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写文ガルシア・マルケス(田澤耕:翻訳)2008/08/21

2008-08-21 13:20:00 | 日記
nipponianippon
G・ガルシアマルケス著
田澤耕:翻訳
辞書を「書いた」女性

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 三週間ほど前、マドリードに立ち寄る用事があったので、マリア・モリネールさんをたずねようと思った。しかし、彼女を見つけることは思っていたほど簡単ではなかった。知っていて当然のような立場にある人でも彼女が誰だか知らない人は少なくなかったし、彼女を有名な映画女優と混同する者まであった。苦労の末やっと、バルセロナで設計技師をしている彼女の末の息子と連絡を取ることができた。彼によれば、体調がすぐれないので、会うのは無理だということだった。私は、一持的な病気だろうから、こんどマドリードに来たときには会えるだろうと踏んだ。しかし、先週、ボゴダでマリア・モリネールさんが亡くなったという電話を受け取ったのだ。私は、自分が知らないところで永年にわたって私のために働いてくれた人をなくしたような気持ちだった。

 マリア・モリネール--この夫人は、ひと言でいうならば、ほとんど未曾有と入っていいほどの功績を残した。たった一人で、自宅で、自分自身の手を使って、もっとも完全で役に立つ、もっとも神経の行き届いた、もしてもっとも楽しい、カスティーリャ語(スペイン語)の辞書を「書いた」のである。その名を「スペイン語実用辞典」という。合計三千ページにおよぶ二巻の辞書で、重さは三キロもある。スペイン王立言語アカデミーの辞書の倍以上の亮を持つ、私の意見では、倍以上すぐれた辞書だ。マリア・モリネールは、図書館司書の仕事と、彼女が自分の本来の仕事だと考えていた靴下にツギをあてることの合間にこの辞書を書いた。その息子の一人に、最近、「君たちの兄弟の内訳は?」とたずねた人があった。すると彼は「男が二人、女が一人、それと辞書が一冊」と答えたそうだ。この答えにどれほどの真実がこめられているかを理解するためには、その辞書がどのようにして書かれたかを見てみなければならない。

 マリア・モリネールは1900年(彼女は「0年生まれ」という独特の表現を使っていた)、アラゴン地方の小村ベニサで生まれた。つまり亡くなったときには八十歳になっていたことになる。サラゴサで文献学を学び、国家試験に合格して司書の視覚を得た。その後、彼女は、「人間の精神の物理的基礎」という奇妙な分野を専門とするサラマンカ大学の著名教授フェルナンド・ラモン・イ・フェランドと結婚した。マリア・モリネールは、子供たちを、他の多くのスペインの母と同じように育てた。つまり、十分に手をかけ、多すぎるくらい食べ物を与えて育てたのである。スペイン内戦の、物資が不足していた時代でもそれに変わりはなかった。長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師となった。次男が大学へ行き始めた頃、マリア・モリネールは、図書館で日に五時間働いた後もなお、自分の時間が余っていると感じるようになった。そして辞書を書くことでその時間を埋めることにした。

 アイデアのもとは、彼女が英語を学ぶときにつかったLearner's Dictionaryにあった。これは実用辞典である。つまりことばの定義だけでなく、どのようにそれがつかわれるのかがシメされている。また、他のどんなことばで置き換え可能であるかということも書かれている。「この辞書は、文章を書く人のための辞書です」--マリア・モリネールは自分の辞書をさしてこう言ったことがある。もっともなことである。それに引き替え、スペイン王立アカデミーの辞書では、ことばは使い古され、まさに死のうとしているときなってやっと登録される。また、その定義は、釘にひっかけられた干物のように融通が利かないものだ。1951年、マリア・モリネールが辞書の執筆を始めたのは、まさに、そのような死化粧職人たちのやり方に異議を唱えるためだったのだ。彼女は二年で脱稿するするつもりだった。しかし、その十年後、作業はまだ半分しか終わっていなかった。「いつ聞いても母は『あと二年』と言っていました」と次男が話してくれた。最初は、日に二,三時間机に向かっていた。しかし、子供たちが次々に結婚して家を出ていくにつれて、自由な時間が増え、ついには日に十時間も辞書の執筆にかけるようになった。もちろん司書都市t五時間働く以外にである。1967年、彼女は、辞書が一応、完成したことを認めた。五年も前から待ち続けていた出版者グレードス社がついにしびれを切らしたのがその主因だった。しかし、彼女はカードをとり続けた。そして亡くなったときには辞書に追加されることを松ばかりのカードの鯖の厚みは数メートルに達していた。この奇跡のような女性は、じつは人生の時間の流れを相手に、速度と持久力を同時に競っていたのである。

