製造業の雄となったので、ミシンへの投資は大成功だったといえる。

2-5 開成所のミシン
 1864年、幕府軍は長州征伐に出陣するにあたり、軍装を洋装とすることを決定。人足2000人分の軍服が必要になった。
小伝馬町の幕府御用商人、上田治衛兵がこれを受注。
軍服の作り方も知らず職人もいない中、上田は、急遽外国人の古着を買って、糸をほぐしてばらばらにする。つてをたよりに足袋職人を集め、縫い上げたという。この時、ミシンが使用されたのかどうかは不明であるが、2000人分の軍服を短期間で縫い上げたことから、ミシンの使用も考えられる。
 以後、幕府は、軍装を整える必要に迫られた。

 幕府の開成所は、英語など西洋学問の習得・教授を目的として開設された。
 1867(慶応3)年には、「開成所物産学」教授を横浜へ派遣した。横浜に開業していた「西洋テーラー」の西洋人技術者にミシン縫製技術を習わせるためである。(「中外新聞」1968年2月)
 1868年には、ミシン講習を始めた。
 この時のミシンの呼び方は「シウインマシネ」である。

  西洋新式縫物
右機械はシウインマシネと名くる精巧簡便の品にて、近年舶来ありと雖も用法未 だ弘らす。依て去年官命を蒙り横浜において外国人より教授を受け、尚ほ又海内 為に伝習相始め候間、望の御方は開成所へ御尋ねなさるべき候。はては伝習の序 何にても注文次第廉価にて仕立物致すべく候。依て此段布告に及ぶものなり。
慶応四年二月 開成所にて 遠藤辰三郎 幕末明治新聞全集 所収』)

 開成所が輸入したのは、ドイツ製の「横引環縫ミシン」である。ドイツ語ではミシン「機械」にあたるのはmenschen(メンチェン)」であるが、開成所の機械の呼び方は「メンチェン」ではなく、「マシネ」になっている。
 明治政府も1871(明治4)年には、横浜居留地のドイツ人アーブルヒの貿易事業により、ドイツ製ミシンを輸入した。

幕府開成所以来のドイツ製輸入を踏襲したという面と、帝王像として模範とされたのがプロイセン帝国だったという事情があるのではないだろうか。践祚した当時はひ弱な16歳の少年だった明治天皇。明治元年の元服式において、お歯黒を染め、眉をそって描き眉をほどこし、白塗りの化粧していた。(武田佐知子『衣服で読み直す日本史』pp217)
力強い帝王像を明治天皇に持たせるために、模範とされたのがプロイセン帝国の軍服を着たフリードリッヒ皇帝像だった。明治政府が、軍制を整えようとしたとき、プロイセンの軍服とドイツ製ミシンを利用した。
明治天皇は、1870(明治3)年、東京駒場野における閲兵式のため、初めて宮廷外に姿をあらわしたが、この時はまだ、「直衣(のうし)と紅袴」という姿であった。(『明治天皇紀』)
明治天皇の軍服着用写真が撮影されたのは、1871(明治6)年のドイツ製ミシン輸入ののち、3年後の1873(明治6)年になってからのことだった。
天皇洋装化から、明治社会に洋装が浸透していく。

2-6 明治の洋装化とミシン
 幕末にはじめて日本へもたらされたミシンが普及をはじめるのは、明治期になってからである。

 明治初期のミシンは輸入のみであった。
江戸幕末の大砲職人、左口鉄造は、鉄を扱って大砲を作る技術を、ミシンの本体製造に応用した。しかし、国産ミシンの本格的製造は、明治後期になるまで停滞する。

 陸軍被服廠(ひふくしょう)など官による製造に転換するまで、明治期の軍服製造は「男性事業者」によって担われていた。
 また、紳士服仕立ても、横浜の居留地を中心に事業化されていったが、やはり、男性事業者、男性の仕立て職人が、制作を行った。

