吉本解雇・事実上の芸能界追放
1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラを運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性に軽傷を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ」とやすしを慰めたという。警察での取調べの結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしの解雇を決断。吉本に通報したのは毎日新聞社であり、その通報を受けた木村政雄は「またか。ホンマにあの人だけは・・・」と呆れていたという。やすしは息子一八の暴行事件で謹慎中だった2月にも(阪神高速道路において)人身事故を起こしていたことが判明。今回の事故直前にはゲスト出演していた「入川保則の日産さわやか文庫」(ラジオ大阪)の収録中にウイスキーを飲んでいたほか、宿泊先のホテルプラザでも前日の夜からブランデーを飲んでいたことが、ラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった(木村はやすしの行動を聞き出す為に実際問い合わせていたが、当時マネージャーを兼務していた木村や、ほかのマネージャーが現場にいなかったため、やすし自身が身勝手な行動を取った事になるものの、本来現場にいるべきマネージャーがいなかった事に関しては、吉本にも落ち度があった事になる)。解雇を言い渡された後、やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
啓子夫人の証言によると、夫人がやすしに問いただした際、前の日は確かに飲んだが、当日の朝は実際にはビールを一本飲んだかどうかというぐらいだったという。しかし事故の取材に訪れた新聞記者が「どのぐらい飲んだのか?」と質問したのに対し、やすしは「ウイスキーをボトル一本飲んだ」と答えてしまい、それが解雇を決定したと思われる。また、夫人がやすしに「どうしてそんなアホなこと言うの?」と聞くと「そんな、ちょっと飲んだ言うたら格好悪いやろ」と答えたという説もある。
やすしの解雇に関し、以下の人物はそれぞれコメントを述べた。
当時、吉本の制作部長で解雇を言い渡した木村政雄 : 報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われる」。
やすしが様々なトラブルを起こしたときもかばい続けてきた吉本の会長林正之助 : 報道陣からの問いに対し、「やすしは問題ばっかり起こし続けるから反省の色がない。うちとしてもこれ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」。
師匠の横山ノック : 淡々とした様子で「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」。
解雇されたのを聞いた西川きよし : 厳しい口調で悔しさをあらわにしながら「もう殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません」。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすしきよし」は解散。また松竹芸能、渡辺プロダクション、ホリプロ、浅井企画、マセキ芸能社等の他のプロダクションも獲得の意向が無く、やすしは芸能界を事実上追放された。さらに吉本からは、一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所、「しょうがないやろうな」との一言であっさり決定したという。解雇通知書を発行したのも林裕章であった。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで会社まできて下さい」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。木村から「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は当日体調不良で出社していなかった為、やすしは林に詫びる事が出来なかった。
解雇後と林会長の死
解雇された後は寂しさを紛らわす為に知人に会ったり、競艇場へ行ったり、飲みに行ったり、次女ひかりの小学校の運動会に参観する等の気ままな生活を送っていた。ただし、知人のスナックの開店祝いの司会等で謝礼や一部の親しいファンからプレゼント等をもらっていたのでそれなりの蓄えはあり、生活は困ってはいなかったという。次女のひかりは「家にいるお父さんのイメージしか出て来ない」と雑誌の取材で語っていた。後に中学時代の同級生が社長を務める阪田エージェンシーに所属。しかし、吉本興業を解雇されて間もない1989年の夏、兵庫県赤穂市内のホテルにて、酒に酔った勢いでホテル所有の観光用クルーザーに無断で乗り込んだところを従業員に注意されて逆上し、注意した従業員にビンタとひざ蹴りを加えるというトラブルを起こした(結果、やすしは書類送検され、罰金刑を受けた)。その件で木村政雄は「既に解雇された芸人なんで当社には一切関係がない事。これで完全に復帰は無理ではないでしょうか。あんな漫才師がおったなんていう思い出話にすんのがええんとちゃいますか」と他人行儀なコメントをした。そして2年後、やすしにとって悲しい出来事が起こる。
1991年4月、父親的な存在で度重なるトラブルをかばい続けてきた吉本興業の会長林正之助が死去。社葬にやすしは一般人として参列した。しかし、きよしと三枝が舞台で思い出話をしている場面を見た瞬間、泣き出して会場を後にしてしまった。それ以後、二度と吉本の敷居を跨ぐ事は無かった。そのショックが原因で酒の量が更に多くなったと思われる。
挫折した断酒
