御巣鷹犠牲者の遺書を展示 日航の安全啓発センター
2006年 7月10日 (月) 10:17
日航は10日、1985年8月に群馬県の御巣鷹の尾根に墜落したジャンボ機の残骸(ざんがい)を展示している「安全啓発センター」で、事故で犠牲となった乗客や乗員が残した遺書やメモの展示を始めた。
客室乗務員の対馬優美子さん=当時(29)=が不時着した際のアナウンスを書き出したノートと、元日航社員の白井まり子さん=同(26)=が「恐い 恐い 恐い」などと走り書きをした時刻表は、遺族が実物を提供。
乗客の河口博次さん=同(52)=が7ページにわたって手帳に残した家族へのメッセージなど、乗客4人の遺書は写真を展示。撮影には遺族が協力した。
安全啓発センターは社員教育が目的の施設だが、予約すればだれでも見学できる。連絡先は電話03(3747)4491。(共同通信より)
日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日、当時の日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山※に墜落した事故である。
単独の航空機事故としては世界航空史上最悪である。事故調査報告書によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名にのぼり、その中には歌手の坂本九などの著名人も含まれていた。生存者は4名で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。また、この事故が航空業界のみならず社会全体に大きな衝撃を与えたことから、一般的に「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」と言う場合、この事故を指すことが多い。
※墜落地点は御巣鷹山のすぐ南の高天原山(たかまがはらやま)にある無名の尾根である。後に、この尾根は、上野村村長であった黒沢丈夫によって「御巣鷹の尾根」と命名されるが、実際は御巣鷹山に属する尾根ではない。
事故の経過
事故当日のJAL123便
当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、19時00分大阪(伊丹)着のフライトプランだった。使用機体はボーイング747のJA8119、JA8119は同日その前に503便、504便、363便、366便の各定期便として飛行し、123便で5回目。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量だった。
乗務員は、高浜雅巳機長(49歳)、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の3人のコックピットクルーと、客室乗務員(男性1人、女性11人)12人の計15人、乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった。
18時4分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。
異常事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊される。その際、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。そのため、エンジンと電気系統は無事なものの、油圧を使用しての操縦は不可能の状態に陥ってしまう。操縦は困難を極め、機体は迷走を続けるとともに上昇、降下を繰り返し、17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、降下手段としてランディング・ギア(着陸脚)を降ろした後、空気抵抗のためか、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
その時、キャビンでは―
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス(緊急事態発生の際に自動的に流れ始め、予め録音してある男性の声で乗客にシートベルトの着用や安全姿勢を指示する音声)が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備えたのか、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、みな落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全の姿勢」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。これらの遺書は、事故現場から発見された。
大阪商船三井船舶神戸支店長の遺書
「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと食事したのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか 津慶 しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」
※( )は脱落
その時、地上では―
123便は18時25分頃に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に受信される。直後に機長が無線でACCへ羽田へ戻りたいと告げ、ACCは了承、どちらに旋回するか尋ねると機長は右旋回を希望する。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。27分には機長から緊急事態が宣言され、その後123便を羽田へ誘導し続ける。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。28分、ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分、ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸するかと提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。33分頃から日航は123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下してるので後ほど呼び出すまで待機するよう求められ、日航は了承した。
40分、ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが返答は無かった。42分、123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信がし続けられる。そのため、ACCは交信が入る機に個別で指示し続けた。
45分、無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(YOK)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが羽田(APC)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。47分、123便は千葉の木更津へ誘導するよう求め、ACCから真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、操縦不能と返答がきた。その後、APCの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。48分、何故か無言で123便から機長の荒い呼吸音がACCに記録されている。49分、123便からの応答がこない為、日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分、123便から操縦不能と疲れ果てた声で無線が入ってくる。ACCとYOKが返答、YOKは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPCの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。54分、日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APCが羽田から55マイル(102km)北西で、熊谷から25マイル(46km)西と告げる。55分、APCから羽田と横田が緊急着陸準備を行っていると知らせ、123便から了解と返答が入る。しかし、その直後、APCが123便に対し、飛行計画を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPCとYOKが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
57分、YOKが123便に対し、貴機は横田から35マイル(65km)北西の地点におり、横田基地に最優先で着陸できると交信、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時点で既に123便は墜落していた。
その時、コックピットでは―
衝撃音がした直後、機長は地上への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
ところが、管制官の「右旋回?左旋回?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。
ボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、すでに操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、更には副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。
ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。最初に残っていた音声は事故直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取り中、冷静で正常な客室乗務員の声とは裏腹にパイロット達の会話は正常な飛行状態では異常ともとれる緊迫した声だったと分析されている。この緊迫を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。
18時24分35秒頃、コックピットのボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。直後に機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士は「油圧」が異常に低下していることに気づく。26分、無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンク(迎え角)とるなそんなに」と怒鳴っている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。そして、僅か3分足らずの27分に、圧力の喪失を示すと思われる「オールロス」という航空機関士の音声が残されている。
そして同じころ客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空に降下させていった。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイトやダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が残っている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(壊れる)しました」と連絡※している。
※R5のドアは墜落現場で破損していない状況が確認されている。また、機長に対しては「荷物の収納スペースのところがおっこちてる」と報告しておりR5に関しては酸素マスクの異常についてのみ報告している。なぜ「R5のドアがブロークン」と連絡したのか、そもそも、連絡がどのような内容であったかは不明。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを出そうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、電動で再度試み、着陸ギアが降ろされた。電動でギアが降ろされたことで右に大きく旋回しながら高度が下げられ、更には横揺れが縮小、又は一定に保たれ多少機体が安定した。
46分、機長が「これは駄目かも分からんね」との呟く様な独り言を残している。47分、この頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。49分頃には機首が39度も上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちた。その頃から機体の安定感が崩れ何度も失速を繰り返し、そのたびに最大出力「マックパワー」を指示する声が残っている。更に所々お互いを励まし合う声も記録されている。51分、依然続く失速を抑えるため、電動でフラップが出される。
54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね熊谷から25マイル西の地点であると告げられる。その直後55分頃、フラップを下げた途端、失速し、大きく機体は右にそれながら急降下を始める。彼らはすぐさまフラップを上げ、パワー出力を増やし機首を上げようとした。
墜落
3名の努力の甲斐も空しく、123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動、同20秒頃、機体は僅かに上昇しだしたが18時56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり18時56分30秒、高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーにも衝撃音が残されている。また、直前には機長ともう1名(誰かは不明)の最期の声が残されていた。
衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。しかし、この客室後部はそれ以外の機体部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために、そこから4名が奇跡的に生存できた。
あの日の大阪は晴れた暑い日だった。仕事が早く終わり、西日を浴びながら、会社
近くの飲み屋に行った。「日航機がレーダーから消えた」というニュースを店のテレビは流していた。入社3年目。同期のお父さんが悲しい事に、123便に乗っていた。後に、彼とドラマのロケハン(下見)に四国の山に登った時、彼から「毎年、御巣鷹山に登っている」という話を聞き、長い年月が経っても、心に受けた深い傷は消えない事を感じた。今日(正確には昨日の朝刊)に、「遺書」の写真が掲載されている。何年か前、「知覧平和記念館」で見たたくさんの「遺書」・・・。手書きの文字には涙を禁じえない・・・
2006年 7月10日 (月) 10:17
日航は10日、1985年8月に群馬県の御巣鷹の尾根に墜落したジャンボ機の残骸(ざんがい)を展示している「安全啓発センター」で、事故で犠牲となった乗客や乗員が残した遺書やメモの展示を始めた。
客室乗務員の対馬優美子さん=当時(29)=が不時着した際のアナウンスを書き出したノートと、元日航社員の白井まり子さん=同(26)=が「恐い 恐い 恐い」などと走り書きをした時刻表は、遺族が実物を提供。
乗客の河口博次さん=同(52)=が7ページにわたって手帳に残した家族へのメッセージなど、乗客4人の遺書は写真を展示。撮影には遺族が協力した。
安全啓発センターは社員教育が目的の施設だが、予約すればだれでも見学できる。連絡先は電話03(3747)4491。(共同通信より)
日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日、当時の日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山※に墜落した事故である。
単独の航空機事故としては世界航空史上最悪である。事故調査報告書によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名にのぼり、その中には歌手の坂本九などの著名人も含まれていた。生存者は4名で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。また、この事故が航空業界のみならず社会全体に大きな衝撃を与えたことから、一般的に「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」と言う場合、この事故を指すことが多い。
※墜落地点は御巣鷹山のすぐ南の高天原山(たかまがはらやま)にある無名の尾根である。後に、この尾根は、上野村村長であった黒沢丈夫によって「御巣鷹の尾根」と命名されるが、実際は御巣鷹山に属する尾根ではない。
事故の経過
事故当日のJAL123便
当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、19時00分大阪(伊丹)着のフライトプランだった。使用機体はボーイング747のJA8119、JA8119は同日その前に503便、504便、363便、366便の各定期便として飛行し、123便で5回目。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量だった。
乗務員は、高浜雅巳機長(49歳)、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の3人のコックピットクルーと、客室乗務員(男性1人、女性11人)12人の計15人、乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった。
18時4分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。
異常事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊される。その際、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。そのため、エンジンと電気系統は無事なものの、油圧を使用しての操縦は不可能の状態に陥ってしまう。操縦は困難を極め、機体は迷走を続けるとともに上昇、降下を繰り返し、17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、降下手段としてランディング・ギア(着陸脚)を降ろした後、空気抵抗のためか、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
その時、キャビンでは―
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス(緊急事態発生の際に自動的に流れ始め、予め録音してある男性の声で乗客にシートベルトの着用や安全姿勢を指示する音声)が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備えたのか、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、みな落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全の姿勢」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。これらの遺書は、事故現場から発見された。
大阪商船三井船舶神戸支店長の遺書
「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと食事したのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか 津慶 しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」