 明治初年に開業していた増田文吉、堰清吉、小沢惣太郎らは、いずれも横浜の外国人経営の紳士服店に徒弟として入り、ミシン縫製技術、紳士服仕立て技術を習得してきた。
 『諸工職業競・舶来仕立職』(国立史料館編『史料館叢書別巻1 明治開化期の錦絵pp16~17』(東京大学出版会1989年)の画面に描かれている仕立て職人たちは、6名全員が「和服」を着て仕事をしている。中央でミシンを踏んでいるのは、羽織を着た女性。
 こうもり傘職人、時計職人、いずれも和装であり、欧米風のものを作る側の職人たちにとって、「洋服、洋品」は、仕事上の商品であって、自分たちの日常の衣服とはなっていない。
 一方、伊勢勝から始まった靴製造や靴下制作は、武士が起こした産業であったために、職人たちは洋装している。洋装に対する武士と庶民の意識の違いが現れている。

 文明開化とは、電話や汽車など、まず欧米から取り入れた工業化製品として人々の周囲に現れ、次に生活文化のなかの欧風化として、着物を洋服に改めることが「開化」として受け取られた。

 明治の文明開化期には、東京浅草においてミシンは「西洋から来たものを縫ふ機械」として見せ物になった。庶民は、かたかたと自動的に布を縫い合わせる機械を見て驚嘆し、これぞ「文明開化」と木戸銭を惜しまなかった。

男性洋装化は、皇族華族らから、軍人・官吏、上層会社員へと広がっていった。
 警察官などの官員制服は明治初期より洋服であり、一般会社員の服も、身分が高い者から順に洋服になっていったので、男性用の洋服需要は大きくなっていった。
 女性の洋装化は、はるかにおくれた。明治天皇の皇后美子(昭憲皇后)は、天皇が軍服を着るようになった同時期に、洋服をあつらえたことが記録されているが、実際には公の場では着用しなかった。憲法発布記念の錦絵(1877年明治10年)などでは、袴と小袿(こうちぎ)姿で描かれている。
洋装して公の場にでたのは、1888(明治21)年ごろから。それまでは、和装であった。.

2-7 明治女子教育とミシン
 男性洋装は、明治末期にかけて次第に広がっていった。それに比べて、婦人服は、鹿鳴館のあと洋装は「皇室」などの女性が公式の場で着用するか、または、遊里の女性たちが、「目新しいもの」「物珍しいもの」を求めて着用するにとどまり、一般の女性には普及しなかった。

鹿鳴館時代の貴顕夫人の写真、長崎丸山の松月楼遊女の洋装写真などによって、当時の洋装を知ることができる。
 このような洋服は、仕立て職人を自宅に呼んで採寸、家庭内のミシンを使わせて仕立て上げる「入り仕事」と、呼ばれる「家庭内」の仕事にとどまっいた。

 明治中期からは女学校の「洋装制服」も広まり始め、教科として「洋裁」を取り入れるところも増えていった。
1886(明治19)年には、一関の知新女学校に洋服裁縫科ができ、翌年には東京にも、平島嘉平が「婦人洋服裁縫女学校」を開設。
 また、仕立て屋田中栄二郎は、自身の洋服屋内で洋裁教室を開いた。馬車に乗って通い、洋裁を習ったのは、貴族の子女たちであった。

 一般の女性にとって、洋裁を習うなどは、まだ遠い出来事であった。
一方、手内職としての和裁は、女性の職業として、洗濯洗い張り、髪結いなどとともに、「尊敬を受けない」分野であった。

 樋口一葉が、女所帯を支えるべく、仕立物を引き受けるようすは、一葉日記に詳しい。一葉は、歯を食いしばり屈辱に耐えつつ、内職の仕立てもの洗濯物を続けるほか収入の手段がなく、あとは借金を重ねるのみ。
 小説を書くことは、唯一、一葉にとって「誇りをもって収入を得る手段」であった。

 明治後期には、女学校での洋裁教育が始まった。 
1900(明治33)年の青森県立第一高等女学校の生徒規則(国会図書館近代文学データベース)によると、
一、ミシン使用者は、本科第三学年第四学年及ビ補習科ノ生徒とス
二、使用時限は、毎日裁縫教授時間、並ニ終業時間後一時間以内トス

とあり、貴重品のミシン使用には、イ~ホの5項目の使用細則、そしてミシン室の清掃に至るまで、細かい規定があった。

 1903(明治36)年になると、高等女学校教員資格を与える文部省検定の裁縫科試験に洋裁が取り入れられ、洋裁教育が本格化したことがわかる。
 また、女子教育界の先駆者津田梅子、鳩山春子、桜井近子も、飯島民次郎に洋裁を習っており、女子教育にとり洋裁伝習は、大きな魅力ある科目となっていた。