1990年の夏に芸人仲間の若井ぼん(若井はんじ・けんじの弟子)・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へやすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビスはその時点でやすしを怒る気も無かった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。ぼんちゃん・エビっちゃん、ありがとう。やすしより」とメモに書き残していった。エビスは「この手紙に落ち目になった恨み辛みがあったんでしょう、酒を止める事が出来なかったのはやっぱり意志が弱かったんやと思います」と淡々とコメントした。おそらく断酒が出来ていればやすしはもっと長生きしていたであろう。なお、そのメモはエビスが保管していたが、エビスも2008年1月27日に死去した。
芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか
1992年に内田裕也主演の映画「魚からダイオキシン!!」で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった「ミナミの帝王」第1作である「トイチの萬田銀次郎」に、竹内力演じる萬田銀次郎の先生役で出演、漫才を演じているときとは何ら変わりない演技を見せるなど、活動の場をVシネマ等に移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、西川きよしら吉本興業所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや飲酒運転の事故による解雇の影響で中邨秀雄・林裕章らアンチやすし派の役員を激怒させた事から不可能になっていた。その後、学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。
同年の夏、参議院選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務める右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱(シラミ)の会」と揶揄された。直後の会見では「この党に投票しなかった国民はアホや!ドアホや!」と吐き捨て、怒りをあらわにした。また、記者が「(選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていたが、やすしは比例区での立候補であり、これが事実であれば当然無効票となる(比例区の場合、当時は個人名での投票は無効票)。が、親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなく『西川きよし』に一票を投じたはずである」と口を揃える。なお、この選挙の大阪選挙区では西川きよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明。既に時効が成立しており、「迷宮入り」となっている)を受けて重傷を負い、表舞台からはすっかり身を引いてしまった。この暴行事件でやすしは一時失語症となるが、驚異の回復力で復活をする。
1993年に「やすしを囲む会」を開き、知人を含め約100人が出席した。きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本興業の圧力で彼らは出席出来なかった(当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けた)。
その後、1995年7月には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年のやすしの姿との落差を目の当たりにして驚いたという。更にその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで桂福団治と即興漫才を披露、これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と呟いていたという。
晩年、そして死
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが既に心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。享年53(満51歳没)。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は啓子夫人と娘のひかりに対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったごみ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいた事が弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因である事が裏付けられた。 やすしは1986年に仕事先の徳島で吐血し、医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告されていたが、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化。肝硬変と診断されて入退院を繰り返したが、急に夜中にナースコールで「(俺の腹の)水抜けぇ!」とわめいたり、無断で退院したりとトラブルを起こし、更に酒も飲み続けた。そして10年後に医師の言葉が現実となってしまった。
やすしの死は関西のマスコミは元より全国に衝撃を走らせ、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。
若手の頃に弟子とも慕われたビートたけし : 「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしんだ。
若手の頃に可愛がってもらった宮川大助・花子 : うめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしの事を思い出して号泣、観客もほぼ全員が号泣しやすしの死を偲んだ。
