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気分はいつも、私次第

今の自分、気に入っています

のっぽのアリス

2006-03-18 13:13:59 | マンガかぁ
            「のっぽのアリス」  吉田秋生



 漫画家さんや作家さんに中には、もう書くもの描くもの大ヒットで、もう雑誌の看板作家。長編は、どれも代表作、なんて人達がいる。そういう人達の作品で、初期に書いたものや、短編が妙に気にって、自分にとって、その作家の1番好きな作品になっているものがある。この「のっぽのアリス」の、私のとって、そんな作品である。作品を所持していないので、うろ覚え。

 ストーリーは単純明快。少年は、3人の姉達におもちゃ扱いされ、毎日面白くない。学校へ行っても、男勝りで背の高いアリスが、小柄な少年をからかい、それも面白くない。

 ある日、アリスの父親が急死(入院?)し、少年の母の善意により、アリスはしばらくの間、少年の家に引き取られる事になった。姉達にも負けないアリスに、少年はお手上げ状態。しかし、ある日、アリスが内緒で姉の一人のワンピースを着込み、ポーズをとっているのを、少年は見てしまった。似合わないぞ!的にからかう少年。いつも通りアリスの反撃を期待(?)していたのだが、アリスはパッと外へ走り出してしまう。追いかけてアリスに追いつくと、アリスは独り言の様に話す。『母さんが死んで、私は父さんと2人暮らし。可愛い洋服や髪形、女の子らしい話し方や振る舞いを、私は知らない。母さんが居てくれたら・・・』

 その後アリスは親戚に引き取られる事になる。アリスを以前ほど嫌いじゃなくなった少年は、しかし満足に別れも出来ない。その夜、少年はベットに便箋とペンを持ち込み、アリスへの手紙を、書き始める。

 『なんて書こう。最初は、友達になって下さい、だな』

 考えているうちに、眠くなってウトウト。その頭には、アリスより背が高くなり、アリスと立つ自分の姿がある。

 『その後は、どう書こう?大丈夫。まだ時間はたっぷりあるから・・・』


 こう言う、まぁ平凡(ごめんネ)ストーリーだが、やはり、私は好きだな。これを吉田作品で、1番好き、と言う事に、我ながら躊躇するが・・・。初期の吉田氏は、短編でコメディや、おとぎ話風は作風もあった。長編では、ハード作品がメインになっているが。そう言うハードで、面白いが時には悲しい話を、素晴らしい筆致で描く反面、初期ではあるが、この作品ようなものも描いてくれる。それが、吉田氏の魅力だと思う。何を描いても上手い!本当に上手い!!デビューから読んでいるが、その姿勢が一貫しており、読んでいて満足度が、非常に高い人だと思う。

 何かのインタビューで読んだのだが、締め切りを破った事は1回も無いとか。理由は、締め切りに間に合わないと言う事は、編集さんや会社、印刷屋さん等に迷惑をかける事。自分にもマイナスになる事。どうせ仕上げなければならないのなら、守るのが当然では?と言う内容だった。その言葉に、プロとして、と言う以上に、人間として「当然」と言う意味合いが浮かんで来た(私が、勝手にですがね)これを読んで、益々吉田氏が、そして作品が好きになってしまった。

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ルシール・ベルヌイユ

2006-03-12 12:15:42 | マンガかぁ
          「からくりサーカス」   藤田和日郎

 言い訳のような「はじめに」:コミックスが40巻以上出ている作品の背景なんて書けませんし、書く気なし。ルシールに拘る事に終始。


 20巻目において、ルシールは敵を追い詰める。彼女の村を壊滅に追いやったのは、自動人形と呼ばれる4体の意思を持つ精巧な人形達。彼女はそこで夫と息子を殺されている。そして生き残った村人達と復讐を誓い、それ以来人形達の集団を追い、破戒するのが彼女の生きる意味となった。 そして、目の前に彼女の敵である、人形ドットーレが居る。

 生き残った村人達と復讐の毎日を繰り返すうちに、同じような境遇の仲間が集まり、協力し合うようになった。ルシールは、気丈な女性であり、組織化されてゆく中で、次第に頼られる存在となっていた。組織全体の利益を考え、時には個人の情を振り切り、非情とも言える命令を下す。それは、組織を運営し、復讐に早く近づく為の方策かもしれない。