 私立の裁縫女学校でも、本格的な洋裁教育が始まった。
 伊沢峯子は、東伏見宮家からフランスに派遣され、万国博覧会の管理に従事した。パリで洋裁を学んだ伊沢は、共立女子職業学校、実践女学校、女子美術学校などで洋裁を教授した。

 アメリカで大きなシェアを占め、ミシンの代名詞となっていたシンガー社は、1900(明治33)年に、日本に支社を設立し、ミシン販売を始めた。1899年に外国人居留地制度が廃止され、外国人が全国どこにでも住めるようになったことを見越しての日本上陸であった。シンガー社は徐々に日本社会に入り込み、ついに、明治初期以来ドイツ製を輸入していた陸軍被服廠が、1920年頃にはシンガー社製に切り替えていった。
 しかし、一般家庭への普及をうががうシンガー社にとって、ほとんどの女性が和装である家庭には、なかなか入り込めなかった。
 洋服の普及していない日本社会で、ミシンはそうそう売れるものではない。

シンガー社は、洋服と洋裁を広めることが販路拡大の最大の方策と考え、販売店で洋裁学校を開いた。
 校主は泰敏之(シンガーミシン極東支配人)。
秦は、東京帝国大学出身でアメリカに留学したのちに、シンガーミシンに入社。
洋裁学校の校長は、校主の妻、秦利舞子であった。
 夫妻は洋裁指導者を養成し、指導者はイコールミシン販売代理業者ともなった。シンガーの販売戦略は成功したといえる。

 1907(明治40)年には、シンガーミシン裁縫女学校の新校舎設立。
 1909(明治42)年、秦利舞子はシンガーミシン裁縫女学校実業部より『みしん裁縫ひとりまなび』という独習書を出版している。(国会図書館近代日本文学データベースにて閲覧)

 アンドリュー・ゴードンの『ミシンの宣伝と利用から読み取る女性像』(『京都橘女子大歴史文化研究所紀要第14号』は、シンガーミシンの日本上陸後、「良妻賢母」「自立自活」の両面にとって、日本女性の精神的側面へ影響があったと述べている。
女子教育が、少数エリート層から中流層と広がる社会風潮とともに、ミシンは女性の良妻賢母をめざす女性というイメージをくずさないで女性の自立自活に果たすことのできる家庭内機械として、普及していった。

 1909(明治42)年発行の津永春枝『小供洋服並端物雛型説明』(国会図書館近代文学データベース)によると、
ミシン機械使用法について
ミシン機械はその使用熟練を期すべきは勿論なりと雖も、初心の間は、その運転 に無理のこと為すべからず      
と、注意を与えている。ミシンを利用しようとする人が増えてきたからゆえの注意書きであろう。

2-8 明治後期以後の女子洋装の拡大

 鹿鳴館の時代が短期で終了して以後、明治中期以後、女性の洋装化をもっとも早く取り入れたのは、看護婦制服である。
 女性の職業として、ナイチンゲールというロールモデルを持ち、機能的な動きが必要とされた看護婦に、洋装は不可欠だった。

 看護婦以外で洋装を必要としたのは、まだまだ、女優、西洋料理店女給仕など、「特殊」と見られる人々でしかなかった。

 1904(明治37)年に、飯田高島屋が売り出した「刺繍のブラウス一着4円45銭」が、我が国における「既製服」のはじめ。
 1897(明治30)年の小学校教諭給与は、尋常小学校男子正教員月俸8円、女子正教員6円、男子准教員5円、女子准教員4円という最低月俸額が決められていた。
 ブラウス一着買うには、女性教師は一ヶ月分の給与のほとんどをはたくことになる。

 明治ジャーナリズムが伝えた「貴顕夫人の洋装」「高価なミシン、高価な洋装」が、人々に与えた意識。
 まず、洋装が「お上」からの通達や「皇后のおことば」として国民に与えられたものとして出発し、「近代国家」「天皇制」と洋装が不可分に感じられたこと、近代的国家と近代的洋装が結びつき、洋装=「お国のために役立つ国民の服装」「高級な国民の衣服」という意識を刷り込んだ。