 息子のペドロが彼女の働きぶりを語ってくれた。朝五時に起き、四つ切の紙をさらに四等分し、なんの用意もなくいきなり単語カードを作り始める。道具は二つの書見台と最期まで使い続けたタイプライターだけ。まず、部屋の真ん中の机の上で仕事を始めるが、本やメモの山ができると、二脚の椅子の背もたれに立てかけた画板を使い始める。夫は学者らしく例背に距離を置いているように見せかけてはいたが、じつは、ときどき忍び込んで、カードの束の厚みをメジャーで計りその結果を息子たちに伝えるのだった。あるとき、夫は彼らに、もう辞書はZまで到達している、と報告した。しかし、それから三ヶ月後に、またAに戻ってしまったと、がっかりして言ったのだった。それも当然のことだった。マリア・モリネールには独特のやり方があったからだ。つまり、毎tに地の生活で飛び交うことばを空中で捕らえるのである。「とくに新聞でみつけることばね」とある雑誌のインタビューに答えて彼女は言っている。「なぜなら、新聞には生きたことばが載っているんですもの。今、使われていることば、必要があって創り出されていることばが載っているの」。例外は一つだけ。いわゆる俗語である。いつの時代にもスペインでは、たぶんもっともよく使われてきた類のことばである。これは彼女の辞書の最も大きな欠点だ。彼女もそれに気付くのに十分なだけ長く生きたが、それを正す時間はなかった。

 マリア・モリネールは晩年をマドリード北部のアパートで過ごした。植木鉢でいっぱいの広いテラスがあり、あたかもことばを育てているかのように育てた。辞書が判を笠ね、彼女が目標としていた一万部を突破したというニュースは彼女を喜ばせた。王立言語アカデミー会員の中にも、恥じることなく彼女の辞書を引く者が出てきていた。ときに彼女のもとに新聞記者が迷い込むこともあった。そのうちの一人がたくさん手紙を受け取っているのに何故返事を書かないのかとたずねると、涼しい顔をしてこう言ったそうだ。「だって、私って怠け者だから」。1972年、彼女はスペイン王立言語アカデミー会員候補に女性として初めて推挙された。しかし誇り高きアカデミー会員諸氏には、男性優位の犯さざるべき伝統を買える勇気はなかった。今から二年前、やっと重い腰を上げて女性会員を受け入れたが、それはマリア・モリネールではなかった。マリア・モリネールはそれを聞いて大変喜んだ。入会記念講演をしなければならないと考えるだけでdぞっとしていたからだ。「私、いったいなんて言えばいいの。靴下にツギを当てることしかしてこなかったのに」と彼女は言ったのである。
1981年2月10日 「エル・バイル」紙
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[訳者注]
 最近の状況からは想像つきにくいことかもしれないが、1990年代に入るまで、我が国では西和辞典といえば、故・高橋正武が1958年に著したものしかなかった。(1978年に増補)スペイン語を学ぶ人、教える人、そして翻訳をする人が皆、これを使っていたのである。もちろん、貴重な辞書ではあったが、限界もあり、時の経過と共にそれが目立つようになって行った。いきおい専門家や上級学習者は、スペインで出版されている西西辞典に頼ることになるが、じつは彼の地にもそう優れたものがあるわけではなかった。そこに現れたのがこのマリア・モリネールの実用辞典である。正確な語義はもちろんのこと、例文、慣用句が豊富なうえ、用法に関する、痒いところに手が届くような丁寧な記述まで盛り込まれたこの辞書の出現はまさに僥倖であった。スペインには現在よい辞書が少なくないが、いずれも多かれ少なかれ、マリー・モリネールの辞書に負っている。
 この記事は大学院の授業の準備をしているときに資料の中から出てきた。四半世紀前のものだが、興味深いので訳出した。(G・Garcia Marquez・作家)

(たざわ こう・法政大学・辞書学・カタルーニャ文化研究)
" La mujer que escribio un diccionario" by Gabriel Garcia Marquez. C1981 Gabriel Garcia Marquez. By permission of Agencia Literaria Carmen Balcells,S.A., Barcelona, through Tuttle-Mori Agency,Tokyo