木村政雄 : 「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てる訳にはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除すると述べ、のちに正式に免除された。
当時吉本の専務だった林裕章 : 「人の話を聞かんからこうなった」と厳しい口調でコメント。
師匠の横山ノック : やすしの遺体が安置された摂津警察署を訪れ、「最後まで警察の厄介になりよって…」と泣きながらコメント。
横山ノックの弟子としての姿を見ていた上岡龍太郎(当時は横山パンチ) : 「僕には「漫才の天才少年・木村君」としての姿しか思い出されません」と、やすしが輝いた時代への評価と晩年の不遇を惜しむ発言をした。なお、上岡は吉本から解雇された後のやすしに何度も会い「まずは、ひとりで漫談やったらええやないか」などとアドバイスを与え、激励していた。
吉本を解雇されて以降、やすしの人生は特に晩年において不遇だったといえる。現在でもやすきよのファンや一部の関係者の間では「あの時、酒をやめれば復帰出来るチャンスがあったのでは?」「飲酒運転しなければ良かったのに」等の声が多い。
やすしの死から12年後の2008年6月23日、やすしを最後まで支え続けてきた啓子夫人が心筋梗塞で死去。享年61歳だった。
最後の別れ
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていた。
以下の人物はそれぞれ泣きながら弔辞を読み上げた。
相方の西川きよし―「もうゆっくりしいや、何もかも忘れてゆっくり休め、頼むわ」
師匠の横山ノック―「君の芸は僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子程、可愛いというが、それ程完璧に僕の指示をこなしてくれた」とやすしとの師弟愛を物語るコメントを述べた。
親友の野中和夫―「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」。
出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人たちから「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上り、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。
やすし死去の報道を受けて在京の民放キー各局、及び在阪の準キー各局は揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えると共に、それら追悼特番は軒並み高視聴率を獲得。やすしの芸人としての非凡な才能に、多くの視聴者もまた、表舞台から去った後も親しみを抱き続けていたことを実証するものであり、これが没後における芸人・横山やすしの再評価へと繋がって行ったと見る向きもある。
現在でも、テレビ番組で相方のきよしや後輩として可愛がられた明石家さんまや島田紳助らによってやすしの破天荒なエピソードが「笑い話」の類として紹介されることが多く、また、やすしのデジタル出演による「やす・きよ漫才」の復活を要望する声が関係者や視聴者から多く寄せられているなど、「伝説の芸人」として、やすしの存在は没後10年を経た現在も尚、語り継がれている。また、摂津市の自宅を改装し、「横山やすし記念館」も検討している。
受け継がれる芸風とモノマネ
現在、生前からやすしのモノマネをしていた大平サブローが、西川きよしと「新やすし・きよし」を結成している。 近年、生前のその芸を「天才漫才師」と崇めたテレビ特番が多く組まれている。
最後の破滅型天才芸人
やすしの人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述の「数々のトラブルはあくまでネタである」というスタンスを貫こうとしたやすしは、この時代の流れに最後まで抗おうとした懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で、彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型天才芸人」と称される事もある。
木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんな事があってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なモラルが要求されるんやないですか。もし、今もタレント活動を続けていたらおもろい奴で終わっていたと思いますよ。」と語り、「シビアに言いますが、横山さんは既に全盛期を過ぎていた。あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったらクビにならんかったと思いますよ。」とやすしに対する心境を語った。
そして、この関西の破滅型天才芸人としては、戦前の初代桂春団治と並ぶ定型的存在となり、現在まで語られ続ける事となった。
短気な性格
短気な性格であり、自分が納得行かない事があれば番組中に激怒したり、途中で帰ったり、若手タレントに説教したり、酒を飲んでいれば殴ったりという行動がしばしば見受けられた。
天才漫才師・横山やすし、日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』より
http://jp.youtube.com/watch?v=Ur8554rdByk&feature=related
新入社員の頃、会社のパーラー脇の公衆電話で「怒鳴り散らしている横山やすしさん」を目撃。深夜の生番組に出演して頂いた時は、十朱幸代さんとの対談だったが、やすしさんが十朱さんを好きだつたらしく、気恥ずかしさからなのか、夕方から会社の横の飲み屋でお酒を飲み始め、本番の頃にはベロベロ。生放送で十朱さんに叱られるという可愛らしい面も持っておられた。奥さんも大変だつただろうと思う。ご冥福をお祈り致します。
