現代は、テレビやインターネット、新聞、週刊誌で、大きな事故や事件を「同時」に全国の人が知る時代になっている。昭和の初期?にラジオの放送が始まって、この「ニュースの即時性」という要素が出てきた。江戸時代とかは、江戸で大きな災害や事件が起こっても、上方(大阪)に伝わるのには、日にちがかかった。しかも、「伝聞」という形式である。
生物としての「人間」が「ショック」や「悲しみ」に耐えられる分量は決まっているのではないかと僕は思う。江戸時代の様に、そうしたニュースがあまり飛び交っていない時代には、「人間」は平穏な心持ちで暮らせたのである。それが、これだけ、「即時性」のある伝達媒体が多いと、「一人の人間が耐えられる悲しみの限度」を超しているように思えて仕方がない。「鬱病」も増える訳だ。
多分、江戸時代の人の受ける、もっとも大きな悲しみは、身近に住んでいる肉親の死だったと思う。その死を目の当たりにする事で、「生きる」という事の大切さを学習していたのだろう。今の時代、「悲しみ」はたくさん、個々人に入ってくるが、「感情を揺さぶられるニュース」が多すぎて、「生きる」ことの大切さに気付かされる余裕も無く、日々暮らしているというのが、僕の素直な実感だ。
生物としての「人間」が「ショック」や「悲しみ」に耐えられる分量は決まっているのではないかと僕は思う。江戸時代の様に、そうしたニュースがあまり飛び交っていない時代には、「人間」は平穏な心持ちで暮らせたのである。それが、これだけ、「即時性」のある伝達媒体が多いと、「一人の人間が耐えられる悲しみの限度」を超しているように思えて仕方がない。「鬱病」も増える訳だ。
多分、江戸時代の人の受ける、もっとも大きな悲しみは、身近に住んでいる肉親の死だったと思う。その死を目の当たりにする事で、「生きる」という事の大切さを学習していたのだろう。今の時代、「悲しみ」はたくさん、個々人に入ってくるが、「感情を揺さぶられるニュース」が多すぎて、「生きる」ことの大切さに気付かされる余裕も無く、日々暮らしているというのが、僕の素直な実感だ。