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「WBC」の誤審。

2006年03月15日 | 健康・スポーツ
WBCの「日本×アメリカ戦」の「誤審」はひどい。王監督が会見で言っていた通り、野球発祥の国とは思えない「仕打ち」である。今日の「とくダネ」でも、小倉さんが言っていたが、あのプレーは二塁の審判が判断するのではなく、主審が判断する事だと思った。

「スローVTR映像」を見ると、明らかに、外野手が捕球してから、サードランナーは走り出している。「日本のアウェイ、アメリカのホーム」の試合で起こった事だが、アメリカの野球ファンはジャッジに関してはもっと真摯だと思った。ブーイングも出ず、球場は静まり返ったという。

「ベーブ・ルース」や「ゲーリック」が泣くよ。ちなみに、「ルー・ゲーリック」は36歳で亡くなっている。

ベーブ・ルースことジョ-ジ・ハーマン・ルース(“Babe”George Herman Ruth, 1895年2月6日* - 1948年8月16日) は、アメリカ合衆国メジャーリーグのプロ野球選手であるとともに国民的なヒーローでもある。最初に野球殿堂入りを果たした5人中の1人で、ホームラン50本以上のシーズン記録を初めて立てた選手でもある。1927年に記録したシーズン60ホームランの記録は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまで、34年間最高記録であった。

ルー・ゲーリッグ(Henry Louis "Lou" Gehrig、ドイツ語ではLudwig Heinrich Gehrig 1903年6月19日 - 1941年6月2日)はメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースで活躍した内野手(一塁手)。Henry Louis はハンク・アーロンと同名である。
ニューヨークのマンハッタン島にドイツ系移民の家庭に生まれ、コロンビア大学に通う。
1923年からヤンキースの一員として、ベーブ・ルースとともに活躍した。1932年6月3日には、当時としては3人目となる1試合4本塁打を記録し、1934年に打撃三冠となった。鉄の馬(Iron Horse)、ヤンキースの誇り(Pride of Yankees……のちの伝記映画「打撃王」の原題)と呼ばれ、1939年までに2130試合連続出場した。
日本球界とのかかわりで言えば、1934年全米選抜チームの一員として来日している。誕生間もない日本職業野球(大日本東京野球倶楽部)を9戦全勝と圧倒したが、唯一沢村栄治の好投によってあわや完封の危機から全米軍を救ったのが、ゲーリッグのソロ本塁打だった。ゲーリッグもまた、沢村の名を伝説と残すことになった「全米軍のクリーンナップを4連続奪三振」の中にその名を刻んでいる。
天衣無縫で豪快なルースに対して、ゲーリッグは紳士的な態度で知られた。しかし、現役生活の晩年、いわゆる筋萎縮性側索硬化症に冒されてしまい、1939年5月の試合を最後に引退となった(当時は原因不明で「ルー・ゲーリッグ病」と呼ばれていた)。そして同年7月、ヤンキースタジアムで引退式が行われ、引退式が行われた最初の選手とされている。この時にゲーリッグが言った、家族・チームメイト・監督に感謝の意を表した名スピーチ「私はこの世界で一番幸せな男です」は広く知られている。
この引退式から2年後の1941年6月2日に、筋萎縮性側索硬化症の悪化により、37歳の誕生日を目前にして亡くなった。連続試合出場記録は、1995年にカル・リプケンによって更新されたが、通算満塁本塁打23本は21世紀を迎えた今も、メジャーリーグレコードとして残っている。また、通算打点も1995打点と、17シーズンの現役だったことを考えれば驚異の記録と言える。
1939年に特例で、当時としては史上最年少で野球殿堂入りを果たしており、ヤンキースの背番号4は永久欠番。メジャー史上最初の永久欠番であり、またヤンキースで彼以前に背番号4をつけていた選手はいない。




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