 また、洋裁技術を学ぶ女性は、「高等教育を受けた女性」として、エリート意識を持つ人々であった。伊沢峯子らは、「近代国家のための上流女性養成」をめざして洋裁教育を行った。
 和裁内職が「ほかに手に職のない女のなしうるカツカツの食い扶持稼ぎ」のイメージであったのに対し、洋裁業は、「時代の先端をいく職業」と見なされた。

 シンガーはじめ、洋裁学校が宣伝うたい文句としたのは「家庭での洋服づくりに。また、家庭内で仕立ての仕事を行えば、良妻賢母として夫につかえながら、収入を確保できる」という、「職業婦人として活躍するためにも役立つ」というキャッチコピーであった。
 実際、日清日露戦役の未亡人のなかには、看護婦学校へまた洋裁学校へと通い、自活の道をさぐる者も出てきた時代だった。
 ミシンは、「家庭婦人」「ハイカラな職業」「高級感」のイメージを同時に与える「機械」であったのだ。


2-9 大正のミシン
 ヨーロッパで、第一次世界大戦に出征した男性にかわって、女性が社会生活に進出できたことは、洋装史にとっても、大きな出来事となった。
 ヨーロッパ女性は、コルセットをはずし、機能的な仕事着としての服装を求めた。
 大正時代には、この機能的な市民的洋装が普及する。
社会の「大正デモクラシー」と、モダンボーイモダンガール(モボ・モガ)の風俗は連動して一世風靡した。

 明治後期に高等教育を受けた女性たちは、「職業婦人」と称されたキャリアウーマンとなり、続々と洋装化していった。
 読売新聞に勤務した望月ゆり子(1919(大正8)年に成女高等女学校を卒業)、大橋弘子(1919年青山女学院専門部卒業)らは、洋装がいかに職業生活に合致しているかを述べている。

 大正期の洋装の値段は。明治期の四分の一にまで下がってきており、決して「貴顕夫人」のみの持ちうる衣服ではなくなってきた。
 上記の望月ゆり子は、和装で着物長襦袢羽織一式を誂える値段の三分の二の金額で洋装一式がそろえられると述べている。(「婦人の友」大正8年11月)

 しかるに、やはり、これもエリートキャリアウーマンであるからこその弁であり、まだまだ、「銀座を洋装して歩くと、人だかりがする」時代であった。

2-10 大正から昭和へ、簡単服とミシンの普及
 一般庶民の洋装化を押し進めたのは、関東大震災であった。
 和服での避難が「動きにくく、ひらひらする袖や裾から火がつきやすかった」という観点から、一般女性の洋装が推奨される社会意識がようやくに起きてきたのである。

 震災後の1923(大正12)に、飯島婦人洋服店が既製服を売り出した。ワンピース(ギンガム地6枚はぎスカートとポプリン白襟白カフスつき)が1円の価格で売り出されたのである。うち、販売手数料30銭。飯島洋装店の卸値70銭のうち、仕立て手間賃10銭前後。

 大阪では、「アッパッパ」と通称される簡単服が売り出され、やがて全国的な流行となった。値段は、浴衣生地一着分の半値の80~90銭。
 この簡単服アッパッパは、高温多湿の日本の夏に、かなうものとして、その「スタイルわるさ」をしのいで人々に受け入れられた。浴衣よりも快適な衣服として、「アッパッパに下駄履き」というスタイルが、路地に出現した。

1924(大正13)年には、アッパッパが「流行語」として取り上げられているが、これは、ことばだけでなく、家庭着・簡単服として普及したとみなしてよいだろう。
 永井荷風は『?東綺譚』に、昭和初期のアッパッパについて記述している。
 『女子がアッパッパと賞する下着一枚で戸外に出歩く奇風については、友人佐藤慵斎(さとうようさい)君の文集に載っている。その論に譲って、ここには言うまい』(初出1936(昭和11)年 岩波文庫改版1991年 p103)

荷風には「下着一枚」」としか見えなかった「アッパッパ」は、揶揄嘲笑を受けながらも、洋服の大衆化を実現したのであった。
 昭和期には、このアッパッパの改良型が「ホームドレス」として普及した。

 震災後のアッパッパ流行と時期を同じくしたのが、ミシンの大衆化である。ミシン需要が急増し、新品はシンガー社がシェアをのばす一方、中古ミシンの大量輸入が、ミシン需要にこたえた。