 作中、ルシールは復讐を誓ってから200年経った、と回想している。姿は老婆です。人形と言う特殊な敵を倒す為、彼女達は、対等の力を持つ武器の操り方、そして5年に1度しか年を取らないと言う体になっている。ルシールは、ドットーレと対峙した時、もうボロボロ状態と言う訳。

 それまで、個人的な感情や恨みは出さないルシールが、対決が目前に迫ると、チラチラと思い出回想や子供への思いを少し出すようになっている。そしてドットーレとの戦いにおいては、もう組織や仲間、全体に勝敗の事は考えていない。自分の目の前で、息子の首を刎ねたドットーレの破戒しか考えていない。勿論、相打ちも覚悟。叫ぶのでもなく、ドットーレを大声で非難する事無く、ただ自分の心に浮かぶ、息子の最期の姿を繰り返し思い浮かべるだけ。 ドットーレの攻撃を受け、「痛いだろう、痛いだろう」と蔑むドットーレに、「あぁ、痛いネェ」と応えるルシール。『でも・・・あの子はもっと痛かっただろうに・・・』息子の最期を思い浮かべながら耐える。

 ルシールの最期の物語は、衝撃的だった。今までの無表情さや冷血さを、かなぐり捨てたように、ただドットーレ1体だけの破戒を求める姿は、胸に残った。ルシールは200年、ただドットーレを壊す為だけに生きて来たのだ。本当の人間の執念とは、こう言うものではないかって見せられたような気がした。私も母であり、この事もルシールに思いを募らせる要因にもなった。彼女に母としての子供に対する、もう表現できない感情を見せられ、教えられたような気がした。

 ルシールとドットーレは相打ち状態となり、倒れる。細かく言うと、ドットーレは人形なのだから、また「直せば」復活できる。ドットーレの仲間3体は、この戦いで破壊されたが、後に彼らの「創造主」のよって復活している。しかしドットーレは復活できない。ルシールは最後に、ドットーレが自らの意思で動ける源、作中では「自動人形の主・フランシーヌ人形への忠誠」と呼ばれる「感情」を、見事に粉砕し、ドットーレはフランシーヌに泣きながら言い訳の言葉を口にし、動かなくなっていく。仲間の3体は、言う。「ルシールはドットーレに最後の贈り物を渡したのだな。『絶望』と言う人間の心を・・・」

 私の中では、見事な復讐でした。このルシールの復讐劇がある限り、「からくりサーカス」は一押し!となっている。あの、主役は加藤鳴海って言う人です。念の為。

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アレクサンド・アンデルセン神父

2006-03-10 17:36:19 | マンガかぁ
             「ヘルシング」  平野耕太


 言い訳のような「はじめに」:多分~姫様が読んでいたら、鉄の侍女がババッ!と取上げて「姫様!読んでは成りませぬ!!」とか言ってバンバン踏み付けて、ボロボロになった本を「燃やして御仕舞いなさい」と召使に渡すような本、だと思う。高貴なお方&高潔なお方&又は、それに準するお方は、御遠慮下さいませ☆


 <第1の勢力>「英国王立国教騎士団」通称ヘルシング機関。大英帝国と国教(プロテスタント)を脅かす化物共を葬る為の特務機関。局長はインテグラ・ヘルシング卿。21歳(だったかな)の女性。代々局長やっているみたい。主な人員は、ヘルシング家執事で元機関有力メンバーであったウォルター(今もバリバリ)次に(ってコレが主役だが)ヘルシング一族が100年かけて作り上げた吸血鬼アーカード。インテグラの言う事しか聞かない。そして元婦警でアーカードにより女吸血鬼となったセラス(可愛いが今は極悪)

<第2の勢力>ヴァチカンの非公式特務実行部隊・イスカリオテ第13課。お仕事は、悪魔退治・異教弾圧・異端殲滅。長はマクスウェル。過激なとか狂信的なんて言葉じゃ語れない方々が多数。

<第3の勢力>元SS(ナチス親衛隊)の少佐。従えるのは、魔物と言うか化物と言うか・・・。「不死者の軍隊を作り、戦争に投入しよう」と言う命令を再び実行し、第三帝国実現を目指す者達。って、少佐自体がもう人外だろうから・・・。行く先々で不死に目が眩んだ人間をグール化し、戦闘に投入している。