1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラを運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性に軽傷を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ」とやすしを慰めたという。警察での取調べの結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしの解雇を決断。吉本に通報したのは毎日新聞社であり、その通報を受けた木村政雄は「またか。ホンマにあの人だけは・・・」と呆れていたという。やすしは息子一八の暴行事件で謹慎中だった2月にも(阪神高速道路において)人身事故を起こしていたことが判明。今回の事故直前にはゲスト出演していた「入川保則の日産さわやか文庫」(ラジオ大阪)の収録中にウイスキーを飲んでいたほか、宿泊先のホテルプラザでも前日の夜からブランデーを飲んでいたことが、ラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった(木村はやすしの行動を聞き出す為に実際問い合わせていたが、当時マネージャーを兼務していた木村や、ほかのマネージャーが現場にいなかったため、やすし自身が身勝手な行動を取った事になるものの、本来現場にいるべきマネージャーがいなかった事に関しては、吉本にも落ち度があった事になる)。解雇を言い渡された後、やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
啓子夫人の証言によると、夫人がやすしに問いただした際、前の日は確かに飲んだが、当日の朝は実際にはビールを一本飲んだかどうかというぐらいだったという。しかし事故の取材に訪れた新聞記者が「どのぐらい飲んだのか?」と質問したのに対し、やすしは「ウイスキーをボトル一本飲んだ」と答えてしまい、それが解雇を決定したと思われる。また、夫人がやすしに「どうしてそんなアホなこと言うの?」と聞くと「そんな、ちょっと飲んだ言うたら格好悪いやろ」と答えたという説もある。
やすしの解雇に関し、以下の人物はそれぞれコメントを述べた。
当時、吉本の制作部長で解雇を言い渡した木村政雄 : 報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われる」。
やすしが様々なトラブルを起こしたときもかばい続けてきた吉本の会長林正之助 : 報道陣からの問いに対し、「やすしは問題ばっかり起こし続けるから反省の色がない。うちとしてもこれ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」。
師匠の横山ノック : 淡々とした様子で「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」。
解雇されたのを聞いた西川きよし : 厳しい口調で悔しさをあらわにしながら「もう殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛ける事は出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません」。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすしきよし」は解散。また松竹芸能、渡辺プロダクション、ホリプロ、浅井企画、マセキ芸能社等の他のプロダクションも獲得の意向が無く、やすしは芸能界を事実上追放された。さらに吉本からは、一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所、「しょうがないやろうな」との一言であっさり決定したという。解雇通知書を発行したのも林裕章であった。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで会社まできて下さい」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。木村から「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は当日体調不良で出社していなかった為、やすしは林に詫びる事が出来なかった。
解雇後と林会長の死
解雇された後は寂しさを紛らわす為に知人に会ったり、競艇場へ行ったり、飲みに行ったり、次女ひかりの小学校の運動会に参観する等の気ままな生活を送っていた。ただし、知人のスナックの開店祝いの司会等で謝礼や一部の親しいファンからプレゼント等をもらっていたのでそれなりの蓄えはあり、生活は困ってはいなかったという。次女のひかりは「家にいるお父さんのイメージしか出て来ない」と雑誌の取材で語っていた。後に中学時代の同級生が社長を務める阪田エージェンシーに所属。しかし、吉本興業を解雇されて間もない1989年の夏、兵庫県赤穂市内のホテルにて、酒に酔った勢いでホテル所有の観光用クルーザーに無断で乗り込んだところを従業員に注意されて逆上し、注意した従業員にビンタとひざ蹴りを加えるというトラブルを起こした(結果、やすしは書類送検され、罰金刑を受けた)。その件で木村政雄は「既に解雇された芸人なんで当社には一切関係がない事。これで完全に復帰は無理ではないでしょうか。あんな漫才師がおったなんていう思い出話にすんのがええんとちゃいますか」と他人行儀なコメントをした。そして2年後、やすしにとって悲しい出来事が起こる。
1991年4月、父親的な存在で度重なるトラブルをかばい続けてきた吉本興業の会長林正之助が死去。社葬にやすしは一般人として参列した。しかし、きよしと三枝が舞台で思い出話をしている場面を見た瞬間、泣き出して会場を後にしてしまった。それ以後、二度と吉本の敷居を跨ぐ事は無かった。そのショックが原因で酒の量が更に多くなったと思われる。
挫折した断酒