 また、大正時代からミシンの国産が大量生産に入り、1921(大正10)年、東京滝野川でパイン裁縫機械製作所(現在の蛇の目ミシン工業)が、日本製ミシンの量産をはじめた。
 1930(昭和10)年には、「蛇の目ミシン」として製造・販売を開始した。
 これ以後、ミシンは国産品も、輸入品とともに割賦販売の普及とあいまって、飛躍的に利用が延びていく。

2-11 昭和敗戦、戦後期のミシン
 戦時中そして戦後期は、女性の社会進出が進む時代である。なぜなら、男性が出征して男性労働者が不足した社会で、女性がそれまで男性が独占していた職場にも進出することができたからだ。
 いったん社会に出て活動する場を得た女性たちが、出征していた男たちが復員後、仕事を失ったままで満足することはない。さまざまな社会進出が図られるなか、家庭にとどまらなくては成らない女性にとって、最良の「家庭内でできて収入の良い仕事」は、洋裁であった。

 ここにひとつのエピソードがある。『鳥取県議会史』上巻に記録された、時代を映す記事。「ミシン税」について。
  『 インフレの高進で財政窮乏に陥った鳥取県は、法定外独立税として庭園税とミシン税を新設した。唯一の女性県議田中花子は、決定時の県会を病気で欠席していたが、後にミシンをふむことによって家計をたてようやく厚生の光明を見出している未亡人にとり精神的衝撃が大きすぎると、再考を迫った。米子市の母子会も会員の免税を陳情した。税は1950年度分から撤廃された。 』

 ミシンに税をかけることで、何ほどの税収増になるのかはわからないが、「未亡人」
「母子家庭」にとって、ミシンでの家計維持が重要であることを事由として、ミシン税撤廃を申し出て、それが議会で賛成多数をもって撤廃されたという記事から、この時代の「ミシンの社会に果たした役割」を知ることができる。

 ミシン洋裁は、家庭婦人の「たしなみ」として洋裁教室は花嫁修業の必修科目となり、家族の衣服を主婦がミシンでまかなうことは家庭生活の重要項目となったのが、戦後期であった。以後、割安の既製服が一般化するまで、ミシンは家庭の必需品となった。


3 「ミシン」ということば

 咸臨丸による遣米使節随行員、森田岡太郎は、ミシンを「車仕懸ヶ之品」と記録した。
 開成所の縫製技術者募集告示では「シウインマシネ」表現している。

 さまざまな西欧渡来の文物が明治維新期に日本に入ったとき、政府官界が導入に力を注いだもののほとんどは、翻訳がなされた。

 明治期に、製糸工業が国家事業とされたのと同じく、「裁縫」が国家事業として発展したのであったら、sewing machineも「裁縫機」「縫製機」と翻訳されて広まったであろう。
 しかし、明治政府は、群馬県富岡製糸工場などで製糸事業を「国営工場」として殖産興業の見本としたにとどまり、「縫製、裁縫」を、民間事業のままとした。

、大蔵省主税局編集による『外国貿易概覧』は1890年に刊行がはじまり、ミシン輸入状況も記録している。
 「ミシン」という語が記録されているのは、1892年報からである。
  『縫衣機ハ二十年ノ輸入ヲ以テ最多額トシ、爾来漸々逓減セシカハ自ラ其不足ヲ告ケ、本年ハ聊カ増進ヲ呈スルニ至レリ。本品ハ俗ニ「ミシン」ト称シ、洋服及ビ洋傘等ノ工場ニ使用スルモノナレハ、神戸大阪等ニ増入ヲ見ルハ、蓋シ近時輸出額ノ著進セル洋傘工場等ニ於テ使用スルモノ多キヲ加ヘシニハ非ル歟(1892年、p500)。

 この報告では、大蔵省が「縫衣機」としている輸入品を、一般には「ミシン」と称していることが明記されており、すでに1892年には世間では「ミシン」という呼称が通用していたことがわかる。

 明治時代、洋装が貴族社会に広まると、sewing machine(ソーイング・マシン)の輸入も盛んになり、新聞や雑誌にミシンの広告が載るようになった。

 『写真で見る日本洋装史』に、明治初期における輸入ミシンの広告が載っていた。
 広告のなか、ミシンは「みしん」と表示されていたのである。
『大阪買物案内』に掲載された、大阪心斎橋に開業していた神田周蔵の輸入ミシン販売広告。7台のミシンの絵に「本縫足踏、手ぐり、貫縫ミシン」などの説明があり、カタカナでミシンと書かれている。