 この3つの勢力が三つ巴です。このマンガに対しての決り文句は「狂気」そうだろうネェ。この勢力説明書いていても、常識を語るマンガとは言えないよねェ。第3の勢力は第2次世界大戦中、この計画を初期化していたのだが、アーカード&ウォルターを主としたヘルシングに潰されてしまい、断念。で、少佐はヘルシング&アーカードを標的としている。そこへ、無視された形のバチカン勢。まぁ普通に考えるならば、1&2が協力して、3に対峙するなんだけど、バチカンには思惑がある。『英国を異端者や化物共から欧州へと奪還する』と言う『レコンキタス』である。ホォ。ここでレコンキタスが出てきたぜって気分。英国国教(プロテスタント)からカトリックへの奪還ね。初期段階では、1と2はこの問題で激しく争っている。

 私はこの作者の作品は、これしか読んでいないのだが、こう言う路線の作家さんだそうです。ヘルシングは「狂気」を見事に仕上げていると言う話。コミックスは白黒だから、血飛沫も内臓も、それ程脅威ではないけれど、はやり絵で見ると、それなりの感情は沸いて来る。映画「プライベート・ライアン」の冒頭の30分と言う印象もあるし。

 マンガや書籍で「この戦闘で○○人が犠牲となった」「この空爆により○○万人が犠牲となった」と書かれている事が、絵として表されていると言う考えを、この作品に対して私は持っている。先程書いたが、絵で、視覚的に認識するから、まぁ思わずグッとなるシーンもある。しかし、僅かな文字数で「○○人の犠牲者」「○○万人が被害に」と書かれている方が、怖くない?私は、そちらの方が怖いナァ。それよりも、こうやって絵で見る方が怖くないように思っている。まんが1コマで、「こうして民間人も含め、○○人が犠牲となった」と書かれている方が、綺麗だし読者も怖くないけれどね。

 この作品はセリフに素晴らしさにも定評がある。アーカードが敵(3)との戦い時の話。何も知らない民間の警官隊が、不死に目が眩んだ上層部の命令でアーカードに対峙する。
「・・・・これから殺そうとする連中は、ただの普通の何もわからぬ人間達だ。
 私は殺せる。微塵の躊躇も無く、一片の後悔も無く・・・・この私は化物だからだ。
 では、おまえは、インテグラ。
 銃は私が構えよう。照準も私が定めよう。
 弾を弾装に入れに入れ、遊底を引き、安全装置も私が外そう。
 だが、殺すのはおまえの殺意だ。さあ、どうする。命令を!!」
アーカードはインテグラに、こう迫る。こう言うセリフは、真理だねって思う。こう言う風に、この作品は、本当の事、真実な事がセリフに散りばめられている。設定等で敬遠されるだろうけど、本当は多くの人間が多分見たくない、自分の中に認めたくない部分を、見せ付けられるような場面やセリフに、嫌悪を感じるんじゃないかなって思う。

 で、アンデルセン神父。バチカンのイスカリオテ13課の化物専門の戦闘屋。第13課の対化物の切り札。一応聖堂騎士。普段はローマ近郊のカトリック系孤児院で、子供達に主の教えを諭す優しい神父さん。2m位の大男で無精ひげ面。バチカンが生物工学の粋をこらした自己再生能力あり。インテグラが化物呼ばわりしている。アーカードも神父と戦う時はとっても楽しそう。
 
 アンデルセン神父の名セリフは・・・1と2が話し合いをする時、護衛として双方アーカードとアンデルセンを従えて来た。しかし両者、相手を見た瞬間戦闘モード。止めるマクスウェルに対して
 「一撃で何もかも一切合切決着する。
  眼前の敵を放置して何が13課か?何が法皇庁か?」
・・・マクスウェル、インテグラに「ここは一旦引いてくれ」状態・・・

 私はこのアンデルセン神父が、作中1番常識派に見えるだが・・・
インテグラもそうだが、人間であるって事に拘っているのが、好きなのかもしれない。神父がいるから、読んでいると言っても過言ではない位、好きかな。もし倒れるのなら、人間のまま倒れて欲しいです。なんかマクスウェルの幼少時代と関係があるような・・・そこも良いぞ!   

