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「収用」Eminent Domain2008/08/02

2008-08-02 12:20:00 | 日記
収用」について

「公共とプライベート」「おおやけとわたくし」というのは、私有制が始まったときからの大きく深い問題であるわけですが、「おおやけ」の中に取り込まれてしまっている者には、天動説のごとく、地球のまわりを太陽が動いているようにみえてしまっています。

 現在、先般おしらせしたアボリジニアートについてブログ連載しているところなので、アボリジニにとって公共の大地、「みなのものであってだれのものでもない」土地を、イギリス人アイルランド人たちが「法律によって正当に」公共所有物私的所有物とした経緯について考えているところでした。

今年2月に、オーストラリア政府は「アボリジニの土地に、勝手に首都キャンペラを建設した」ことを公式に謝罪しました。

 キャンペラ建設地だけでなく、オーストラリア全体がアボリジニからの収奪であるわけですが、キャンペラという「公共のための土地収用」経緯のはっきりしている土地についてだけでも、それが不正義であったことを認めただけでも一歩前進と言えるでしょう。

 先生のリポートによって、これから私たちが考えていかないことがらについて、示唆をいただきました。

 土地収用の問題だけでなく、日本中にアメーバのように増え続けている監視カメラその他、個人プライバシーと「おおやけ」とのせめぎあいの問題も含めて。


 「収用」ということばで思い出すこと。
 先日『ミリキタニの猫』というドキュメンタリー映画を見ました。

 ミリキタニは、ニューヨーク下町のホームレス画家。wwⅡ戦時下、強制収容所にいれられた広島出身者の移民を両親とするミリキタニ。本人はアメリカ生まれで市民権を持っていたのに、収容所を出る条件として、市民権のIDカードを没収されてしまいました。

 そのため、ミリキタニは「自分にはアメリカ在住権がない」という意識のままホームレス生活を続けてきました。

 収容所での市民権放棄は法的に拘束力のない不当なものであり、ミリキタニには市民として保護を受ける権利があったにもかかわらず、本人はそれを50年間も知らないままホームレス生活を続けていた。

 アイヌ、アボリジニ、強制収容所でIDカードを奪われた日系移民、、、。

「収用」ということばで連想されるのは、「結局のところ、収用ということばでプライベートな部分を侵害され、公のためにと、土地やアイデンティティを奪われるのは、マイノリティ、弱者の上にのしかかってくることだなあと感じ入りました。

『窓』の写真がネットでは見ることができないのは残念ですが、ニューヨークからのレポート、感銘深く読ませていただきました。