 また、別のミシンの絵には、「足踏器械針あしぶみみしん」「手繰器械針(てぐりみしん)」のふたつのミシンがあり、「器械針」には「みしん」と、平仮名のふりがながつけられていた。
 machineマシン=器械と、針を音読みで「シン」と読むことを合わせたうまい洒落になっていると思った。
しかし、「器械針」という表記は広まらず、「ミシン」「みしん」のふりがなのほうが普及した。

 世に出回っているミシンの語源。
 ウィキペディアをはじめ多くが、「ミシン」は、英語のsewing machine(ソーイング・マシン)の、「マシン」がなまったもの、と解説を書いている。
 ミシンは、「裁縫ミシン」とも呼ばれており、時を経る中で「ソーイングマシン」が省略されてミシンと呼ばれるようになったと。

 私は、『日本洋装史』のなかに、明治初期の輸入ミシンの広告をみて、「ミシン」は人々がつかっているうちになまって「ミシン」になったのではなく、最初から「ソーイン(グ)マシン=装員美針」「装引彌針」」などと、音訳されていたのではないか、と考えるようになった。
上記の「足踏器械針」に「みしん」というふりがながあったことは、幕末明治にミシンを使用していた人々(洋装を必要とした貴族富裕階級の夫人たちや縫製技術者たち)に、最初からこの器械が「みしん」として認識されていたのではないかと考えるのである。

 ミシンが日本にもたらされてから間もない戊辰戦争さなか、幕府開成所が軍装を整える必要を知り「軍服製造」のために縫製技術者を養成しようとしたとき、ミシンは「シウインマシネ」と表記されていた。
 明治初期に「みしん広告」が出されるまでの間、「人々が使っている内に、マシネがなまってミシンになった」と、いわれてきた従来の説を採用しがたいのは、「人口に膾炙」するほど、ミシン台数が日本には存在しなかったからだ。

 ミシンが「ミシン」と呼ばれ最初から外来語として普及したのは、明治初期には縫製業が官営とならず、陸軍被服廠が設立するまで、軍服製造も民間事業であったゆえと思う。
 その後、陸軍被服廠設立時、あるいは大蔵省が「縫衣機」と記録する以前に「ミシン」という語は、外来語のまま普及していた。

 なお、昭和期に陸軍戦車隊に入隊した司馬遼太郎は、『歴史と視点』の一遍「戦車この憂鬱なる乗り物」〔新潮文庫p32〕のなか、戦車隊ではミシンを「縫穿機」と呼んでいたと書いている。
 戦時中、英語由来の外来語は言い換えがなされた。言い換えのひとつが「縫穿機」だったのか、それとも、明治期大蔵省の「縫衣機」を陸軍では「縫穿機」と独自の呼び方をしていたのか、わからないのだが、軍部は「ミシン」を使用しなかったとわかる。
 
 
4 「みしん」記号論
 もし、明治期の西周や森鴎外、福沢諭吉などが、ミシンを翻訳して「縫製器械」として世にあらしめたのなら、ミシンの「家庭文化」でありながら、「異国情緒もある器械」というイメージが変わっていたかもしれない。

 「ソーイングマシン」は、翻訳語とならずに外来語、音訳語のまま一般社会に普及した。
 電話郵便鉄道などの「国家存続」に関わる大事業としてではなく、鹿鳴館舞踏会という前後20年にも満たない徒花のような「西洋化」のシンボルが「洋装」であり、ミシンは「洋装」とともに、世に知られるようになった。

 この「婦人ドレスの系統」では、「みしん」は、女性の手習い、女学校での「良妻賢母」のイメージとともに家庭にしだいに浸透していった。
 「ミシン」ということばには、記号的なイメージが両面的に備わっていた。
ひとつには、「女性性」「家庭的」というイメージ。同時に「和装から洋装への移動を実現する異国的魔法のような器械」である、という記号的なイメージが備わっているように思う。

 一方「富国強兵」の「国家大事業」に関わる「軍装」調達に活躍したミシン。
 軍服製造に乗り出したのは、軍服仕立業植村久五郎ら、衣服関連の職人出身の事業家たちだった。
 ミシン仕立て職人は、10歳くらいのとき親方のもとに徒弟として入り、使い走りから始めて、5~7年の年季で仕立てを覚える。年季あけには、1年のお礼奉公。これは、江戸の徒弟制度と同じ「男が一人前に手に職をつける方法」であった。
 1897(明治30)年代の徒弟奉公は、衣食住は親方もち。徒弟の一ヶ月の小遣いは20銭前後。