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ロドリゲス・デ・カストロ

2006-02-24 17:23:56 | マンガかぁ
           青池保子  「アルカサル ―王城―」


 言い訳のような「はじめに」:今回は「アルカサル」のロドリゲスで、書いてみようと思います。マンガのキャラ、ですね。そんなにヒドイ内容にはならないと思うのですが、「私のロドリゲスになんて事を!許さないわ」と思われるようになる予想がある方は、御遠慮下さいませ。「もう、怖いものは何もない」と仰る方は、どうぞ。今回は、軽い焼き菓子とアップルティーを御用意しております。


 殆どの人が「好きヨ。ファンだわ」と思っていると考えられるキャラ、ロドリゲス。私もエンリケにコロリンする前は、第1好きキャラでした(過去形かい!)

 私は、彼の事を「相対する者」と思っている。先ずはエンリケと。エンリケの、常変わらない傲慢や裏切り等に対して、ロドリゲスの騎士道を彷彿させる言動&思考は、もう対照的ではなかろうか。エンリケが非道に走れば走るほど、ロドリゲスの潔さや仲間を案ずる気持ちが際立って見えてくる。反対に考えれば、ロドリゲスの高潔さのイメージは、エンリケと、正反対(涙)と言えるとも思う。
 
 次にドン・ペドロと。これは女性関係に関してである。王様の情熱的且つ蕩けそうな口説きに対して、ロドリゲスは恋する少年ではないが、何とか自分の気持ちを分かってもらおうと言葉を探し探ししている様子だ。カタリナの時は、カタリナが「お兄様の言う通りにします状態」だったので、それほど御苦労はなかったのかな。王様の様に、押し倒せば良い、とは考えていないようだ。読者は王様の愛の言葉にウットリドキドキ状態になる事も好きだろうが、ロドリゲスの誠実な姿も好ましいと思うのではないだろうか。追加として、視覚的にも王様と相対していると思う。髪や瞳の色とかも含めて。感情をさらけ出す王様の横で、静かに(冷汗流しながら)佇むロドリゲスってイメージがあるのだが・・・。私だけ?

 このようにエンリケ&ドン・ペドロが、それぞれ本領発揮すればする程、本人達と共に、ロドリゲスの魅力も相乗効果になっていると考えている。

 それから、これは最近思っているのだが、ロペスとも。これは王様への忠誠、と言うか・・まぁ忠誠かな。これから大変な御苦労続きの王様に対して、この2人はどう応えるのだろうか。忠誠の気持ちは同じだとしても、考え・行動等・・・・違いが出てくるのでは、と考えている。ガリシアの大貴族様としての意識が、彼にどうのような行動を取らせるのか、も再開後の私のポイント点の1つである。

 12巻まで読んでいる限りでは、好青年間違いなし!ですよね。正直、アラベラが羨ましいわ、と言う気持ち。特に12巻は楽しい。ロペスがアラベラ義姉上に密かに思いを寄せていたら、どうなったのだろうか、とこればかり考えている。ロドリゲスは王様御推薦がなければ、アラベラと結婚しなかったのかしら?アラベラとしては、無味乾燥会話のロペスと居たから、ロドリゲスの優しい会話、それから推測される人柄に惹かれたのだろうね。多分夫であったロペス兄も、ロペスと同じではなかったかと、勝手に想像。ロドリゲス、アラベラと一緒に、サンティアゴ・デ・コンポステーラ行ってね、と陰ながら祈っている私。

 濃いキャラの中で、ホッとできる存在。私は密かに「アルカサルのA君」と呼んでいる。この安定感は、作品の中でも貴重である。
 私もロドリゲス第1好きを止めなければ、こんな苦労も・・・(涙目)

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エンリケ・デ・トラスタマラ <その2>

2006-02-23 16:56:59 | マンガかぁ
        青池保子   「アルカサル ―王城―」
        メリメ    「ドン・ペドロ一世伝」  


言い訳のような「はじめに」:<その1>同様、危険のある方は、御遠慮下さいね。かまわないゼ!と仰る方は、どうぞ。光沢も鮮やかなベリーベリータルト&濃いコーヒー(もちマグカップ)を御用意しておりますよ。


 さて、今はエンリケ擁護に走り回る私だが、最初は全然関心がなかった。薄いキャラだナァと言う程度である。ドン・ペドロが頑張れば頑張る程、エンリケの薄さが目立って仕方がなかった。視覚的にも、そう好みとも言えないし・・・。一応、「義」とか「徳」とかを背負うキャラが好きなんですが・・・。