※( )は脱落
その時、地上では―
123便は18時25分頃に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に受信される。直後に機長が無線でACCへ羽田へ戻りたいと告げ、ACCは了承、どちらに旋回するか尋ねると機長は右旋回を希望する。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。27分には機長から緊急事態が宣言され、その後123便を羽田へ誘導し続ける。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。28分、ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分、ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸するかと提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。33分頃から日航は123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下してるので後ほど呼び出すまで待機するよう求められ、日航は了承した。
40分、ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが返答は無かった。42分、123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信がし続けられる。そのため、ACCは交信が入る機に個別で指示し続けた。
45分、無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(YOK)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが羽田(APC)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。47分、123便は千葉の木更津へ誘導するよう求め、ACCから真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、操縦不能と返答がきた。その後、APCの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。48分、何故か無言で123便から機長の荒い呼吸音がACCに記録されている。49分、123便からの応答がこない為、日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分、123便から操縦不能と疲れ果てた声で無線が入ってくる。ACCとYOKが返答、YOKは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPCの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。54分、日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APCが羽田から55マイル(102km)北西で、熊谷から25マイル(46km)西と告げる。55分、APCから羽田と横田が緊急着陸準備を行っていると知らせ、123便から了解と返答が入る。しかし、その直後、APCが123便に対し、飛行計画を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPCとYOKが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
57分、YOKが123便に対し、貴機は横田から35マイル(65km)北西の地点におり、横田基地に最優先で着陸できると交信、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時点で既に123便は墜落していた。
その時、コックピットでは―
衝撃音がした直後、機長は地上への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
ところが、管制官の「右旋回?左旋回?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。
ボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、すでに操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、更には副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。
ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。最初に残っていた音声は事故直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取り中、冷静で正常な客室乗務員の声とは裏腹にパイロット達の会話は正常な飛行状態では異常ともとれる緊迫した声だったと分析されている。この緊迫を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。
18時24分35秒頃、コックピットのボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。直後に機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士は「油圧」が異常に低下していることに気づく。26分、無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンク(迎え角)とるなそんなに」と怒鳴っている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。そして、僅か3分足らずの27分に、圧力の喪失を示すと思われる「オールロス」という航空機関士の音声が残されている。
そして同じころ客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空に降下させていった。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイトやダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が残っている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(壊れる)しました」と連絡※している。
※R5のドアは墜落現場で破損していない状況が確認されている。また、機長に対しては「荷物の収納スペースのところがおっこちてる」と報告しておりR5に関しては酸素マスクの異常についてのみ報告している。なぜ「R5のドアがブロークン」と連絡したのか、そもそも、連絡がどのような内容であったかは不明。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを出そうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、電動で再度試み、着陸ギアが降ろされた。電動でギアが降ろされたことで右に大きく旋回しながら高度が下げられ、更には横揺れが縮小、又は一定に保たれ多少機体が安定した。
46分、機長が「これは駄目かも分からんね」との呟く様な独り言を残している。47分、この頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。49分頃には機首が39度も上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちた。その頃から機体の安定感が崩れ何度も失速を繰り返し、そのたびに最大出力「マックパワー」を指示する声が残っている。更に所々お互いを励まし合う声も記録されている。51分、依然続く失速を抑えるため、電動でフラップが出される。
54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね熊谷から25マイル西の地点であると告げられる。その直後55分頃、フラップを下げた途端、失速し、大きく機体は右にそれながら急降下を始める。彼らはすぐさまフラップを上げ、パワー出力を増やし機首を上げようとした。
墜落
3名の努力の甲斐も空しく、123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動、同20秒頃、機体は僅かに上昇しだしたが18時56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり18時56分30秒、高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーにも衝撃音が残されている。また、直前には機長ともう1名(誰かは不明)の最期の声が残されていた。
衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。しかし、この客室後部はそれ以外の機体部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために、そこから4名が奇跡的に生存できた。
あの日の大阪は晴れた暑い日だった。仕事が早く終わり、西日を浴びながら、会社
近くの飲み屋に行った。「日航機がレーダーから消えた」というニュースを店のテレビは流していた。入社3年目。同期のお父さんが悲しい事に、123便に乗っていた。後に、彼とドラマのロケハン(下見)に四国の山に登った時、彼から「毎年、御巣鷹山に登っている」という話を聞き、長い年月が経っても、心に受けた深い傷は消えない事を感じた。今日(正確には昨日の朝刊)に、「遺書」の写真が掲載されている。何年か前、「知覧平和記念館」で見たたくさんの「遺書」・・・。手書きの文字には涙を禁じえない・・・
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