 お礼奉公をすませて一人前とされた職人の手間賃は、一日30銭。技術が向上した上級の職人は一日1円の手間賃を稼いだ。小学校教諭の給与が、男子正教員でも一ヶ月8~10円だったことを思うと、ミシン職人は、他の職人に比べて高い賃金を得ていたことがわかる。
 女性がこのような職場に入った場合、ボタン付け、裾かがりなど、ミシンという機械には触らせてもらえない補助的な仕事を与えられるにすぎなかった。

 ここに、「ミシン」の両義性多義性が立ちあらわれる。

 ミシンが「仕掛け」「機械」と認識され、「高い技術を持つ男の仕事」のイメージを保持する一方、貴顕夫人の部屋に飾られ、子女たちが競って「洋裁」を趣味として習いにいくような明治社会にあって、ミシンは、「家庭の幸福」「上流の家財道具」のイメージも担うことになった。

 このように、ミシンはひとつには男性技術職が専門的に取り扱う「機械」としてあり、もう一方では「家庭の幸福」の象徴であり、また一方で「自立する女性」を応援する「モダン」の象徴でもある。

 ミシンを使える女性は「男性と同じように、機械を支配できる専門的技術者」でもあり、「家族のために洋服づくりにいそしむ良妻賢母」でもありえた。

 インドネシア・バリ島でミシンによる衣料製造が盛んになったのは、1970年代以後のことであるという、中谷文美の報告がある。(女性歴史文化研究所紀要14号2005年)
 もともとバリ島では、衣服の調達、縫製は女性の手仕事によって行われてきた。各家の女性たちが手織りの布を織り、それを仕立てていたのも女性だった。

 しかし、ミシンが導入され、観光客のみやげ用や輸出用に産業としての「縫製業」が始まると、「ミシン技術者」として、男性が縫製の仕事を請け負うようになった。
 ミシンは機械なので、それは男性が扱うべきものだったから。もちろん女性がミシンを使いこなす例もあるが、多くは、「職業」としてではなく、家内の衣服調達の範囲にとどまる、あるいは内職仕立ての範囲内である例が多かった。

 以上は、インドネシア・バリ島の事例報告であるが、インドネシアでもミシンが「機械=男性」イメージと「縫い物=女性」イメージの両義を担っているという点は注目される。

 女性が職業進出をおもいたったとき、明治大正期には、教師、保母、看護婦、助産婦など「女性性」「母性」の範囲から逸脱しない職業であるか、従来の髪結い、仕立物などの「女の手仕事」になるか、選択肢の幅がせまかった。

 「糸挽き女工」は、官立富岡製糸工場にあっては、「女工は士族の娘とする」など、エリートであったが、大量生産時代に入ると、『野麦峠』などに語られるように、苦汗労働の代名詞のようになってしまった。
 唯一、「機械」と関わりつつ、自立する女性の職業として社会に認識される分野は、電話交換手、ミシン使用の洋裁仕立てなど、ごく限られたものだった。

 「ミシン」は、幕末の「御台所への献上品」の時代から、昭和戦後期の大量普及時代に至るまで、「機械」でありながら「家庭用品」、女の手仕事でありながら専門的技術、という両義性を失わなかった。

 フィンランドの女性作家トーベ・ヤンソンの「ムーミン谷」シリーズに、「ムーミンパパのタイムマシン」が登場する。
足踏み式ミシンを改良したミシン・タイムマシンは、足踏みして針がコトコト上下に動き出すと、時を越えて別の時空へとムーミンやムーミンパパをつれだすのである。

 このような「今いる現実とは異なる場所へ運ぶもの」としてミシンが「タイムマシン」の役割を担うことになったのは、ミシンに「違う世界への飛翔」にふさわしいイメージが備わっていたからだと思う。