 ちょっとエンリケ視点で読んでみよう、と思いつき、読んでみたのが分かれ道。アレ、この薄いの、結構苦労人だわね。脇キャラだから描かれないだけで、苦労しているんだ。この難易度高得点的性格じゃ、さぞかしご苦労な事だろうよ。それに、1~2巻じゃ、性格悪いが、笑顔もあるし、ファドリケと話している時は、なかなかいい顔しているんだ。等々、ちょっと見直してきた所に、オォ!コレは!!と、コルドバで水浴びを見たロドリゲスのような声を挙げてしまったシーンがあった。13巻収録予定(頼むよ)の、エンリケと妹カタリナのの関係である。12巻で少しカタリナに迫っていたが、今度は本格的だ。キャッ!じゃなくて・・・(コレもあるが)今後、作者はエンリケをどのように描くのだろうか、と言う事への興味がダダダッと湧いてきたのだ。

 人類のタブーの1つをエンリケに犯させて、どういうキャラとして描くつもりなのだろうか。性格破壊者又は異常者として、描くのだろうか。叶うはずもない王位を執拗に狙うのは、異常者ゆえの愚行であるのか。いや、それはないだろう。ただ欲しいと駄々を捏ねるだけで、王位が巡って来る訳ではない。では、どうし様としているのか。エンリケはどういう男なのだろうか。もう興味がこの点に集中してしまった。

 他の主要キャラは、描き方の素晴らしさで、性格&行動&考えは、大体分かってくる。しかし、エンリケは分かってこない。妹との関係がそれに輪をかけてくれた。単にこのまま、性格の悪いキャラとして終ってしまうのかもしれない。私が、エンリケに対して、勝手気ままに思いを巡らすのは、もしかしたら「会議は踊る」状態なのかもしれない。しかし、もう止まらない。私は、もうエンリケにシッカリ捕まってしまっている。もうどうしようもない。

 私も多くのファンの方々同様、「アルカサル」の再開を待ち望んでいる。青池氏が「アルカサル」を描き切って下さる事は、ドン・ペドロの生き様を描き切る事、そして私にとっては、それ以上にエンリケを描き切ってくれる事である。エンリケが王位を奪取する事は、もう分かっている。分かっていても、それまでの過程は、まだ描かれていない。勿論、ドン・ペドロが倒れた時、この物語は終るのだろう。その後のエンリケの事は描かれる事はない。この王位に執念を燃やした男が、王位を得た後に、何が残っているのだろうか。しかし、それは描かれる事はない。それならば、せめて、王位を得るまでの生き様を描き切って欲しい。私が「アルカサル」の望む、最大の思いである。

 「2001年の大パーティー」は、多くのファン同様、私にとって至福の作品である。「アルカサル」で私が愛する2人のキャラ、エンリケとロドリゲスの和やか2ショット!の1コマがある。嬉しい同時に、今後絶対ありえないと言う確信が悲しい。今度この2人が顔を合わせる時は、多分殺し合う意志があるのだろうから―。

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エンリケ・デ・トラスタマラ  <その1>

2006-02-21 14:13:41 | マンガかぁ
           青池保子  「アルカサル ―王城―」
           メリメ    「ドン・ペドロ一世伝」


 言い訳のような「はじめに」:熱烈な王様ファンの方には、御不快な表現があるかもしれません。そのような思いをされるとお考えの方は、御遠慮下さいね。ドンと来い!と仰る方は、サァサァ、どうぞ!今日はエンリケなので、お紅茶とケーキがありますよ(笑)

 
 さて、「アルカサル」キャラ、トップと飾るのは、エンリケ・デ・トラスタマラ伯爵。我らがエンリケ様、で御座います!(お願いだから拍手して~)「七つの大罪」のうち、大食と怠惰以外は、全て兼ね備えていると言う大人物。実の弟妹には「自分のことしか考えん冷淡な奴」「自分だけいつも安全圏に身をおきたがる兄」「・・・偽善者だ・・・身のほど知らずの強欲者なのに・・・」「・・・嫉妬深いのよ・・・私はなぜあんな男を兄に持ったのかしら・・」長年仕えて来た家令には「・・・幼い頃からお仕えしてきた私でさえ、その執拗さにはたじろぐものがある」そして、苦労ばかりなのに真摯に尽くしている妻からは「・・・不幸な方・・境遇よりもそのお心が・・」、と、散々な言われようである。加えて敵であるドン・ペドロ側からは、もう言いたい放題の言葉を浴びせられている(だから書かない・笑)追い討ちをかけるように、作者からは「ハンサムにしすぎたと後悔している」そんなエンリケに愛の手を!が主旨であるが、道は険しそうである・・・
 