1990年の夏に芸人仲間の若井ぼん(若井はんじ・けんじの弟子)・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へやすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビスはその時点でやすしを怒る気も無かった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。ぼんちゃん・エビっちゃん、ありがとう。やすしより」とメモに書き残していった。エビスは「この手紙に落ち目になった恨み辛みがあったんでしょう、酒を止める事が出来なかったのはやっぱり意志が弱かったんやと思います」と淡々とコメントした。おそらく断酒が出来ていればやすしはもっと長生きしていたであろう。なお、そのメモはエビスが保管していたが、エビスも2008年1月27日に死去した。
芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか
1992年に内田裕也主演の映画「魚からダイオキシン!!」で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった「ミナミの帝王」第1作である「トイチの萬田銀次郎」に、竹内力演じる萬田銀次郎の先生役で出演、漫才を演じているときとは何ら変わりない演技を見せるなど、活動の場をVシネマ等に移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、西川きよしら吉本興業所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや飲酒運転の事故による解雇の影響で中邨秀雄・林裕章らアンチやすし派の役員を激怒させた事から不可能になっていた。その後、学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。
同年の夏、参議院選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務める右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱(シラミ)の会」と揶揄された。直後の会見では「この党に投票しなかった国民はアホや!ドアホや!」と吐き捨て、怒りをあらわにした。また、記者が「(選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていたが、やすしは比例区での立候補であり、これが事実であれば当然無効票となる(比例区の場合、当時は個人名での投票は無効票)。が、親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなく『西川きよし』に一票を投じたはずである」と口を揃える。なお、この選挙の大阪選挙区では西川きよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明。既に時効が成立しており、「迷宮入り」となっている)を受けて重傷を負い、表舞台からはすっかり身を引いてしまった。この暴行事件でやすしは一時失語症となるが、驚異の回復力で復活をする。
1993年に「やすしを囲む会」を開き、知人を含め約100人が出席した。きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本興業の圧力で彼らは出席出来なかった(当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けた)。
その後、1995年7月には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年のやすしの姿との落差を目の当たりにして驚いたという。更にその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで桂福団治と即興漫才を披露、これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と呟いていたという。
晩年、そして死
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが既に心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。享年53(満51歳没)。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は啓子夫人と娘のひかりに対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったごみ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいた事が弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因である事が裏付けられた。 やすしは1986年に仕事先の徳島で吐血し、医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告されていたが、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化。肝硬変と診断されて入退院を繰り返したが、急に夜中にナースコールで「(俺の腹の)水抜けぇ!」とわめいたり、無断で退院したりとトラブルを起こし、更に酒も飲み続けた。そして10年後に医師の言葉が現実となってしまった。
やすしの死は関西のマスコミは元より全国に衝撃を走らせ、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。
若手の頃に弟子とも慕われたビートたけし : 「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしんだ。
若手の頃に可愛がってもらった宮川大助・花子 : うめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしの事を思い出して号泣、観客もほぼ全員が号泣しやすしの死を偲んだ。
