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「店長」と「酒乱童べるじゅらっく」、そして「居場所」

2023年04月10日 | エッセイ・日記・意見
吉本興業・泉正隆さんに連れて行って貰ったバーが梅田にあった。泉さんとは会社は違うが、1983年入社の同期生。

場所は当時の「うめだ花月」から旧・曽根崎小学校の横を通って、大阪中央病院へ行く手前のビルの4階。

バーの名前は「店長」。バーのマスターは、洋酒ほかの輸入代理店「国分(こくぶ)」を脱サラして、店を開いたのだった。

脱サラの理由もウィスキーが大好きな為だった。優しい人柄でさりげなく気を遣って下さる。

泉さんに連れて行って貰った後も、僕はこの店が気に入って通い倒した。カウンターに5人座れば、満席になる本当に小さなバー。

閉店時間は午後11:30。マスターと話が弾んでも最大12:30。この時間はきっちり守られていた。マスターは几帳面な性格なのだろう。

僕はここでバーボンウィスキーの美味しさを学んだ。マスターが薦めてくれたからだ。

癖の少ないバーボンウィスキー「オールド・グラン・ダッド」をボトルキープした。

スコッチウィスキーを飲みたい時は、「グレン・モーレンジー」。

おつまみは、マスターが阪神百貨店の食品売り場で買って来る「スモークサーモン」か「ビーフジャーキー」、そして「レーズンバター」と「乾き物」。

当時、僕は「朝の連続ドラマ」のAP(アシスタント・プロデューサー)をやっており、いつ終わるとは知れぬ脚本打ち合わせに毎夜参加していた。

付き合っていた嫁は梅田で働き、神戸に帰るので、「店長」で待っていて貰った。脚本打ち合わせの終わる時間が、嫁の終電の時間に間に合うかどうか分からないからだ。

間に合わない場合は、「店長」のマスターと話をして、嫁一人で帰って貰った。

今考えても、かなり大変なデートをしていたと思う。

脚本打ち合わせが無い日は早い時間から「店長」へ行き、一人で飲んだり、嫁と飲んだりした。

先日読んだ吉本興業会長の本「居場所。」の中で、大崎さんは自分の「居場所」はミナミのサウナだと書かれている。

ボーッと出来て、何にも考えずに長時間居れる「居場所」。それが僕にとって、「店長」だったのだ。僕はこの店にあまり、他の客が来ないのを気に入っていた。

1994年、阪神淡路大震災の前年夏、僕は東京のドラマ班に異動になり、東京に出て来た。

それからは同期の諏訪道彦くんが連れて行ってくれた新宿ゴールデン街の「酒乱童べるじゅらっく」というバーが僕の「居場所」になった。

仕事のストレスから、この店に入り浸った。マスターは俳優の井原啓介さん。午後7時に行って、夜中12時まで、僕以外の客が来ない日もざらにあった。

井原さんは儲けがほとんど無いので、僕によく愚痴っていた。

でもそんな時は二人で店を閉めて、近所の行きつけの吉野寿司に行った。井原さんは日本酒を頼み、少しばかりの寿司をつまんだ。

その吉野寿司もコロナで去年閉店してしまった。

井原啓介さんも天国へ旅立った。

ある日、大阪に住む大学の同級生から電話がかかって来た。

「『店長』のマスターが姉が交通事故を起こして、大金がいるからお金を貸して欲しい。必ず返すから」

と言われて、サラ金から150万円を借り、マスターに貸したと言う。

彼に「店長」を紹介したのは僕。嫌な予感がした。僕が大阪にいたら、マスターは借金の話を僕のところにして来ただろう。

僕は友人に借金の半額75万円を渡し、サラ金に全額返却する様に促した。

吉本興業の泉さんからも僕に電話があった。泉さんのところにもマスターからお金を貸して欲しいとの電話があったそうだ。

その後、僕の携帯電話にもマスターから、
「お金を貸して欲しい」と言う無心の電話があった。

さすがに、貸せなかった。

それから何年も経って、僕は「店長」を訪れた。もう店は無かった。

「姉が交通事故を起こした」と言うのは嘘だろう。多分、お店の回転資金が底を尽いたに違いない。

あの当時でも、マスターは僕よりかなり年上だったから、サラリーマンへの転職は難しいに違いない。

僕は時々、「店長」のマスターがホームレスになっている夢を見る。

家族の話を一切しなかった「店長」のマスター。マスターの「居場所」はどこにあったのだろう?



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