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幼馴染。

2006年04月06日 | エッセイ・日記・意見
僕には、「幼馴染」がいない。引越しを8回したからだ。神戸市須磨区離宮前町→神戸市灘区高羽町→西宮市浜甲子園団地→西宮市中前田町→富田林市金剛団地→西宮市浜甲子園団地→茨木市南茨木→吹田市山手町。ここまでが独身時代。計7回。結婚後、吹田市の北千里→東京都調布市。

小学校は3つ行っている。中学を受験し、入学とともに、浜甲子園から南茨木に引越した為、「小学校の幼馴染」で連絡の取れるのは、小3~4年の担任の先生、小5~6年の担任の先生、後、友達が一人くらいだろうか。卒業した小学校は、同じ場所にあるが、「少子化」の為、校舎を小振りに建て替え、「浜甲子園小学校」から「甲子園浜小学校」に名前を変えている。別に、同じ場所にあるのだから、名前まで変えなくてもいいと思うが。

浜甲子園団地の想い出はたくさんある。小さい頃は、両目を高熱の病気でやられ、「斜視」になり、母が浜甲子園から阪神西宮のそばの「県立西宮病院」に自転車で連れて行ってくれた。「斜視」を治す訓練の為だ。その前に、両目とも「手術」をしている。なにせ、ディズニーの絵本の文字が完全に一行ダブって見えていたからだ。
大人になり、浜甲子園から阪神西宮まで、車で走ってみると、凄い距離がある事に気付いた。当時、父方の「おばあちゃん」「ひいおばあちゃん」が存命で、その仕送り等、母は「節約」の為、電車賃を使わず、自転車で自宅と病院を往復していたのだろう。確か、当時の主治医の先生が優しい方で、「高血圧の持病」を持っていた事を今、いきなり思い出した。

小5~6年は、中学受験の為に「神戸魚崎の塾」に通っていた。元・灘中学の先生が個人的にやっていた塾で、母が探してきた。小5の時は「行き」が母の車(小学校の授業が終わって車で駆けつけないと、塾の始業時間に間に合わなかった)で、魚崎まで送って貰い、帰りは「阪神電車」で一人で帰ってきた。小6になると、始業時間が小5の授業の終わった後なので、「行き」は一人で「阪神電車」、「帰り」は母が車で迎えに来てくれた。ダイハツのフェローに乗っていた時代。二年間行き、「灘」や「甲陽学院」に進んだ秀才もいた。彼らは今頃どうしているのだろう。塾の名前は、「井上塾」。このブログを読んで心当たりのある方はコメントして欲しい。
井上先生の自宅の二階が教室になっていた。教材のプリントは当時、パソコン等無かったので、先生が半透明の紙に「文字の部分」の傷を付け、それをくるくる回る輪転機みたいな機械で印刷していた。
僕が11~12歳の頃、先生は50歳を過ぎていたので、ご存命なら、90歳近い年齢になっている。
この塾の友達とも「一期一会」で、その後、同じ中学に入った友達以外とは、音信不通である。芦屋に住んでいた「魚住君」に江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」や「天才バカボン」を貸して貰い、読むのが楽しみだった。「魚住君」、元気にしてるかな。

という訳で、地域密着の「幼馴染」はいない。いつまで経っても、「幼馴染」がいる人は羨ましいと思う。


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