木村政雄 : 「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てる訳にはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除すると述べ、のちに正式に免除された。
当時吉本の専務だった林裕章 : 「人の話を聞かんからこうなった」と厳しい口調でコメント。
師匠の横山ノック : やすしの遺体が安置された摂津警察署を訪れ、「最後まで警察の厄介になりよって…」と泣きながらコメント。
横山ノックの弟子としての姿を見ていた上岡龍太郎(当時は横山パンチ) : 「僕には「漫才の天才少年・木村君」としての姿しか思い出されません」と、やすしが輝いた時代への評価と晩年の不遇を惜しむ発言をした。なお、上岡は吉本から解雇された後のやすしに何度も会い「まずは、ひとりで漫談やったらええやないか」などとアドバイスを与え、激励していた。
吉本を解雇されて以降、やすしの人生は特に晩年において不遇だったといえる。現在でもやすきよのファンや一部の関係者の間では「あの時、酒をやめれば復帰出来るチャンスがあったのでは?」「飲酒運転しなければ良かったのに」等の声が多い。
やすしの死から12年後の2008年6月23日、やすしを最後まで支え続けてきた啓子夫人が心筋梗塞で死去。享年61歳だった。
最後の別れ
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていた。
以下の人物はそれぞれ泣きながら弔辞を読み上げた。
相方の西川きよし―「もうゆっくりしいや、何もかも忘れてゆっくり休め、頼むわ」
師匠の横山ノック―「君の芸は僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子程、可愛いというが、それ程完璧に僕の指示をこなしてくれた」とやすしとの師弟愛を物語るコメントを述べた。
親友の野中和夫―「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」。
出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人たちから「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上り、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。
やすし死去の報道を受けて在京の民放キー各局、及び在阪の準キー各局は揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えると共に、それら追悼特番は軒並み高視聴率を獲得。やすしの芸人としての非凡な才能に、多くの視聴者もまた、表舞台から去った後も親しみを抱き続けていたことを実証するものであり、これが没後における芸人・横山やすしの再評価へと繋がって行ったと見る向きもある。
現在でも、テレビ番組で相方のきよしや後輩として可愛がられた明石家さんまや島田紳助らによってやすしの破天荒なエピソードが「笑い話」の類として紹介されることが多く、また、やすしのデジタル出演による「やす・きよ漫才」の復活を要望する声が関係者や視聴者から多く寄せられているなど、「伝説の芸人」として、やすしの存在は没後10年を経た現在も尚、語り継がれている。また、摂津市の自宅を改装し、「横山やすし記念館」も検討している。
受け継がれる芸風とモノマネ
現在、生前からやすしのモノマネをしていた大平サブローが、西川きよしと「新やすし・きよし」を結成している。 近年、生前のその芸を「天才漫才師」と崇めたテレビ特番が多く組まれている。
最後の破滅型天才芸人
やすしの人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述の「数々のトラブルはあくまでネタである」というスタンスを貫こうとしたやすしは、この時代の流れに最後まで抗おうとした懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で、彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型天才芸人」と称される事もある。
木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんな事があってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なモラルが要求されるんやないですか。もし、今もタレント活動を続けていたらおもろい奴で終わっていたと思いますよ。」と語り、「シビアに言いますが、横山さんは既に全盛期を過ぎていた。あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったらクビにならんかったと思いますよ。」とやすしに対する心境を語った。
そして、この関西の破滅型天才芸人としては、戦前の初代桂春団治と並ぶ定型的存在となり、現在まで語られ続ける事となった。
短気な性格
短気な性格であり、自分が納得行かない事があれば番組中に激怒したり、途中で帰ったり、若手タレントに説教したり、酒を飲んでいれば殴ったりという行動がしばしば見受けられた。
天才漫才師・横山やすし、日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』より
http://jp.youtube.com/watch?v=Ur8554rdByk&feature=related
新入社員の頃、会社のパーラー脇の公衆電話で「怒鳴り散らしている横山やすしさん」を目撃。深夜の生番組に出演して頂いた時は、十朱幸代さんとの対談だったが、やすしさんが十朱さんを好きだつたらしく、気恥ずかしさからなのか、夕方から会社の横の飲み屋でお酒を飲み始め、本番の頃にはベロベロ。生放送で十朱さんに叱られるという可愛らしい面も持っておられた。奥さんも大変だつただろうと思う。ご冥福をお祈り致します。
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