5  文学にあらわれたミシン
 明治期の文学のなかにどのようにミシンが登場したか、どのようなイメージでミシンがとらえられていたのか、みてみよう。

1910(明治43)年12月発行 
モルガン著,元田作之進訳   神戸・日本聖公会出版社(国会図書会近代文学データベースより引用)
「勉強と遊技 第八章 ミシンと人形」
(冒頭省略)
諸君のうち、誰にても、ロンドンにて、ミシン屋の前を通行したることあるもの は、ミシンの柄を回転せしめつつある如く見ゆる所の大なる蝋製人形の美服を着 けたるものを見たであらふ。予は、一少女がこの種の活人形の働けるさまを興味 多く感じたるあまり、家に帰り手後、わが人形の手を母のシンガーミシンの柄の 上に起きて、ミシンの動き始むるを待ち居たりとのことを聞いた。この少女は、 その見たる店頭のミシンが電気の力によりて回転せしめられたもとの事実を知 らなかった。而して、人形を働かしたるはミシンにして人形がミシンを動かした るにあらざるを心づかなかった。
人形にても、ミシンにても、おのれ自らを動かすことは全く不可能にして、人、 もしくば、他の力の豫、これを動かしたるものあるにあらざれば、決して動き 居るものではない。


 著者「G・Eモルガン」について、キリスト伝道関係の人物と思われるが、詳伝不明。

 この「ミシンと人形」では、ロンドンのウィンドウ飾りになっている、手回し式(手繰り)について述べている。
ミシンが電動仕掛けになっていて、手回しハンドルには人形の手がくくりつけられている。自動で動くミシンがあたかも人形によって動ごかされているかのようにしつらえてある。
筆者は、人形が本当にミシンを動かしていると思いこんだ少女の「考えたらず」の非を述べ、物事の本質を見よ、という教訓を述べている。
「人形にても、ミシンにても、おのれ自らを動かすことは全く不可能にして、人、もしくば、他の力の豫、これを動かしたるものあるにあらざれば、決して動き 居るものではない。」

 このモルガンの書いた文章からわかることは、ミシンは「人が力を加えて動かすもの」の代表として文章に登場している点である。
 男性筆者にとって、「機械を正しく使いこなすこと」これが近代文明の要であり、「近代人たる資格」である。
 機械文明によって産業を興し、人の力を人以外のもの(人形のような)に及ぼしていくこと、これが近代の推進力であった。
 ミシンは、もっとも身近な「機械文明」の道具であった。

6 おわりに
 今回のレポートは、
「英語の具体的な語が、辞書でどのような訳語となっているか。その語が実際に明治・大正記の文学や他のテキストでどのように使われているかを調査し報告する」
「apple  bicycleなどの具体的な語をとりあげる」
という課題に添うべく、「sewing machine」をとりあげ、この語が翻訳されずに、「音訳語」に近い「みしん」として日本社会に普及定着したことを考察した。

 「ミシン」は、鉄道、電話などのように国家大事業の「翻訳語」となることをまぬがれ、「家庭の幸福の象徴」という地位を得ることができたのではないだろうか。

 ミシンは、女性にとって、モノを作り出し生み出すためのもっとも親しい道具であり、かつ複雑な構造をもち、いくらながめていてもあくことのない不思議な「機械」である。
 ミシンの両義性について考察できたことは、私にとってひとつの成果であるが、もうひとつの課題、「ミシン」という語の受容について考察するという点においては、まだ資料が不足している。
 今後は、この点について、明治期大正期の文学において具体的に描写されている作品をさらに捜していきたい。

<おわり>

7 参照文献・引用文献

岩本真一『十九世紀後半~二0世紀前半の日本におけるミシン普及の趨勢と経路pp112141』
経済史研究11巻(経済史研究会)2007
岩本真一『モードの世紀』http://www.mode21.com/
遠藤武, 石山彰『写真にみる日本洋装史』文化出版局1980
武田佐知子『衣服で読み直す日本史』朝日選書1998
中谷文美『インドネシア女性にとっての縫製労働の意味』(京都橘女性歴史文化研究所紀要14号)2005
中山千代『日本婦人洋装史』吉川弘文館1986(昭61)
畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書2007
山本博文『大奥学事始め 女のネットワークと力』NHK出版2008
アンドリュー・ゴードン『ミシンの宣伝と利用から読み取る女性像』(京都橘女子大歴史文化研究所紀要第14号)2005
モルガン(元田作之進訳)神戸・日本聖公会出版社(国会図書会近代文学データベース)1910(明治43)年12月発行