 エンリケの位置は、義弟であり現カスティリア王であるドン・ペドロの対抗者である。性格的&視覚的にも現れている。しかし表現の違いはあれど、兄弟と感じさせる面も存在している。エンリケが庶子でありながら王座を目指すのは、確かに実現不可能&非常識。ましてや、正統な王が存在し王位に付いているのだから、考え違いもいいところだ。しかし、エンリケは「より相応しい者が王になるべき」と考えている。つまり正統な王より、自分の方が相応しい資質があると思っているようだ。この考えは、ドン・ペドロの考え方にも繋がる。周囲(特に教皇関係)からの非難を意に介さず、能力あるユダヤ人を重用し、優れていればイスラムの文化や建築方式を取り入れる。「より才能あるものが、行うべき」と言う考えは共通していると思うのだが。そして、エンリケが執拗に根性で諦める事無く王位を目指す姿や弟妹&妻等に絶対服従を求める姿は、ドン・ペドロが裏切りを許さない&慈悲はないと言う姿と、根底は同じものが流れているように私は思う。違って見えるのは、立場の違いからだろう。王権を維持する者と、王権を奪取する者の違いが。

 また対抗者としての立場は、アラゴン宮廷でも同じである。アラゴン親王フェルナンドとの関係は、宮廷内ではあるが、しっかり対抗者である。この様に、ドン・ペドロに比べると、独り立ちできないキャラになっている。この事は周囲、そしてエンリケ自身からも繰り返し話されている。

 そして、エンリケ好きにとって、非常に残念無念この思いどうしてくれましょう!状態なのが・・・エンリケの心を伺わせるエピソードが、戦いや立場の変化、または悔しさ等に限定されて、妻や子供とのほのぼの交流等が無い、と言う事である。庶子がいるのだから、愛妾もいるんだろう。しかしエンリケが愛妾を口説くシーンなど何処にも無い。王様、口説きシーンをエンリケに分けてやって下さい!と敵に縋る思いである(求む・同志)アラゴン王は、少しだが家庭交流場面があり、読者の笑いや共感、親しみを感じるかと思うと、アラゴン王にさえ、嫉妬する次第である。そりゃフェルナンド親王等にはないが・・・アノォ一応エンリケは、準主役(では無いの?涙)なので・・・何とかして欲しいと懇願するのだが、エンリケ=準主役という私の考え自体が間違っているのでしょうか?こう言うシーンがあれば、エンリケファンは感涙ものなんですけど・・・。たとえ1シーンでも良いから。こんなに控えめなファン心理・・・健気である(笑)

 それにエンリケの為に援護するが、幾らドン・ペドロに従わない貴族達がいても、能力のない者を対抗者にはしないのではないだろうか。庶子と言えども、何とかなるのでは?と思えるものがエンリケに備わっているのだと、思っている。

 話が進むに従って、エンリケは確実に対抗する力を付けている。それでも、頭を下げ、愛想笑いをし、金策に走り・・・・幼い時には「王の長男」として育った彼には、不本意でもあるだろうし、今は役に立たない誇りが邪魔する時もあるだろう。王様も大変。それは分かっている。でもね、エンリケも大変なんだよ。


と叫んで、<その1>終ります。<その2>に続きます。
やはり1回では終らなかったか・・・。エンリケでこの調子では・・・不安が一杯。 

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アルカサル ―王城―

2006-02-20 13:58:49 | マンガかぁ
          青池保子  「アルカサル ―王城―」
          メリメ   「ドン・ペドロ一世伝」


言い訳のような「はじめに」:「アルカサル」には、私よりもっと熱い思いを抱いておられる大勢のファンの方々が居られます。登場人物に熱い思いを抱いておられる方々が居られます。この文章には、そのようなファンの方々が不快に思われる表現があるかもしれません。そう言う思いをされる、とお考えの方々は申し訳ありませんが、御遠慮下さいね。それを御了承される方々は、ズズィッと奥まで、どうぞ。それから、キャラ個人の魅力を語ってはおりませんので☆☆☆


 「アルカサル」は、私にとってベスト3に入るマンガ作品だと思っている。しかし、何故この様に気に入ったのか良く分からなかった。そこで、派手なドン・ペドロ中心の視点から、エンリケ&アラゴン側の視点に切替えて読む事にした。そうすると、ちょっと何か見えてくるような気がした。そして、もう1つ。どうしても気になる文章があった。第4巻にある、ホイジンガ「中世の秋」の一節である。『・・・人々の生活は激しく多彩であった。血の匂いとばらの香りを共におびていた』もちろん、ドン・ペドロの人生やこの作品に相応しいと思い、書き込んでいるとは思いつつも、何故ここにホイジンガの文章があるのか、何か意味があるのか。そう言う事を考え出していた。そして、ようやく自分なりに納得できる結論が出てきた。これは・・・・評伝・・・じゃないのかな・・・って。

 世の中、歴史マンガは数え切れないほどある。そして私の書棚には1冊も無い。「アルカサル」だけである。歴史マンガには、枷がある。その歴史事実から逃れられない、と言う枷である。しかし、マンガと言う自由な発想が許される媒体において、様々なマンガが登場している。よく見かけるのは、架空のキャラを主役として、その世界で活躍させる手法である。枷の力は主役には届かない。(時代背景等は別として)枷は、他のキャラに止まる。また、よくある手法だが、恋愛を中心テーマとする事も枷を弱めると考えられる。恋愛面に関しては、それ程制約も無く、気持ちの問題である為、発想は限りなく自由であると言える。私も、そう言うマンガは読む。読んで面白い物もある。しかし、自分の書棚を飾る事は無い。
 
 そう言う思考&嗜好の私にとって、「アルカサル」は、とても魅力に溢れている。それは、この作品には枷が存在している、と確信しているからである。この作品を賞賛する多くの言葉の1つに「キャラクターが素晴らしい」「存在感あるキャラクター」「自由に活躍しているキャラクター」等、キャラの魅力に言及しているものが多い。私も、この意見に大賛成である。キャラの魅力は、さすが!と思っているし、とことん魅了されている。しかし、この魅力溢れるキャラも、しっかり枷の範囲に中に存在している。勿論枷とは無関係のエピソードもある。私の読む限りでは、それらは恋愛や笑いを誘うような場面に多く見られている。本筋では、そのような事は無い。

 この枷の中で、キャラは縦横無尽にその魅力を発揮してくれている。しかし、そんな枷など何処にあるのだろうか、もしかして枷など無いのではないか。そう言う思いに駆り立てられる。それは、作者の力量が素晴らしいとしか、言い様が無いのではないだろうか。枷は存在している。私はそう思う。その枷は、「アルカサル」にだけ、無限に広がっている訳ではない。他の歴史と変わりは無い。それでも、感じさせないものが、この作品の最大の魅力であり、私が好ましいと思っている本当の理由だと考えている。
 
 枷の存在が顕著に現れているのは、対抗者エンリケである。私の個人的恋心(笑)は別として、彼の言動は、枷の存在を示してくれる。(カタリナとの関係は別・恋愛感情の範囲内だから)言い方を変えると、作品内でのエンリケの魅力は、あまり伝わってこない、と思われる方も多いのでは無いだろうか。ドン・ペドロに比べると、人間的魅力は、大分差があるように思う。これは、描き方も考慮しないとならないのだろうが、枷があるとはこう言う事だと、分かりやすいとも考えられる(エンリケ、すまん。愛しているよ)当然ドン・ペドロにも、枷はある。しかし、全然感じられない。それ程自由であり、自分の意志を貫き通している。重複するが、はやり作者の力量・読ませる力・見せる力等、に感嘆するしかない。
 
 これ程自由であり、制約に縛られている作品は他にあるのだろうか。まだ私が読んでいない作品に、同じような魅力があるものが存在するかもしれない。しかし、今の私にとって、「アルカサル」は私の書棚を飾ってくれる、唯一の歴史マンガであり、青池版「ドン・ペドロ評伝」という事である。

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